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令和元年度の終業式! そして9年前のこと・・・。

今日は令和元年度の最後の登園日。

ホールでは終業式がありました。

園長先生から

「次に来る時は、一つ大きくなっているんだよ!」

「立派な年長さん・年中さんになってください」

「お休み中は風邪をひかないで、また元気で会おう!」

というお話がありました。

22日の日曜日に年長児が卒園してしまったので、

みんなが集まったホールは少し寂しく感じます。

でもそれは大人側の感傷なのでしょうね。

子どもたちは、今日で今のクラスが最後という気持ちがちょっぴりあったとしても、

次は一つ大きくなって年長さん・年中さんになるという思いの方が強いようです。

 

年少のあるクラスでは、転園してしまうお友達に、

みんなで作ったプレゼントを渡していました。

 

年中のクラスでは、来年度のクラスの名札をもらい、目を輝かせていました。

 

そして年中児は来年度自分行く年長クラスに、

自分たちでお道具箱などを運びました。

ちょっと緊張した様子がかわいらしかったです。

4月の始業日にまた元気な笑顔に会えることを楽しみにしています!

 

今年は新型コロナウィルスの影響で、卒園式がクラスごとになり、

ご家庭でも健康管理により気を配っていただいたことで、

欠席者が増加することもありませんでした。

反面、3学期の後半は

なかなかみんなで揃って何かを行うということが難しかったなぁと思います。

そういえば、以前もみんなで集まれない年度末があったことを思い出します・・・。

 

 

これはその年の写真。ちょっと古いものですが、いつのものだと思いますか?

実は東日本大震災の時の園庭です。もう9年が経つんですね。

考えてみると、あの日の幼稚園の記録は文字としてはどこにも残っていません。

なので、今更ではありますが少しですがここに残したいと思います。

時間のある方は読んでみてください。

 

写真に写っている時計の針は、地震発生から約25分後を指しています。

この地震の前。いつもは無いような小さな揺れが1分以上続いたので

「何かいつもとおかしいな・・・」と思い、

全館放送で園庭の中央に避難をするよう指示を出しました。

そして子どもと保育者が避難完了した数分後・・・。

大地の唸りのような轟音とともに、園庭の大きな木が折れるほどの激しい揺れ。

どれだけの間揺れていたのかは分からないのですが、

恐怖とともに「これって現実!?」と思いながら、みんなで身を寄せ合って耐えていました。

子どもたちは何が起こっているのかわからず呆然として、

これからどうなるのか心配な表情をしていました。

 

2度の揺れが収まり、幸い園内でけが人はいないことが確認できました。

その時の写真がこの写真で、3番バスの子たちがバスコースごとに集まっている様子です。

遅れて戻ってきたバスの運転手さんからは、町の悲惨な状況が報告され、

慌てて幼稚園に迎えに来た保護者の方も「家に帰るのが怖い・・・」と言って、

園庭で私たちと一緒に時を過ごしました。

 

それなのに空を見上げると、隣にある自衛隊のCHという大型の双発ヘリが

何基も北へ向かって飛んでいきます。

「ここがこんな目にあっているのに、何で自衛隊は他へ行くんだ!」

その時点では通信手段は全て遮断され、情報が無い中で怒っていたのですが、

駐車場に停めてあった保育者の車から、ワンセグ放送で唯一情報が得られることがわかりました。

そこで先ず分かったのは

「東北の方はもっとひどいらしい・・・。」ということでした。

かなり広域で大規模な地震らしいことがわかり、

とにかく子ども達を無事に帰宅させなくてはという思いでした。

 

かなり遅れて最終バスが出発し、心配で急遽お迎えに来た子ども達も引き渡しが終わりました。

そんな中、兄弟で通園している二人の男の子が残りました。

ご夫婦で都心に出かけたということはわかっているのですが、

どうしても連絡が取れませんでした。

電気がないので固定電話が使えず、まだガラケーの時代で通信網の整備もまだまだの頃。

きっと連絡手段も無く帰る手立てもなく困っていたと思います。

状況が分からないまま日が暮れてきて、

その兄弟も不安そうに待っていました。

 

実は、そのお父さんはおやじ倶楽部に参加していた方で、

後で分かったことですが、たまたま私の携帯番号を知っていたらしいのです。

夕方5時過ぎにかかってきた携帯電話に出てみると、

園に残っている兄弟のお父さんでした。

何時間もかけてようやくつながったということでした。

 

今日は戻れそうにないということ、アパートの隣の部屋に同じ学年の友達一家が住んでいるので、

そちらに預けてほしいということでした。

とにかく連絡がつき、兄弟も少し安心したようでした。

 

先生たちを帰宅させて、暗くなった5時半過ぎに出発。目的地は土浦駅前近くのアパートです。

しかし走り出して分かりました。電気が途絶えているため全ての信号は点いておらず、

街灯も住宅の光もない・・・。自動車のヘッドライトだけの世界。

園の中にいるだけでは分からなかったまさに非常時でした。

道には車が溢れ、大きな交差点は右折左折・直進、

そして合流など様々な車の動きや出入りがありました。

「これで本当に送り届けることができるのだろうか?」

そんな不安を感じながら運転していたのを覚えています。

4車線ある大きな通りを横切るのはとても大変でしたが、

信号が無くても互いに譲り合い、間を開けて、

どの方向へ行く車も少しずつ前へ進むことが出来ました。

今にして思えば、我先にという思いで混乱することなく、

信号の消えた大きな交差点をじわりじわりと譲り合って進んでいくあの場面は、

非常時にでも節度・抑制のある行動ができるという日本人のすばらしさを感じずにはいられない場面でした。

子ども達を乗せているので、悲惨な報道がされているであろうラジオはつけず、

時に安心できるような声掛けや励まし、時に黙々とした時間も流れ・・・。

年長のお兄ちゃんに家の場所を教えてもらいながら、

土浦駅近くのアパートに着いた時には出発から2時間が過ぎていました。

大きな通りを外れると、シーンとして人がいるかどうかわからないような街の空気です。

暗闇の中、子どもに教えてもらって隣の方の扉を叩くと、

少し時間があった後に玄関が空きました。

隣の子のお母さんが迎えてくれて、目に涙を浮かべて「良かった・・・」

と無事到着したことを喜んでくださいました。家の中は真っ暗で、奥にロウソクの灯りがポツンと光っていました。

とにかく無事送り届けてホッとしたのですが、その帰路のことはほとんど覚えていません。

ただ、夜遅くに電気が回復し室内灯が点いた時の眩しさはよく覚えています。

 

そして翌朝。テレビを点けて目にしたのは、

日本のこととは到底思えないような大津波に飲み込まれる家々の映像でした。

このあたりでも食料やガソリンが手に入らず苦労をしましたが、

幼稚園は数日の休園・自由登園を経て再開。

 

しかし福島第一原発の事故による放射能の被ばくを案じ、

多くのご家族、あるいは子どもたちが西へ、県外へと避難されてしまいました。

子ども達、特に年長児は残り少ない仲間との時間が奪われてしまいました。

当然卒園式の座席も歯が抜けたようにあちこち空席があり、

年中少児の終業式もいつもより少ない人数で行われました。

 

あの頃と単純に比較できる質のものではありませんが、

今年はウィルスという病原体に影響されながらも、

形を変えた卒園式に誰一人欠けることなく参加でき、

みんなで卒園することが出来ました。

そして終業式も通常に終えることができたことは、

子ども達にとっても私たち保育者にとっても幸せなことであり、

ひとえに保護者の皆様の体調管理のお陰と感謝しています。

ウィルスの拡散はまだ終息していませんが、

来年度も、子ども達が日々楽しさを感じ、仲間と共に生活する喜び、

充実感をたくさん感じられる1年になることを心から祈ります。

今年1年間ありがとうございました!