初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

保育と教育どう違う?

保育するは幼児期で、教育するはそれ以後の話。文科省が区切っているのは就学前を幼児期、それ以前を乳児期といい、小学生は児童、中学生と高校生は生徒となる。大学にいって初めて学生となる。出世魚のような呼称だが、明治以来この呼び名である。

 

保育は子ども達をいたわることが前提となる。教育だって子ども達をいたわることが前提とならなければならない。子ども達を怒鳴り、机の前に坐って、ある教科書を丸暗記してpaper testで100点取ったからといってそれが何になる。教室で教師の人としての温もりを知り、絆みたいなものを紡いでいく作業こそが人間教育だと思う。

 

教育は「生きる力」を育むというのが文科省。私はもっと能動的でないといけないと思っている。生きる力は、内臓がしっかりとしていれば生きていることはできる。人間として生きるには、「生きていく力」でないとならない。

 

生きていく力は、困難に出会ったときに発揮できる力を言うのだ。保護者が恐いといって、冒険ができなくて、何の教育だと首を傾げたくなる。「はっ!」とするような冒険。例えばターザンのようにロープを握り、木から木に乗り移ったり、そのまま水の中にドボーンと入ってみたりする。あのロープを放すタイミングをはかり、離す時の決断はなんともいえない自己充実感があるものだ。そのような体験が経験となり、ものを判断したり決断したりする要因となることは容易に理解できることだ。

 

幼稚園では年長だけの活動にサバイバルというのがあって、130メートルの直線を往復10回やる。歩いても駆け足でも良いが休んではならない。2.6キロをずっと掛けているのもいる。子ども達が活動に入っている間、私が熱いうどんをつくったり、ご飯を炊いたりしてみんなを待っている。息を切らして一番で入ってくる子もいれば、ゆっくりと歩いている子もいる。しかしだれもおしゃべりなどしていない。自分のペースで自分のようにやっている。しばらくしていると、終わった子の集団が、遅い子のところへいって「がんばれ!頑張れ!」と応援に行く。最後には、私が言わせるのではなく、「みんなができてよかったね」と子ども達が言う。子ども達のやさしさに時々泣かされる。

 

口先だけで「個性を大切に」「皆それぞれに違う」といっても、その実、公立では金太郎飴の如くどこから切っても同じ顔の子ばかり作ろうとしているのが現実だろう。保護者も個性だどうのといっても、周りの子と自分の子を見比べている。自分の子の持っている素晴らしいものを見ようともせず、他の子の素晴らしさと天秤に掛け、足らないことばかりを子どもに押し付ける。これでは子どもの居場所がない。閉じこもってみたり、反社会的になったりもしてみる。それしか道がないじゃないか。

 

サバイバルに戻ろう。かつては私の家の隣ががさやぶであって、そのがさ藪を通り抜けると広い道に出るという場所で行っていた。自分の背丈以上の枯れ草が繁っているところへ、グループごとに手をつなぎ、どこまでもまっすぐ歩き、何かを発見してくるということをしていた。どんな発見をしてくるのか楽しみに待っている。「草が多くて歩きにくかった」「違った草を見つけた」「たまごがあった」などと、光もささないひんやりとしたがさ藪の中で、様々な驚きや発見をしてきた。

 

このように幼稚園では子ども達と共に身近にある冒険をしてきた。今度は初等学部の番だ。しかし先ほど書いたターザンの真似事は、多くの保護者から賛同を得られまいと思う。私の幼稚園の保護者からは、苦々しく思っても私に直接不満を言ってくることはないだろう。来年度の初等学部は、保護者はどう思うか分からないが、冒険大好き初等学部にする。どうぞご理解を賜りたい。