初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2017年6月の記事一覧

子どもたちが自治する学校

小中学校では昨日ミーティングあった。テーマーは『給食の時間を短縮したい』ということだそうだ。ランチルームに行くと様々な意見のあったことが白板に書かれている。中には給食前の授業を早く終わらせるなんて言うのがある。子どもらしい率直な意見だろうが、まさかこれは通らないだろう。非常に建設的な意見が多くて驚いた。素晴らしい学校になりつつあるけれど、大多数の保護者は素晴らしいと感激してくれるけれど、建前と本音が見え隠れする。世の中は建前が真実だと私は思っている。

 

給食の始まる少し前の風景で、中央の二人が『お替わり委員会』の委員で、今日のおかわりの回数をみんなに伝える。一番下の写真の手持ちの黒板に書いてある。

 

次の女子二人は、昨日のミーティングの結果を皆さんに報告している。『今日はいつもより早く食事の用意ができましたので、明日も頑張りましょう』ということだった。自発的な報告であって、だれがするとかいうのは決まっていないそうだ。自分たちの生活の場であることが意識としても定着している。

その次は男子児童一人で食後の授業の集まり場所をみんなに報告しているようだ。教師が頼んだわけでもない。それが終わって食事当番の二人の男子生徒が『いただきます』をやる。結構セレモニーが長いので給食の時間がとられてしまうのではないか。こんなことを言うと子どもたちに叱られてしまうだろうな。

色々あった

毎日が色々なことがある。幼稚園に行けば一人一人の躍動した人生の『今』があるし、学校へ来れば、小中学生と言う年齢差の大きな仲間たちがいる。この子たちが日々織りなす風景というものは、定点観測のように子どもを見ていたら、多分そこを離れなくなってしまうだろう。今日は年中さんが初等学部へ来てオアシスへ入っていった。隣のクジラ川にも入ってカヤックに乗っていった。キャーキャーととても楽しそうであった。楽しさというのは大人と趣を異にするからな。

 

午後3時に業者さんが来て、中学生の夏の制服になるスカートの生地を持ってきてくれた。小学生を交えて大人顔負けの真剣な顔・顔。

 

みんな一致した好みが見つかってよかった。ちょっと高校生のようなタータンチェックのスカートの柄がいいらしい。即断即決だから気合が入っている。

  

主体がスカートの中に入っているので、真剣なとてもいい顔をしている。職員室で行っているのだけれど、教師も子ども達も一つになれる瞬間でもある。女子生徒はああでもないこうでもないと沈思黙考しているときに、その後ろを通って行った男子生徒が鼻歌交じりに歌っている曲は、『モーモタロサンももたろさん』だ。楽しい子どもたちだ。

清流の魚は息苦しい

誰もが正義であるなどとは最初から思っていないし、マスコミのバカ騒ぎにもくみしようとは思わない。しかし世の中中庸な部分があって、その辺で生きて行こうと思っているが、その中庸な幅がどの辺りにあるのかよく分からない。昨今の都議会の選挙にしても、爆発的な支持をえているものが必ずしも正義ではない。むしろ政治家の正義などあてにしてはいけない。そして正義づらしたマスコミも同類である。世の中に権力や差別がある限り純粋な正義などあるはずがないのだ。私自身が正義だなどと毛頭言うつもりはないが、今は少なくともそれに近い生き方をしたいと努力している。

獣医学部の新設については、もう10年も前に申請がなされていると聞いたけれど、そうであるならば民主党時代の産物である。その民主党は官僚主導の行政国家から、政治主導にしようと大ナタを振った。政治主導というのは『総理のご威光』があって当たり前ではないか。自民党も昨今の不祥事には情けないが、民進党も軽すぎる。忖度があったとかなかったとか、この社会は忖度で成り立っているのに。

学校の授業には『道徳』と言うのがある。教科書もあって、本屋にも並んでいる。私の机の上にもそれらしき本が何冊かある。私はそれらを読んで感心しながら読んでいるが、生徒の前で『道徳』として教えるのには、自分の人間性からしてためらいがある。どこまで清く話をすればよいのか実際のところわからないのだ。恥じらいがあるのだ。それほど厚顔無恥にはなれない。自分に正直でなければ、どんなに立派なことを言っても子どもたちには伝わらないからだ。

明日はいよいよ制服を作っている業者さんが来て、中学女子のスカートの色を決める。すぐに決まるのかどうか分からないけれど、私と女子生徒の話で、後は誰にも相談していない。『チェックがいい』とか『水色が入っていた方が涼しいよね』とか話をしている。彼女たちは自分でお金を払うわけではないから発想に縛られない。後で悲しませることがないようによく考えて、小学生女子もみんなで納得のいくようにしたいものだ。一応小学生女子にも相談したと言っているけれど。

初等学部のアイドル

国民的なアイドル改め、青葉台的アイドルが今日初めて幼稚園に行って自分たちのダンスをお披露目した。オファがあったわけではない。こちらから押しかけたわけだけれども、その人気ぶりを見て戴きたい。

 

まあ揃ってないところも子どもたちのダンスとしては魅力的だ。

 

カッコよく決めているところ。ここで拍手喝さいが起こる。幼稚園の年長の子どもたちとともに踊り始めたところ。一つになってとても躍動的だ。

 

保護者の方も観に来て戴いた。観る方も踊る方もみんな真剣。帰りには青葉台のアイドルを見送る幼稚園児たち。いつまでも続く。

 

今日は午前中までに二つの公演。ここは第二幼稚園だ。オファがなくても売れっ子は大忙しだ。かつて『スイミー』で人気をはくした舞台である。

 

幼稚園のこどもたちの真剣な眼差しと動作を見てください。

 

ちびっこアイドルたちにちびっこファンが群がる。丁寧に一人ひとりと握手して、お別れの言葉を投げかけている。右側は無事に公演を終えて学校へ帰ってきたアイドルとマネージャーと運転手。

お泊まり会導入

『園長先生はみんなに何を話に来ましたか』と言うと、あおば台では『リヤカー祭りは楽しかったか?じゃない』と言っていた。『お泊まり会の話』と即座に応えたのは第二幼稚園の子だ。どちらの子にしても幼稚園の生活が日常的に一杯詰まっている話だ。心配なことを聞いてみると『ママに会いたくなったらどうするの』というのが多く、『パパに会えなくなるのがさびしい』というのは皆無だ。普段からの母親との密着度がよくあらわれている。会いたくなったらどうするのかという質問の答えとして、『布団の中でママー!と叫んで泣く』と言い、それでは練習をしてみるかというと、だれも乗ってはこない。

お泊まり会というのは子どもたちにとっては一大イベントであって、わくわくもするけれどハラハラドキドキもする。保護者と離れるときには、数は少ないけれどめそめそもする。いろんな感慨が交錯するけれども、始まってしまえば動揺などはどこかに吹っ飛んでしまって、仲間とともに与えられた仕事をしなければならない。飯盒でご飯を炊くのには技が必要だし、レストラン係は創造力が必要だ。それぞれに決まった仲間で助け合いながら一日を過ごす。だからあくる日には自分自身を大きく成長したと感じられる。また保育者がファイヤーストームを盛り上げるのも楽しい。

豊田真由子議員という女性には驚いた。桜蔭女子高校を出て東大へ、そして厚生省のキャリア官僚となりハーバード大学院を出た。俗っぽく言ってみれば、これ以上ない経歴の持ち主ではないか。二児の母親でもある。政治家となりこれまでは順風満帆であったろうに、秘書に暴行を加えてその時の会話が記録されていたので、逃げ道はない。せっかくの経歴も誰も救ってはくれないだろう。何かあるときにはどちらかが一方的に悪いということはないだろうが、このように社会的に重い役割を持っている方がとことん痛めつけられるものだ。この人どのように育てられたのだろうか。

昨日水戸のプラザホテルで橋本昌知事の支援団体代表者会議に行ってきた。20日の日は幼稚園団体の集まりをしたばかりで、いささか疲れ気味であった。広い会場に多くの立ち見のような人もいた。ある程度の選挙の勢力を推し量ることは出来るけれど、まったくそれが外れることがあるから気を引き締めなければならない。あのホテルに詰めるだけ詰めても、投票者数には追い付かないから。壇上での挨拶は自民党批判が相次いで行われた。少し気分が悪くなって外へ出てきれいな空気を吸いに行った。

可愛さ

比較したり比べたりして優越をつけるのは良くないので、比較対象としての比べものではないということを断っておきながら書きたい。幼稚園のすぐ隣に出来た保育所は建物はほぼ完成して、後は建築検査を待つばかりとなった。保育所は0歳児から入れるようにと言うことを言われているが、0歳児は扱いが難しく私には自信がないので、1歳児と2歳児の安全な遊び場として提供したい。0歳児を持つ保護者の皆さんは1歳になるまで自分の懐の中で大切に育ててほしい。その方が子どもにとって幸せだ。

1歳になっても歩けない子がいるが青葉台の保育所は歩けるようになってから預かることになる。家の中で一杯はいはいをして、足腰を強くしてしっかりと歩けるようになってから保育所や幼稚園の仲間たちと遊んだほうがよい。その方が自分の足で遊べる子にとっても、これから自分の足で遊ぶ子にとっても負担がなく、楽しみも増えるはずだ。幼稚園には満3歳児と言うのがいる。3歳児見習いと言うところだけれども、これがまたわけがわからないけれども可愛い。この頃の子は顔のパーツが中央に集まっているベビーシェマと言って子犬のように可愛いものだ。

可愛さには無邪気な可愛さと、少し知恵を付けて人間になりきれない成長過程での可愛さと、大人になって性格の可愛さと言うのがある。まあ何でも可愛ければいいのだけれど、男子を形容するのにはどのようなものがあるのだろうか。可愛い女の子のことばかりだと男子諸君に失礼であろう。しばらく時間をもらって考えよう。ちょっと考えてみると、男子は意気がよくて間が抜けているようなのが後から何とかなりそうな気がする。なんて言っても人に好かれたほうがよい。今日は今から水戸へ行く。

子どもたちの将来を思う

幼稚園では『わくわくの会』で、学校では第1回目の『学校説明会』が行われた。幼稚園の方は大勢の保護者が来るから何の心配もなく保育者の好きなように任せている。色々な趣向を凝らして子どもたちが目を見張るような、もっといたいと感じられるようなものを考え出している。とても創造力の必要なものだ。毎回違ったものを考え出しているので全く感心させられる。

学校説明会は、私は校長を辞めたからほぼ出番はないなと思っていたけれど、出席していて何も話をしないなんてことはあってはならないことと思い、最後に私の話す時間を作って戴いた。保護者の前で一番効果的な話は、卒業生の進路の話で、しかも優秀な中学校や高校にどれだけの子どもたちが行ったかということが一番良いというのを知っている。私のところの子どもたちは、合格した中学校を言えば確かに優秀な子が多い。しかしそれが人生の大きな担保になりうるのかと思うとき、『いやそうではあるまい』ということになってしまう。だからそんな軽々しいことは言ってはならないと思って、学校建設以来封印してある。

そんなことよりも、人柄を醸成されていく過程の子どもたちの生活状況をつぶさに伝えた方が何よりもいいのではないかと思っている。これは子どもたちをよく見ていないと話すことは出来ない。テストの結果だけを言うならたやすいものだ。しかしそこには人生でもっとも大切なものは現れてはいない。例えば中学校や高校での成績やどこの大卒などは、長い人生の中でそれほど重要なことではない。最後の最後まで語られるのは、その人の人柄や生きてきた人生のエピソードである。

昨日のオアシス開きで学校の子どもたちの写真をアップしたけれど、写真に出ている子どもたちばかりではなく、あの写真の中には子どもたちの内面の素直さや真摯な態度が現れているけれども、そんな子どもたちに幸せな人生を送って欲しいと願わずにはいられないではないか。この学校には大きくなった中学生を含めて、あのような子ばかりいる。額に鉢巻きをさせて、難問奇問は必要ないではないか。それは彼らが自走することだ。必ずそうなることを信じている。

学校ではプール開き

幼稚園にお客様が見えると言うので、幼稚園に行ったら目当てにしていたお客様と違って教育実習の大学の先生とお会いすることができた。お話をしている間に、大学の先生が筑波大の大塚の院生出身だと聞いて二度びっくり。大塚の院生というのは私の師匠である杉原一昭先生が生前に『大塚の学生は素晴らしい』と常におっしゃっていたので、特別に印象が深い。何となく他人とは思えない懐かしさと敬意を持つ。一度社会に出て院生になる人たちだから、ただ卒業すればよいというのではなくて、目的意識がはっきりしているから杉原教授もやりがいがあったのでしょう。

 

プール開きのセレモニー。隣のトトロの妹のメイちゃんみたいな可愛い女の子が神妙な顔をして巫女さん役になりきっている。可愛い子でしょ。こんな子ばかりだ。

 

神主はとある教師。『いざなみ いざなぎ』とやる。

 

私の話が終わったら、準備体操をしてオアシスやクジラ川でカヤックに乗って遊ぶ。

 

井戸水でも滅菌機をつけてあるので飲んでも大丈夫。楽しそうな雄叫びをあげている。男児は水鉄砲で女子は水のかけっこ。

幼稚園での生活

初等中等学部の校長を兼任していたときには、最後の最後まで学校に残るので、ゆっくりと幼稚園を見ることが出来なかった。ゆっくりと見ることが出来ないと言うことは、子どもたちとの会話が薄れてしまっていると言うことだ。3月一杯で校長をやめ、以前のように幼稚園に専念することが出来ると、子どもたちの中に入って行く機会も多くなって新しい発見もある。何よりも子どもたちの一直線の真っ黒い瞳で直視されることの心地よさは格別である。こんな子どもたちがやがて大人になって今の社会に入っていくことを考えたら、ちょっと言葉に詰まることがある。

47%の職業が何かに代わって行くと言うのだから、今の大人が考えているようなものではなくそれこそ大地がひっくりかえるようなパラダイムシフトが行われるのであろう。私の職業から考えられることは、2歳児以下の子どもたちには癒し系のロボットが活躍するだろうし、そうなれば現在の保育士減の馬鹿馬鹿しい騒ぎも収まるだろうし、保護者も保育所に入れなかったなどの騒ぎはなくなる。ただし人口減による保育所や幼稚園の閉鎖が頻繁に行われることになるので、希望の園に入れるかは分からない。

馬鹿馬鹿しい騒ぎと言ったのは大都市圏での待機児童の騒ぎが起こった時に、東京の幼稚園協会と話し合いを持って、幼稚園の解放をお願いすればよかった。私は東京都の協会の会長と『幼稚園の一部屋を保育所に貸してやったらどうでしょう』と言うことをお願いしたことがあるが、認定子ども園の定義があいまいであるということと、大人が8時間労働という労働規約があるのに、なぜ子どもたちは11時間も保育所にいるのかということを言われて返す言葉がなかった。この人は国の子ども子育て会議に出ていて、幼児の保育時間について最後まで持論を譲らなかった。立派な方だと思っている。

国の働き方改革だかよく分からないが、母親を家庭から追い出して、子どもと引き裂いた政策には反対である。私が反対をしてもどうにかなるものではないけれども、国は経済的なことばかり考えていて、家庭の中のぬくもりに無頓着である。まだまだ衣食が足りないとでもいうのだろうか。私の子どものころは敗戦の後処理で食うものもなければ、着るものも足らない状態であったが、私は幸せだった。両親のことが誇りだったし、食うものさえあればそれ以上のものを望んだりしなかった。

将来を描きにくい子どもたち

子どもたちの将来を考える時に、まずはその時の国際情勢や日本の政治経済状況、日本の社会状況を当たらずとも予測して方向を定めて教育しなくてはならないだろう。まず近視眼的に考えるならば、AIの進歩によって単純知的労働はすべての分野で人工頭脳が席巻し人間の入る余地はなくなっていくだろう。税理士や家屋調査士、行政書士、司法書士などと言った士業と言われるものは殆どがなくなっていくといわれている。公認会計士もそうだが、歯科医師も満杯状態だと言われている。歯科医師にいたっては現在コンビニの数より多いといわれている。しかし多いだけで不要になるということではない。より競争が激しくなり、維持していくのに大変だ。

ロボット産業やIT関連事業などはこれから日本の産業を引っ張っていくことになるだろう。自分の好きな世界を生きて行くなら科学者がいい。薬の開発か大学の先生になって、新たな何かを発見してほしいものだ。地球の地磁気が反転した時期があったなどの発見は興味深い。どのように反転していったのか、ゆっくりとか、一気にか。南極が北極になるというのだから、その過程を教えてほしい。それが数百万年の間に数回あったというのだから、ここ数年の間にあるかもしれない。木星のようなガス惑星にも引力が存在するのか、そのメカニズムは?。

子どもたちが選ぶ職業は、第一に他のためになるようなものがよい。そのようなものは必ず誰かが応援してくれる。自分のためのものだったら必ず足を引っ張る人が現れる。グローバリズムと言うものを私も推奨して来たけれど、これは絵に描いた餅かもしれない。異文化なものが同化することはできない。だから国境を作ったのではないか。東欧諸国の離合集散の悲しい出来事を見ればわかる。だから英国が離脱したEUにしてもそう遠くない時期に解散の憂き目を見るかもしれない。内憂外患こもごも来たるだけれども、否応なしに子どもたちはこの世界で選択して生きていかなくてはならない。保護者の皆様もじっくりと考えてみてください。

近代史のゴミ

かつて日露戦争の結末で、ロシアが満州に拠点を持っていた遼東半島を日本が占領し(第一次大戦の時のドイツの領土だったかどちらか忘れた)、そのまま日本の領土としたのか無断借用したのかよく知らないけれど、その時三国干渉と言うのがあって日本はそこを即時手放した経緯がある。中国は清と言う国であったが、清国からは何の干渉がなかったのはそこは清国ではなかったことは確かだ。その地はロシアが管理していたり日本が管理していたりで混沌としていてどこの国のものかもはっきりしていなかった。そこを支配していたのは張作霖と言う馬賊と言われているがしっかりとした統治はしていない。張作霖を追い出し、そこに満州国を作ってしまったのは日本の軍部である。

日本はロシアにかったけれども、国は疲弊していて国民も疲れ切っていた。日清日ロと立て続けに戦争をしたものだから、国も兵隊も疲れ切っていた。日ロに勝ったとは言えどもこれ以上戦争を続けられないと言うところまで追い詰められていて、和平交渉を何とかアメリカにお願いした。日露戦争のときに英国に義理があって第一次世界大戦に参加してしまった。その戦利品である格納庫が右籾の補給所にある。ヨーロッパから戦争は始まっているけれど、そのヨーロッパやアメリカが一番恐れていたのが、その当時世界一の陸軍力と恐れられていたロシアであった。

そのロシアに勝ってしまった日本を欧州の列強国やフィリピンに手を出したアメリカなどが日本を放っておくはずがなく、何とか日本の軍事力を縮小させ弱体化させるということを秘密のうちに暗黙の了解事項となってしまった。露骨に手を出してきたのは軍事力の削減である。しかしこれに日本は従ったのである。日本は世界の策略にまんまと引っ掛かって戦争への道を選んでしまった。日本には世界戦略もなければ、情報の蓄積もないから負けるべくして負けてしまった。今は戦争もなければ平和な国になった。

しかし今こそ情報戦には予算をふんだんに使い、二度と戦争はしないという覚悟を新たにするべきだ。国連のどこかの部署から日本のテロ防止法についていちゃもんが入って、政府がそれに反論を加えているらしい。これは中国や韓国のロビーが動いていると見るべきだろう。これも露骨な内政干渉だろうが、思わぬ味方ができたとこ踊りしている野党はもう一度冷静に考えて戴きたい。どこの国の国会議員をしているのかと。この法律ができて困る国はどこの国なのか。日本ではあるまい。

幼稚園教諭や保育士のこと

あおば台幼稚園は認定子ども園になっているから保育所的な役割をも持っている。だから幼稚園教師の免許状と保育士の免許状保持者が混在している。両方の免許を持っている教師が多いのである。第二幼稚園は認定子ども園と言う保育所機能を持った幼稚園ではなく、あくまでも幼稚園であるが、幼児施設の在り方が少しずつ変化している。あおば台で幼稚園が認定子ども園を取得して一体何が変わったのだろうか。第一に保育所機能が追加されたので、保育料の換算が大きく変わってとても複雑になった。第二に保護者の立場が一律ではなくなった。

共働きの夫婦にとっては、奥さんの働き方にもよるけれどもほとんどの方が2号認定と言う認定を受けられることになる。そうすると保育所と全く同じ扱いになって、預かり保育なども無料になったりする。でも保育所よりも保育寮が幼稚園のほうが安いと言う現象も現れてきて、制度としてはよくなったのではないかと思っている。ただ2号認定の保護者は10人しか預かっていないけれども、これで十分だと思っている。その理由は、原形が幼稚園なのだから幼児教育をあおば台のメソッド通りに追求していくには、保育所の形態ではやりにくいということがある。

幼稚園に認定子ども園が誕生したからと言って保育士の数が足りなくなったわけではなく、政府の方針である働き方改革や、経済界全体が人手不足になったことが大きな原因である。建設業界やIT産業界でも人が足りないと言っている。そのうちAI産業が盛んになってくると人余りが現象が起きて、働けるものとそうではない者との格差が大きくクローズアップされる世の中になるだろう。幼児教育はロボットの入る余地はないので、何が何でも人力に頼らなくてはならない。それまで待つことができれば、この業界は将来性のある仕事である。あと10年でそのような社会になるだろう。

どうする幼児教育

保育者の数が足りないという。保育園数の4園に一つの園は保育者不足であるらしい。そうなれば幼稚園教諭の数も減って行くのではないか。今保育所を建てているけれども、保育士が来るかどうかも分からない。多分こないだろうしいないのだろう。養成大学を卒業してもその50パーセントは乳幼児教育に就職しないといわれている。その大きな要因は給料が少ないからだと言われているが、一般の会社の女子社員の給与と比べると30代全般で10万円ぐらいの差があるといわれている。

一般のと言われているけれども、その一般の女子社員はどもの会社を言うのだろうか。一部上場会社のOLの話ではないのか。そんなことを言うなら他の職業でも同じことが言えるだろう。確かに保育界はよく分からないけれども、幼稚園教諭は確かに安い給与であった。国にも県にも現在幼稚園として存続できるのは教師たちの安い給与の犠牲の上にあるということを訴え続けてきた。それでも幼稚園教諭と言うのは保育者になりたいという人であふれていた。採用に困るというのは殆どなかった。

ところが待機児童の問題が膨らみ保育所の数が足りないとなると、当然のことながら保育士需要が増え、派遣業界がそこへ触手を伸ばし、卒業する学生の就職先を迷わす結果になっている。派遣業界の人たちが卒業する学生に登録させてその学生を各幼稚園あるいは保育所に売り込むわけだ。派遣業界はそうして売り込んだ教師あるいは保育士の年収の10から20%の報酬を得ることになる。しかも学生は登録しておくだけで1万円ぐらいの報酬を戴けるらしい。こんなことで幼児教育に磨きがかかるわけがない。

保育者や幼児教育者が『子どもが好きだ』という一念だけで就職してくる時代は遠くに後ずさりしてしまう。教育に拝金主義を計らずも導入してしまうのは、行政の対症療法の結果で先見性が全くない。お金を多くもらいたいというのは否定するものではないけれども、それではいくら欲しいのか。金色夜叉ではないけれど、人間の美徳が薄れてくると、後から来るものは愛憎劇と言う醜い人間の不徳の羞恥に見舞われることになる。そんな世の中つまらないと思いませんか。

田んぼ

毎日のように通る学校への通学路に借りた田んぼがある。田植え時期になると田んぼにある井戸から水をポンプアップして田植えの準備をする。トラックターは畑を耕すのに自前の物として購入した。そうでなければこんなに広い畑を維持することは困難だ。小中ともに人数が満杯であれば人海戦術でもって開拓者のように開墾して畑を整備することができるだろうけれど、仮にそんなことをしていたのでは、社会主義の国の国民のようになってしまう。学校ではなくて収容所のようで気持ちが悪い。

田植えは近所で田植え時期になると活躍するおじさんがいて、田植え機でもって600坪の田んぼに田植えをしてもらう。勿論有料である。しかしトラックターがあるので田植え以前に田んぼの代かきができるので楽である。自分たちの決めた時間にやることができて、田植え前には田んぼの中で運動会みたいなことをして泥んこになって遊ぶ。まるで幼稚園みたいだなどと言う人がいたが、幼児期から義務教育時代の子どもたちにとっては、泥んこは精神的な靄を除去するのにはとても優れた教材である。むしろ都会の子どもたちは、このような自然を得ることができないので不憫である。

田んぼの脇を通るたびに隣の田んぼと違って私の頭髪に似て隙間が目立つ。普通の田植えの時期よりも3週間ぐらい遅いので仕方がないと思いながらも、どうも気になって仕方がない。親が子の成長を願うのと同じことかなと思ったりする。しかしながら稲刈りが近づいたりするとほとんど同じ成長を遂げ、天日で乾かすうちのコメの方がおいしいだろうと思っている。稲刈りの時期になるとまたコンバインを借りなければなるまい。何かと大変だが、衣食住の『食』についての今年のテーマが『米』だから性根を据えてやらなければならない。

リヤカー祭り

あおば台では年長の保育参観で『リヤカー祭り』を行った。年長がリヤカーの免許を取ったので、そのお祝いみたいなものだ。以前はバスから降りてくる年中さんや年少さんをクラスの前までリヤカーで送っていくということをしていたけれど、現在では一つの活動を長々とひきづらないで、活動にメリハリをつけて行こうと言うので、一つのお祭りにして打ち上げとしている。だからと言って、まったくやめてしまうわけではなく、子ども達の中で『やりたい』という声が上がれば、リヤカーは保育者が必ず付いていることを条件に自在に利用できるようにしてある。

子ども達の成長に感極まってしまう母親の姿は見ている者の気持ちも高揚させてしまう。思い入れが一心同体であるという証拠であろうが、いつかわが子を客観的に見なくてはならない時が来る。その時こそ母親は子離れし、子どもが独立宣言をするときなのだろう。そうして一つ上の教育機関に預けるわけだけれども、大切なことは子どもたちの主体を損なわないことだ。どんなに学校の成績が良くても、人が個として独立していなければ、人間として意味がない。自分を生きなければならないのだ。

何も難しいことではない。物事に対して逃げることなく考える力さえつけば、後は主体的に生きられる。私たちが客観的に評価するのではなく、子どもたちがそれで満足しているのかどうかを探ることだ。他人には何も面白くもないのにと映ることも、本人にとっては至上の喜びだったりすることがままあるではないか。リヤカーの免許は自分を獲得するためのほんの一歩に過ぎないけれど、これがやがて大きな強いステイタスを得ることになるだろう。

国は国民を見ていない

学校法人がつまらない。本来神聖で正義であることを要求されるはずのものなのに、森友の小学校建設が下火になってきたと思ったら、今度は大学の学部建設について加計学園がやり玉に挙がっている。いずれにしても現在の総理が絡んでいる話で、全くの潔白であるならば堂々とその潔白性を国民の前に晒さなくてはなるまい。それが国を預かる者の責任である。そしてその潔白が証明されたら、一連の仕掛けをしたものを国家恥辱罪か何かの法律を作って厳正に罰すればよいと思う。そのジャッジをするのは評論家ではなく国民であることを忘れてはならない。

私は国を預かる政党は今のところ自民党しかないと思っているので、安倍総理のこのようなことが毎日国会で議論されていることが情けないと思っている。早めに幕引きをしようとすれば余計に疑惑が深まるだけで、日本国のために良くない。日本を取り巻く国際情勢などを考えてみれば、こんなことに時間をかけなければならない国会を思うと、日本国民は不幸である。誰でもたたけば埃が立つけれども、自らの身をさらすことによって、国民に納得してもらうか、静かにその場を立ち去るかを選択すべきだ。自民党には人材が豊富にいるではないか。

テロ防止法について、内心を処罰してはならないと言うことを盾に反対している野党は一体何処の国の議員なのかと疑いたくなる。政府も一般の人が対象になることはないなどの苦しい言い訳は不要ではないか。これではテロを未然に防ぐことは出来ないではないか。テロが起こって見なければ一般人なのか或いは内心が顕在化された時点でしか処罰ができないのでは、防止策はとれない。これだけあちこちでテロが頻繁に起こっている現状を考えれば、一般人も内心も一応疑ってみなければなるまい。それをさせない勢力は国民の味方ではあるまい。いかがか。

久し振り

今日は月曜日で半日保育であったが、幼稚園に行ったら保育者が背の高い植木屋の職人が使うような脚立に乗って植木の刈り込みをしている。見ていて申し訳ないなと思いながら、「皆よくやるね」と言ったら『もう何でもやらなくては』と言って、全員が植木の手入れをしているという。明日に子ども達とお楽しみがあると言って園庭整備をしているらしい。一人一人の保育者が、先輩保育者の意気込みに感化されて、汗をかきながら頑張っている。素晴らしい保育者に、そして素晴らしい人間性を持った大人として成長するだろう。幸せになってほしいと願わずにいられない。

小中学校へ行ったら、たまたま帰りの時間に出くわしたのだけれども、上級生3人の女子が私に相談があるという。何事かと耳を澄ませて聞いてみると、夏になってスカートの黒では熱を吸収して暑いという。色を変えたらどうでしょうかと言ってきた。『好きなようにやってみたら』と言ったら多分興味を失ってしまうと思い、色を考えて絵を描いてきてほしい。ついでにデザインもできることなら考えてみたらどうだろうと言っておいた。興味のあることをすぐに声に出して実行するというところがとても良い。楽しみが一つ増えた。