初等学部の校長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

日本周囲で起こること

全くの予想に過ぎないが、北朝鮮の居直りのような強気に出ている背景には、中国との何らかの確約があってのことだ。あくまでも現体制を保障するとトランプは言っているけれども、通常兵器しか持たなくなった北朝鮮は国内向けに説得力を欠く。南北の軍事境界線はどうなるのか。核なき戦争を始めるかもしれないが、そんな時日本はどうするのか。多分ギリギリのところで米国が北朝鮮に攻め入った時、その時は中国が北朝鮮に派兵して米国を食い止めるみたいなことも話し合っているはずだ。そうでなければ一度震えあがった北朝鮮が米国の虎の足を何度も踏みつけられるはずはない。

南北戦争が起こったら韓国の難民は済州島までにして、日本の国内に入れないようにできないだろうか。あの国とは絶交したほうがよい。当然スワップだの漁業協定などはもってのほかで、そのくせ日本の魚は買わないとまだ言っている。友達だって約束を破ったら、その次からはあえなくなるではないか。

それよりも最悪のシナリオが、米国と中国が地上戦でも始めたら日本の国は最前線となる。そうならないようにどちらにも最高の結果をもたらす会談にしてもらいたい。戦争回避には最大限の努力をしてもらいたいし、併せて拉致被害者家族にも最高の喜びを伝えてあげたら最高である。そんな会談を世界が望んでいる。

怪しくなってきた米朝会談

拉致問題などは日本の問題だから日本が率先して行うべきだが、相手がそれには応じようとしない。中国は軍備を増強して米国にならって覇権を唱えようとしている。北朝鮮は中国へ行って、核の全廃は中国自身の米国に対するカードを失うことになることを言葉巧みに伝え、核を撤廃するような素振りを見せつけるだけで、経済制裁から逃れようとしている。中国と北朝鮮は必ず密約があるだろう。北朝鮮は中国にすり寄って米国の脅しを正面から受けて、自分の強さをアピールしているがこの後が大変だ。

米国の外交は恫喝外交で軍艦外交だ。人を説得させるのには愛情と恫喝の二通りしかない。米国のトランプ大統領は主に恫喝を使って相手を説得させるというより屈服させている。力によって相手をねじ伏せているのだが、こんなことは長い歴史を見ればそんなに長くは持たない。どこかにひずみができて誰もが米国の言うことは聞かなくなる。エルサレム問題も無用の危機を生んでいるが、アラブ世界を敵に回すことになるだろう。日本は自分の意志を持たない世界の笑いものになるだろう。このまま米国に従属するのか。

それでは日本はこれからどのように生きていけばよいのか。極端かもしれないが憲法を変えて軍隊を持ち、自分の国は自分で守ることを宣言し、外国軍隊を日本国内から出ていってもらう。これにはどこの国も反対はしないだろう。その上であらゆる国と不戦条約を交わす。不戦条約をするなら軍隊はいらないだろうと思われるが、そうではない。軍隊を持っているから条約が締結できるのだ。今の日本は独立国家ではない。米国という大虎の威を借る狐である。これでは誇り高い子どもが育たない。基本がだめだからすべてが駄目である。空しい限りだ。

米朝会談が空振りに終わったら、その後の日本はどうなるのか。また米国大統領に泣きすがることしかできないではないか。自民党や今の国会議員の責任ばかりではない。日本国民に対しての一番の加害者でもあり被害者は日本国民である。

泥んこ祭り

初等中等学部では田植え前の田んぼに入って泥んこの中で運動会だ。全く楽しいだろうな。もっとも私たちの時代には、別に『泥んこ祭り』とか銘打ってやることはない。毎日がそんなものだから真っ黒になってそれに没頭することが大切で、汚れることに気遣っていたら楽しくない。なかには必ず悪乗りする輩がいて、その場を壊してしまうのが成り行きだが、それも全体的に見れば余興のうちだ。こんなことを高学年になってもやらせてもらえるのはとてもよい。女性は気後れする子が多いけれども、内心頭の中では自分の存在を目で追っている。

土曜日曜日は幼稚園のプレイデイがあって初等中等学部のグランドを貸してもらった。どちらの幼稚園も半日で終わったがとても快適であった。その後は私の講話があって、何を話したのかと言うとこの後小学生になったら幼稚園と違って周りの子供たちの成績やわが子の成績が気になって仕方がなくなる。しかし勉強ができるとかよく学習しているという子は遺伝によることが50%だ。中学3年生の成績は35%が遺伝によるものである。『何故この子は勉強しないの!』などと言って子どもを叱るのは藪蛇だということ。そんな話をした。それに学校の教科の成績のような認知能力よりも、世の中で必要な能力は非認知能力だろうが。ということ。

国会は『モリ・カケ』ばかりで蕎麦屋の宣伝ばかりだ。はっきりとさせない総理に一番責任があるだろうけれど、それしか言えない野党の視野の狭さが気にかかる。北朝鮮が中国へ行って何を話してきたのか、それは核の全面放棄だけは何とか食い止めてくれということだろう。核を失ったら北朝鮮の人民をつなぎとめておく大義がなくなるし体制が持たない。何度も騙されてきたのだから、今度だけはそのようなことがないようにして欲しいものだ。

侍がいない?

侍などというと時代錯誤だなんてお叱りを受けるかもしれないが、国会も官僚もみんな正義や真実とは程遠いところにいる。誠実には野党も与党も生きられないようだ。つまり損得でしか生きる隙間を見いだせないでいる。正邪を説いてみてもナンセンスである。彼らの頭は腐りかけの卵のようで、隣によると腐った卵のにおいがしそうだ。近くでは世界的に注目を浴びている米朝の初めての対話があって、これがこの地域の平和と安定をもたらすかも知れないというのに、国会ではそんな話は全然出て来ない。

それで何かあったら政府与党の責任であると言えばその通りだが、体たらくな野党だから国民も誰も期待はしていないが、国会は1年以上も『盛りかけ』ばかりの話で、この解決こそが国民の幸せにつながるとでも思っているのだろうか。またこの疑惑はすべて総理個人の問題であってこのことによって国会を空転させたりすれば、自民党の責任にしないで総理個人が潔く腹を切らなければならないだろう。

昔の政治家には本当に潔く腹を切ったものがいた。中野正剛と言って『日は東方より出る』とかいって、少しかっこよすぎるけれども、個人が自尊心の塊みたいで、そう言う政治家の集まりだった。現在みたいに隠し通せるものなら隠してしまおうという卑怯な政治家は仲間からも糾弾された。そんな日本ならば『日本に住みたい』と思う国民が増えるだろうけれど、今のままだと国民は政治にそっぽを向いてしまうだろう。尊敬できる侍がいないのだ。

戦争にでもなったら真っ先に逃げ出しそうな政治家ばかりではないか。米国の恫喝外交に何も苦情やいさめるようなことはしない、これでトランプとはうまくいっているようなことを平気で言っていたのではだめだ。日本の国は経済優先ではなくて心のありようを大切にする国家にしなくてはだめだと思う。だから判断の基準が損得になってしまうのだ。何とも嘆かわしいではないか。米朝会談がうまくいかなかったときにはどうするのか。拉致問題はどうなるのか。国会で議論しなければならないことはたくさんある。子どもたちに明るい将来の展望を持たせてあげてほしい。今のままではみんな嘘になる。

徒然草

『徒然草』を書いたのは吉田兼好だったか忘れてしまったけれど、日本のジャーナリストのはしりだと評した評論家もいた。徒然なるがままに世の中を風刺して書きつづったもので、現代文に訳されたものしか読んだことはないけれど、文節がしっかりしていてとても読みやすく、その頃の庶民の生活がよく分かる。肩に力が入っていない。このような人をコラムに参加させたら一気に新聞や週刊誌は売れ行きが良くなるだろう。

あっさりと人の心をつかむような世の中の出来事を書けるなんて天才だろう。だから現代まで息付いているのだろうけれども。そういえば日本の訳者というのはすごい。外国文学を生き返らせたのは日本の訳者だ。ヘッセの詩集『孤独者の音楽』やアンドレジードの『狭き門』数え上げたらきりがないけれど、特に詩集の感性の鋭さにはため息の出るほどの見事さである。日本人の感性に優る民族などいるのだろうか。日本語が素晴らしいのであろう。

久しぶりに土浦青年会議所の青年と一緒に故寛仁親王殿下の宮邸に行ってきた。御所に入ってすぐ右側が秋篠宮邸でそこに眞子様がいらっしゃる。30年も前になるけれど土浦青年会議所が寛仁親王殿下に大変お世話になったころからのお付き合いで、それからづっと続いている。青年会議所は単年度切り替えだけれども、そんな付き合い方をしていたのでは友達をなくす。

帰って来たら初等中等学部の草取りを幼稚園の先生方がやっている。今度の土曜日曜日にプレイデイがあるのでそのための用意であるが、校庭が広いから先生たちも大変だ。本当によくやるよ。

明るいのか暗いのか

子どもを育てていくときに、これからの世の中はどうなっていくのだろうかということをある程度勉強しなければならない。流れに任せるという生き方もあるだろうが、今までのように米ソの冷戦があって、なんとなく自由主義陣営が勝利をおさめ、経済戦争でも自由主義国家が勝利した。その中で、主体を持たず、ただ米国に従っていた日本は、いずれ中国が台頭してきたときには厳しい選択を強いられるだろう。

亡くなられた宇宙物理学者のホーキング博士は『地球の残存期間はこのままでは後100年』と言っているが、その根拠となるのは一体どのようなものであるのか。その肝心なところが書いてなかったのか見過ごしてしまったのか定かではないけれども、無性に知りたいところだが、どこでその記事を読んだのかも忘れてしまった。本当に100年しか持たないとしたらどんなことが考えられるのだろうか。考える余力のない頭をひねってみると、まず地球そのものが巨大な隕石にぶつかって大破してしまってなくなってしまうのか。

宇宙そのものの変化ではなく、地球上で起こる様々な事象によって地球そのものが自らを維持できなくなってしまうのか。例えば第3次世界戦争によって核を持っている国の掟破りによる世界核戦争になって人類が生きられなくなってしまう地球になるのか、その場合には人類は滅亡しても地球は残る。

人類が生きている間は地球太古の昔に帰ることはないだろうが、生きている人が大変だ。この先明るい方向に話をする人が少ないので、自然と暗くなる情報ばかりだ。子どもたちにどのような夢を持ってもらいたいのか。現実と夢をどのようにつなげていけばよいのか。希望をどのように育んでいけばよいのか。

 

すっきりしない

幼稚園も初等中等学部も子どもたちの歓声で華やいでいる。世の中のゴシップばかりの報道には嫌気がさすけれど、子どもたちの世界は別の社会だ。ごく一部ではあると思うけれども、官僚としての公僕であることをわきまえずに、保身と権力へのおもねる姿勢には吐き気がする。政権も自民党でなければならないと思っているけれども、どのような言葉で説得できるのだろうか。多くの人は現政権に嫌気がさしている。そんなことは十分に理解していると思うけれども、代われる存在がいないわけでもないだろうが、潔くない。これで安倍政権が仮に3選を果たすようなことがあるならば、国民を本当に愚弄している証となってしまう。

最高学府を出てきた官僚にしても、国民の公僕であることを今一度国民の前に出て誓約し、個人や権力者におもねることはしないことを誓ってほしいものだ。誰もが聖人君子ではないけれど、ときには聖人君子にならなければならない場合もある。特に子どもたちの前では正義と真実を貫いて欲しい。子どもたちは常に純粋な目で直視しているから、今の大人たちの社会を一部始終白日のもとに晒したならば、子どもたちには夢も希望もなくなる。

そんな官僚の作る待機児童をなくす政策など後手後手に回って、対処療法でしかない。真摯に現場の声を拾おうとしないからだ。

新学期始まる

卒園式を書いたすぐ後に新学期始まるを書くのに少し申し訳ないような気がするけれど、何も書かなかったわけではない。何回かブログの更新を行おうと試みたけれども、以前のものと違うところがあって、長い文章を書いて一時保存すると、時間切れか何かになってしまって、もう一度書きなおさなければならない。何とかそれを直してもらうようにお願いしていたけれども、直ってない。それならそれで時間切れになる予告を出してくれるとよいのだが、それも併せてできていない。便利になると聞いてホームページをいじったのだが、私にとっては何が便利になったのかが分からない。それで結局今まで空欄になってしまったのだ。

幼稚園では両園ともに入園式が終了し、新しい園児たちが幼稚園に来ることになった。年少さんの担任になった保育者に一日の感想を述べてもらうと『何がなんだか分からないうちに一日が過ぎてしまった』ということを異口同音に言っていた。中には『何が起こっているのか整理する間もなくお帰りになってしまった』というのもある。私も両園を見てきたが、可愛いだけではなく、保育者に抱かれて『ママーママーこっちへ来てー!』と泣き叫んでいる子がいる。これは大体男の子に多い。そんなところをビデオに撮っておいて大きくなって親には向かうようになったら見せてあげればいい。そう思っている。幼稚園に慣れるまでは、最近の子はそれほど長くはかからない。

小学校には7人の子が入学したが、これがまた可愛いな。幼稚園の子とは違い、小学校へきたんだと言うステイタスのようなものを感じるし、前にのめり込みそうな力を感じる。それでもみんなで列をなしてクラスからクラスへ行くときや、お帰りのときに担任の教師に連れられてくる様は、まるでオヤガモとコガモのようであって何とも微笑ましい。この子たちが幸せな学校生活と幸せな成長を保障してあげたい。もっともこれは親の協力があってなせることだが共に手を携えてやっていきたいものだ。

 

 

卒園式

あのような心を揺さぶる卒園式を、二日も続けてやると心身ともにくたくたになる。静かに心までも突き刺すような純真な目で私の言葉を聞いている。素晴らしい子どもたちに出会えたことに感謝しなければならないだろう。保護者主催の『ありがとうの会』では保護者のパフォーマンスにぐったりするほどの感動を戴いた。さすがに能ある鷹である。最後に子どもたちが両脇に並んだところの真ん中を歩いて、子どもたちに最後の言葉をかける。いつもの泣かされるシーンだ。両脇の子供に一人づつ握手をしながら『元気でな』『また遊びに来いよ』『5月か6月にはまた会えるからな』とか思いだす言葉を並べてさよならを言う。

私はもう少しで70になる。いったん幼稚園から離れようかなと少しばかり考えていたのだが『小学校行っても頑張れよ』の言葉に『先生も幼稚園頑張ってね』と返された。死ぬまで張り付いていなければならないのかなと考えてしまった。本当に優しい子どもたちばかりで、『あおば台に来てくれてありがとう』というと『幼稚園作ってくれてありがとう』と返してくれる。全てが終わって園庭に出てくると、あるお父さんが『幼稚園の卒園式なのに子どもたちがあんなに泣くなんて』ともらい泣きしていた。

子どもたちと保育者が一体となって生活してきた青葉台の保育も卒園式を持って一応の区切りとなるけれども、最後の最後に行った『立派な年長』の儀式は、生涯にわたって自己肯定感を持つことに役立つことだろう。みんなが自分のよさを認めてくれたんだ。何かあるときには必ずこれを思い出してくれるようにお願いしたい。

もう卒園だ

卒園式のリハをしてきた。子どもたちの張りのある歌声を聴いていると、すぐそこにお別れの卒園式があるなんてことは考えられない。いつになく整然としていて、子どもたちの一生懸命さがひしひしと伝わってくる。少しだけサポートしてあげると、あとはすべて自立してやることができる。いつからこんなに立派になったんだと聞きたくなるくらいだ。このように誰にでも自立して、自分がやるという気概を持っている。そこに親が入ると途端に、できなくなってしまうのは不思議だ。一人ひとりよく育ってくれたと思う。大きな拍手を送りたい。

公文書の書き換えは、総理が昨年の2月17日の国会で『私や妻が何らかの関わりがあったら総理を辞めるし国会議員も辞める』と言った後で、総理の気持ちを忖度して文書の改ざんが始まったと野党は追及している。それではこの1年間の国会は何だったのか。麻生さんも辞める時期を失うと、世間から袋たたきにあって憲政史上に汚点を残すことになるだろう。それでなくとも、今回の財務省の件では評判が良くないのだから。政治家の言っていることが我々の感覚とはあまりにも遊離していて、国民との距離が離れてしまっている。政治家の誰もが責任を取らないで、前理財局長だけにすべての責任をなすりつけるようなことになれば、自民党は大敗するだろう。