初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

生きてきたこと

まだこれを書くのには早すぎるが、今まだ生きているのだから生きて来たことに後悔はしていない。バラ色の人生であったとは言いきれないけれど、多くの人たちに無量の迷惑を駆けてきたことは事実だろう。もし人生がやりなおせるものであるなら、そしてこの時代だけはやり直したくないというものがあるとしたらそれはいつの時代だろうか、思い起こしてみる。

12歳までの小学校時代は学校は嫌いだったけれど、仲間と遊んでいた自分はあのままで失いたくない時代である。戦後の復興期であったので、しかも私がすんでいた部落は満州からの引揚者の集合住宅であった。私の家族はその集合住宅に入らずに、かつて軍が使っていたと言われていた調理場の家を改装してそこに住んでいた。集合住宅というのは、松班とか竹班とか言われていた寮で、軍人さんが住んでいた。その寮が焼失してしまって、その後にできたのが2DKの一軒家である。勿論水道はなくみんなで利用する井戸が集落にいくつかあった。また風呂はあるけれど、新築されたときに据え付けられていたものではなく、新しく入居したものが買い足したものだ。そしてどの家でも薪を燃やして風呂を沸かす。私の家の勝手場は外にあって、流し台やバケツに入った飲み水も外にあった。

農家の集落は隣り合わせにあって、近くの畑や田んぼには豊かに実った稲や野菜を目にしたことがあった。私の家も農家であっったけれども、父がラバウルから帰還兵として戻ってきて、分けてもらった田畑では足りなかった。しかも両親ともに農業を知らなかった。できたコメは家で食べるものまで削って全部売ってしまうから、満足に食べられない日もあった。皆が貧しい生活をしていたので、今客観的に考えてみると貧乏のどん底にあったような気にもなるけれど、当時は食べられない家族はたくさんいたからそれほど気にはならなかった。

小学校時代は私の年代はベビーブームのまっただ中であったので、あちこちに子どもがうようよといた。小学校から帰ってくると、いつもみんなで集まるところがあって、そこには必ずリーダーがいる。そのリーダーになっている人がすべてであって、学校の先生の話よりもよく聞くし、いつも遊びは生活に実践的なものであって、雀を捕まえるやり方を教えてくれたり、魚釣りに連れて行ってもらったり、霞ケ浦の淡貝を取りによく行った。今文科省で「生きる力」を教育の柱にしているけれど、そのころは何を柱にしていたのかは知らないが、放課後の子どもたちの遊びの中で確かに生きる力を実践して教えていただいた。しかもそれは家族の一員として役に立ちたいという一念であったように思う。

子ども達の団結力も強く、隣村の子ども達の集団に仲間がいじめられたりしたら、リーダーが仲間を招集してかたき討ちに行ったりもした。その仲間に入らないと次の遊びに入れてもらえないので、ちいさい体の自分としては相手が恐ろしいほど大きく見えて怖かった。体中の勇気を振り絞って参加するけれども、やられてしまって体中傷だらけになって家に帰ってきたものだった。近所の大人たちも子ども達の喧嘩だとよく知っていて、だれがどのようになったのかなどは、口出しも知ろうともしないので子どもの集団はそれだけで独立していた。喧嘩は泣いたらおしまいだ、だから泣くまいと歯を食いしばって頑張った。それは仲間のために、そして自分のためにだ。

私たちの集落は引揚者だけの部落なので、旧村の子どもの人数と比べると極端に少ないけれども、親も子ども達も団結力が強く一つにまとまっていた。私の父親が旧村の出身者だったので、私の存在は異端児であって旧村の子ども達からも、引揚者部落の子ども達からも距離を置かれていたようだった。しかし私としては中途半端ではなく引揚者部落の仲間としてふるまっていた。何故かというと旧村の大人たちは、引揚者たちを貧乏人呼ばわりしていて鼻持ちならなかったからだ。貧乏人であったけれど子どもたちの心は豊かであったように思う。とても楽しかった時代は小学校5年生ぐらいまでのことだ。だからといって、そのあとはそれほど面白くなかったということでもない。

結婚式

幼稚園の教師も初等学部の教師も女性は未婚の人が多いので、結婚式に出ると言うのはさほど珍しいことではない。最近の式は教会で行うのが多く、おごそかな雰囲気で牧師が何やら英語なまりの日本語で始まる。耳が聞こえないうえに歯の抜けたような日本語を聞いているので、式の間は自然に寡黙になる。そして讃美歌を強制的に歌わせられることになるのだが、これが何度聞いても覚えられない。しかし同席している同僚たちは元気に堂々と、口を大きく開けて歌っている。後から聞いてみると『何度も歌っているから』と言っていた。

一応私が主賓として招かれているので新婦側での御挨拶と言うことになる。好きなように話して良いからなどと心にもないことを言って、私の緊張を取り除いてくれようとしているのはよくわかるが、その心に緊張が増す。いつも女房に式場に行く間にレッスンを受けて参加するのだが、ある程度紙に書いて置くのだが、いざマイクの前に立つと、一通りの礼儀のような挨拶が終わると、次の言葉に窮する。そして結局は紙に書いたものを思い出してそれをつなぎ合わせる。あまりにも時間が短すぎると、あとはアドリブだ。失礼がないように神経をいっぱい使う。とにかく疲れるのだ。

余興に入ると私の勝手な解釈だが、幼稚園の先生方の出し物は芸能人ばりで、一味も二味も違う。とにかく圧巻なのだ。隣に座っている女房が言っていた『舞台慣れしているね』と。素晴らしいエンターテナーなのだ。新婦に送る素晴らしい披露宴であったろう。きっと会場におられた方々も最高に喜んで頂いたはずだと思う。あのような保育者のいる幼稚園なのだから、子ども達も楽しいはずだ。来年度は40周年だから何か考えたほうがいいのかな。とにかく重ねてご結婚おめでとうございます。

余計なことかもしれないが、最近のと言ってもこの30年ぐらいの結婚式は、最初はおごそかな気分で会場を水を打ったようにシーンとさせて、披露宴に入ると賑やかにがやがやと楽しくなって、最後の締めは新婦が『お母さん・お父さんありがとう』と言って会場を涙で包んでしまう。悲喜こもごもだ。そして帰りは『よかったね』とか言って散りじりに別れる。

リーダーシップ

自己主張を押し通すことは良い時もあれば悪い時もある。それが個性だと言われればそうなのかもしれないが、個性とは自己主張の内容であって、押し通すのは我であると思っている。我を通すと言うことは一概に悪いことばかりではない。ただこの言葉と一緒に付きまとうのが、『わがまま』とか『和を乱すトラブルメーカー』『他の意見を聞かない』など、あまりよい評価を得られない。しかしそれで善処できた場合には良い評価が爆発する。民主主義が定着する前には、世を治めた人たちは、すべてが自己主張が強くわがままな人ばかりだ。

企業の創業者も似たところがある。何かを始めるというときに、最初の発想は一人の人から始まるのだろう。『船頭多くして船山を登る』の例えがあっても、船頭を多くしたからといっても船は山を登らない。何でも最初は一人が決めて、協力者が知恵を出すという方式が良い。最初に決めたことがよくなければ協力者は現れないだろうから、決定する者にはそれなりの覚悟が必要だ。誰もついてこなかったら孤立無援となり消えてしまう。このような現象は、集団生活の中では経験知としても必要であると思う。リーダーシップをとるということは、大きな声を張り上げても腕力を振っても、うまくいくことはないということを体感してほしいものだ。

初等学部の餅つき

山奥の過疎地の『やまびこ小学校』みたいなところでないと餅つきなどの行事は行わないだろう。ここは過疎地ではないけれど、過疎地にできたような学校だからとても家族的で、校長が全員の名前と顔が一致するなんて言う小学校は都会ではないであろう。職員室は校長のクラスで、クラス分けなどない出入り自由なクラスだ。そこでストーブを囲んでお話をするという、とても牧歌的雰囲気のあるクラスだ。子どもの中に同化できるのは、私の唯一の特技だ。

幼稚園の餅つきと違って、つき手も愛の手も子どもたちがやっている臼のグループがある。6年生がやるとそれなりに杵の音がよく出ていたりするけれども、定額ん年がやると、杵に振り回されたりしていて楽しい。大体やりたがるのは男児であるが、杵に足をとられても、さすがに弱音を吐かない。周りで見ている子どもたちが心配そうにしていて、杵を振り上げる度に『危ない!』という気勢を上げる。それがとてもタイミングがよい。

吹きあがったもち米を臼の中に入れて、それから杵で練り上げて多少餅になってきたところでつくのだけれども、練り上げるところが力の入れどころで、うまく腰を使わなければならないが、それを子どもたちが大人のまねをしてやる格好が面白い。何でもはじめてのことはやりたがる。やりたがりが何度も失敗して見事な技術者になるのだろうな。だから学習の初発は興味や関心からだというデユーイの言うとおりだ。教科書を出して、教科書を暗記させることなんて面白くもないし、それが楽しいなんて言う子がいるのだろうか。

面白いことあり

6年生の修学旅行の報告会があった。こちらで報告して下さいと頼んだわけではないけれど、自発的に全学年を集めて始まった。もっとも自分たちで決めた旅行だから、最後まで起承転結を行わなければならないと感じたのだろうか。順にしたがって報告をしていたが、全体的な報告のプログラムも整理されていて見事だった。いつも感心させられるのが、パッと出てきても怖気づくことなく堂々と話ができるということだ。私自身をだぶらせてみても、多分心臓の音が隣の人に聞こえてしまうのではないかと思うくらいのものだ。

最後の流れのところで気になったところがあったので、6年生全員を職員室に呼んで話をした。勿論ほめることが最初だ。じっくりと私の話を聞いていたが、私がいつも食べているこんにゃくがストーブにかけてあったのでそれが気になったようだ。これは全員に配った後の残りであったけれども、特別に6年生へのご褒美としてあげると言ったら、順序良くきれいに食べてしまった。おつゆだけ残っていたので『これどうするの?』との質問があり、『このおつゆでおそばをゆでて食べるのだが皆も食べるか?』と言ったら『食べたーい!』という返事だったので『そんなに簡単に食べることはできない』ともったいぶって言った。

するとみんなが次の私の言葉を待つようにじっと私を見つめている。『うんそうだな、運動場10周かな』と言ったら、すぐさまみんなで顔を見合せ『よし!行こう!』と言って、靴をはき替えに靴箱の前まで突進していった。随分と気の合うものだ。そばを食べると言ったって、それほどあるものではないし、お椀に少しづつぐらいなものなのに、みんなで一緒に気を合わせるというのはこんなに楽しいものなのだ。10周と言えば2kmだ。みんな気を抜かずに走っている。はーはーと息を切らしながら、そばを食べるために。

やがて一人二人と10周を終えてゴールしてきたが、体がとても熱そうである。フーフーと言いながらおなかを抱えていて、おなかが痛いというものもあらわれたり、『あっそうだ僕はそばアレルギーだった』というのもいる。それでも笑っていたのは私と担任だけで、あとの子たちは疲れて笑えなかったようだ。全員が私の机の後ろにある長テーブルに座り一緒にそばをすすった。6年生といえどもこのような純真さだ。この学校の良さが分かるだろう。

美しいもの

一番最初に『きれいだな』と感じたものは小学生の低学年の頃で、やんちゃな仲間と一緒に山歩きをしていて、山歩きと言っても雑木林であるが、そこで見た鉄砲ユリだろうとかすかな記憶がある。その雑木林もどこだったかをはっきり覚えているし、友達の顔も覚えている。花粉がつくと洗濯してもなかなか落ちなくて、母ちゃんに叱られるから、触らないで匂いだけかいたほうがよいということまでガキ大将に教えて戴いた。野に自然に咲いている花なので、どうしても根っこからとってきて家の庭に植えておきたかった。

家からスコップをもってきて根っこのところまで掘り下げて球根まで取り出したけれど、家まで持ってくる間に、茎が折れてしまって、家に着いた時には無残な形になってしまっていた。三つぐらいに分かれてしまっていたので、球根のある部分は庭に植えて、茎だけの部分は捨てて、花のある部分は母親が畑から帰ってきて、すぐにコップに水を入れて飾ってくれた。家の中に花があることがとても誇らしいし、嬉しかった。自分が家族のためになったという気持ちを持てたのは多分この日が初めてだったような気がする。

10数年ぐらい前にj純白の西洋ユリ(カサブランカ)を紹介されたときには、その美しさに固唾を呑んで一瞬声が出なかった。それから家にはカサブランカを何本か植えたけれど、最初だけ純白であったけれど、あとはピンクになったり赤いゴマが入ったりして自分のイメージとは少し離れてしまって興味が薄れてしまった。花弁が大きくて、とても立派で気品があって貴婦人のようなんだけれど残念である。女性の美しさは『瞳』であろうと思う。『目は口ほどにものを言う』とあるようにそれがすべてである。あくまでも個人的主観であるけれど。

心打たれる純粋さの美しさは少女の頬を伝わる涙(tears)であろう。悲しみの涙でも、うれし涙でもどちらでもよい。瞼の内側にたまった涙(しずく)がそっと頬を伝わるとき、まるで真珠の輝きではないか。、それはピュアを越してイノセントだ。女房曰く『単細胞にして最も騙されやすいタイプ』だと。何と言われようが半世紀もそう思い続けてきたのだ。現実に戻ったところで何も面白き事はない。かつて高杉晋作は、そうであっても面白く生きようと言っていたが、それほどの人物にはなれそうにない。

しばらく見なかった風景

家の庭にあるもみじがいつの間にか散ってしまっている。何日か前は真っ赤に燃えるような色をつけていたのに、もっとゆっくり見ておくべきだった。家の裏にある大きな土山に、山の下につながれているヤギがその山の中腹まで登って行って草を食べている。ヤギは何を考えているのか、いつも食べることだけしか考えていないのか、土山を登るときは、こちら側がよいとかこちらは危険だとかの考えはないのだろうか。それでも幸せなのだろうか。いやそのような意識は持てないのだろう。そのような意識が持てないほうが幸せなのか、それとも意識をはっきりと持てる人間のほうか幸せなのか。

あおば台幼稚園の周りの風景も少しずつ変わっていっている。南の道を挟んだ近くには住宅が建っているし、今日はその一角で住宅展示会か見学会をやっている。東側正面玄関の前は、少し前まで田んぼであったけれど、そこを埋め立てて空手道場が建った。これからは、道場に通う彼らが、幼稚園の警備を担当してくれるだろう。工事に来ている職人さんが自分たちが施工した側溝のところに座って、みんなでタバコをふかしている。ずいぶんとうまそうに煙を吸い込んでは吐き出している。物を作り上げるという自負心が、年老いた親父たちの顔ににじみ出ていて、力強い頼もしさを感じる。

私ももっともっと若かった時に同じような土方仕事をしていた経験がある。一日の日当が1600円だった。腕の良い職人さんは3000円。親方格になると3500円だった。日当が少なくても、それがどのような意味かをよく理解していたから不満など全くなかった。給料をもらって、ガソリン代を払うとあまり手もとに残らない。それでも意気揚々としていて、朝方まで飲み歩き、あくる日はしゃきっとして仕事へ出て行ったものだった。今のように土曜日曜が休みだなどと言われると、食えなくなってしまって日干しになってしまう。それでもなんだか、毎日が幸せだったような気がする。

あの時のことを思うと、今のほうが経済的には楽にはなった。いや、私の資産の話をすると結婚前より全く乏しくなって、話せるようなものではないが、生活そのものは文明とともに楽になっている。仕事にも恵まれ、子どもとともにいられる仕事は最高に素晴らしい仕事である。しかも運もよく小学校まで作らせて頂いた。何も不満はない、何か不満でもあるのかと自分自身を問い詰めてみると、都合のよいことを言ってのらりくらりと逃げてしまう。子どもと一緒にいられることは何事にも代えがたいことだが、それ以外はだれかにやってもらってもいいなんて、情けなくも逃げ出そうとする自分がいる。

今日は仲間の認定子ども園の認可になった建物の竣工式で、招待されて挨拶をしてきた。早稲田の応援団にいた凄い先輩だけど、彼も大変な時があったのだと思うと少し重荷が取れたような気にもなった。私も人生つきまくっているようだけれども、彼もつきまくっている。本人がそう言っていたから間違いないだろう。

講演会

堀真一郎先生をお呼びして保護者会主催の講演会があった。堀先生は、イギリスの教育学者ニイルの著書5巻を翻訳した教育者として日本では有名な方である。大学の先生をしていて、それを投げうって自ら『きのくに子どもの村学園』という学校を中心に何校かを経営しているので、彼の学問は机上の学説ではない重みのあるものであって、著書でもいつの間にか引き込まれてしまう魅力がある。信じて来たものを具現化して、これが真に子どもたちを幸せに導くものだという信念がある。私は彼の著書の一つである『きのくに子どもの村の設計』を、身震いしながら読んだ記憶がある。大学教授の退職金では学校経営は困難だろうから、それなりのご苦労はなさっているはずなのに、それはおくびにも出さない。

もっとも現在が順調ならそんなことは懐かしい昔のことであって、ことさら大変だったことなど思い出さないものでもある。私もいつかお呼びして、ご講演を戴きたいと思っていたけれど、保護社会の会長からいとも簡単に『堀先生を読んで講演会をやろう』と平然と言うものだから、駄目もとでもよいから思い切ってお願いをしたところ思いかけなく快諾を戴いたのでありがたかった。ちょっと失礼かなと思いながらもやってみるものだ。新たに強烈な図々しさが体中にみなぎったような気がした。

このところ男子生徒の高学年が野球らしきものをやっている。いわゆる三角ベースという奴だが、学年だけでは人数が足りないので、色々な学年が入り混じってやっている。男子だけではなく必要とあらば女子まで一緒になってやっているのを見た。今日などは女子だけが外に出てバットを振り回している。なかなかバットにボールが当たってくれない。見ている方がイライラしてくるが、当の本人たちは一生懸命なのだろうなと思う。校庭や中庭などを見ても、よく子どもたちは走り回っている。なんだか分からないけれど楽しいのだろうな。

3歳児の保育参観が第二幼稚園であった。保育参観のあとは私がお話をすることになっているけれども、実際3歳児について話などない。無邪気で可愛らしくて、あの子たちを見ていて母親に何を示唆するようなことがあるだろうか。今はこのままでよい。あるがままの姿を抱きしめてあげる。これ以上何もないではないか。『お幸せに』と手を合わせたい。

楽しい話2話

第1話  何時そうなったのか自分でも分からないけれども、鼻の頭のところに吹き出物のようなおできのような物がぽつりとできていて、そこのところが赤くなっていてまるでピエロのようであった。それを目ざとく見つけた年少さんが『先生!鼻のそこんとこ赤くなっているよ!どうしたの?』と思い切り上を向いて私に言う。『うんこれはね、もう少しでクリスマスが来るだろ、だからトナカイさんの練習してるんだ』と言うと、けげんそうな顔をして『じゃあ先生って変身できるんだ、へええっ!』と言って『変身!変身!』と叫びながら散っていってしまった。それを見ていた年長さんは『先生!そこはいたくないの?』と心配してくれる。

第2話  それは栗ご飯を食べる日であった。私の役割は毎年そうなのだが味噌汁当番で、その具材は決まって豆腐とワカメである。200人もの味噌汁を作るのであるから、味加減を整えるのに私が選ばれているわけだ。私の舌が肥えているからではなく、あんなに大きい鍋で作る味加減は度胸がないとできないだろう。まあどうでもいいやと言う、半ばどうにでもなれというような気構えがないと対処できない。それで私が責任をとってやるわけだが、今までに失敗したことはない。庭で火を燃やして、そこに鍋をかけて火の当番をしていると、かわるがわる各クラスごとに『先生ありがとうございます』を言いに来る。

やはりまた年少さんだが、ピョコンピョコンとお辞儀をしながら『ありがとうございます』を言ってくる。そんな子どもたちに『先生の作る味噌汁はおいしすぎてほっぺが落ちちゃうよ』と行ったらきょとんとしている。すかさず一緒にいる保育者がそれを優しく話をしてあげると、真剣な顔をしてほとんどの子が頬を両手で押さえていた。保育室へ入ると、『ほっぺたが落ちたらどうする?』と真顔で話している。『大丈夫だよあとでさ、ガムテープでくっつければ』と言うものもいるけれども、いざ食事になったら頬を抑えながら食べる子も何人かいた。

中学校ができる!

2005年に卒園した子どもたちとの約束がいよいよ果たすことができる。卒園式の時に『小学校を作って!』と哀願する子どもたちにほだされて、約束したのが『小学校も中学校も作る』と勢いあまって言ってしまった約束であるけれども、その当時の子どもたちはとっくの昔に忘れてしまっているだろう。相手が子どもだからといっても、約束は約束で守るためにあるものだ。思いは思い続けることで実現できるという見本みたいなものだ。やろうとしていることへの絶対的な価値観を持ち続ければ、おのずと他に対しても説得力が生まれるだろうし、共感も得られる。

しかし最初の想いは一人だが、想いを同じにする何人かの仲間がいないと出来ない。実現までには多くの人の力や知恵が必要になってくる。そうなって来ると同時に良質な仲間が必要になって来る。仲間は切磋琢磨出来る仲間がいい。その仲間を追いつけ追い越せして、自分を磨いていき仲間の幸せを考えてあげられるようになったら、最高の人間になるだろう。わが子にはどんな仲間がいるのだろうか。

文科省が平成28年度4月から新たに教育基本法第1条の『学校とは』というところの学校種に『小中学校』という小学校と、中学校を合体させた一貫教育学校が新設される。この学校種に移行する教育機関は新たなカリキュラムに取り組まなければならない。今までの6・3制を自由に解体することが出来る。何もしないで移行するのでは意味がないから、そのような学校は移行はしない。わが校のカリキュラムは当然見直しをすることになるので、教職員にはこれからの奮闘をお願いしたい。発達に見合った制度にするので、新教育ではなく『真教育』にするつもりだ。

最近土曜日に休む子が多い。病気というのであれば仕方のないことであるが、そうでない場合があるらしい。公立は土曜日が休みだが、わが校はきちんとした教育を行う時数に数えられている。しかも土曜日は子どもの内面を自分たちで創作する集会がある。これは学校の目玉としてとても大切にしているもので、あまりそのことに重きを置かない行為というのは看過することはできない。学校は授業料さえ納めれば何をやってもよいような安っぽいものではないし、商業的感覚でいる教職員は誰一人としていない。義務教育期間は学年を問わず、何処の学校へ移ろうと、要請があればあるがままの内申書をお送りしなければならないので、学校行事を軽んじているようでは論外である。

今日お父様たちが来て戴いて登り棒の修理をして戴いた。青竹が目に飛び込んでくる。ずいぶん頑丈に作られたと思う。もっとも自分たちの子が、この棒を渡ったりするのだと思うと、作りながら点検しているのだろうから、登って安全安心だ。子どもたちのために、ありがとうございます。

学業の進度

初等学部の子たちは、自ら進んで学習する内発的な土壌を持っている。また自らやろうとしなければ、どれだけ素晴らしい教師をつけても成績は上がらないだろう。私が校長になってから学習方法のスタンスは変わってはいない。理詰めで、ドリル漬けの学習方法は一度もとったことはないし、強力なやらせの方法もとったことはない。だからどのような子にも無理はないので、子どもたちは伸び伸びとしている。しかし進度を気にする保護者もおられることは存じ上げている。でもよく考えてみてください。そんな子が並木や茗渓や江戸川に合格するのでしょうか。ねじり鉢巻きをさせてむきになってやらせたことなど一度もないのだ。

勿論文科省から戴く教科書の他の教材も使っているけれども、わが校は最初に入学して来る時にお話したように、2年生までは宿題も出さないし、幼稚園の年長さんの延長のように考えていて、まずは仲間と関わり方を学ぶことが重要であると考えている。だから他の学校と比べて見るとかなり遅いのではないかと思われる保護者もいるかもしれませんが、ゆっくりと内在されたものが噴き出してくるのは時間の問題で、5年生の2学期ごろになると公立の学校よりかなり先に行ってしまう。これがよいなどとは思っていませんが、普通にやっていても年間時数が多いので与えられた教科書は終わってしまうのが実情です。

私は幼児教育と同じように、学校教育もプロにならなければならないと決心して、多くの教育書を読み、教育の理念や、偉人伝なども読み漁り、どのような教育の方法がベストに近いのかを常に考えてきました。基本は幼児教育と同じように『子供を幸せにするために教育がある』という考え方に変わりはありません。子どもを中心に置く学校生活を目指しております。だから私は、この学校へ来ると進学指導について『何処へ行けます』などと詐欺のようなことは言った覚えはありません。そもそも勉強して難関中学校へ進めたのは、本人の努力のせいで、学校の指導力のおかげではありません。

本人の努力に惜しみない拍手を送り、より良い人生の在り方についてのアドバイスは勿論いたします。目的もなくただお金持ちになるために医者になりたいとか、弁護士になりたいなどは無意味な話で、そのために勉強するのではなく、まず言いたいのは、内発的動機が必要であり、目標を持つことが大切であると言うことです。お金はいくら自分の蔵にため込んでも、生活に必要以外のお金は外にまいてこそ役に立つというものだ。ためるより何に使うかを考えられるようになった方が、将来性はあると確信している。お金があったら何に使うか、こんな話し合いも面白いのではないか。

学校というところ

小学校も高学年になってくると、『何故勉強をしなければならないの』という素朴な疑問を抱くようになる。何のために学校があるのという疑問に大人が答えるのと同じだと思う。何故山に登るのかとの答えのようでは納得させることは難しい。明治維新後しかも1872年という維新後間もなく学制が公布されて、なぜ至急に学校を作る必要があったのか。それは維新政府が欧州使節団(岩倉使節団)を出して、先進国を視察して外国列強国の産業や軍隊を見て回って、驚愕の体で帰ってきたことに由来している。

まず産業復興ということよりも、強い軍隊を作らねばならないということが頭にあったようだ。それは奴隷や植民地を見て回ったことで、やがて日本もこうなるのではないかという恐れから、近代兵器を整えその仕様書を同じように理解して使えるようにするために、その伝達方法として教育があったのだ。だから個人の興味を満足させるために教育があったのではなく、教育はすべて国家に帰属するものであった。その当時国外留学をした多くの学士は、国家の威信をかけて勉学に励んだ。だから慣れない生活にも侍魂を発揮して歯を食いしばって頑張ったらしい。

富国強兵政策とは当時の国家には必要であったのだ。その教育理念が現在でも生きていることが、少しずつだが改められようとしている。1900年に4年生の尋常小学校が施行されてから1世紀を過ぎたにもかかわらず、いまだに受験感覚が、富国強兵時代と同じかあるいはそれ以上に熱くなっているような、学校のまたは社会の体制がこれも欧米並みに、自由な学びを奨励できるようにとされている。2020年から現在の受験体制をガラッと変えるようだ。東大の総長と前文部科学大臣が言うのだから間違いがないだろう。人間を苦しめる様な受験ではなく、希望に満ちた大学制度にしなければならないだろう。

日々の学習が、自分自身を磨いていくのだということに気がつくような、学校の在り方が子どもたちを救っていくことになるだろう。もっと言うならば、学習によって自分に磨きがかかったというような、検証可能なことが学校生活の中にあるということが必要だろう。学習することは大切なことだ。しかし学校で起こるペーパー試験で常に満点をとったと仮定しても、それだけではその人の全人格的なものに磨きがかかったとはいえないだろう。薄っぺらな学校の教科書を丸暗記したところで、それがその子の幸せへの最短距離であるとは到底思えない。そのようなことを、ぜひとも共通の理解として保護者と共有したいというのが、私の切なる願いであります。

また学校や幼稚園というところは、不特定多数のご家庭のお子様が来られるところで、家庭での子育て観も子ども観も違うでしょうし、なかなか一つにまとまってというのは難しいものです。何か子ども同士でいざこざがあったり小競り合いがあったりしますと、『うちの子は悪くない』と保護者は主張したくなります。それは間違っておりません。悪くはありません。しかし同時に相手の子も悪い子ではありません。子どもたちの間で起きたことについては、大人たちがもっと寛容に長い目で見ていただけますと、子どもの世界はもっと広がるのではないかと思います。

修学旅行 京都

かつては年に一回は京都へ行ったことがある。青年会議所現役のころだ。30年前にもなる。その間幼稚園の集まりで行ったことがあるくらいだ。グアム旅行のときだって一泊して帰ってきたのに国内旅行で行けないことはない。
      
銀閣というところへ泊ったが、修学旅行用の宿であった。上は夜の食事である。
      
食事前と食事中である。牛肉と海老フライを交換して食べていた人もいた。
      
なぜか食が進まないのでどうしたのかと聞いてみたら、途中で何かうまいものを食べてきたらしい。それでも夕食はお腹が張るほど食べたようだ。
      
京都は『ニシンそば』を食べないと、ということで京都駅の中に入りそばを食べるが、お腹がきついということで4人で一つを食べたグループと一人一つを食べたグループに分かれた。駅の階段のイルミネーションがきれいだった。
      
京都駅前で夜の散策である。引率の教師も子どもたちに同化しているようだった。
      
あくる日の朝食、私を待って制服に着替え正座していた。可愛いものだ。
      
第2日目の始まりの朝。旅館『銀閣』を後にして次の目的地へ行くために勢ぞろいをした。子どもたちは全く疲れを知らない。
      
京都駅について、それぞれに切符を渡している引率者。残念ながら私はここで子どもたちと別れて、楽しい思い出をと願いながら後ろ髪をひかれながら一路学校へ向かった。何とも忙しい日であった。

大切にしなければならないもの

ペスタロッチに感化されたフレーベルは世界で初めて幼稚園を作った。その名は『キンダ‐ガーデン』である。子どもたちの庭とも、花園とも訳されている。その前にも幼児施設というのはあったらしいけれども、フレーベルの功績が大きく、幼稚園はその時に名付けられたままの『キンダーガーデン』と言っている。『花園』といった昔の人に心から敬意を表したい。幼稚園が肥沃な土壌でなければならないことを示唆しているのではないか。幼稚園もそうであるけれども、子ども自体が肥沃な土壌である。何をそこに植えようとしているのか、それは大人の責任である。

それは幼児期だけではない。児童期の前期、8歳9歳といったころまでそれは大切なことではないかと私は確信している。その発達は他者批判や他者評価が芽生えてきて、自己評価もできるという発達が確立されるころまで、その土壌は特に大切にされなければならないと思う。そのように育てられた子は、自尊心も高く、物事に前向きであって主体がしっかりと息づいている。小学校3年生か4年生だ。この頃の学習の成績にはあまり神経質になる必要はない。どのような人との関わりをしているのかということを見るようにして、いつも仲間のことの話をし笑い顔が出ていれば心配はない。あとは内燃機関が働いて自走するようになる。

早期知的教育の話が出ていて、議論をしていると賛成派は『できないよりできた方がいいでしょ』ということになる。そして極めつけは大脳生理学を持ってきて、脳の働きが一番盛んなのはこの時期であるというようなことを言う。このような根拠があるということを言われると、大体の人は反論できなくなってしまう。ニューロンとかシナプスの話をされても奥様達には理解できる人はそれほど多くはないだろうから、これに参ってしまう。

確かに脳の働きの曲線を見てみると2歳からグーンと上がってきて7歳から8歳までがピ-クになっているけれども、そのまま何年も続くけれども人によっては下降曲線になる人もいるし、上昇曲線にもなる。能の使い方には使えば使うほどよくなるという説もある。しかも2歳からの上昇曲線は、私が思うのにはドリルをやらせたり学校のまねごとをさせるために上昇するのではなく、これから生きていくためのスキルを学んでいくといったものであるのではないかと思っている。何よりも人間としての感性を磨かなくてはならないだろう。『感じる力』を素晴らしい土壌に植え付けることが何よりも大切だ。小学校低学年も同じことだ。これから京都へ行ってくる。

脱穀

今日は第二幼稚園で3歳児に運動会があった。私はいつものように、ごく普通の顔をしていても保護者の前に出るときには『もっとにこやかに』とか言われる。これは女房だけに言われるなら無視もできるが、最近では私の顔に慣れてきたのか、保育者までもが『もっと笑って』とかいうようになった。しかし今日は朝からそんなことを言う保育者はだれもいなかったし、女房も終始ニコニコ顔でああった。それはそうだろう。あの子たちの笑顔を見て『ブスッ!』としている大人はそうはいない。子どもの顔もそうだけれども、ご両親の顔も素晴らしかった。

みんなの顔がこぼれそうな笑顔で、至福を感じるひと時であった。それはそれでよかったけれども、昨日の初等学部の脱穀で、ずっと立ちつくしてやっていたもので、腰や足の筋肉が硬直してしまったのか痛くて仕方がなかった。やっているときには無理してやっているなどの意識は全くなくて、ちょっと疲れてきたら教師に代わるというようにしていたけれども、朝起きるときには這う様にして起きた。年寄りの痛みは、すぐにやってこないから用心しないと大変なことになる。それにしても初等学部の教諭たちと投光器を点けながらの脱穀だったけれども、よくやるなと思う。経験があるのは私と事務長だけなのに頑張った一日だった。


今の子どもたちは毎日白いご飯を食べているけれども、田植えをして稲穂が実ったあとのことは殆ど知らないと思う。籾摺りや玄米を白米にする精米などのことは知らない子の方が多いだろう。知らなくても現在の大学受験にはあまり関係がないかもしれないが、実はこれからの受験はそうはいかなくなるのではないかと思う。田植えから白米になるまでの過程を知っているということではなくて、その過程で起こる自分の心の動きが様々な科学の芽を育てることになるのだ。受験のためのドリルをいくら消化したところで、総合的な体験的学習には遠く及ばない。

愛おしきもの

第二幼稚園の1週間遅れの運動会があった。昨日の夜からと今日の朝方は18日にやった方が確実性が高いということで、日曜日にやろうとほぼ決めていたけれど、雨雲の予想通過を見てみると、かろうじてつくばの上は通らないだろうということでゴーサインを出した。1週間遅れだけでもがっかりしている子どもたちだし、お手伝いの6年生にしてもそれぞれに予定を組んでいるかもわからないし、お仕事をなさっているご両親にしても予定がくるってしまうことは極力避けたいという気持ちもあった。

子ども達にとっては雨だろうがなんだろうがやりたいときにはやりたいものだ。大人が駄目というから渋々承諾しなければならないだけの話である。子どもが生まれてから這い這いをし、立ったり座ったりするようになると、いよいよ歩き出す。「立てば歩めよの親ごころ」である。歩き出すと視野が広がり、手に触ったものについては口に持って行って確かめようとする。知識を得たいという原型の本能である探究心が働き出す。腕や足がプクプくしていて、まだ協応性がないから、動作がどうもおぼつかない。しかしどうにもたまんなく可愛い。これ以外に表現の仕方が分からない。

この頃の子は、ベビーシェマと言って顔のパーツがほぼ中央によっていて、黙っていても可愛い顔をしている。それが動き出すようになるから、ご両親や祖父母にとってはぬいぐるみでは表現できない可愛さをすべて持ち合わせているので、どうにもならないくらい可愛い。この時期ならわが子がどうしようが何をしようが、ありのままの姿をすべて抱擁し、寛容に育児ができることでしょう。この気持ちを忘れずにいてほしいものだ。愛おしいもの、それは子どもたちの笑顔だろう。

子どもは育てたようにしか育たないと思うほうが正しいと思う。奇跡は起こらないとみるべきだろう。これからも保護者の皆様とスクラムを組んで子育てに邁進してまいりましょう。今日は子どもの顔と、大人の顔の両方にとても癒された一日でした。お父様方も、朝から駐車場の整理をありがとうございました。とても助かりました。

なんでも計画的に

計画というのは見通しを持つということだから、こうなるはずだという予測を持って出発するのが普通で、どうなるか分からないのは、多分計画とは言わないのだろう。思いつきで動くというのがあるけれど、この『思いつき』というのはうまくいかない場合は周りからヒンシュクを買うけれど、これが当たった時には創造力の豊かな人であるという、おほめの言葉を戴くことになる。幼稚園の行事や運動会の種目、あるいは劇遊びのシチュエイションなどは特にこの突発的な創造力がものをいうときがままある。ねらいは子ども達がどのように食いついてくるかであるけれども、こんなことを考えていると時間を忘れる。

だから『発見』や『発明』には計画性はない。きっかけは思いつきだから、『思いつき』や『ひらめき』をもっと大切にしてやりたい。田んぼを借りたのは思いつきではなく、こうするのだ、ああしたいのだというものはあったけれども、600坪というのが大きすぎた。最初から分かっていた大きさだけれども全部を使うことではなくその中の半分ぐらいと考えていたけれど、水を引くのにそうはいかないということで、借りた分だけ田植えをすることにした。当然あれだけの大きさは私たちの手に負えないので、事務長のお父様に機械を入れてもらって、田植えまで手伝って戴いた。

稲刈りが終わってオダカケをしてある分の稲はこれから脱穀をしなければならないが、あれやこれやと行事や活動が入っていてどうも脱穀まで手が回らないようだ。脱穀用の竹細工はいくつか出来たようだが、自費で脱穀機を買ってしまった。これさえあれば私と事務長とでできる。その間に見物に来た子どもたちにやらせればよいと思っている。やりたがればの話だけれども。これも不確実性の無計画の中の計画である。

初等学部では初めてファミリア活動を観てもらおうと参観日を設けた。最初のころは教師も子どもたちも戸惑うところが見えたけれども、今では高学年と低学年のペアがうまく行っていて、それらが低学年の学習になっているし、高学年はファミリアの活動そのものに理解を深めたいという意欲が出て来たので、これが学習意欲につながっていくことを強く願っている。学習のためにファミリアがあるのではなく、学習そのものが生きるためのスキルであることに気づいてくれれば、もっと面白くなる

幼稚園は遠足の日

幼稚園は大洗水族館へ遠足の予定であったけれども、延期の決定をした。この雨だとバスの乗り降りでバスまで歩く親子では大変だ。雨で視界が悪いし、事故でもあったら大変なことになる。大体事故というのは油断してなることもあるけれども、細心の注意をしていても起きるときには起きてしまう。不運としか言いようがない時もある。それが自分のところで起きてしまっては泣くにも泣けない。『君子危うきに近寄らず』がよいけれど、『虎穴に入らずんば虎児を得ず』という諺もあるから、判断する場合の深い思慮が大切だ。たかだか遠足のことでと思うことなかれ、総合的に判断すれば今日は延期にしたことはベストである。

親子で食べる昼食についても、1000人近い人たちが一堂に食べられる屋根のあるところはなく、いつも外のデッキのところで食べるので、雨が降っていたのではその場所は使えない。一番肝心な子どもたちのことだけれども、残念がっている様子もなく、私が行ったときにはこちらから言い出さないと遠足の話は出て来なかった。子どもたちの柔軟な対応によって、次の新しい楽しいものを探し出す力に改めて感心する。残念なのは残念だと思う。お母さんと一緒に出かけられるなんて、本当に楽しみにしていたものだ。この次にいっぱい楽しんできてほしい。

初等学部では、5・6年生を中心にして集会委員会でアンケート調査から議題にして欲しい物を選んで、全校集会で決定することを楽しんでいる。『楽しんでいる』という言い方ではよくないけれど、そんな気がする。今回はスキーに行くか行かないかということが議題になったが、これは例年3年生から上の子たちの話だから、1・2年生には直接関係ないが、その話の行く末をじっと聞いている。彼らが決定したことは最大限尊重はするが、お金のかかることを経済力のない彼らが勝手にきめてしまってもよいものなのか。今度はそのことを議論していただきたいものだ。

歴史認識の歪曲だって?

よく韓国や中国共産党が好んで日本向けに発する政治的用語だ。中国共産党とは何度もここで書いているけれど、日本陸軍とは戦っていない。日本陸軍と正面切って戦ったのは蒋介石率いる国民党である。韓国は一緒に連合国側と戦ったのに、対日戦争というのは当てはまらないから、日本からの独立であろう。ロシアなどはまだひどい。日本の広島に原爆が投下されたのち、長崎に原爆が投下された8月9日に、日ソ不可侵条約を一方的に破って満州に攻め入ってきたのだ。そのあとは満州に残された日本兵はシベリアに抑留されてひどい目にあった。兵隊だけではない、民間人まで蹂躙されたのだ。

そして日本が降伏してから、戦わずして北方四島に入ってきて武装解除してしまったのだ。だから日本人は、中国にもソ連とも戦った気がしないのに負けてしまったのだ。ソ連は酷寒のシベリアに日本兵を連れて行って、鉄道建設や住宅建設に従事させたが、日本兵が作った住宅などは丈夫で今も残っているらしい。敗戦国の日本だから、今さら何を言っても原状復帰は難しいだろうけれど、北方四島などは泥棒に持っていかれたようなものだから悔しい。中国も韓国も歴史を歪曲しているのは、あなたたちではないのか。公文書図書館や、かつて日本と戦った国民党が台湾にいるからよく話を聞いてみるとよい。もっとも彼らは、内政がうまくいかないと、国民の注意を日本に向けさせるという手段を使っているだけだけれど。

中国は天津の爆発について、今も毒ガスを作っていたとは言っていないけれども、あそこから出てくる化学物質を集めてみると、さまざまな毒ガスができるらしい。世界で禁じられている化学兵器までできる。国連の調査団を入れたらすぐにわかるものを、中国はそれを拒んでいる。中国も韓国も内政がしっかりしていれば、反日にはなるまいものを。その話はこれくらいにして、何とも憂鬱な今日の雨だ。

晴れやかな日

朝のうちは少し雨上がりのようなどんよりとした雲があったけれども、午後からは2週間ぶりぐらいだろうか、晴れやかな日差しが戻ってきた。日差しには焼けつきそうな強さがあるけれど、曇りよりはすっきりする。田んぼの稲穂もこの日差しを待ちわびていたのだろう、黄金色に光って何か誇らしげに風に揺れている。昨日あたりから、あちこちでコンバインによる稲刈りが始まったようだ。学校の周りや、幼稚園の周りでも稲刈りが始まっている。初等学部の田んぼは、普段の人たちよりも1カ月も遅く田植えをしたから、ゆっくりでいい。子どもたちとゆっくり話し合いながらやろうと思っている。

旭山動物園の園長をしていた小菅正夫さんて言う人の名を覚えていらっしゃる方も大勢いると思いますが、この人が園長になった翌年には旭山動物園創立以来の最低入場者数を記録したそうだ。この人が園長になったからという理由ではなくて、動物園そのものが斜陽であった時の話で、しかも旭川と言えば日本ではマイナス40度以下を記録した酷寒の地である。そこで10年後には、入場者数300万人を超える上野動物園と肩を並べる動物園に仕上げてしまった。これは何もマネジメントを考えて、寝る時間を割いて、懸命に経営に乗り出したなどという出世物語ではないのが、この人の偉大さだと思う。

それはどうしたかと言うと、動物たちの生態をそのまま見せるというもので、夜行性のある動物は夜にみせる。その生態に合わせることによって、動物を虐待から守り自然との調和を図ると言ったことを動物園から発信したことがすごいことなのだ。札幌に生まれた小菅さんは、春はサンショウオ、夏はセミ、秋はバッタを求めて過ごし、捕まえた生き物を一生懸命育てる様な子ども時代を過ごしたらしい。北海道大学の獣医学部を出たのは子ども時代の延長のようなもので、また救えなかった小動物に対して、もっと生きてほしかったという思いがあって獣医学部を選んだとも言っている。幼少期の延長というのは、確かにインパクトがある。

初等学部でもフロー教育を進めるためにファミリア活動を取り入れているけれども、夢中になったものから不思議を発見し、それを追求できるような集中力を蓄えてほしいと願っている。小さい時から道具等を使っているのだから、道具の便利さを体験でき、そのメカニックについて不思議を感じたり、てこの応用や、上下運動が何故回転運動に変わって行くのか、その部品や道具を発見した人に敬意を払うとか、よい方向へ連鎖してほしいものだ。幼稚園では特に『感じる』ことをたくさん日常の生活にちりばめることを話し合っている。これからも保育力を高めてほしい。