初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

原点に戻ろう!Ⅱ

それでどうするのか。認定こども園は私が県の係官と納得した話し合いとだいぶ違うようだ。それもそのはずで、県は認定こども園の認定を急ぐあまり見切り発車してしまったのだ。幼稚園型認定こども園は現在の幼稚園のやり方を踏襲するということを確認したうえで申請をしたにもかかわらず、その後に国の方で子供子育て会議ができて、そこで決められたことを後追いの形で現場が移行していくという大変まれなやり方になってしまった。何を焦ってそうなったのかを考えてみると、行政の待機児童問題のただ一点だけである。

保育行政の中で、幼児期をどうしようかなどと真剣に考えているのは文科省の幼稚園課のみで、政治家を含めてそれ以外には真剣に取り合わない。だから現在幼稚園教諭や保育士に手厚い補助が出ているようだけれども、これは一過性の問題でこの制度ができて5年もすればまた過去に戻ってしまう。そのときにあたふたとしないようにこれから準備をしなければならないだろう。

原点に戻ろうということは、わたくしたちが幼児教育に熱く燃えて寝食を忘れて語り合った時を思い出し、新鮮な気持ちで子供たちの目を見て保育をしていこうということだ。幼稚園教育要領はとても立派なものである。これを理解し現場で共有できる教師のスキルアップを願いあおば台独自の保育をやっていこうとするものだ。だから認定こども園を返上して幼稚園をやっていこうと決心した。

 

原点に戻ろう!!

幼稚園教育要領は、『健康』『環境』『人間関係』『言葉』『表現』の五つの領域に分かれ、この領域を碁盤の目のように上手に編み込んでいく。これをどのように日常の生活に浸透させたらよいのか、保育者が最も苦心する保育力の問題である。まだある。これだけではない。これらを編み込んだ先には何を保育者は狙っているのかという大命題がある。「真摯な態度で学びに向かう力が必ず身についてくるのか」ということである。それだけではない。『人間性は』それでよいのかという自問自答がある。

この幼稚園教育要領が認定こども園に無視されている。いつか私はボウルビーの三歳児神話という話をしたことがある。『幼児教育の精神衛生』という本の中に「母性的養育の喪失は例外なく身体的、知能的、社会的に遅滞し、肉体的精神的不健康の徴候を示す」というのがある。ボウルビー博士の発表後に幼児期の発達が将来に多くの影響を及ぼすという医者からのメッセージが世界中に広まった。日本の平井信義先生が書いた「精神衛生」は幼児教育専門家や発達理解を学ぶ教育者の副読本にもなった。

しかしそれは事実とは異なり「神話に過ぎない」として葬り去ろうとしたのが当時の日本の厚生省で、そこから「三歳児神話」として定着した話だ。ボウルビーという人は、第二次大戦後の荒廃とした焦土にいかにして子供たちが生活をしていくのかということを、WHOから依頼されて欧州を起点として調査した英国人だ。しかし幼児教育者はだれもがこれは事実として神話だと思っている人はいない。現場で発達理解を学んでいる教育者はなおさらのことである。

だから言いたいのであるが、生後3か月になると母親は働いて保育所に預けることができるのが今の法律である。それを盾にとって、母親を家庭から追いやって社会に出すような政策はどうしても容認できない。母体にも影響するであろうし、保育所に預ければ自治体によって異なるけれども0歳児については最低19万円の保育料を保証しなければならない。ならばその分を家庭に還付したらどうなのか。そのほうが子供も家庭も幸せである。

急に保育の現場に補助金をばらまき、いかにも幼児教育に理解を示しているようだけれども、それは事実と違う。手厚い補助だと言っているけれども、やっと普通の生活費が支給されるようになったというのが我々の本音である。今までは保育者の犠牲と保護者の理解と協力によって何とか運営してきただけの話だ。幼児教育には子どもには投票権もないしあまり政治家の票に結びつかないから、政治家の関心もいまいち鈍い。まだまだ書きたいけれど、読む人も私も疲れてきたようだ。

初等中等学部の給食

久しぶりに給食を作った。というのも賄いのおばちゃんが何かの都合で1週間北海道へ行ってしまったから、残ったおばちゃんたちと一緒に焼きそばを作ることになった。これは誰にでもできるし、初等学部には大きな鉄板があって、お好み焼きやら焼きそばなどアウトドアで作る食べ物は殆どできる。焼き物は校長が主体となってへらを使ってやってくれている。この暑いのに汗をびっしょりかいて黙々とへらを動かしているので、教師が授業の合間にかわるがわる来て手伝ってくれているが、校長は微動だにしないでいる。どうも鉄板焼きが好きらしい。

おかわり委員会と言うのがあって、みんなが好きなものを上級生が先におかわりをして食べてしまうから、みんなが平等に食べられるようにという趣旨のもとに小学3年生が主体で委員会が構成されている。しかしよく見てみると、最初の盛り付けだけはみんな平等であるけれど、次のおかわりになるとがぜん中学生男子が早く、小学生低学年はおいてけぼりである。低学年の子供たちと一緒に食べていたので、子どもたちに『おかわりできなくなっちゃうよ』というとにこにこしていてそれには答えてくれない。案の定子どもたちが一杯目が終わるころには中学生は3杯目などというのがいて、到底2杯目が食べられない。それでも子どもたちは不服を言わないで満足しているようである。

ここの子どもたちの発想は鋭角的ではない。最初のころは鋭角的に鋭くぶつかって来た子もいたけれど、見ていても見ぬ振りして子どもたちが自ら気付いてくれるまで待っていた。幼稚園の子どもたちと共に暮らしてきたせいか『待つ』と言うことが容易に出来るようになった。1カ月ぐらい過ぎるころには彼の言葉も柔らかくなって好感のもてる少年になっていった。基本的に優しい両親に育てられているから、自らの違和感を発見し自らを正す力も備わっている。いくら突っ張っても柔軟に吸い取ってあげるから、周りの子とすぐに同化できる。

たまに子どもたちと一緒に何かをするというか、この世界に入っていくことがよいと感じる。私もここで校長をしていた時があるから子どもたちとはすぐに親しみ深く話ができる。途中からこの学校に来た子どもたちが生き生きとしているのはここの学校のシステムは勿論のこと、子どもたちの寛容さがそうさせている。教師も『待てる』寛容さを持っている。若いのにすごいことだ。

昨日の幼稚園の話だけれど、政府がやっている『子ども子育て』について、あのやり方で本当に子どもたちが幸せになるのかというと疑問だらけである。昨日も書いたけれども女性の社会進出などと今から始まることではなく、女性は子育てということですでに一人の子供を育てるのに月75万円の社会貢献をしている。それを忘れていることは女性を軽んじていることではないか。なのに家庭で育児をする女性には手当は無料で、幼稚園や保育所に預ける家庭には保育料が無償になるというのは容認できない。むしろ家庭で育児をしている母親に手厚くするべきだ。子どもにとってこれほど素晴らしい保育はない。

保育者がどれほど偉そうなことを言っても『母』に勝てるわけがないのだから。子どもたちの将来を考えれば日本のためにもその方がよい。家庭の経済的事情でやむを得ず働きに出なければならないという人が多ければ、まったく豊かではない日本の証左ではないか。それを無理やり国民総生産という見かけの豊かさを追って自己満足に浸る政治家はどうかしている。家庭から乳幼児を持つ母親を追い出してそれで日本の国が豊かになることは絶対ない。乳幼児を持つ母親が幸せを感じる様でなければ真の豊かさは訪れることはないのだ。

幼稚園のことを書こう

5年ぐらい前に認定こども園というのが新設された。実際に始まったのが27年が初年度だったから3年前になる。できるころには何度も県の係官から説明を受け一応は納得したつもりであったが、できあがってから国の「子供子育て会議」に預けられ、当初説明を受けた時とは全く方向が違ってしまっている。認定こども園は「幼保型」「幼稚園型」「保育園型」「地方裁量型」の四つに分けられていた。当然これらはそれぞれに役割があって目的が明確であった。私の園(土浦)も幼稚園型の認定こども園として出発した。

そもそもこのようなことになった背景には、少子化が進みこのままでは幼稚園の存続が危ぶまれたからにほかなかった。しかしこれは地方の幼稚園の話で、都会ではまったくそのような危機はなかった。認定こども園にする前には、国はよく幼稚園のことを考えてくれているなどと喜んでいたが、徐々にその真意が明らかになってきたのでがっかりすることが多々ある。第一に幼稚園型認定こども園というのは、幼稚園主導であるから今まで通りの運営方針で幼稚園として賄っていくことができるというのが大前提であったが実際はそうではなく、保育所の管轄である市の介入がある。

私のところでは2号認定(両親が働いている)は10人しか許可をとっていないが、そのために保育所としての縛りを受けることになる。これでは本来の幼稚園としての業務が縮小されてしまう。それはなぜかというと、認定こども園の就業時間は子どもを11時間預からなければならないというのがある。これには園則を変えなければならないが私はいまだに園則を変えていない。幼児教育というが幼児を出しものにして大人社会の仕組みを円滑にしようとしているだけで、子供たちにはいい迷惑である。

その理由を書こう。第一に子供たちはだれのために何のために生きてているのか。第二に子供達には大人の介入できない子供の世界があって誰しもが冒してはならないものである。第三にこの地球上の自然や人間同士のコミュニティなどは、すべて子供たちからの借り物ではないか。第五に政府は国民総生産を上げるために女性を社会に出し所得を得るように勧めているが、これは子育てに関して言えば誤った考え方で親子引き離し政策である。政府は80パーセントの女性を仕事に就かせたいと考えているらしい。これが幸せの政策だとしたらお笑い種である。

女性の社会進出の話をよくするが、女性の家庭内での貢献度は男性が会社でもらってくる給料に換算すればはるかに高収入である。なぜなら子供一人を家庭で育てている女性の月給は75万円に相当するといわれている。それが二人の子供だったらどうなるのか。しかも女性は産みの苦しみから解放されて0歳の子供を育てているときには、2時間おきぐらいに子供に起こされて寝る時がない。子供が静かになったかと思って自分が寝ようと思った時には、今度はそばで寝ている子供に寝返りか何かで踏みつけてしまうのではないかと熟睡する時がない。

 そうした努力があって子供が少しずつ成長していく。そして母親となった女性は何の見返りも求めず子供と共にニコニコと暮らしていこうとする。そんな小さな幸せをふいにあたかも災害のように、外へ出て働けというのではいつになっても幸せになれない国ニッポンになってしまうのではないか。外へ出て働くとか働かないとかいうのはその家庭に任せて政府が介入することではないだろう。

来年10月以降に幼稚園・認定こども園・保育所の3歳から5歳までの幼児は無償化になることがほぼ決定した。それに合わせて預かり保育も無償化しようという動きがある。私は無償化には全面的に賛成するが、モラルハザードの問題も一緒に解決しなくてはならないと思う。例えば必要以上に預かりを願ったり、子供を置き去りにしてしまう危険性があるからだ。私のところの現在の体制では預かり全面的に開放するというのは困難である。徐々に子供の内面を大切にしていく幼稚園が少なくなっていきそうな気がする。

子どもにとって必要な環境と教育というのが幼稚園教育要領に書かれているが、これすらも無視されて、待機児童解消のためにものすごい勢いで子供たちが流されて行ってしまう。誰かが立ち止まって流されていく子供たちを救ってやらなければならない。そのために私たちの幼稚園は懸命になって幼児教育を学んできたし、発達心理についても大学の教授のそばで学んできた。このまま流されたのでは私たちを育んでくれた多くの人たちに申し訳が立たないではないか。生きている証としての理念が大切だと私は信じている。これからが幼稚園経営の正念場になるのではないかと思っている。

書くべきことは山ほどあった

小学校1年の卒園児の集まりが両園ともにあった。いつもは5月中に行われていたけれども、今年はなぜか6月の最後の土曜日になってしまった。丸まる1か月も伸びたからその間学校にも慣れたのか学校での嫌なことはあまり聞かれなかったが、登校班で意地悪されるなどの嫌がらせが後を絶たなかった。『授業は楽しいか』との質問に『選択授業がめちゃ楽しい』と答えた子がいたので『どんな選択をしているのか』と尋ねたところ『ステンドグラス』と即座に答えていた。初等学部の子だったので担任の教師にさっそく話をしてみたところ、最初はうまくステンドグラスといえなくて『デザイン』と言っていたらしい。

同じ日の土曜日と日曜日にかけてイイアスつくばで私学フェアーが行われていた。私も1年生の集いが終了次第会場に駆け付けたが、見学者はたくさんいたけれども小学校を対象としている青葉台にはあまり観客は集まっていないようだった。ほとんどが高校受験のようであったがそれにもめげず翌日も会場へ行ってみた。するとわが校のブースには点々と訪問者が椅子に座っていて、そこには学校説明をしている教師が真剣に取り組んでいる。思わず目頭が熱くなってしまった。小さなブースの中で懸命に学校紹介をしている姿に感動した。他の裕福な学校と違いわが校は殆どが手作りのサンプルである。何とかこの子たちを幸せにしてあげたいと思わずにはいられなかった。

もう一つ感動したものがある。ワールド杯サッカーである。一次リーグを突破して決勝トーナメントに残ったが、一次リーグの最後の試合でパス回しをして勝ち残ったというのがなんとも後味の悪いことであった。私も最後は攻め抜いて決勝トーナメントに残るという結果が一番良いと思うが、逆に残れなかったらと考えると西野監督の采配がベストだったのかと思う。それにしても誰もがあっさりと負けてしまうのではないかと弱気になっていたのに、ブルーのユニホームがコートの中を縦横に踊り2-0で勝っていた時には、日本に新しい風が吹くと今度は誰しもが勝てると確信したのではないか。結果は負けたけれども感動的であった。感動をありがとう。

もう一つある。米国との貿易摩擦である。日本以外の国は米国の関税に対して報復措置鵜をとると表明しているのに日本は様子を見るといった消極姿勢である。次いで今度はイランの核問題に触れ、イランからの原油の輸入をストップしてくれとトランプに言われたが、これについても様子見である。まったく日本は米国の属国である。北朝鮮問題も何も進んではいない。結局なんでも米国頼みだから、今の政権は売国奴である。日本は独自のアイデンテティがあってしかるべきで、米国の言いなりになるのはやめてほしい。

子育ては大変?

男子の育休が叫ばれているなか、男子には果たして会社を休んで何ができるのかということが巷で議論されている。私は思うけれども、父親は母親のように子どもを育てることは出来ない。幼児の一挙手一投足に対応できるような父親はいないものだ。高名な育児評論家でも無理だと思う。これはいくらジェンダフリーを叫んだところで所詮無理な話だ。女性は妊娠して自分のお腹の中で十月十日毎日会話をして生まれてくるのを待っている。それに対して父となるべき人はその間何をしているのだろうか。子育てに対しての適正というのはこう考えてみても歴然としているではないか。

だからと言って女性に子育てのすべてに責任を持たせるのは全くの解釈の違いである。戦前には『男子厨房に入らず』とか子育ては全て母親に任せると言ったことが男子の美徳とされて来た。それは封建的な男尊女卑の社会が成熟していたためである。しかしその頃でも女性の家事については大変苦労が大きいということは認知されていた。というのはある程度の資産階級になると必ず女中さんを置いて母親の苦労を取り除いてきた。それで現代ではどうなのかというと、女中さんを置いて肉体的な疲れをいやすということではなくて、問題は別に潜んでいる気がするのだ。

現代の社会事象の中の『核家族』と言うことが大きな原因であるように思えてならない。マンションの高層に住んでいる人はあまり外に出て子どもと遊ぼうとしないことは心理学でも証明している。だから他と触れ合う機会も少なくて、家の中で子どもとじっと向き合っているとなると、多分煮詰まってしまうのではないか。これは辛い。早めに子育て仲間を作って、話し相手を作ることを勧めるが、それが苦手だという人もいる。それは子どものためにも自分のためにも良いことだから、頑張るしかない。

父親が休みになると子どもたちと遊び、母親の手伝いをしていると言う自覚のある心優しい父親。しかしある日突然母親が『疲れた』と言って泣きだしたのを見て呆然としてしまった。自分はどうすればよいのかと自問自答したが正解が見つからないでいる。一歳と二歳の二児の母親であるが、彼女は物理的な肉体の疲れの中で『疲れた』と言っているのではない。父親には考えにも及ばないところで母親はくたびれているのだ。精神力でも限界にきているのだろう。父親が当惑するのも理解できるが、母親は母親の仕事を代わってやってほしいと言っているわけではない。毎日のいたわりの言葉や感謝の言葉が必要なのではないか。心から理解してあげて『ありがとう』の言葉が必要だ。

 

 

サッカーワールドシリーズ

昨日の日本対コロンビア戦は見ごたえがあった。色々な課題があってもそれを忘れさせるような試合内容である。日本国中サッカー一色に染まった日でもある。それも試合前の予想を覆す侍ブルーの活躍がひときわ目立った戦いであったから日本中がヒートアップしているようであった。早速今日はテレビでは『最大の功労者は?』などとコメンテーターを交えて話をしているけれど、マスコミの悪い癖だ。後半の戦いぶりを観ていたら、全員が一丸となって敵陣に攻め入っているではないか。だれが一番で二番だなどという言い方はあのメンバーに対しての冒とくではないか。

とにかく沢山のもやもやがあったけれど、一気に吹き飛んだみたいだ。単純と言えば単純だが、物事は突き詰めていけば単純そのものなのだから、頭の構造も単純が一番いい。日本は後一戦勝てばもっと日本を明るくしてもらえるのではないか。女子は一足先にワールドカップ優勝を果たしているのだから、男子もぜひ優勝まではいかなくても期待だけでも持たせてほしい。

米朝会談の成果

日本にとって米朝会談の成果は北朝鮮との拉致疑惑に関する話し合いの糸口ができたというくらいだろう。米朝の会談は北朝鮮の方が有利に進めたようだ。米国にも韓国にもあまり成果は見られなかったと言っても言い過ぎではない。完全な核放棄の行程表もないし核に対する査察官派遣の話もない。大山鳴動してネズミ一匹という感じは否めない。これではこの先経済制裁などと言ってもかなりのほころびが出て、北との交渉はもっと難しくなる。

何でも米国に追随している日本だから、自国の主体がはっきりしない。ウランバートルで北との接触があってどの程度の拉致被害者を返してくれるのか、会えたことだけで前進だなんてことではすまされない。外交交渉にはしっかりとした軍隊が必要だ。戦争のための軍隊ではなくて自国の安全と安心を買うためのものだ。軍隊を持てば戦争になるなんて言っている似非文化人がいるけれど、それでは地球上毎日戦争になるではないか。

また自国の利益だけを求めるようなトランプのようでは他国から見放される。米国に強力な軍隊がなかったら、トランプはただの裸の王様だ。日本は継座がどうなるかばかりを追及しているけれど、これは本当に国民が求めているものなのだろうか。どこかで幸せのレシピを公表しないと必ず行き詰ることになりはしないだろうか。経済はこの辺まででということがないと、飽食の時代をさらに求めていたのでは途中で空中分解してしまうのではないか。

子どもたちを安全に幸せを求める育て方をしないと、経済の効果ばかりを追い求める育て方では、決して幸せにはなれないだろう。他人の幸せの援助をしてあげられるような人は必ず幸せになれる。そのようなレクチャーセンターを各学校にあればぎすぎすした世の中にはならない。そのような政策は損得に関係ないから政策として成り立たないのかもしれない。

 

いよいよ明日は米朝会談

7カ国首脳会談。いわゆる先進国サミットであるが、今日の閉会の議長声明を待たずに、トランプはシンガポールにいる。とても無礼な話だが、トランプ大統領の身勝手な貿易摩擦ガ他の首領に攻撃されて針のむしろにいるようなのだろう。もう一つの関心事の米朝会談の方に足を向けたようだ。しかし私はこの会談はうまくいかないだろうと思っている。無責任な平和的解決もうわさされるが、核を失った北朝鮮の存在意義はどんなところにあるのだろうか。

したがって拉致問題も解決しない。これは米国にとっても北朝鮮にとっても日本に対する大きな力のあるカードだから簡単に渡したりはしない。北朝鮮の人権問題に触れないで北朝鮮に平和は訪れないであろうし、そうなればなお一層拉致問題は解決しない。日本の国がもっと早くから国としての当たり前の力を持って、北朝鮮の沖合に日本の軍艦を並べることができたならばこのような拉致問題は起こらなかった。

新幹線で気違いに殺された人や、親の虐待によって殺されてしまった幼い子供も、痛ましい結果であるけれど、拉致被害者も無念であろう。拉致被害者の問題は武力でしか解決できない。人間の知恵を絞って外交で解決できるようにと言っている人は無責任だ。今回の会談は何も解決しない。世界向けのトランプ大統領のパフォーマンスに過ぎない。そのような恫喝やはったりは彼の専売特許だ。

トランプは世界のリーダーか?

米朝会談が6月12日に予定通り行われることになったが、難題は全て後回しで、最初に日本が指摘していたように『会談のための会談』になりそうだ。意外とトランプの方がびくついているのではないか。金委員長は若いけれども、周りには老練な側近がついていて、まるでトランプを手玉に取っているではないか。今回の会談では人権のことは一切触れないそうだ。これでは拉致問題は解決できない。米国にとっても北朝鮮にとっても拉致問題は日本に対するカードとして残しておきたいのだろう。自国の問題を外国に頼っていたのでは周りの国から笑われるだけだ。

核を放棄した暁には日本や韓国、中国がその後の経済援助をするとトランプが言ったそうだ。米国は一銭も出さない。そんなリーダーがいるか。世界をかき回しておいて後始末は他国にやらせるとは、そんなリーダーのお先棒はかつがなくてもよい。しかし国民はその後に来るであろう干渉と制裁に耐えなくてはならない。北の拉致問題は他国を侵犯し国民を誘拐した犯罪だから、何なら武力に訴えても日本は国民を守るという気概を見せなければ、いつまでたっても拉致問題は解決しない。

日米の安保協定も見直した方がよい。日本は○で米国の植民地であるかのようだ。明治に開国した当時の不平等条約をそのまま使っているようだ。米国は日本では治外封建なのだ。米国の基地に日本人が入っていけない。裁判も出来ない。現代でまだ日本だけがこのようなことを許している。何故なら憲法9条第2項があるからだ。これをなくすと言っただけで近隣国は日本を見直す。日本が憲法を見直すことになると、なぜ戦争になるのか。国内に日本を弱体化させるプロパガンダがいるからだ。

いま政治は正念場を迎えている。子どもたちが誇りを持って日本国民として生きて行くことが出来るかどうか。太った豚より痩せたソクラテスとはかつての東大総長の言った言葉であるが、うまいものをそれほど食べなくてもよいから、誇りを持ちたいと思う。子どもたちにもそのように伝えていきたいものだ。明治を作った政財界の人たちに恥じぬような人間を作っていかなくてはならない。