初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

待機児童は減らない

待機児童が5.5%増えたという記事を読んだ。多少出生率が増えたと言ってもこれだけ政府が待機児童を減らそうと躍起になっても、待機児童はなかなか減らない。しかも幼稚園なども認定子ども園にして、何とか保育所における待機児童を減らそうとしているが、待機児童は減らない。待機児童が存在している都市部では、幼稚園を認定子ども園にして待機児童を減らそうとする動きが鈍い。もともと幼稚園が認定子ども園にして保育所機能を併せ持つと言ったことは、待機児童解消のためではなく、幼稚園自身の自己防衛のためであったのだから仕方のないことである。

昔は大家族で、子どもが何人もいてもおばあちゃんやおじいちゃんがいたからどうにか子育てが出来た。しかし今は家族の単位が分散化されてしまって、核家族と言われるようになってしまった。そんな中で子育てするのは容易ではない。社会事象として核家族と言うことが一般的になっているにもかかわらず、家にいて子育てしようと思っている母親を無理やり外へ出して仕事につかせようとしている。子どもは当然置き去りにされてしまうから、行き場がなくなってしまう。それで保育所が足らないと言っているのにはどこかに無理があって、家庭生活にひずみのようなものができてしまうのではないか。

政府の要人は『未来は子どもたちからの借り物である』などときれいなことを言うけれども、子どもの側から政策を考えたことがない。だからやっていることが後手後手だし、可哀そうなのは意見を言えない子どもたちだ。子どもの側からものを言える、未来を見ようとする政治家が必要だと思う。子どもを産んで3カ月もすると、家庭から離れて仕事に就こうとする母親がなんと多いことか。生まれてきた子どもは、何故自分を生んだのかと質問したくなるだろう。例え政府がお金を出してくれるからと言っても、それは幸せに続く道では決してない。生まれてからすぐに母親の温もりから無理やり離されるなんてことは不幸の始まりである。

母親は社会に出て自分も社会の役に立ちたいという願望というか、強迫観念みたいなものもあるのだろうけれども、女性が子どもを産んで子どもを育てる行為は、それに優るような職業はこの世にはないということを、人間すべてが認識すべきだ。女性が子どもを産んで何カ月かの間はぐっすりと眠ることも出来ない、産みの苦しみを通って来る。そんな女性に対して子どもを産んだら社会に出て働けとは罰が当たるのではないか。子育てを選挙の道具にしか使えないようではだめだ。もっと子どもも女性も優しく扱わないと日本の将来はないのではないか。私は幼稚園の園長として、つくづくそう思っている。

ブログを読む

久しぶりに友人とあって夕食を共にした。その友人というのは私のところの建設委員長で、言ってみれば私の相談役のようなもの。その人が曰く、『最近俺のブログ読んでねーだろ』全くその通りだったので、慌てて彼のブログを開けてみた。実に面白いことをたくさん書いてある。たまにハッとするような示唆を与えられるので、読むようにしていたのだが、コンスタントに書かれていないので、時々抜かしてしまうことがある。彼の文章は無駄がなく歯切れがよいので読んでいても抵抗がなく、いつの間にか引き込まれてしまうような気がする。

誰でも生きることに一生懸命だが、彼は自分のことだけではなく、常に人生というものを他者とともに考えることのできる稀有な存在の人だ。言ってみれば、人生における己の美学というものを会話の中にちりばめてくるから、何を考えているのかがよく解る。頭脳明晰でもそのような素振りはみじんにも見せない。子煩悩で女房想いである。医者のことをかいているけれども、よく書いてあるのは私のよく知っている医者であって、あまりピンとこない書き方をしているのは、私は全く知らない医者である。私に気を使っているわけではあるまいが。

あおば台幼稚園の玄関には、毎年のことだけれども燕の巣があって、そこに小さな子どもが4羽ぐらい育っている。親鳥が巣のところへ餌を運んでくると、黄色いくちばしを一斉にピーピーと泣いて顔いっぱいに口をあけて餌をおねだりしている。ピーピーピーと全くにぎやかだけれども、その上をふと頭を持ち上げてみてみると、ベランダの手摺のところでピーピーピート園児たちが連なって私の名を読んでいる。このコントラストがなんとも愉快であった。子どもたちの心の中も、燕の子どもの心も何か似ているような気がした。

世の中が変わる

大学受験ばかりではなく、米国の大統領が仮にトランプ氏がなったとしたら対岸の火事では済まされないだろう。中国は大歓迎だろうし、南シナ海のシーレーンをどのように確保していくのか。大丈夫だ日本は何とかなるという人がいたら、納得のいくような説明が欲しい。自分のところは何も起こることはないというような正常性バイアスをかけて、何の根拠もない安心感を持っている日本人は地球規模では異端である。戦後の太平のムードから眼が覚めない。目が覚めないというより考えが及ばないのかバイアスが強すぎるのかもしれない。

トランプ氏が今まで言って来たことを実行に移すとしたら、安保条約を縦にしたって弱い国が強い国にどんなに大声で騒いでも無視されて終わりだ。国際社会が黙っていないだろうと言っても、過去に何度も条約など破られている過去から学ばなければならない。国際条約なんて言うものは、平和な時代の産物であって一旦緩急あればそんなおめでたいことなど言っていられない。弱い国は集団自衛をしなければ強国に食われてしまう。欧州にはNATOがあって、集団安保体制が確立されているが、日本は米国が守らないと言ったら一体どうなるのか。その議論を一刻も早くしてほしいものだ。

私が死んだ後の社会は混沌としたものになるだろうと20年後を予想していたけれど、言論に節操のないトランプ氏が大統領になって、今まで言ってきたことを実現するとなるとあと5年もしたらこの社会は右往左往することになる。日本政府はトランプ氏の側近とコンタクトを取って、もしもの場合に備えているはずだ。それができなければ危機管理などできるはずもないだろうし、ガバナンス能力に疑問を持たなければならない。日本の経済力で何とか生きてきたあの韓国でさえ平気で日本を裏切ってしまう。国際社会なんてそんなものだ。

一番厄介なのは中国である。いまだに中国資本と化を頼って日本の経済人が儲けをたくらんでいるけれども、彼らは日本を弱体化させるのに一翼を担っているようなものだ。文化大革命で追放された鄧小平が復帰して、中国は覇権を求めないと断言したけれども、現在やっていることはというと、600年前に南沙諸島を行き来していた中国の商隊がそこを寄ったというだけで、南沙諸島は中国の固有の領土であると言ってはばからない。偉大な中国に朝貢せよと言っている。こんな時代になっては小手先の教育論などは通用しない。間に合うかどうかは分からないが心底強い子を育てなければならぬ。

プレゼンテーション

幼小交流の一環として、初等中等学部の児童が各ファミリアのプレゼンを行った。

幼稚園の子たちも真剣に聞いている。明日の交流で何か役立つようなことがあったのだろうか。とても明日が楽しみになるようなプレゼンであった。

とてもここまでやるのかと思うほどよくできている。幼稚園の子どもたちにもよく解るように文字を使わずに絵を描いて紹介するなど、さすがに幼稚園の先生も驚いたり感心したりであった。

最後に対面してQandAを行ったけれども、何と幼稚園の子どもたちからも沢山の質問があったりして、児童たちもかなりの手ごたえを感じたようだ。

これだけのプレゼンが出来れば、多分何処へ出しても恥ずかしいことはない。しかも専門的にプレゼンの時間を作って練習しているわけでもない。自分たちがファミリア活動で感じたことを、いかに分かりやすく伝えることができるかということを大きなテーマにしているだけだ。写真はもっとたくさん撮ったのだが映ってないのはどうしてか?

泥んこ祭り

泥んこは幼稚園の専売特許ではなく、初等中等学部でも行っている。たまたま米作りをするのに近くに田んぼを借りたのだが、これが広すぎる。だから田んぼの中の土を起こしたりするのには、私たちと子どもたちでは無理だ。それでトラクターを中古でかった。トラクターで田んぼの中を上手に行き来している農家の人を観ていると、簡単に出来ると思ってかったものだが、やってみるとそうはいかない。畑なども、何故あんなに平らに土おこしができるのかと、逆にその技術の凄さを思い知った。いつかは我々もそうなるだろう。

土曜日に水を張った田んぼの中に子どもたちが入り、駆け足をしたりボール遊びをする。顔中泥だらけになることをことさらに喜んでいる。そんなことをしているなら、漢字を覚えたり算数の問題でもといたら同だなどと思われる親御さんもいるかな。いやもうそのような保護者はいないだろう。むしろこの後の子どもたちの笑顔を観たり、楽しかったことなどの話を息もつかずに一気に話したりする、子供の情緒面の豊かさをきっと感じてくれるはずだ。教師たちも顔まで泥をはね上げて真っ黒になる。田んぼの中で泥んこ化粧を施したようだ。泥だらけになった若い女性の姿は、ここには載せられないだろう。

真に子どもたちのために生きているこの職業にある人たちは、仕事中は現象的なことを気にするなどのことはない。一生懸命さに頭がさがるが、幼稚園でも初等中等学部でも、懸命に仕事に打ち込んでいる教師に出会えて私は幸せだ。ありがたいことだ。明日は4年生以上の子どもたちが、ファミリア活動について、幼稚園へプレゼンをしに行く。どうなることだか、私が運転をして幼稚園まで子どもたちをマイクロバスで送迎する。

集会委員会

集会委員会というのは、学校の全体会でその会議を取り仕切る委員会である。取り上げられたテーマは幸せボックスという箱の中に、だれでもよいから取り上げてもらいたいものを書いてその箱の中に入れる。集会委員会で取り上げられたものの中に『シャープペンシルは何年生から使ってよいのか』というのがあって先日全員で話し合っていた。全体会を開く前に、集会委員会のメンバーが私のところへ来て『先生はどう思いですか』と相談に来たことがあった。私は何年生が使ったっていいのではないかと思っていたけれど、子どもたちからするとそうではないらしい。どんなことでも一生懸命議論する姿に胸が熱くなる。

どうでもよさそうなことだと言ってしまっては子どもたちに申し訳ない。この学校には校則なるものがないから、何かを感じるたびに集会のテーマになる。階段を一つ一つ踏みしめるように、自分たちの自治を自分たちで決めて行く。時間がかかるようだけれども、子どもたちは社会の中のものを大人が決めるのではなく自分たちで決められると言うことを体験して、自立していく。その中で自分というものに気づいてアイデンテティを確立していくのだろう。集会後の子どもたちの顔はみな自信に溢れている。

それでどうなったのかと言うと、4年生から持ってきてもよいことに決定した。それにも理由があって1年生から3年生までは鉛筆を自分で削ったほうがよいということだった。そして4年生からシャープペンを持ってきてもよいが、①自慢しない・②遊ばない・③借りたら返す・④落書きをしない・⑤ちゃんと管理する・⑥ちゃんと字を書く・⑦分解をしない・⑧悪口を言わない・⑨交換をしない、などと思いつくままに約束事になっていく。子どもたちの決め事というのは、大人よりも厳しいものがあって、これに違反などしたら『まあいいか』などの妥協は一切ない。

高校合格発表

私のところの幼稚園教諭のお子様が高校入試見事に合格した。ホッと胸をなでおろした。午前中からずっと待っていたので、連絡がなかったのでだめだったのかなと半分どのような言葉で慰めようかと苦心していた。そんなところへ女房から合格したという知らせが来たので本当に良かったと思う。お母さんが私のところにいるので、とても優秀であることは昔から知っていたので、大丈夫だろうと内心は思っていたけれども、はっきりと聞くまでは半信半疑である。もう一人の方が早くから合格の知らせをくれたので、後一報が待ち遠しかった。

この学校でも3年後にはこのような状態になるのだろう。中学校の定員も20名と少数だから、高校入試は希望通りに行かせたいものだ。今から入試に必要な学力について5科目のカリキュラムを作成しているところだ。高校入試のカリキュラムなどというのは、ふつうは作らないだろうが、子どもたちの内発的動機付けを重視しながら、その気にさせる授業展開をしていく。ファミリア活動を中心にアクティブラーニングを形成し、子どもたちがアイデンティティを持ち、自分の生きざまをチョイスできるような人間形成に向かっていきたい。中等学部教師によるプロジェクトを作って万全を期したい。にわかに闘志がわいてきた。

[保育園落ちた日本死ね]が国会でも議論されている。匿名だろうがなんだろうが、そのような実態があるということについて、閣僚は認識不足である。この記事が書かれていたというときからブログに書いたけれども、言葉が汚く独りよがりのような気がして、どうも支える気にはなれなかったので単発で終わってしまった。以前にも書いたけれどもこの現象は都会の現象であって、都会の利便性を選んで生活しているなら、何でもかんでも自分たちの思う通りにはいくまい。そのことだけではなく、悩み苦しんでいる人たちも数多くいるはずだ。ちょっと都会から外れて生活すればそのような悩みはなくなる。

手っ取り早い解決法がある。行政の許可が根ければ出来ないことだが、幼稚園バスというのを作って、それは勿論保育園バスでも良いのだが、バスの中で保育をする。バスには5名ぐらいの保育者を乗せて、何人かを乗せる停留所を作って送り迎えをする。保護者にも協力いただいて、時間を守るなどを徹底してもらう。近くの公園で保育をすればよいけれど、0歳児は無理で2歳児以上になるだろう。0歳児は自分で養育する。0歳児から他人に預けるなんて、母親としておかしいだろう。このやり方はドイツを視察したときに「青空幼稚園」とか言ってやっていた。雨の日はバスの中だ。トイレは公衆トイレ。

充実した生活

幼稚園では年中さん主催による「お別れ会」があって、主催と言っても殆どは保育者がセットしたものだけれど、気持ちだけは年中さんが主体だ。お世話になった年長さんに、お別れを言うのにホールをきれいに飾り付け、一緒に食事をするという趣向である。みんな満足そうな顔をしていて、幼稚園にいることが何となくうれしくてたまらないと言った様子である。幼稚園に来ることを嫌がらず、幼稚園に行って多くの仲間とあって遊びたいという気持ちがあれば、とても今が充実していて、幸せなのだろうと思う。

幼稚園といえば、ここにも何度となく書いたことがあるけれど、20年ぐらい前には3歳児保育がなくて、年中さんからの保育である。4歳からの保育だから幼稚園に入れたいと思われる保護者は3年間ご家庭で養育をなさっていたわけだ。ご家庭でもゆっくりとした生活をしていたものだ。ところが今は、満3歳児がいたり、その下の未就園児がいたりしている、2歳児などは階段を思いきり足を広げて「よっこらしょ」という具合に登っていく。『危ない!』と何度か思ったことがあったけれど、体全体でバランスをとって上手なものだ。子犬の置物のようでとても可愛くて見ているだけでメロメロ、しばらく見ているとデレデレだ。それが人間のように話をするものだから、可愛さ倍増である。これではお父さん会社に行けないだろう。

初等学部では食ファミリアの高学年が出店をを失敗したままではいやだという訳で、二度目の出店を今日試みた。今回は何度かシュミレーションをしたようで、用意周到である。役割認知もしっかりできていて、そこで指揮を執るような児童もいなくて、自分の与えられたことを黙々とこなしている。失敗を謙虚に受け入れたという姿勢が、今日の成功を生んだのだろう。住のファミリアではメートルをミリ単位で下級生が上級生に報告して、鉛筆で線を引く者と、のこぎりでまっすぐにきる者とに分かれ、仕事がスムースに流れていく。

衣のファミリアでは17ページに及ぶ脚本を手掛け、講堂はマイクを使えないから、大きな声でやろうとみんなで決めたそうだ。その結果見事な出来栄えであったではないか。出来上がったものはミュージカルに近いもので、劇の中の挿入歌等は子どもたちの作詞作曲であったというではないか。私の全くできない分野なので驚きも人一倍だ。子どもたちは着実に人間として伸びている。素晴らしいではないか。テストに明け暮れている学校と比べるとなんと優雅な学校でなかろうか。保護者の皆様が、結果を急がずに待っていてくれていたからこそ、子どもたちの素晴らしさが垣間見えるようになったのだ。子どもたちはもっと伸びると思う。

職業体験

職業体験として6年生があおば台第二幼稚園へいって来た。年中と年少に分かれてクラスへ入って言ったけれど、その対応の仕方は授業に対するアタックと同じである。子どもの中へ積極的に入っていこうとする姿勢と、ちょっと尻込みしてしまう子がいる。幼稚園児の中に飛び込んで一日を過ごすということは大変なことである。まず最初に一緒に遊んでもらえるかという難関を突破しなければならない。幼児は自分から合わせてということはしないから、自分にあった人しか選ぶことはしないので、そこで品定めをされてしまう。私に子どもたちが集まって来るというのは、私が園長という立場にあるということを子どもたちが周知しているからであって、魔法使いのように子どもたちを引き寄せる術を持っているわけではない。

ロケット滑り台の上から何度か滑り落ちて楽しんでいた子もいたけれど、久しぶりに幼児期に戻って遊ぶことができたであろう。とてもいい顔をしていた。食事も園児と一緒にしたようだったので、子どもたちとの話もきっと弾んだろうなと思う。帰りに職員室へきて、幼稚園の主任の先生と私の前で、今日一日の感想を個々に述べていたけれども、堂々と自分の感じていたことを話していて、幼稚園の先生も「着眼点がいい」と感心してくれていた。ちゃんとメモをとっていて、すらすらと応える姿勢にも驚いていた。良く校外学習で行っていることだが、習慣化されているのがよい。褒められると私もうれしい。

このところ西郷と勝海舟の話をしているけれど、まず本当に二人っきりで行ったとすれば、その時の心境はどうだったのか。それと西郷の方がかなり優勢であったのに、二人っきりで行う理由が何処にあるのだろうか。また二人の話の起承転結には、私たちが学ばなければならないという、知識を理解して応用するという三つの学習の方法の他に、ロジカルシンキングとかクリティカルシンキングとかクリエイティブシンキングとかの手法が全て包括されているのではないかと思っている。だから学ぶということではなく、生き方とか感じ方でそういったことが身についてしまうのではないかと考えるのである。そうありたいものだ。

学校でもやるけれど、日本のあるいは世界の偉人の話は是非父親から伝えてやって欲しい者だ。14歳を超えるとあまりご両親の話をきかなくなって、友人の方が大切になって来る。それは子どもたちの全くの錯覚なのだが、友人の方が私を理解してくていると思うのもこのころだ。私を知っているということよりも、私を理解してと爆発的に叫ぶのが青春の蹉跌の入り口なのだから、理解してやってほしい。子育ては難しくない。自然体がよいのだ。

知識を伝える

知識の切り売りをしているというのが学校の教師だ。知識なんて言うのはその容量には限界がある。だから教科書が頼りになるわけである。教科書を超えて、それ以上のことを伝えてあげられるようになれば教師と言えるだろう。教科書通りを何年も繰り返しているような教師に魅力を感じるのだろうか。社会人として、どこかの飲み屋で話すとしたら何も話すことはないだろうなきっと。しかし同じ教科書を何年もやっていると、熟練されている訳だから教え方も上手だろう。面白くも何ともなくても、保護者にとっては教え方がうまいと評判の先生がいいわけで、飲み屋で饒舌になる必要はないわけだ。子どもには知識を正確に与えてくれる教師がいいのだろう。

西郷隆盛と勝海舟が一対一で二人っきりで話した内容よりも、目の前にいる子どもたちがどれだけの成績を上げられるのかの方が大切なのだ。どうせ自分の子はそのような人にはなれないとか、人間の生きていく価値観を現金化して考えてしまう人がいる。価値観を高くもてば仲間だってそのような仲間を呼ぶことになる。低俗な価値観しか持てない者はそれなりの仲間しか寄りつかない。道徳観も、損得で計るようになってはこの世も末である。そんな人ばかりの社会ではないという確信があるから、自分も生きようとしているのだが、過去と他人は代えられないから、何とか面白く生きていくことを考えていこう。

今いったような価値観が劇的に変わろうとしている。この学校が出来たときには、よくドリルを一生懸命やっている子を何人も目撃した。そのたびにドリルをやることよりもものづくりをした方が良いといって来た。ドリルというのは創造力を退化させてしまうような気がしてならなかったからだ。過去問を取り出しては一生懸命授業中でもやっている子もいた。それらはみんな受験対策だ。そのようなことがこれから変わるのだ。何度かパラダイムシフトがなければと言ってきたが、それが現実に起ころうとしている。文科省では明治維新と戦後民主主義を経験したような、大学受験が劇的に変わると言っている。

アクティヴラーニングという言葉を何度かきいたことがあるかもしれないけれど、高校が大変である。今まで過去問の復讐ばかりやってきた授業体系というか、受験姿勢をどのように改めたらよいのか苦心しなければならない。これからは出された問題の解答を得るということから、自分で問題を探して解答を出さなければならない、考える能を試されることになる。初等学部のファミリア活動はアクティヴラーニングの一環であるけれども、これからは基礎学習についても積極的にアクティヴラーニングを深めていく。

昔の人

明治維新で活躍された人は大体薩長土佐で、たまに九州の佐賀あたりの人が出てくる。殆どの人が西日本の人たちだ。それもそのはずで、関東は徳川領だし、徳川にたてつくのは外様大名でしかない。関東の大名はみんな徳川だから、維新で活躍するはずがない。維新の方の総大将は、朝廷をバックにした西郷隆盛だが、徳川方は、徳川をバックにした総大将がいない。本当のところは、京都守護職にいた会津の松平容保あたりがなるのかなと思うけれども、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜と一緒に江戸に帰ってきてしまった。勝てるはずの戦いをやめて、江戸に帰ってきてしまったのは疑問であるので、多くの歴史学者がああだこうだと言っている。

だから関東人は保守的な人が多いのだが、明治維新に対して保守的だったのは、江藤新平が率いる熊本出身の警察である。九州男児は警察官になれば出世ができると感じたのか、就職がなくてそこへとどまったのかは定かではない。それにしても江戸城総攻撃をやめて、江戸城無血開城にした西郷と勝海舟の話とはどんなものだったのだろうか。勿論、勝は西郷が静岡あたりにきているときに使者を送っているけれども、西郷はその使者とは合わなかったらしい。だから江戸城総攻撃は、絶対にやるという強い意志があったのだろうと思う。

西郷というのは薩摩藩でも厄介ものであって、二度ほど島流しにあってその島で暮らしていたところへ、大久保とか仲間たちが迎えに来たらしい。何度も歴史の中に登場する人物だから、その辺のいきさつはよく知っている人たちが多いだろう。それよりも江戸城で勝と西郷がどんな話をして江戸城総攻撃をやめることになったのか、かなり命がけの話であることは確かだ。このような時に堂々と話しあえる学問や授業というのが必要だろう。もっともそのような胆力も必要である。時代錯誤でも何でもない。この二人は今でいう有名大学は出ていない。

素晴らしい人物はたくさんいる。そこへ向かって、何を子どもたちに伝えればよいのかを考えるのが教育者であるのだろう。あまりつまらないことを考えないで、子どもたちが真の幸せを感じるのはどんな学校なのだろうかを、口角泡を飛ばして議論してみたいものだ。勿論学校の教師たちとはやっているが、内部だけでは、これが真実だというまで深まらないだろう。永遠にこの議論をしていくのだろうな。生涯。

もうすぐ1年の締めくくり

暦では正月が1年の始まりだけど、私たちは4月1日が1年の始まりである。だから今は大みそかを迎えようとしている年の瀬である。1年の始まりがすぐだということではなく、1年1年の切り替えがあって担任になっている教師は、1年を振り返るというよりかみしめながら一日一日を送っているようだ。幼稚園では年長と年中さんの仕事の引き継ぎ式が終わり、今日は両園共に小学校の体験があって初等学部へ来ている。クラスを見て回ったり、講堂で小学生と遊んだり、一緒に昼食をとったりして、小学生とともに楽しく遊んだ。

講堂でじゃんけん列車みたいな遊びをしていて、幼稚園の子どもたちはそれぞれのトレーナーを着ているから、すぐにそれとわかるけれども、全員が私服で遊んでいたら、体の大きさで小学生の高学年はわかるけれども、あとははしゃぎ具合から見ていたら、幼稚園の子も初等学部の子も大差ない。全く屈託がなく同化し合っている。幼稚園の子どもたちの中に小学生をそのまま入れて置いたらどうなるのか、しばらく様子を見ていると、こちらで色々と話しかけるわけではないけれど、自然な形で小学生が幼稚園の子どもたちに気を使うようになる。自分たちの好きな遊びをしに消えてしまうなんて子がいないのだ。とても素晴らしい子どもの世界だ。

素晴らしい子どもの世界も、いつしか都会のあおりを受けて中学校受験などがあって、早くから受験体制を整えようとする。何をそんなに早めなければならないのかよく分からない。人間の発達真理とか発達理解から行くともっとゆったりと育てることの方がよいに決まっているのだが、良い大学へ入れるためには先手を売った方が良いらしい。脳科学者たちはどのように感じているのだろうか。脳科学者だっておそらく中学校受験に対しては賛成することはないだろう。中学校受験を考えている人たちは、小学校4年生から考えだす人もいる。鼻先にニンジンをぶら下げられて、これからずっと走り続けることになる。

誰だってどこの親だって、わが子をロボットのように学習マシンにしたいなどと思っている人はいないだろう。先手必勝は、学業の世界ではあまり通用しないのではないかと思う。先手必勝も、良い大学へ行けば何とかなるというのも、妄想か幻想である。あくせくしない方が良い。学業はびりでは困る、中よりはちょっと上にいてほしい。何よりもわが子が、自分の親は私が食わしていくという強い信念があった方が、人間として素晴らしい生き方をすることは間違いないのではないか。

学校では今ベーゴマの後はスケボーがはやっている。3年生だか4年生にせがまれてかったものだが、職員室の前をコンクリートを打ったものだからここで楽しく出来る。家でもやっている人がいると聞いたけれども、家でやっている人は道路でやっているようなので、とても危険であります。学校へ持ってきてやってもよいという許可を出したので、ご家庭のご理解を戴きたいと思います。子どもたちは覚えるのが本当に早い。

これからの幼児施設はどうなる?

幼児施設というのは、就学前に子どもを預ける場所である。代表的なのが幼稚園と保育所であろう。今その施設に異変が起きている。幼児施設で働こうという学生が激減している。茨城だけの話ではなく、日本国中で幼稚園の先生や、保育所の保母さんになろうという人がいない。それでは大学の保育科や幼児教育科などに入学して来る学生が少ないのかというと、そうではない。増えてはいなくとも減ってはいないのである。大学を卒業しても幼稚園や保育所には就職しないということだけの話だ。派遣会社の社員が大学のそばをうろうろとして、卒業する学生に派遣登録をしてもらって、小遣いを渡すということをしている。

もっとも派遣を期待して幼稚園や保育所に応募しないという人は、例え派遣ではなく最幼稚園に応募したとしても幼稚園に勤めるのは無理であろうから、幼児と共に暮らす職業にあまり魅力を感じない人が多くなってきているのが事実なのだろう。大学の就職担当の教授も、どこでもよいから就職させればよいというような態度はやめて、授業中に幼児教育の大切さや、子どもとともに生きることの素晴らしさを学生に伝えてもらいたいものだ。保育所に落ちたなどの問題よりも、働く人がいないということの方がもっと深刻であろう。

自分の幼稚園は安泰であるけれども、この仕事全体を考え、将来を見据えてみた場合には寒気がするようだ。もっとも私たちの業界では28年度に保育者不足が27000人になるという試算があったのだが、それを考えてみればまだ傷は浅いとみるべきなのだろうか。しかし間違いなく保育者は激減しているというか、幼稚園に入るべき幼児が保育所にシフトをしたものだから、保育所の設置基準に照らし、保育者数が足りなくなっているということもあるだろう。ちょっと政策における対応が後手に回っている感がある。

現実に戻って、幼稚園では年長さんを相手に『立派な年長』の賞状渡しをやっているけれども、毎年のことだけれども楽しませてもらっている。子どもは全く素晴らしい。その世界に浸ることはできるけれども、その時代に帰ることはできない。それでもいい。その子どもたちといるだけで、心が洗われて、なんだか自分もピュアな人間になっている気がする。

保育所に落ちた日本死ね

こんな投稿がなされたと言って大騒ぎしている。日本の保育事情をそのまま投影したようなものだが、自分の子どもが落ちたからと言って、日本が死んでしまったら他の人も道連れにしたいとでも思っているのだろうか。何処にお住まいの人なのだろうか分からないけれども、日本の幼児施設は全体的には許容できるだけの容積はあると思っているが、大都市周辺はまだ待機児童がいる。大都市というのはとても利便性に富んでいる。その便利さをとるか不便でも地方へ移るかという選択肢がある。大体大都市で保育所を作れと言っても、それに見合った空き地が確保できるか。そして保育者も確保できるのかが問題だろう。

基本的に子どもを産んだらそれは親の責任である。少子化だから国の政策でも子どもを産んでくれと言っているけれども、国に子育てはできない。施設を作ったところで、ただ預かってもらうだけでは親の義務は全うできないのではないか。子どもを産んだら子どもへの責任は親にあるということをもっと強く認識すべきである。この子を誰かの責任にゆだねるなどのことはできないということを親になる前に自覚すべきだ。それが親になるということではないのか。戦後と今を比べたら申し訳ないけれども、戦後食えない家庭が沢山あったが、幼稚園や保育所にみんながいけたわけではない。

小学校へ行っても給食制度がなくて、昼食の時間になると何人かの子は外に出て水道の水を腹いっぱいに飲んでからクラスに入ってくる。いわゆる団塊の世代である。それでも子どもたちは逞しく生き抜いて来た。子どもを乳児の時から預けなければならない理由がどこにあるのだろうか。子どもの発達を犠牲にしてまで、どんな生活を得ようとしているのだろうか。今児童生徒の貧困の連鎖というのが問題になっている。それは目に見えて貧困が理解できるが、その原因の多くは親の身勝手な選択によるものもあることは否定できない。保育所に入れないのを解消するには、田舎暮らしを覚悟したらどうだろうか。

子どもを大切に育てたいと心から思うのであれば、孟母三遷の諺もある通り、住む場所を変えるという思い切った考え方もある。地域の人たちとのうまいサークルでもあれば、みんなで知恵を出し合って子育てが出来ないこともないだろうが、誰が音頭を撮ってくれるかが問題になる。利便性をとってある程度窮屈な生活を覚悟しなければならないか、不便でも田舎生活をするのか、どちらもうまくいけばよいのだが、世の中自分を中心には回ってはくれない。

ファミリアの発表会

ファミリアって何をやっているのか?と不思議に思っている保護者の方もおられるのではないかと思い、ファミリアってこんなことをしているのだよ、というところを見てもらった。教師には「前のめりにならないように」「子どもたちのあるがままの姿を見てもらおう」「成功させようなどと思ってはならない」ということを何度も言ってきた。成功なのかどうなのかということは、子どもたち自身が、思いきり自分を出せたかどうかということで子どもたちの心の中にある。大人がいちいち評価してやらなくても、子どもたち自身が自己評価をしているだろうし、またそのことで子どもたち同士で話し合いがあるだろうから、そちらの方を期待したい。

私としてみれば、子どもたちの力を改めて見直した。どこかで、これはできないだろうとか、これはたぶん無理だろうなどと否定的な結果を予測していたりするけれど、これらが見事に覆されて、子どもたちは清々しくやり遂げることができた。失敗したら私の出番で、見事にフォロウアップしてやろうと待ちかねていたのだけれど、それは空振りなってしまって、子どもたちの姿に感動してジーンとしたことが何度もあった。やればできるということを形を変えても何度も経験すれば、それがそのまま自尊感情を高めることにもなるだろうし、学習意欲も高まっていくし、何よりも自信を持てる。今に子どもたちが証明してくれる。

立派な年長が始まった

第二幼稚園から立派な年長が始まった。それぞれ最初に何をいうのかを考えて来るようで、3人の応援者の中で誰が最初にいうのかというのが問題になる。というのはせっかく考えてきても先にいわれてしまうと、次の言葉が出てこなくなってしまうからだ。言葉に窮して「以上です!」なんていう子も出て来た。毎年そのようなハプニングがあるのでとても面白い。面白いなどというのは子どもたちに大変失礼である。緊張でいっぱいの顔をして懸命に仲間の良いところを考えてきているのだから、それにはきちんと応えてやらなくてはならない。ビデオにとってあるから見たい保護者には後で連絡がいくと思う。きっと涙が出てくる場面もあるだろう。

涙どころか笑い転がるようなシーンもあると思う。何故こんなに緊張するのかと思うくらい緊張してしまう子もいる。園長室というところが独特な雰囲気があるのかもしれないが、まあたまにはこんな緊張があってもいいか。見事に賞状をゲットすると園長室から出てくる子どもたちを待って、職員室にいる保育者から大げさな拍手喝さいがあるから、もらえた子は本当にうれしいだろうな。第二幼稚園は後2日ぐらいで全部終わるのではないかと思うけれども、その間に年少の保育参観があったり、劇遊びを見てやったりと続けてできないのが残念であるが、毎年このようなものだからペースを守ってやっていこう。

きょうの朝刊に大学受験のことが掲載されている。皆さんにお約束したようにどうなるのかというようなことを抜粋して書きだしてあるので、近いうちに保護者の皆さんにお配りすることができます。初等学部ではお話しいたします。だからといってそれほど神経質になることはありません。要は偏差値によってその子の一生が決まるということではなく、創造的によく作り出せることや、物事を批判的に捉えることや、今までよい子とされてきた事柄にメスが入れられる。あおば台の保育理念が、小中学校や高等学校でも通用するということが初めて明らかになった。如何にドリルを速くこなせるかなどは、全く無意味であることが実証されたのです。

休みが多い

私は仕事以外にやることがないから連休が多いとうんざりしてしまう。一日中本を読んだりすることも最近では集中力が散漫で長続きがしない。本を読みながら違うことを考えたりして、一向にページが進まない。若い人たちや保護者の年齢の人が私と同じ考えでは、日本の国は滅びてしまうだろうけれど、私には週一回の休みがちょうどよい。とにかく仕事以外のことというのは自分にとってはつまらないことになってしまった。歳のせいだろうな。しかし私の仕事というのは、金もうけの話ではないから、いくら時間をかけてもくたびれないのが何より素晴らしい。むしろ楽しいから休みなど要らないはずだ。天職ってこんなものなのだろう。

初等学部の子は純粋培養されているから、とても気分のいい子たちばかりだ。これは学校の雰囲気ばかりで醸成されるはずはないので、ご家庭での普段の家族の雰囲気がとても和やかなのだろうなと思う。幼稚園というのは家庭のそのままの雰囲気が直接的に出てくるから、家庭での会話のやり取りや躾なども、すべて子どもたちが仲間の会話や行動で教えてくれる。そんな姿を見ながらにやにやしながら子どもたちの目を覗いているのだけれども、そんなことが日常茶飯事のごとくある。それが癖になってしまって、初等学部でも子どもを見ながらある程度のご家庭での雰囲気が推測できる。純粋培養されていると、世間に出て打たれ弱いのではないかと思われるが、社会で一番強いのはまっすぐに見れる目だ。

初等学部今年になって第一日目の日に、ある男の子が真剣な表情で担任に訴えているのを、私の席から見ていたのだけれども、どうにも私は耳が悪いのではっきりと聞き取れないでいる。その子は私の方を見ようともしていないので、私には関係のない話なのかなと思って、自分の仕事に戻った。すると担任が私のほうを向いて何やら話をしたそうな雰囲気なので、担任のほうへ向きなおって『何かあったの?』と聞いたら、アトリエ(大倉庫)のところにスピーカーを付けて欲しいと訴えに来たというのだ。

私がそばにいるのに私に遠慮しているところがなんとも可愛いではないか。私がよく『こんにゃく食べ方研究会』を職員室でやっているのだけれども、それがアトリエにいると伝わらないのでスピーカーを付けて欲しいということだ。全員が来たかどうかをいつも確認しているのだけれども、3時過ぎになってしまうと各クラスで話し合いがあったりして、帰りのバスに間に合わないと言って職員室を素通りしてしまう子もいるようだ。寄宿舎の工事が3月から始まるので、その時に電気屋さんにできるかどうか聞いてみようと思う。それにしても真剣に訴えるというのが面白いではないか。教師もまたそれに乗って真剣になったりして。

2学期の記録

幼稚園は学期ごとにどんな活動をしてきたのかとか、その時の子どもたちの様子はどんなふうだったのかとかの実践記録を作成し、それをもとに学期のまとめとして総括を行っている。昨日は久しぶりに第二幼稚園の総括の議論に参加して来た。教師の人数も多いから一日では終えることができなくて、二日間にわたって総括をすることになってしまった。普段は『緑の葉っぱ』という保育者たちの劇団を作って、楽しく保育に携わっているのだが、この時はかなり鋭い質問があったりして、応える側もたじたじする場面もあった。白熱した議論の中にいて、楽しい時間を過ごさせていただいた。

久保田浩先生が幼児期の子どもたちの生活を、三層構造論にまとめた理論を基底に、1年をテーマごとに5期に分け、その中に主となる活動を入れていく。その活動についての指導計画を立て、その計画に沿って実践記録をとっていく。私も20年ぐらい前に、保育をしながら記録をとるということにチャレンジしたことがありますが、これが大変難しい。保育者はいつも子供の様子をメモできるような小さなメモ帳を携帯して、目にもとまらぬ早業でメモをとるようだ。メモに注意がいくと保育がおろそかになるし、保育中にメモなんて取れるわけがない。だから私のやり方が間違っていたということだ。

実践記録をつぶさに取れる保育者に敬意を払いつつ、実践記録の今回の内容をつまみ食いしてみると、うっとりするくらい子どもたちの心の美しさが見えてくる。例えば、運動会にやった年中の恐竜の件だけど、クラスのあちこちに恐竜の足跡を事前に保育者が作っておく。するとその足跡を見つけた子どもたちは『こんなにいっぱい足跡があるから、きっと僕たちと仲良しになりたいんだ』と言い、続けて『もうその辺にいるかもしれない』『エー!やだ怖い!』『大丈夫だよ恥ずかしくて出て来れないんだよ』『ふふふふ・・・すぐそこにいたりして』。こんな会話のやり取りがある。子どもたちの園生活を想像してみてください。

年長の記録は、仲間を思いやるとか、仲間同士の結びつきの強さなどが印象的であった。また年少の実践記録の『ごっこ遊び』のところで、どのような自然現象の中でも大胆に遊びが展開されて行くところが印象的であった。例えば雨上がりの少し引っ込んだ水たまりがお鍋に見立てられて、その中に色々な葉っぱを見つけてきて、それらをニンジンや大根やごぼうに見立て料理を作ってしまうなど、子どもたちの顔が浮かんでくるようだ。もちろん保育者の誘導がなければできないことだけれども、こんなに豊かな生活を送っているのだとニヤニヤしたくなるようだ。あおば台にいて本当に子どもたちは幸せだと思う。

またこんなこともある。3歳の子がお漏らしをしてしまって衣服を脱いで『先生これ洗って』と小さな声で言ってきた、という実践があって、その時の保育者が続いて書いてあるのが『私が早めに気付いてあげられなかった』と自分を責めているくだりがあった。保育者は常に子どものことについては低姿勢どころか自虐的は言い過ぎだが、母親のように、ときには母親以上に子どもに愛情を注いでいるものだ。小学校でも低学年を持つ教師はいつも子どもに対しては低姿勢で『私がこうしてあげればよかった』という発言が多い。小学校になると、なかなか理解してはもらえないけれども。

幼稚園はできたけど

幼稚園はできたけどその理念は何もない。園長はやとわれ園長で、その人がどうにか維持してくれていた。私は理事長職でめったなことがなければ幼稚園に顔を出すこともない。むしろ私のような者が幼稚園をやっているということに羞恥心を持っていた。だから行事があるたびに呼び出されたりするけれども、恥ずかしくてなるべく保護者と顔を合わせることがないように隠れていたものだ。素人が大切なお子様を預かるようなことはダメだと自分を許せなかったのだ。

幼稚園は年寄りの大人でしかも女性がやるものだというような先入観があった。結婚してから女房が幼児教育の本を沢山買い集めて私に読んでみたらどうだと勧めてくるようになった。園でも保育者たちが園外研修を私に勧めるようになってきたし、どうしても動かざるを得なくなってとうとう園外研修へ出てみることにした。これも全くの部外者であるけれども、他の者たちは私を部外者だと思ってはいないことが恥ずかしくて苦しかった。

回を重ねるごとに「この仕事は有意義なことで、だれかに任せればよいというような安易に考えられるようなものではない」というように考え方が変わっていった。こうなれば観念して、どうせやるなら日本一の幼稚園にしてみようというような大それた考えを持つようになって、以前お世話になったことがある筑波大学の杉原先生の部屋を訪ねたことから『幼児心理学研究会』を立ち上げていただいて猛勉強を始めた。やはり職人になるには現場が一番であるけれども、幼児教育を修めようとするには確かな原論を学ばなければならない、というのがふと感じたことであったからだ。保育現場では、久保田浩先生とその仲間たちという素晴らしい保育者を得て、私のそばには最高の師がいた。あとは私の「やる気」にかかっている。

久保田浩先生も杉原一昭先生も亡くなられてしまったけれど、大学の幼心研は26年間続けて、久保田先生が長らく所長を続けていらした『幼年教育研究会』は今も続けている。特に学生と一緒に学んだ幼心研での発達心理は、杉原先生の得意とするピアジェやエリクソン、教育学のデューイを幾度となく登場させてお話をされていて、それが小学校を始めるための文献を選ぶのに非常に役立った。しかも久保田先生の三層構造論がデューイからのものであったことが、小学校を始めてやっと気がつかせていただいた。

私が小学校を始めたのは、卒園式に子ども達が泣きわめいて『園長先生!小学校を創って下さい!』と情に訴えられたのがきっかけで、安易に『よしわかった』と応えてしまったことから始まった。子ども達に志を伝えるものとしては、だれと約束しようが、約束は必ず成就させなければならないのが使命である。しかし小中学校は約束したけれども、高校までは約束していない。校長になることも約束はしていなかったけれども、幼児教育をやってきた者として、小学校教員たちとあまりにも子どもを観る目が違うことに驚いて、自分が校長を引き受けただけのものだ。だから久保田先生の三層構造論が幼児教育にも義務教育にも当てはまるものだということも発見できた。

明日は正月だこの辺で野暮はやめよう。素晴らしい新年をお迎えください。また来年も親しくお付き合いください。この後のことは1月2日以降に書きます。1年1年を一生懸命生きていきます。

幼稚園はどのようにしてできたのか

年の瀬も迫り、また一つ年を取っていくけれど私の先輩たちは私の歳を聞いて「まだ若いな」という。私の尊敬する先輩で医者をやっている人が、75歳を機に医院の規模を小さくするといっていた。大体70を境に自分の身の振り方を考えている人が多い。だから私もそうしたい。もう40年も幼稚園をやってきたし、小学校も作ることができたし、中学校も来年度からできることになった。私の人生では『図らずもこうなった』というのが幼稚園の先生である。

20歳の時に父親を亡くし、これからどうしようというとき友人が『男なら何でもできる』と無責任にも励ましてくれた。その友人は大学生だったけれど、あまり学業には興味はなく、商売をやってみたいという。ある時『ドライバー1本で金になる』という仕事があるといって私のところへ来た。今ならそんなうまい話があるわけないだろうといえるが、何しろ世間のことはゼロに近い。彼は学生やめるから一緒にやろいうといってくれたので、私はその勢いに完全に飲まれてしまって、二つ返事で了解してしまった。それが私の一大転機になった。その仕事というのは空調や水道を扱う設備屋だ。職人ばかりの世界へ飛び込んで行って、その人種というのは短期で気が荒くて、しかし妙に人懐っこい人の良さもある。

半年ぐらい職人の手元をやったりしていたけれども、会社から設計をやって見ないかと言われてやってみることにした。初めて見るトレーシングペーパーに自分が線を引いたものが焼き付けされる。そしてそれが職人の手に渡り仕事の指針となる。なんだか夢のような出来事で、図面を書くことがとても気に入ってしまって、本物の施工図を描いてみたいという願望が強くなっていった。そんな時に同じ職人の仲間から、ある会社で現場代人になれる人を探しているということを聞き、その会社に移ってしまった。その会社の専務という人がとても優秀な人で、私に一生懸命図面のことを教えてくれた。現場代人というのは会社を代表するもので私のような駆け出しにその資格は全くなかったけれど、その専務が目をつぶって私を仕込んでくれた。

私をこの仕事に引き入れた友人は、独立して現在でも会社の社長として立派に仕事をこなしている。実は会社を二人で始めたけれども、私はいい恰好をしてしまい金銭感覚が彼とは違っていたのでうまく行かなかった。経営者はやはり彼の方が飛びぬけてよかったと思っている。私も専務に助けてもらい独立して会社を始めたが、融通手形を持たされて失敗してしまった。約束手形は必ず返してもらえるものだと保証人となる裏版をいとも簡単に押してしまったのだ。とても恥ずかしい話だ。当時の金額で数千万円に上る。手形を渡された会社へ行って何でもよいから持ってこなくてはダメだといわれても、そんなことを本気でできるものではない。それで私は会社にあった機械や材料をすべて職人に渡して、会社をたたんでしまった。

倒産させたわけではないので、私は設備図面屋一本で生計を立てることにした。A-1の施工図は8千円で、A-2は4千円であった。この方が給料取りよりよほど楽しいし、金額も良い。家から一歩も出ることなく何日も部屋の片隅で過ごしたこともある。そんな日が楽しかった。融通手形のことで私がお願いした弁護士が、私の私生活について『まだ若いのに家に閉じこもってばかりではだめだ』と言って私のこれからの仕事をいろいろと世話をしてくれた。『塾』『保育所』『幼稚園』といったものを考えてはどうかと真剣に考えてくれた。それで『幼稚園がいいな』と言ったら、弁護士と懇意にしていた建設会社の人が勝手に現在の場所を整地してしまった。

私は当時の図面描きがとても気に入っていて、お宅でも何と言われてもその方が良かった。たまたま幼稚園のある土地が私の名義になっていて、差し押さえになる可能性があるから公的な施設を作った方が良いのではないか、という誰かの入れ智慧であったのだ。私にはお金もなく、幼稚園を作るなどの大金も工面できる自信もないし、そのような知り合いも人材もない。できるわけがないではないか。99パーセント無理な話であると自分では結論を出していたけれど、まずはやってみなければわからないと思って、土浦市にある金融機関をすべて歩くことにした。

私が25歳の時で、案の定会社をやっていた時の主銀行をはじめどこへ行っても体よく断られてしまう。銀行が悪いのではなく、あの当時だったら冒険を侵さなくても銀行は十分にやっていけるのだから、私のようなどこの馬の骨だかわからないものに簡単に銀行が付き合ってはくれないだろう。裏付けになる担保も不足しているし、保証人になってくれる者もいない。どのようにひっくり返っても、無理というものだ。世の中はそんなに甘いものではないのだ。考えてみれば、もしも借りられたとしてもどのように返済できるのかを考えていなかった。

毎日のように戦術を考えて銀行で借り入れができるかどうかということが私の仕事になってしまったようだった。『絶対できる」『絶対にやる』『借りられるまでは絶対に引き下がらない』『どんな手を使ってもやり抜く』。決心が徐々にエスカレートしていって、私に寝る暇を与えなくなってしまう。ある日まだ行っていない茨城大手の銀行の入り口に立って『何を言ったらいいのか』を考えていた時、名案が浮かんだ。名案といってよいものかどうか『今まで殆どの銀行や金融機関を回りましたが、どこへ行っても貸してはもらえませんでした。そこで県に相談しましたら貴行に話をしてみたらどうですかと言われました』と。県がそのようなことを言うはずもないし、詐欺みたいなものだ。でもその銀行は快く貸してくれた。当時の借入金3600万円であった。それで幼稚園を建てることができた。