初等学部の校長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

生活発表会が終わった

先週の土曜、日曜で両園の発表会が終わった。インフルエンザが日本中に蔓延しているので、どうなることやら少々の不安があった。その不安が的中したクラスもあれば、まったく心配にならなかったクラスもある。特に第二幼稚園では全園年中と年長のみであるけれど、二人だけの休みであったのには驚きだった。子どもの自然治癒力だけでは病気を防ぐことは難しいので、どうしてもご両親の気遣いが必要になってくる。そう考えると自然に拍手したくなってくる。

あおば台幼稚園の年長のクラスは凄まじかった。7人も欠席者がいたのだから劇がどうなってしまうのか、後は子どもに任せるしかない。幼稚園まできて脇の下に体温計を挟んで涙ぐんでいる子もいた。私が子どもたちの前に出てみんなの顔を見渡すと、みんな無口でじっと私の顔を見ている。彼らは私が何と言うのか言葉を待っているようだったが、私は何とも言いようがないので『みんなで考えて』とだけ言って開幕の用意をしにステージに戻っていったが、そのあとの子供たちの葛藤がすごかった。

7人も休みがいれば7つの役に穴があいてしまうわけだから、それをどうにかして埋めなければならない。一人で何役もやらなければならないが、同じ劇ではそうは行かない。劇の中の女の子の役を男の子がやることになったが、女の子に言葉の指導をされて、男の子は『僕は男だから女の子の言葉は絶対嫌だ』と言って譲らない。女の子は『劇なんだからいいじゃない!』と言って譲らない。とうとう時間切れになって、劇が始まることになった。するとステージに上がってからも劇の中で言い合っている姿があった。何と楽しいではないか。子どもたちのやり取りをここまでじっと見守ってくれる幼稚園は数少ないであろう。

どちらの幼稚園も年中さんは年中さんらしく、年長さんは年長さんらしく、元気によく出来たと思う。ステージに上がって緊張感で泣き出した子も、背中を見せたまま前を向かなかった子も、いつかそのようなことが楽しい思い出となるだろう。そんな子の現象を観るのではなく、内面の心を観てあげようとすれば、ずいぶんよく頑張っているではないか。今度はきっとかっこよい姿を見せてくれるだろう。何も心配はない。最後に遅くまで頑張ってくれた保育者に感謝したい。良くやってくれた、ありがとう。

 

 

ちょっと違うかも

世の中の一般常識みたいなものと、現実は違うと言うようなことがある。まず民主主義と言うものは最高の決議機関だと言う。過半数が全てを制する訳だが、これが最高によい結果をもたらすものだろうか。実はそうではなくて法治国家は裁判官によって下される裁定を採用している訳だが、一応法律を学んだものに採決を委ねている。どちらか白黒つけるときにいちいち国民投票をするわけにはいかないし、そんなことをしていたらその費用だけで国家予算がなくなってしまう。その裁判官を任命するのも国民に委ねられているわけだが、勉強不足でその仕組みがよく解らない。これこそ非民主的であって、法曹界のものでしか理解できないのではないか。

社会の体制を維持していくのには、独裁か全体主義か民主主義の三つしか今のところはない。北朝鮮は独裁国家であるが、そんな国は沢山ある。アラブの産油国は殆どそうだし、ロシアも独裁だろう。かつて全体主義と言われていた社会主義国家も実のところ共産党一党独裁である。今の中国共産党もそうだ。そういう国家には自由がない。そしてわが国は自由と民主主義を標榜している民主主義国家である。どんな国家体制を選んだとしても平等というのはあり得ない。平等というのは、自由と同じで他から与えられるものではなく、自ら他と平等になるために勝ちとるものである。あまり努力もしないでもなれるものと努力してもなれないものとがいるが、だからこの世は不平等なのだ。

マルクスの言った労働者革命(階級闘争)は、まさに人類の平等をうたったものだが、人間が個として独立している以上、それがいくつかの思想の分類に分かれても、決して平等は生まれない。それは人間の個としての尊厳を認めるからであろう。そして人間に欲望と向上意欲がなくならない限り平等などの言葉は生まれない。だから平等は有名無実である。この偽りの言葉で、どれだけ多くの有能で勇気ある革命戦士が命を落としたことか。自由を求める人に平等は死語だし、民主主義を求める人に自由はない。そのようなことを覚悟して生きていかなければならない。

賑やかな子どもたち

いつものように、保育所の1歳児2歳児の保育室へ行くのには年中さんの部屋を通っていく。年中さんの部屋を覗いて、大きな声でややおどけた声で『お・はよー!』とアクセントを加えて挨拶をする。すると、一人の子が『あっ!園長先生だ!』と声を上げると7~8人の子が一斉にわーっと私の体にまとわりつく。その中の一人が私のお腹をさすって、『まん丸で大きい!』と嬉しそうにしている。

私は昨年の10月25日から炭水化物ダイエットというのをやっていて、これまでに5kgほど体重を減らした。その間海外にも二度ほど行ったが、焼きたてのおいしそうなパンにも出会ったが歯を食いしばって食べるのを拒んだ。肉や野菜ばかり食べていても、どうしてもご飯が食べたくなるものだ。私にとっては涙ぐましい努力であるが、子どもはいたって正直なもので、ときにはその結果が悲しくもなる。

私はすかさず『そんなことはないだろホラよく見て』と言ったら『少しへっ込んでいるようにも見える』と返してくれたが、私が言わせているみたいで後味が悪い。こんな小さな子にも『忖度する』気持ちがあるのだ。

劇遊びが盛ん

幼稚園では劇遊びが盛んに行われている。幼稚園での劇は、子どもたちに無理のない楽しさが前面に出るように注意をしながら指導している。今日は第二幼稚園の年長さん劇を観てきたが、一緒に観ている年中や年少の子が目をまん丸にして興味津々の様子。この子たちと、少し話をさせてもらった。支離滅裂で、何を言っているのかよく聞いていないと理解できないこともあるが、総じて言えることは『かわいい』である。そばにいてくれるだけで生命力を分けていただけるような気がする。お子さんのいる家庭は、良いことばかりではあるまいけれど素晴らしい天使と同居しているのだから、元気を出して頑張ってほしい。

勿論初等中等部に来ても同じことが言えるが、このところ初等中等部へは子どもたちがいる間に来れるときがなく寂しい。幼稚園では子どもの顔と名前が一致しないことというより、顔しか覚えていない。初等中等部では顔と名前が見事に一致する。

最近よく思うことだが、人間にとって何の興味もなく、欲望もなく、希望もなく、切磋するものもない状況のときに、一体何が面白くて生きているのだろうと。人生の勝利者とは、よく長生きした人だと聞く。本当にそうだろうか。つい100年前まで人生50年と言われていた。今から考えると短命であるけれども、それは疫病ではなく戦争があったからだろうと思うけれども、そう思うと現代人はすべて人生の勝利者である。いくら長生きしても、考える力もなく、希望もなく、欲望もなければ生きていても息を吸っているだけではないか。私はそんなのは嫌だ。

6年生の進路

6年生を終了すると当然のことながら中学生に進級する。義務教育や小中一貫校ならそのまま中学生に進級できるわけだが、このところ中等教育という中高一貫教育をする学校に人気がある。この辺では名渓中高が最初だと思うが、出来たときには昔の東京教育大学のOBが集まって設立したとあってすごい人気があった。私の先輩のご子息やご令嬢がこぞって試験を受けてそこへ入学したので、いいところの子どもたちが行くところかと思っていたら、しばらくして筑波大学入学者が上位を占めていると聞いて思わず『すごいな!』と思った。しかも医学部も結構いたと聞いて二度びっくりだった。

最近では江戸川取手が小中学校に進出してきて人気があるが、何といっても一番人気があるのは並木中等教育学校だ。東大進学率が高いと言うことであるが、東大進学率の高いのは県内では土浦一高である。次に水戸一高で、今のところ次は江戸川取手だ。いずれ並木中等教育学校が頭角を現してくるだろうが、県内不動の一番は土浦一高だ。何故土浦一校がこれほどまでにレベルが上がったのかと言うと、研究学園に住む科学者集団の子供たちが土浦一高を目指したからにすぎない。おかげで地元の子たちが一高を断念し、二番手の学校を選ぶようになってしまった。

保護者はなんだかんだ言ってもやはり学力重視なのだろうなと改めて思う。青葉台の理念は学力向上は勿論のこと、幸せになる人柄の向上が一番である。高い学力を持ち人柄もよいという人は数多くいるだろうが、『幸せになれる人柄』に絞りたいものだ。自立し自分の人生を自分の頭で考え『幸せへの道』を選択のできる人。なぜならこの世に生を受けた究極の目的は、人がそれぞれに幸せにになるためで、学問もそのためにある。一生懸命勉強しても幸せになれなかったら、何かが間違っている。

 

サバイバル

年初にホームページのレベルアップをするということで工事中になってしまって、年頭のご挨拶ができなかったことをお詫びいたします。私はこのページをアップすることしか出来ないので、何がどのように便利になったのかはよく分からない。何人かの職員がこのために時間をとって研修に行ったのだから、きっとものすごく便利になっているのだろうと思っている。ところがちょっと勝手が違う。昨日サバイバルのことを時間をかけて書いたのに、一時保存にしたら消えてしまって、また書きなおしてもう一度保存にしたらまた消えてしまった。悔しくてしばらくそのままにして、気を取り直して今書き始めたところだ。

サバイバルはそもそも幼稚園の子供たちと、私の自宅に隣接している背の高い草藪のところで度胸試しみたいにして始めたのがきっかけだ。自分の背丈よりも大きな草藪というのは少し不気味だ。仲間と一緒になって手を握り締めながら草藪から出られるところまで歩くというのは、結構度胸のいるものだ。なにしろ一寸先が闇なのだから、みんなで声をひそめながら歩く。仲間の手を握っているけれど、握った手に汗が垂れる。

 それが小学校ができてからは、学校の周りを回る耐久レースのようなものに様変わりしてしまったけれど、幼稚園の子も小学生と一緒にかけるので気合が入る。『はぁはぁ』と息を切らしながらも、目的地を目指して頑張っている。小学生も幼稚園の子たちが頑張っているのに気を抜くことは出来ない。そう言った相乗効果があって楽しく出来た。駆け足から帰ってくると温かいうどんが待っている。小学生の素晴らしいところは終始幼稚園児に気を使って、うどんを食べるときにも、先に譲ってあげるとか、食べ終わるまでじっと見ていてあげるとか大変な気配りである。もともと青葉台の小学生は、生まれがよいのか育ちがよいのか優しい子ばかりだ。

早く食べ終わった順から広い校庭に出て小学生と一緒に遊ぶ。小学生もよく付き合ってくれる。狭い幼稚園の庭ではなくて、馬を買うほど広い小学校敷地だから、十分に遊びも堪能できただろう。丁寧に企画をしてくれた小学校教諭と幼稚園教諭に感謝である。それに小学校の子供たちにも感謝したい。ありがとう。

excitingfestivalつづき

落語があった。2年生の女児と5年生の男児である。どちらも10分ぐらいの話であったが、詰まることもなく台詞を間違えることや忘れるということもなく、最 後まで堂々とやり終えた。何という才能だろうか!。観衆を目の前にしても上がることもなく緊張しているようにも見えない。演じ切った後の顔を見てみると、 場馴れしているわけでもないのに、清々しく涼しい顔をしている。何とも頼もしい子よ。プライマリーの子たちの劇は、基本の筋道の上に何とすべてアドリブ だったという。

小学校に新しく入学してきたときには『可愛い可愛い』で過ごして、何年かすると『うちの子いったいどうなってしまうのだろ うか』と心配になってくる。それはなぜなのだろうか。よその子と比べて何かが劣っていると思うようになってきて、それは何かといつも考えて子供も親も苦し くなってくる。そんなことは分かっている。学業の成績のことなんだろう。学業というのは実に範囲が広いもので、主に教科書の中身をどれだけ理解しているか ということのみに執着している。人間力なんていうものはそれだけではあるまい。

社会人としてのスキルを磨くことが学校教育であって、社会 に通用しない人を何人も卒業させてもほぼ意味はない。スキルというのは、年齢とともにスキルが新しいスキルを生み磨きをかけていく。幼少期は特に感じる力 を育てることに尽きるのではないか。学習の内容でも、ただ暗記をして詰め込んでもあまり意味はないだろう。算数でも補助線をどこに引けばよいのかとか、国 語の文章についても何を感じたのか、歴史を学ぶのでも年号と出来事だけでは歴史を学んだとはいえない。

感じる力、そのような学習が一番だ と思っている。それに賛同して頂けたら、青葉台の教育は素晴らしいではないか。土曜日のフェスティバルをご覧になられた方は、『うちの子には何が足りない のだろうか』などと馬鹿なことは考えないだろう。だれよりも『うちの子は輝いている』と感じたはずだ。落語をやった男子に『落語家に弟子入りしたらどう だ』と言ったら『ぜひお願いします』と言われた。さてどうする?。度胸も頭もよし、私はなれると思う。

AOBADAIexciting festival

青葉台ミュージックフェスティバルが今年から改名して、「AOBADAI-excitingfestival」となった。ミュージックがエキサイトに変わっ ただけのことだが、よく見てみると、出し物の幅が広くなってまさにfestivalというような感じがする。一人残さず子どもたちの笑顔がよい。一人一人 の心が躍動している。生き生きとしていて、自分は生きているというようなことを強く自己主張している。それも一人として残さずだ。学校、子ども、保護者が 一体となっている。感動して何度も目頭が熱くなった。

何度でも子どもたちに拍手を送りたい。基本的に伸び伸びと、堂々と生活を送れないと だめなのではないか。その上で学習もしっかりとやるということならば、その子は素晴らしい人生を送ることができるだろう。学習すると言っても、学習の種類 はたくさんあって、文科が配っている教科書の中身だけではあるまいと思う。要は、何でもいいから自分が興味を持ったことに、飽くなきチャレンジをするとい うことができれば立派な人間になれる。必ずしも学校での成績とは一致しないのではないか。

世の中に出て幸せになれると言うのもまた学校の成績はあまり関係はない。どこの有名大学を出ようが、幸せそうではない人を何人も見ている。多分多くの人がそう見ていることは確かだ。なのにそういった幻 想が根強く残っているのは、子どものせいではなく世の中を形成している大人たちのせいであろう。そのようなことが学校の教師を縛り、子どもたちを縛ってし まう。もっともっと楽しい学校生活を送れるはずなのに、もっと子供たちを自由にしてやりたいと心からそう思う。

勉強しろというけれど

偏差値29から東大合格した杉山奈津子ママが子育てをしていく上で、これだけは絶対に言わないと決めている言葉があります。それは『勉強しなさい』『宿題をしなさい』『予習をしなさい』という勉強関連の言葉で、『宿題は終わったの』という確認の言葉も同様であると言っています。

『心理的リアクタンス』が働いて、『今やろうと思ったのに』と言ってそれに抵抗を示すことになります。人は自分の好きな時に好きなことをしたいと言う考えを持ってい て、何か人から行動を強制されると、自由を脅かされた気がして、圧力に反発しようとする感情が起こります。この自由を奪われることへの反発を『リアクタン ス』と呼びます。電子回路の物理的用語では「抵抗」を言います。心理的リアクタンスは正常に育っている人には当然備わっているものですから、それが反抗的だと見られるのは残念なことです。

またデューク大学のハリスクーパー氏は宿題についての研究者の第一人者でありますが、小学生に宿題を課 すことは成績上何の影響も与えてはいないという衝撃的な研究結果を公表しました。その時間に『よい睡眠』『家族との時間』『遊ぶ時間』もまた子どもにとっ ては重要な要素であり、宿題でこれらの時間を削ってもよい影響は得られないとしています。多数の研究結果を総合的に解析した結果、小学生レベルの子供が行 う宿題に学術的な利益は発見されず、そればかりか子どもに悪い影響をもたらしていることまで判明しています。

幼稚園から小学校への入学は 子どもにとって向学心を深める機会となりますが、宿題をさせることは学習に対する興味を失わせる影響があるとクーパー氏は説明しています。先ほど書いた 『リアクタンス』の増大は子どもたちにやる気をなくさせてしまいます。勉強はやらせるのではなく、自ら取り組むというモチベーションが大切ですが、それに は親に信頼され肯定的な人間に育てることがまず重要なことでしょう。親はことあるごとに褒めることを習慣づけるように心がけることも肝心でしょう。

高いお金を払って塾へ通わせても、親子で批判し合ったりしていたのでは、基本的に子どもは前に向かう動機付けは失せてしまいます。お金の無駄遣いです。楽しい家庭を築いてください。

幼稚園の餅つき大会

二日前に第二幼稚園の餅つき大会が終了し、今日はあおば台幼稚園の餅つき大会だ。

 

お父さんたちが沢山来てくれて、順調に進行していった。普段の筋肉を使わないので会社でのお仕事大丈夫だろうか。

 

行儀よく座っているけれども、幼稚園では整列やキチンとということは教えていない。お父さんたちも一緒につきたてのお餅を頬張る。何とおいしいことか!。

 

お替わりの列。けんちんがおいしかった。とても上品な味だった。