初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2014年5月の記事一覧

海外語学研修の経過

月曜日にグアムのセントジョンスクールへ向かった子どもたちの様子を、現地からK先生が報告してくれた。K先生の感想が私と同じような感覚であったのがうれしかった。私も現地報告とまではいかないけれども、帰ってきてから感想をこの欄に書かせてもらった。K先生の現地での報告を読んで、その時の自分の気持ちがよみがえってきた。あのような教育の主体では、それが正しいやり方だろうなと思っても、日本では受け入れられないだろうと残念に思う。

しかし私は残念に思うだけではとどまらないのが私の性格だから、必要だと感じたことは、特に3年生以上の子どもたちにはそれを試したりもする。それに偉人伝を読みその感想を書いて来るなどと言うのは、子どもたちの目標の支えを作るのにとても大切なことだと思っている。それが科学者とかだと、理科だの算数だのと教科に結び付けて考えてしまうのが日本の教育にいやらしいところである。そんなことよりその子の人生において大きなインパクトになればすごいことではないのかと思うけれども、教科にして作文の評価を考えてしまうのには悲しい。

アメリカの授業がすべて良いとは思わないけれども、自分がどう考えるのかと言う問題が多いことは確かだ。論文形式が多いのでそれに論評を加えるのにはそれだけの知識と哲学を持たないと、子どもたちを説得できない。まあどこの国でも立派な教師ばかりがいるとは限らないだろうけれども、できれば子どもの気持ちのわかる教師の集団にしたいものだ。勉強はどうするのだといつものようにたずねてくる人もいるだろうけれども、学習というのは子ども自身が内発的動機づけに従って机に向かうものだ。

幼稚園ではリヤカーの試験が終わった。子どもたちには生まれて初めての試験で、リヤカーの免許証いなんて世界にあおば台にしかない。年長を持つご家庭では、子どもたちがどのようなことをお話していたのか、記憶に止まっていることがあったら連絡長でお願いしたいと思います。車の免許と同じように、クランク、S型、横断歩道、車庫入れと大変難しいのがあります。自分の歩いている位置とリヤカーのタイヤの位置が理解できないと脱線してしまいます。今日の私は厳しい試験官であります。

もっとレアな話

1・2年生はつくばローズガーデンへ行った。イギリスやフランス生まれの種類のバラもあり、300種2500本のバラが植えられている。かつてはつくば市の市長をなさっていた藤澤さんも、今ではローズ爺と呼ばれているそうな。上の左側の写真はローズ爺から説明を受けている子どもたち。右側和ガーデン中央で集合写真。
      
ファミリアに別れて自分たちが気に入ったところで写生をしたり観察している様子であるが、バラに囲まれて気分がいいだろうなと思う。とても挨拶がよく、『この辺の子ではないね』などと来ている大人に言われていたけれども、子どもたちが私の顔を見て『校長先生!』なんて大きな声で呼ぶものだから、『この辺の子なの?』と周りの大人たちは方向転換してしまった。それはどうゆうこと?。
      
 幼稚園の子どもたちが食事をしようとしているところ。4年前は初等学部の子どもたちが次々と熱中症で倒れてしまって、このローズガーデンに救急車が何台も来たことがあった。
同じように来ていたあおば台幼稚園の子は誰一人として倒れる者はいなかった。
        
 逞しいあおば台幼稚園の子どもたち。幼稚園の時にペアだったお兄ちゃんが初等学部にいて挨拶に行ったりしていたけれど、小学生のお兄ちゃんは『悪いけど忙しいから』と恥ずかしそうにしていた。

ちょっと寒い日で雨

今日は雨で昨日のように半袖でいると肌寒い。けれども半袖のまま外に出て、雨の中を楽しんでいる子どもたちがいる。いつでも子どもたちは普通でないことをしたがる。それが子どもの特権なんだろう。だからそういったことを理解している大人は、そのような子どもの姿を微笑ましく見ている。そして子どもは大きくなっていくのだ。大人たちも実はそのように育てられていたはずである。多くの大人たちから寛容に許されながら育てられた。でも忘れてしまった。

雨に濡れて寒くなれば、濡れた物を乾いたものに取り替えたくなる。それを要領良くやれるのが小学生だ。どんなに濡れていても立ったまま動かないのが幼稚園の子たち。だから保育者はどんな天候の日でも四方八方に気を配り、広角レンズのように目を光らしていなければならない。初等学部の今日の保健室は、めまぐるしく児童の往来が激しかった。そこで親がいれば、親が何かと口を出して手を出すだろうが、いないということが幸いして、自分の力で何とかしなければならない。

子どもはみんな素直な子に育てたい。素直というのは、ただ大人に迎合し、服従を誓い従順に育てるということではない。それではロボットか奴隷であって人間として育たない。私の言う素直と言うことは、事にあたって損得を考えずに精いっぱいの力を発揮することだ。だから家庭教育の中で、損得の話を多く持ちだすと、素直な子は育ちにくいことになる。その上で男子は荒々しく勇気のある子に、女子は頭がよくて思いやりのある子に育てたい。

私は発達のプロで、それなりにアクションプランも立てることができるし、何人かの6年生を卒業させてきた。たまたま素直な子どもたちだったので運が良かったこともあるけれども、卒業した子どもたちはみんな素晴らしい。彼らは根が真面目であるということもあるけれども、きっと幸せになれるだろう。素晴らしい子を育てるために、絶対にしてはならないことがある。『お前はだめな子だ』『何故これが解らないのだ』というやっつける否定語である。

子どもの前で他を批判することも素直な人間を作るのには邪魔で、却って非社会的な子を作ることになる。大人の考える社会正義と子ども社会での社会正義は違う場合もあるから、自分が正しいと思っていることだけを押しつけるのは間違っている。なぜなら子どもは親の前で反論できないから、そのまま子どもが親の意見をコピーしてしまうと子ども社会で異端児になってしまう恐れがある。拘りを持たずに(刷り込みをせずに)意見を聞くべきであろう。

親は親としてプロだが、それがそのまま子育てのプロであるとは限らないので、プロの意見を取り入れるようにお勧めする。しかし断っておくけれども、子どもは最後には親元に帰さなければならないので、子どもへの責任は親が取るべし。しかし私たちもまた『子供への責任』から逃れることはできないことは当然のことだと理解している。

給食の時間

ファミリアの責任感の強い5年生から直訴があった。毎日給食の食べ終わるのが遅くて、休み時間がなくなってしまうので、週のうちに何回か学年別に給食を食べさせてください。というものであった。代案を持ってくるなどはしっかりしたインテリジェンスが働いている。早速給食の時間の食事の前に、全員が集まったところで話をした。『5年生から校長に食事の時間のことで直訴があった』『ファミリアの中で食事が遅くて遊び時間がなくなってしまうということだ』

この話は以前にも聞いたことがあった。毎年のことであるけれども、いつも食事の遅い子がいると、面倒見の良い子が残ってその子のそばにいて、まるで母親のように接しているということを見たことがある。面倒見の良い子だけ残して遊びに行ってしまうのは要領がよすぎる。直訴してきた子はあくまでもファミリアの責任ということを考えていたようだ。しかし食べるのが遅いという子の責任だけではあるまい。『いただきます!』をする時間の、集まる時間が不徹底であることも問題であるだろう。

自分たちに直結した話なので、全員がしっかりと話を聞いていた。それで今日はどうなったのかというと、十分に遊び時間がとれるほど食事の時間の流れがよかった。ということは、毎日ゆっくり食べている人は何だったのか。それでも残飯を出さないと言うのは見事という以外にない。残飯が出る時には必ずと言って私が作るときだ。量が計算できないというのと、足らなかったら可哀そうだという意識が働く。なんてったって戦後間もなく育ったのだから。

それからもう一つ。ファミリアオリンピックとオアシス開きについて6年生のある女の子からの直訴があった。ファミリアオリンピックの練習期間にオアシス開きがあるので、ファミリアの練習に支障をきたすから、オアシス開きを少しずらしてファミリアオリンピックが終わってからオアシス開きをしようというものである。これは6年生の提案なので、全員が納得して校長のところへ話を持ってきてください。学校として変更してもかまわないということを伝えた。最近子供からの直訴ばやりである。とても良いことだと感心している。

泣けてきた

17日は大変忙しい日だった。学校では今年第1回目の学校説明会があり、加えて第二幼稚園のプレイディがあり、親父主催の懇親会があり、そのあとで私の仲間の会議があった。この日は朝早くから出勤し、職員室の自分の席に座っていると、第二幼稚園の保育者たちが忙しそうにプレイディの準備をしているのが見える。さすがにてきぱきと動いている。

スクールバスが到着して、にわかに子どもたちの活気のある声が校舎中に響き渡り、今日の一日が始まる。相変わらず私は自席から校庭に目をやって、第二幼稚園の先生たちの動きを追っている。すると職員室から外に出る出入り口のところで、女の子と男の子が私と同じように幼稚園の先生を目で追っている。誰なのかなと思って出入り口の戸を開けて外に出てみると、第二幼稚園を年中のときに退園して外国へ行ってしまった子で、今年日本に帰ってきて3年生に転入してきた子だ。

1年生の妹が兄に寄り添うようにじっとしている。そして手には、年中で退園するときに担任が書いてくれた色紙をしっかりと持っている。それを無言で私に渡す。その色紙には担任の写真が写っていたので、すぐさま当時の担任を大声で呼んで、私たちがいるところまで来てもらった。息を切らせながらそばに来た担任が、その瞬間『○○君だよね!』と声をかけた。担任はそばにいる妹の名前まで覚えていて、彼女の名前も呼んだ。

男の子は3年間の空間を埋め尽くすかのように担任の顔を静止したままじっと見ている。幼稚園であったことを担任を通して思い出しているのだろうか。どんな気持ちで色紙を持ってきたのだろうか。担任の顔を視線を外さずに、じっと見つめていたのは、どんな思いで何を考えていたのだろうか。担任に会えて思いは通じたのだろうか。小さな胸の中で、何を感じ何を思ったのだろうか、そう考えていると無邪気な愛らしさに泣けてきた。

子どもたち

マララを読んだ後の感想で、6年生はマララが『女の子にも教育を!』と放送局へ行った年齢とそれほど違わない頃の話だから、『自分たちはできない』という声が聞かれた。しかしそんなことはないということを話してあげた。パキスタンという社会背景を話し、きっとみんなもそこで生まれ育ったら立ち上がったかもしれないと。勇気がないということではない。必要であれば立ち上がれる勇気はあるはずだ。もっと知識が沢山あれば、何とかしなくてはならないと思うはずだ。

5年生は『驚いた!』『すごいな!』ということを異口同音に言っていた。何か感じればいいし、このような積み重ねが自分自身の人間としての思いを作っていくものだ。みんな読み終わった後に一瞬静まり返っていたけれど、勉強をしたくてもできない人がいるということが信じられない様子だった。そこでマララのように勉強をするな!と言われたほうがいいのか、それとも自由に勉強はさせてもらったほうがいいのかを聞いたところ、全員が勉強したいということだった。それはそうだろう、ご両親が何のために初等学部に入れてくれたのか意味がなくなってしまうと言ったら、神妙にしていた。

        
とても面白い写真である。 左の写真は年中からこの前年長になったばかりの頼もしくなった顔の写真である。右側は無心に土木工学の基礎を学んでいる年少の姿であるが、だれが生徒か先生かというめだかの学校である。
         
 初等学部の児童たち。初等学部の人たちにはどちらが1年生で2年生だかすぐにわかるでしょうが、全く関係のない人にはわからないと思う。全員が私服になったら幼稚園の年長さんと変わりがない。   
      
左側は新入園児。3歳児である。右側は初等学部の新入園児(幼稚園の子どもたちと同じ)の姿である。共に共通なのは『かわいい』というところか。幼稚園では何をしていても学校で言うところの授業中であるから、年少はくたびれるはずだ。こんな面白い恰好をする子どもたちだが、6年生にもなると大人に近くなってくる。ゆっくりと育てたいものだ。

タリバンに撃たれた少女

教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女『わたしはマララ』という本を読んだ。彼女はパキスタンの北部にあるスワート渓谷で生まれ育った。父は教師だが母親はほとんど教育を受けていないという。男尊女卑が根強く残っていて、今でも女性は家事の仕事と子育てだけでよい。教育を受けるなんてもってのほかであるという風潮がある。スワートという地域はタリバンの支配地域にあり、イスラム原理主義による宗教支配が強いところでもある。

マララは父親に『女の子が勉強してはいけないと、コーランのどこに書いてあるの?』と何度か聞くたびに父親は、『コーランのどこにも書いてないよ』『勉強したい子はいくらでもしてもいいんだよ』と優しく答えていた。しかしタリバンの放送では、相変わらず女の子は学校へ行ってはいけない、学校へ行くようなことがあればその学校を爆破するという脅迫が続いている。身の危険を感じた周囲の人たちが、父親にマララを学校へ行かないように忠告するが、それどころかマララは地域の放送局へ行って『女の子にも教育を!』と訴え続ける。

そんなことをするものだからタリバンにも挑戦的であるように映り、名指しで脅迫を受けるようになる。スワートの住民は、マララが狙われるというより父親が狙われているとだれもが思っていた。ところがある日いつものように帰りのスクールバスに乗り込む。白のトヨタのダイナでワンボックスカーであるが、これに20人も乗るからこれ以上は乗れないというくらいすし詰めだ。後ろにはドアがないというから危険極まりない車だ。そのドアのない後ろからある男が乗り込んできた。その男は『マララは誰だ!』と言って手に持った拳銃から3発撃った。

マララ15歳であった。そのことによってマララは瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に助かった。そして回復した後に彼女は国連で演説をした。その演説の内容が最後の何ページかに収められているので、それを4年生以上の各クラスへいって読んであげた。4年生以上でないと理解できないだろうとの思いからである。彼女が地域の放送局の電波を使って『女の子にも学校へ行かせてください!』と訴えたのは13歳ぐらいのときだから、それほどみんなと歳は変わらない。

私がこの本を読んであげた時の感想は、各クラス様々であるけれど、『女の子なのに偉い』というのがあった。何故女の子なのにという言葉が出てくるのか。勿論男児のことばであるけれども、無意識のうちに女の子と男の子は違うというのがある。意外と家庭教育の中にはびこっているのかもしれないが、このようにジェンダ意識というのは根が深いものがある。世界の国には私たちが通常考えられないことが平然と行われている。私たちは現状の幸せを認識して、たくさん学び不幸な人たちに少しでも手を差し伸べることができたらいいね。ということを伝えたかった。

ジェンダフリー

ジェンダフリーと英語で言われているけれども、そもそもどこからこのような概念が生まれてきたのだろうか。ある日本の大学ではこの研究会があって、卒論にも採用されているということを聞いたことがある。男女雇用均等法ができたのはこの流れからである。また男女共同参画社会などと銘打って様々な企画がなされるのも、ジェンダフリーを表看板にしたからである。男女という性差をなくして、人間として平等に扱っていこうじゃないかというものだ。

ジェンダフリーなどとことさらに言わなくても、法治国家は法の下に男女は平等であるし、何故この言葉が嵐のように吹き荒れたのかを、私なりにそのもととなることを調べたり考えたりしたことがある。半ば遊び半分で調べたりしたものだから、それほど深くはないということを断ったうえでそのさわりを話してみる。

もとはロシア革命において、男女に別はなく互いに労働者である。という意識からロシア革命は労働者の苦役をなくすための労働者革命とも言われているが、何といっても女性の台所の仕事は、女性に負担を負わせるものであるので男女に差をつけるべきではない、という労働者階級闘争の頂点にいるレーニンが、男女解放をうたったのがどうもジェンダフリーの大本らしい。共産党革命とも言われているけれども、1987年(定かではない)にソ連崩壊とともに消滅した。

男女解放をうたった後の社会は、その結果どうなったのか。男女間のモラルが非常に低くなった。何かどうはき違えたのか、旧共産圏では私生児が多く、その子どもたちは大統領の養子となり将来には大統領の警護につくといわれていた。しかしいったん崩れてしまった社会は元には戻しにくい。共産主義革命と同じように、ソ連の崩壊とという東側の国々に起こったパラダイムシフトによって価値観が変わったかもしれない。

ジェンダフリーはあってもいいけれどもことさらに構える必要はないだろう。強いものが弱者を守ろうとするのは、当たり前の行動だから、そこには男女共同参画社会などといっても入る余地はない。性差がないと強く主張するのには違和感を感じる。人として同じ権利を持つのだからその権利を互いに認め合うことが大切だろう。また同じジェンダの問題だけれども、幼少期の女性の発達の速さをどう説明するのか、その研究はされていない。

毅然とした態度

嫌がらせを受けている子に、嫌がらせをする子を撃退する方法を教えた。絶対にうやむやにせず、大きな声でやめろという。ぼそぼそとした蚊の鳴くような声で拒否しても、それを面白がって続けてやられる。相手には絶対的拒否をされたということを知らしめなければならない。男児も女児も同じことである。声の出ない子はどうするのだなどと言ってはならない。拒絶をするならば勇気をもって、声を打さなけばならない。毅然とした態度が必要なのだ。

それは子どもたちが学校という社会の中で生きていく最初の難関である。しかしよく考えてみると、そのような嫌がらせを個人的に受ける子のほうが極めて少ない。興味のある子に対しての愛着的接触手段なのかもしれないから、絶対的拒否は少し間をおいたほうがよい場合もある。授業中に大きな声を出して授業妨害をするとかいう子がいるが、この子はあまり他人や家族から認められたことがない。自虐的でもあるし、自己顕示欲が強い。しかし自尊感情は非常に低いのではないかと思う。

『包丁を持ってくる』といった子の家庭は崩壊している。学校が両親を呼んで注意をして、このようなことがない様に諭したところで、聞く耳も持たないであろうし上の空であるだろう。子どもがとんでもないことを口走っているけれども、子どもの責任でないから子どもを叱っても何の解決にもならないし、叱ってもこの子が治るわけでもない。両親の子どもへの無責任さに果てしない憤りを感じる。これから生きていくこの子の一生はどうなってしまうのか。

良く『二十歳にもなってこんなことが理解できないのか』と言って警察で取り調べを受けている子をテレビで見たりするけれど、いくつになっても教えられないことはわからないし理解できない。狼に育てられた子はオオカミの生活習慣を学ぶのだ。人として生まれ、人間社会に溶け込めないで反社会的になって、他を傷つけたりして生きている人は違った価値観や生き方を見つけられなかった。親の一方的な優しさだけでは育たない何かがある。

現実にこのような子がいることを考えると、あおば台の両幼稚園や初等学部に居る子どもたちは幸せなものだ。親の愛情をたっぷりとあふれるほど戴き、何不自由なく暮らしている。幸せを実感している人は人に優しくできるし、人を幸せにすることもできる。幸せを感じたことがない人は人に優しくできないし、人を幸せにすることができない。全く当たり前のことだ。だからうちの子たちは、人を幸せにできる素晴らしい人になれるだろうし、なって欲しいものだ。

土曜日の話(1年生の集い)

卒園してから2カ月余りだけれど、両園ともにほとんどの子が遊びに来てくれた。元気という文字が体中から飛び出して、目がきらきらと輝いている。だいたいいつも決まって、小学校で困っていることはないかということと、算数や国語で困っていることはないかということを聞く。授業で困っているということはない様だが、乱暴な子がいて困るということを言っていた。

乱暴な子と言うのは大人から感じると取るに足りないような事柄が多いけれども、小学校低学年ではこれが恐怖だから、丁寧に見てやらなければならない。登校班でも登校のときには上級生がいて、上級生が面倒見の良い優しい人だと救われるけれども、この上級生と合わないと毎日が恐怖だ。集団登校も善し悪しだ。恐怖などと大げさに言っているようだけれども、決して大げさな言いようではない。子どもにとっては気がふれるくらい嫌なものなんだ。

給食の時間が短いという保護者からの話があったが、あおば台の子は最後まで残さないように食べようとする習慣が付いているので、ゆっくりに見えるのかもしれない。牛乳なども飲みたくない人はストローを挿したまま残飯入れに捨ててしまうというのを聞いたが、青葉台初等学部にはそもそも残飯入れがない。幼稚園と同じで食べきることを目標においている。食べたくないということがないのである。食材や量などに神経を使っているし、作っている人たちの愛情がこもっている味が違う。

すぐに宿題が出て、遊ぶ時間がないと嘆いているという。小学校の教師をしていてさえ、子どもの遊びは頭脳の訓練に無駄がないと言うことを知らない。宿題を多く出していればそれで授業の継続を図っているぐらいに思っているようだ。1・2世は宿題はいらないのが私の持論だが、それにはしっかりとした裏付けもあるし理論武装もしている。

教師が怖いというのもあった。新入学児童に対して、まず最初に教師への服従を強いるのは最低だ。物騒な子もいるようで「明日包丁を持ってくる」等といってる子がいるという。学校に連絡して早めに対処するべし。反社会的な言葉を使うにはそれなりの理由があるけれども、この子は必ずやるから今のうちに芽を取らなければだめだ。