初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2017年10月の記事一覧

幼児教育のこと

幼児教育、とりわけ幼稚園教育については、理念や実践において日本の幼児教育は世界に向けて冠たるものだと思っている。幼児教育はフレーベルから始まっているから、そのものまねのような幼稚園があったというのは事実であるけれども、最近の幼児教育は日本の文化に根差した日本独自の幼児教育だと自負している。 もっとも保育形態だけを論じてみると、自由保育や設定保育、一斉保育、選択保育などがあげられるが、これらの原点は何かというと横文字の海外の学者が提案したものが少なくない。

しかしそこから日本人特有のアレンジメントによって、発達心理や発達理解に則した保育形態を創造してきた。中には シュタイナーシューレーによる保育形態もあるし、青空保育と言った家なき保育などもある。これらはメジャーではないが依然としてこれらに固執した保育も息づいている。もともとと言えばルソーの『エミール』か発した子育て論が現代の教育学の原点になっているように私は思っている。社会思想家でもあるルソー は、『子は神の手から出た時は善であり、人間の手に委ねられると悪になる』などの言葉を残してる。

そしてまたルソーは『成長の論理に則して手助けをすることが教育である』と意味深な発言もしている。例えば発達にそぐわない行為は教育ではなく、むしろ子どもたちを壊していってしまうのだということ。このような理論は全日の幼稚園連合会でも十分に理解をし、研究機構から常に発信していることである。しかし依然として小学校の下請けみたいなことをしている幼稚園がある。これはそれを疑いもなく、早めにやることは良いことだと思いたがっている保護者が多いことに由来する。

しかしそう言ったことが、子どもたちの精神をむしばみ、欲求不満をあおり、内向的になるか、運動暴発のように反社会的な行為に及ぶこともある。発達に即しない行為は抑圧と同じであると私は定義している。また、抑圧された人生に良い結果は生まれないと信じている。幼稚園の素晴らしいところと、保育所との違いをこの次に書こう。

運動会は全部終わった

27日に初等中等学部のファミリアオリンピックが終わって、学園の運動会がすべて終了した。幼稚園の運動会はずいぶん待たされて、子どもたちの意識が高まったまま持つのかどうかということがとても気がかりであったけれど、保育者の努力や、ご家庭のご協力もあって子ども達の意識も切れることなく、のびやかに楽 しい運動会となった。今回は緊急的措置として平日に行われたが、幼稚園の運動会は何としても土曜日や日曜日にやりたいと思っている。それでも医者等職業に よっては休めない人がいるけれど、子どもとの思い出に残るのは親子とも運動会や、発表会などの劇遊びだろうと思っている。

平日にもかかわらず、お手伝いをしていただいた保護者の皆様には頭の下がる思いです。ありがとうございました。どこのご家庭の人も、どんなことでも子ども達の運動会を何とかしたいという思いは同じだと思います。親の気持ちに心を動かされます。感謝に堪えません。それにしても、10月ってあんなに長い雨になるんだっけ か?。

ファミリアオリンピックは面白い。まず人数が少ないものだから『お手伝いの保護者の皆さま、こちらに集まってください!』と係の保護者がアナウンスすると、観客席からぞろぞろと保護者が移動して、観客席に残っているのは、おじいさんやおばあさんだけになる。子どもたちはと言えば、 競技に出っぱなしで休憩時間なることがほとんどない。子ども達のことをそんな風に言っていたら、保護者から『保護者もそうです』と言われたが、それがとても和気あいあいとしていて、保護者のみなさんの温かさを感じる。一体感を感じる素晴らしいファミリアオリンピックだった。

運動会二つ

あおば台の年少の運動会と、第二の運動会二つ修了した。長雨に祟(たた)られてしばらく外にも出られなかったのだから、運動会が延期になるのも仕方がない。 それはあおば台だけではなく、その日に予定していたところも沢山あったろうから、私たちと一緒だ。保護者が沢山来ていて、親が近くにいるというだけで、子どもたちの心は躍るものだ。しかも自分の晴れ姿を見に来ているのだから、有頂天になってしまうのも無理からぬことだ。親子で平和な家庭の中ですくすくと育ってほしいと願っている。

ホリエモンが保育士の給料が安いのは、だれにもできる仕事だからだ。とか言ってツイッターか何かが炎上したと いう話を聞いた。それほど保育者の仕事について深く理解をしているとは思えないので、議論をしたいとは思わないが、マルクスのように労働イコール賃金とい うような考えばかりの人とは限るまい。

私は幼稚園が専門なので、幼稚園について言えば30年も前から日本の幼稚園行政は幼稚園教諭の安月給の上に成り立っているということを知事や文科省に訴えてきた。確かにあの当時から給料は安かったと私は思う。それは経営者の知恵が足らなかったのと、幼稚園教師というのはいいところの娘さんで、行儀見習いに奉公に来ているようなものだというような風潮があって、まるで武家屋敷のお嬢さんが幼稚園に働きに来ているというような時代錯誤があった。

それでも幼稚園教諭に憧れる学生が多く、募集の時期には溢れんばかりの応募があった。幼稚園教師になりたいと言う動機はと聞くと決まって『子どもが好きだから』『子どもの中で暮らしたい』とか『幼稚園の時の先生が憧れだった』が定番としてあった。給料がいくらだとか言うことが先に来るような低次元の話ではなく、自分がどう生きたいかということだった。大体この職業に就くときには今でもそういった気高さを持っている保育者が多い。ホリエモンは少し失礼だな。

今日は雨

雨が降りそうな気配が濃厚だったので、今日は運動会を入れなかった。また明日から二日間運動会が続く。雨が降らないことをお祈りしている。中国大陸からの帯状の白い雲が秋雨前線だがこれが途中で切れているので、しばらく晴れが続くだろうが、またしてもフィリピンの東海上で台風22号が発生したという。これが西に向き北上してくると弱弱しい秋雨前線が刺激を受け、またしても活気づく。そうなるとまた雨の日が続いて、弱い地盤などが崩れ落ちるというような被害が発生する。大雨が降ると小高い山のふもとでも危険だから、十分に注意してほしい。

希望の党が惨敗だと言っても、50議席あるのだから惨敗でもないだろう。小池さんの手法『排除する』といった言葉がかなりの不評で負けにつながったと言われている。しかしこれもマスコミの印象操作によるものだ ろう。このようなことをしょっちゅう言われたり書かれたりすれば、もっと誇大解釈して思わぬ方向へ流れることもあるだろう。なぜならば党派を組むには、同志的なものが必要だからそれにそぐわぬ者は排除されてしかるべきである。全く主義思想の違う者が当選だけを狙って党派入りする方が恥ずべき行為だ。

小池さんの知事選での活躍ぶりを見たら、それにあやかろうとする者が寄ってたかって小池氏を取り巻く。そういったことに多少の自惚れがあったのかもしれな い。そのようなことが見え隠れしていたのは確かだろう。それに嫉妬を感じたマスコミは今度は小池たたきをする。確かに希望の党で公認を出すときの顔は非常にこざかしく見えた。これからどうするのかが興味がある。

運動会

第二の年少の運動会ができた。第二の年少の場合は、全く延期もなしで全部外でできた。このところの天候では奇跡に近いことだ。考えて見れば幼稚園児の運動会 だから、それほど毎日のように運動会だけの練習などやる必要はない。オリンピックに出るとか、何かの大会に出るとなれば別の話だけれど、幼稚園の中の身内のお楽しみ会だから、演ずる側も見る側も楽しく時間を過ごすことができればよいと思う。ゆったりと、ゆっくりと慌てずに育てていくことが肝要だろう。

午前中で運動会は終わったが、そのときには日差しがあったけれど、今は空一杯雲で覆われていて今にも雨が降ってもおかしくはない。これからずっと晴天が続くと言っていたのに、気象庁も当てにならない。昔習ったものに観天望気というのがあって、空模様や、昆虫の動きや、空を舞う小鳥の動きで天気予報が出来たということがある。専門学的な話で、例えば風を背に受けて左手を前方斜めに差し出した方角に低気圧があるというバイスバロットの法則などがそうだ。鳥が低く飛んで虫をとっていると、やがて雨が降るというようなこと。

非常に原始的なものだが、昔の人はそうして確実に空模様の予報を出していた。 農家の人なら誰でも知っていたと言う。生きるために覚える学問というものは全く素晴らしいものがある。驚くことは他にもたくさんある。三角定規もないころから、大工さんは直角を出す方法を知っていた。曲線的な屋根などはどうして出来たのだろうか。今でも私たちは不思議の中にいるはずなのに、子どもたちときたら全く不思議がらないのが不思議。家族の会話の中で親が不思議がることをお勧めする。

台風一過

台風が過ぎた後は概して青空が広がるものだ。気持ちのよい秋晴れになったが、昨夜からの雨で園庭や校庭は、でこぼこしているところに水たまりが出来ている。 今週中に幼稚園も小中学校も運動会は終了する。幼稚園の子どもたちは、あまりにも待たされ過ぎたので運動会があると言っても気合が入るのだろうか。秋雨前線や台風などは天災で誰の責任でもないが、日程を組んだ私に責任があるように思えてならない。何とか子供たちに理解してもらいたいものだ。

今日は幼稚園も小中学校も自由登校や自由登園にしたけれど、今日の朝の風の強さを考えたらスクールバスを出すような気には誰もがなれないだろう。早めに決定したけれども、ご家庭の準備もあるだろうから、このような場合は早めの方がよいと思っている。だいたい大雪や台風のときには同じような処置になると思う が、ミサイルのときには休園、休校となる。しかしこの辺の地域は、災害の少ないところだとしみじみ思う。

台風が来てる

あおば台の運動会は非常に残念だけれど延期になった。昨日のうちに延期になることを知らせておいたので、今日は朝から雨が降ってくれないと困るという思いで 外を見た。小雨がぱらつく程度だったけれど、昨日からの雨で園庭は使えるような状態ではなかった。延期の知らせ通りになったのでよかった。これで後の運動会は土日ではなく普段の日に行うことになる。運動会で張り切って登場しようと思っていた保護者には心から『ごめんなさい』を言いたい。この後の日程については順次お伝えいたします。

台風が来てるからこれからは大雨になるのだろう。この際だから何日分でも降ったってかまわない。こんなこと熊本の人たちには叱られるかもしれないけれど、よくもまあ降る雨だ。明日は衆議院の投票日だ。大雨になりそうだから期日前投票を済ませた方がよいとのアナウンスが入ったけれど、私の家の隣が投票所だ。とはいっても投票箱まで行くのには歩いても10分ぐらいかかりそうだけど。

立憲民主党と言うのが出来たけど、現在の社民党とどのように違うのか。日本の国には交戦権がないから、仮に他国が攻めてきたらどうするのか。黙って白旗を上げてしまうのか。そうなった場合に国民はどんな処遇を強いられるのか。絶対にこんなことにはならないだろうと正常性バイアスを掛けてしまうから、危機意識が乏しい。真にリーダーシップを取れる人というのは、危機に直面する前に、話し合いで何とかするなどという無責任なことは言わない。しっかりと準備のできる人だ。

明日はどうなる?

あちら立てればこちら立たずでこの後の日程が決まらない。小中学校の方は、はじめから幼稚園の日程とかぶらないように、日程を苦心して28日にファミリアオリンピックを開催することにしている。このような10月の長雨というのは記録をとり始めてから初めてのことではないだろうか。もとより10月というのは雨が少なくてオリンピック開催も10月に決めたという経緯がある。10月10日の体育の日は半世紀前のオリンピックの開会式だ。雨の日が長くおまけに台風もやってきている。

明日のあおば台の運動会は今のところ決行するつもりでいるけれど、空模様次第では延期もありうる。こんなことでは保護者も困るだろうし、子どもたちに何と伝えればよいのか、はっきりしたことが言えない戸惑いがある。子どもたちの意識を高めて行事を迎えるというのがあおば台の保育の仕方であるけれど、意識を高めていく緊張感が切れてしまうのではないかと心配している。とはいえ、このようにどうにもならないことがあることを、 噛み砕いて子どもたちに伝えることも大事な保育の在り方だ。

明日はまた学校説明会の最終日である。こちらも何としても出なければならな い、というより出たい。第二の運動会は台風の影響があるといのですでに延期は決めてあるものの、明日のあおば台の運動会の空模様が気になる。子どもたちは楽しみにしているのだから、霧雨ぐらいの降雨であればやりたい。

今日はいい天気だが

何日かぶりの晴れになった。しかし正午過ぎにはまた空一面に雲が出てきて太陽を覆いかぶせてしまった。こんな日ばかり続くと子どもたちはストレスをためてしまう。早くすっきりとした天気が続かないかなと真剣になって神様にお願いする。困った時の神頼みというけれど、この際神様でも仏様でもアラーの神でも、ヒンズー教でも何でもいい。私は40年間園長をしているけれど、2週続けて運動会が流れるというのは初めてだ。もっともまだあおば台の方は21日なので雨の 確立は50%になっている。雨さえ降らなければいいのだけれど。

小中学校でも運動会に向けての活動をしていた。幼稚園から、小中の方へ来ると、さすがに子どもたちの動きはダイナミックで、幼稚園の子供たちのあこがれになるだろうなと思う。この子たちが社会に出て、何を楽しみに生きていくのかを確認したい。何のために働いているのかを、どのように考えているのかを聞いてみたい。

今日芋掘りをしたようで、かなりの豊作だったらしい。これから寒くなって、ストーブの上で焼き芋をしたりふかし芋にしたり、餅を焼いたりするのが楽しみだ。子どもたちの人数が少ないからできることで、 幼稚園のように多かったらしょっちゅうはできない。幼稚園の子どもたちは、何か食べ物を上げたりすると『園長先生ダーイ好き』と言ってくれるが、小中は 『ありがとうございます』と礼儀が先に来る。無味乾燥を感じるが、これが発達というものだろう。

雨ばかりよく降る

両園ともに運動会が延期となりました。幼稚園ではこれからの日程を組むのに一苦労であります。延期日まで決めてあったのに、その日もまた雨になりそうです。 秋雨前線が中国大陸から、本州に向けて長く伸びています。おまけにフイリピンの東海上には台風が発生していて、これがまた秋雨前線を刺激して当分の間雨はやみそうにありません。台風が秋雨前線を刺激して、日本に上陸しそうな日は最短で21日ごろだと言われていますので、その周辺の日は雨と言うことになるでしょう。そうなると延期日に用意しておいた運動会がまたも再延期となりますが、どうします?。

どちらの幼稚園でも、子どもたちだけで私に見せてくれる運動会は終了していて、後は保護者の皆様に見て戴きたいと言うことだけです。子どもたちにとってはご両親に見せたいという気持ちが膨らんでいるところだと思います。何としてでも運動会はやるので、この際普段の日になるということも考えられますので、事前に休みを取らなければならない保護者にとっては辛い選択になると思いますが、その時にはご容赦を戴きたいと思います。当然筑波登山は延期もしくは中止と言う風になりますが、お楽しみ遠足と言うことで、ロープウエイかケーブルカーで頂上に行くということも考えられます。

普段の日が運動会になる場合には、バスを出しますので年少さ んは往復とも送迎バスを使い、年中長は行きだけバスに乗り、帰りは親子で降園と言うことになります。そうなりますと、6年生の競技と小学生の競技はすべて なくなり、普段の保育時間内で終了するように進行いたしますので、ご理解とご協力をお願いいたします。

すでに今度の土日は雨で運動会は駄目だろうと思っております。次の月曜日も駄目で、24日は第二の年少の運動会、25日に第二の運動会をし、26日にあおば台の年少の運動会。27日にあおば台の運動会ということで一応の予定とします。28日には初等中等学部のファミリアオリンピックがあります。出席可能な幼稚園の保護者も大歓迎ですので是非ご来校ください。

色々教えることがある

観念的なことを私が思っていたって仕方がない。機会あるごとに子どもたちに伝えていかなければならないことが山ほどある。幼児教育の方法を多くの先生から学ばせていただいたことが今も役に立つ。幼児教育と言うのは、伝える側も伝えられる側もそれが原点であることがよく解ってきた。幼児教育と言うのは、子どもの心を膨らませて上げる教育だから、教科書なんて言うものは必要がない。いわば非認知的な事柄を、心にいっぱい詰め込んで、それが開花するのは多分青年期を過ぎてからだ。

だから小学校でも3年生までは、非認知的な心を膨らませる教育を中心として行っている。それを青葉台ではプライマリーステージと呼んでいる。まさに人生の基礎的な事柄を、仲間ともみ合いながら身につけていく。やがて青春の蹉跌の時代が訪れた時、ため込んだ非認知的な要素がものを言う。それは素晴らしい輝いた感性である。この感性こそが個性と呼ばれるものであり、その人間を表すものである。しかしこの非認知的なものに磨きをかける塾と言うものはない。今ある子どもの感性でもって磨きをかけるのだが、それに気づいている大人がいなければ、ただの石ころにすぎない。

人間には認知的な学習と、非認知的な心の訓練をバランスよく育って行かなければならない。非認知的な心の磨きは良くも悪くも8歳か9歳までに大方の訓練は終了してしまう。自己批判や他者批判ができるような心の発達が育ってくるころには、非認知的な心の育ちの勢いは影を落としてしまう。だからこそ幼少期の教育は重要なので、小学校の認知的学習はタブーであると言われている。先は長い、何も焦ることはない。ゆっくりと大切に育てていこうではないか。

学習意欲は興味・関心から

表題はデューイの言葉であるが、人間が裸で生活していたころから、学習することは始まっていた。きっと不思議なこととか、興味を引くような発見が沢山あった のだろう。知らず知らずに実験を繰り返しその蓄積されたものが文化や文明となった。まず『不思議だ!』と言う発見はどのようにして生まれて来るのか。私は思うに、モノがありふれている現代では『不思議』を探すのに一苦労である。自分で考えなくても答えがすぐに出てしまうから、子どもたちが立ち止まって「探求する」緩やかな時間がない。

それに多くの保護者は教科書に書いてあることをまず暗記して、学校のテストを優秀な成績でクリアして欲しいと願っている。その証拠に子どもたちの時間を大切にしない。何だかんだと理由をつけて塾へ向かわせる。暗記することや教科書に書いてあることを覚えさせることに熱心で、子どもに自由に考えさせる時間を与えない。押し付けばかりで、自由な発想を圧殺してしまう。そんな幼少期を過ごした子が、やがて社会に出て、何か大きなことをするかと言うとそうにはならないだろう。

何だかんだと言っても試験勉強を今からやらせておいた方が勝ちだと、実際にそう思っているなら世の中をとんだ誤解をしている。一流企業に就職できるとか、医者や弁護士になれるとか、そんなことだけの狭い領域で子どもたちを育てたら、結果的にそうなったとしても幸せにはなれない。それは何故か。多くの選択肢から自分を選んでいないからで、人間にはもっと多様な生き方を考えてもいい人生と言うものがある。どんな形でも、他のために生きてみようとする価値観を持った人間の方が、世の中では重宝がられる。

立ち止まって考える動作と言うのは、よく幼稚園で見られる。けしてベルトコンベアーには乗らない、自分の考えたものをやろうとする。ときには保育者の言うことも拒否して、自分の思う通りのことをする。それなのにいつ頃なのか、自分で考えることを辞め、誰かの従属的な考えに染まって、いつしかそれが自分だと自分に言い聞かせ、自分に他人の仮面をかぶせてしまう。そんな人生は幸せではないだろう。私は子どもたちに『自分を生きろ!』と言う。

お粗末な代議士たち

小池都知事の踏み絵にかなわなかった『希望の党』公認希望者は、立憲民主党に鞍替えして公認をもらうらしい。全く持ってこのような理念のしっかりしていない政治家は落選させるべきだろう。国民のための政治家ではないとはっきりと証明してしまっているではないか。サラリーマン政治家がこんなにいるなら政治家の数を減らした方がよい。自民党もまたそのような政治家を批判しているけれど、実は自民党ほど理想政治の幅の広い党も珍しい。自民党は一枚看板のように見えても、理想とするところは右から左と大変な隔たりがある。

だから国民政党だと言っているのかもしれない。国民は多様な考え方を持っているし、それがしょっちゅう変わってしまう。だからと言って総理は、政策に自信があるなら、最後まで政策論争に終始し、野党連合にすり寄るような方針に変えてはならない。そして野党に対してはえげつない批判をしてはならない。

小池新党も、立憲民主党もそう長くは続かない。小池新党は旧民進党の 地盤を引き継いでいるから、ある程度の人たちを当選させられるけれども、立憲民主党は厳しいだろう。結局また空中分解して、新しい野党の枠組みを模索することになる。そうして国民を深い溜息のるつぼに誘ってしまう。政治の混乱は、混乱するだけで、国民を疲れさせる。もっともその国の政治を正しく理解するなら、その国の国民を見ればよいというような言葉があるから、天に唾を吐きだしていることになるけれど。

運動会ごっこ

子どもたちだけの運動会ごっこをやった。子どもたちにとっては本番のようなものだが、年長の毎年の種目にリレーがあるけれど、このリレーは勝ったチームにトロフィーが送られる。手作りで段ボールで作ったものに金紙を張ったものだが、これをもらったチームは心地よいステータスとなって子どもたちの目を輝かせる。だから1点も取れないいつもびりのチームは悲惨な結果になる。最後にリレーがあるので競技の締めくくりみたいなものだ。だからなおさら印象に残るよう なことになる。

全部びりのチームがあった。競技が終わって私の話があるのだが、あまりそのことに重きを置いて話をすると、より以上に傷口がひどくなりそうな気がして、あっさりと『負けても今度は必ず勝てると言う気持ちを持っていれば必ず勝つ時がある。その方法もある。と話したら、後片付け をしているときに、女の子5人ほど私のところへ来て『勝ち方を教えて下さい』と言ってきた。そして『運転手のKさんにも話をした』と言うことを言っていた。今日以前にもすでに勝ち方を教えてもらっていて、練習していたのだ。

このような気持ちのつくり方を学ぶ能力を『非認知能力』と言う。 目に見えない、数値で測れない能力を非認知能力と言い、数学や国語などの試験のように、目に見えて数値化できるものを認知能力と言う。さらに認知していることをどれだけ理解できているのかということをメタ認知と言うらしい。幼児教育でも小中学校でも、人間にとって生きていく基本となるのは非認知能力ではないかと私は思っている。『生きる力』などと言ってもこれは数値化できない。

そして私は、彼女たちの押し寄せてくるような意気込みにのまれ、『バトンタッチとか、そのようなやり方もあるけれど、何よりもあなたたちの今ある気持ちが、リレーで勝つよりも心で勝っている』『これはすごいことだ』と念を押して話したところ、納得したのかどうか分からないけれど『ありがとうございました』とお辞儀をして、くるりと向きを変えて自分のクラスへ駆け足で戻って言った。幼稚園での出来事は、大人たちの手本になる。

30年度園児募集が開始された

両園ともに兄弟のいる子や卒園児の兄弟、または幼稚園と何らかのつながりを持っている保護者は優先枠として9月の最終日に受付を開始する。何らかのつながりというのは、お子様があおば台のクラブに入って保育を受けているという意味で、私とつながりがあってもどうにもならない。もうすでに受付は終了したが、幼稚園探しをしている保護者は大変だ。最初に子どもたちが通う学校は幼稚園だから、私立幼稚園の精神を理解して入園させるのは骨が折れる。

幼稚園には、あおば台のように子どもを中心とした保育形態もあれば、一斉保育のような教師を中心とした保育形態もある。また、保護者が喜びそうな小学校先取り教育みたいな保育形態もある。子ども中心というのは、子どもの主体的な動機を大切にして、保育者が子どもを必要以上に引っ張らない保育とでも言った方がわかりやすいだろうか。この保育は保育者であってもすぐに理解するのは大変そうで、ここで何回か公開保育をしたことがあるけれど、保育者の質問が矢継ぎ早にあった。私たちも保育改革をしたころには大変な思いをした経験がある。

説明会に1日来たぐらいで幼稚園のすべては理解できないのが当たり前だが、入園してから考えると言うのでは、後戻りがうまくいかないのが幼稚園の入園のシステムだ。これは地域の幼稚園との和合や親睦を考えて、あえて決まりを作って逸脱しないように互いを牽制したことから始まる。そのことが保護者にも良いことだと色々考えて全員が合意の上で決められたものだ。その頃は園児数が少なかったのか園児の奪い合いがひどかったような気がする。絶対数は現在の方が少ないはずだけれど。

ワクワクの会とか言うところに 所属している人たちも優先枠としてカウントされた。昨年はやめようと言うことだったが、今年はまた復活したようだ。通常のワクに入れない人たちが困るので はないかとか、閉め切りましたと言ってしまうのはあまりにも無情でないか。断られて親子でとぼとぼと帰る後姿を、平気な顔をして見送ることができるか。いつもこの時期になると受付の保育者を責めてしまう。自分でもどうしようもなくているのに。後ろ姿に手を合わせて謝っています。