初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2014年12月の記事一覧

月刊青葉

『月刊青葉』という月刊新聞のようなものが、子どもたちの手によって発刊されることになった。その第一号のゲラができたと言って、広報係の子が見せに来てくれた。それがUSBの中に保存されていて、私の机にあるパソコンを手際よく作動して、そのゲラを取り出してくれた。私にしてみれば、目を疑うような出来事だ。なぜこんなに上手に動かせるのか。しかも原稿には、低学年でも読めるようにルビが振られてある。私にはこんな技術はないし、子どもがとても頼もしくなって、とても気分がよかった。

出来上がった委員会の報告だけれども、マンガがあり、物語がありでとても楽しんでやっている様子が伝わってくる。文章を作ったり校正したり添削したりという作業は、なかなか好きでないとできないだろう。何人かいる委員会のメンバーがどのようなローテンションを組んでやっていくのか、とても興味があり役割分担が上手にできるのかどうかが問題である。まあ基本は楽しくやれる人がやればいいのだけれど、このようなことが苦手だとか、苦手意識を持っている子がいるとしたらこの機会に興味や好奇心に火を点けてくれたら幸いだ。

土曜日はいつもの学校ミーティングがある日で、10時からの始まりに参加してきたけれど、子どもたちは熱っぽく真剣にやっているのは痛いほど伝わって来るけれども、なかなか問題解決まで進めないでいる。仕方がないと思うけれども、会議の原則なるものを教えてあげないと、堂々巡りで主催者側が行き詰ってきてしまうのではないかという懸念がある。大人でも議事法など学んだ人は少ないだろうが、これを委員会のメンバーにだけでも伝えようと思う。きっと子どもたちは吸収力があるから、簡単に理解してくれるだろう。

委員会のメンバーで決められた仕事を一生懸命にやっている子と、上手に逃げ回っている子がいるということで、委員長が涙ながらに訴えてきた。それで月曜日の5・6時間目を使って集会をしたいので時間を下さいと言ってきた。何を始めるのだかわからないけれども、会議にかけずに独断で快くOKを出した。子どもたち同士で感じる心がぶつかり合って、動き出した。こういったことを真剣に考え、勉強ばかりやっていればよいと言うということを自ら打ち消して、大切なことに気付いたことは何よりの財産になる。頑張れ皆!

顔が見えない

昔でもないが、インターネットに書きこむ2チャンネルというのがあった。今もあるのかどうかは分からないけれども、初等学部が始まった時にこの2チャンネルに散々な目にあったようだ。私はその2チャンネルそのものがよく分からないし、どのように作動して見られるのかもわからないので、周りの保護者が『散々な目に遭ったね』という言い方をしていたので、きっと散々な目に遭っていたのだと思う。誰かがそれをコピーして私にくれたものだ。悪意に満ちた悪魔のなせる技だと言って、そのままにして置いたら、保護者会があってその場で書きこんだ主が糾弾された。誰が書いたのか、どうしてわかるのかは分からない。

1年目で私は校長でなかったが、何かがあると引っ張り出されていたものだ。黎明期だから何があってもおかしくはなかった。だから覚悟の上であったけれども、保護者の意見は辛らつなもので、子を思う母心なのかそれとも自我の業なのかは定かではなかった。しかも顔の見える場で行われているのだ。私から見ると、気がふれたのかと思うほどの修羅場であった。修羅場とは人間界の話ではないということだから、その時の熱気と罵詈雑言の交錯する中で、じっとしていることが辛かった。耐えるということではない。そのような人たちとその場にいることが嫌だったのだ。幼稚園とは勝手が違う。

何を話しても無駄という気がした。あまりのひどさに『黙れ!』と一言言ったきりだ。でもそれは顔が見えているから、気持ちもわかる。困るのは顔の見えない中傷である。2チャンネルと同じように、言い放しというのは卑怯千万である。役所が私に確かに伝えたということを、証明するために書いているようなものだが、役所は教育者ではないので私に突っ込まれたら言葉に詰まってしまうから、仕事だからとはいえ大変な役回りだ。よく説明して下さいと言われても、顔が見えない。私は1月31日にこれからの学校について話をするといっている。

そして学校が変わる、変わってもらっては困るという風なことを言っている人もいるし、きのくにのようになっては困るという人もいる。きの国の堀先生とは2回ほどしかお会いしていないが、簡単にきの国を批判するのは慎むべきだろう。あの先生に負けない論陣を張ってから堂々と激論すればよい。彼は彼の手法で命がけで子どもを育てているし、その学校への応募する保護者が絶えることがない。一つ断っておくことがある。私は初等学部を屈指の有名中学校進学校にするなどと、おこがましいことを約束したことはない。私が中学校を建てたらどうなるのか。

私はそもそも教科書を丸暗記して成績が良いというのは一つの特技ではあるが、人間の成長の一部であるとしか思っていない。そんなことだけで10年・15年後の子どもたちが、社会で通用する大人になるとは思っていないし、信じてはいない。まずわが子をどのような子ども像をもって期待しているのか。わが子を自分の思うように育てたいなら、どこの学校へ行っても満足はしないだろうから、自分で思うようなカリキュラムを立てて頑張るしかないではないか。

幼小中の発達

幼少中とここまでできればしっかりとした人間像を構築することができるだろう。しっかりとしたというのは、自分のことは自分で決めるという人間としての自立のことだ。あと20年足らずで現在の職業の65%が無くなり、新しい職業になっているというのがアメリカの経済学者の言うところだ。多くはベンチャー企業だろうが、コンピューターを自在に扱えることは絶対に大きな強みとなる。パソコンを駆使し、新しい発見をしたりする人は重要に扱われる。どこの大学がどうかなどの話は全く聞こえなくなるだろう。時代が変わるのだ。

目まぐるしく変わっていく世の中に突入することは間違いがない。乗り遅れないように、アンテナを高く維持していなくてはならない。私はワープロが出てきたときにいたく感激し、その便利さに絶句するような文明のショックを得た。しかしワープロを習い図面まで書けるようになり、ほとんど自在に使えるようになったのだが、それに慢心したところがあって、そのあとに出てきたパソコンに見向きもしなかった。それどころか無視していたのだから始末が悪かった。全く乗り遅れたのだ。だからパソコンに入っていくのにとても苦労した。

ワープロができれば簡単に覚えられるよと言ってくれるけれども、キーボードは同じだけれども、内容が全く違う。これを覚えられれば、すごく便利で、USBメモリーなどというのが会って、簡単に保存もできる。これで図形や絵も書けるなんて夢のような道具ではないか。乗り遅れたおかげで習う気にもなれない。全く悔しい話だ。今さら習うより、若い先生方は結構自在に利用できるので、彼らにお願いしたほうが早い。とはいっても内心は自分でできれば楽しいだろうと思っているが、覚えようとする気力がない。

これは自分自身が世の中の動きに無頓着で、アンテナをしまっておいたことが原因で、取り返しがつかない。とても情けない話だ。幼少中と子どもたちを見るとなると、よくよくアンテナを巡らせておかないと、子どもたちの行く末を誤ってしまうだろう。コピーも三次元のものが作れる時代になってしまった。昔の人が見たら全く信じられないような出来事だ。コンピューターの画像解析などは最先端技術となって、パソコン一つでモノが作れるようになってしまう。沢山の冒険の経験を積んでほしいものだ。それが何よりの学習だろう。

4年生の収穫祭

ご近所の中山さんのおばあちゃんに子どもたちはよく可愛がられている。そのおばあちゃんに教えていただいた田植えから稲ができて、ご飯として食べられるまでの工程を左上の図に示されている。右上の写真はそのお米をおにぎりにしてお客さんに配っているところ。
      
熊谷さんも事務長も、いつも畑の作物づくりを教えて下さっている坂本さんも、勿論中山さんのおばあちゃんもご招待された。私もしっかりとご招待にあずかっている。左上の写真はみんなで上手におにぎりにしたのをお客さんに配っている様子で、右上の写真は招待された3年生がもみを脱穀しているところである。
      
左上の写真は脱穀されたコメをすり鉢の中にいれて籾殻を取り除いているところである。4年生の可愛いお姉ちゃんが、これまた可愛い3年生の女の子にに説明したり方法を教えているところである。右上の写真はやんちゃな3年生の男の子に、少し賢そうな4年生のお兄ちゃんが、瓶の中にいれた玄米を上手に精米することを説明したり実演したりしているところである。

余談になるがおにぎりが今年食べたお米の中で最高においしかった。おだかけして天日に干した米だそうで、毎年このような米を食べたいものだ。それに今日の子どもたちは、3年生も4年生も生き生きしていて、とても楽しそうだった。こんな授業の連続がいいのだろうな。生き生きと楽しくなければ学校なんてつまらないだろう。だから4年生は特別演出なんてことを考えて、アトラクションまで用意してくれた。何やら仮面をかぶって、なんだか分からなかったが。

卒業生にあってきた

昨年卒業した中学一年生に会ってきた。ビックボーイへ行ってたらふく食べてきた。私が沢山食べないと、みんな遠慮して食べないのではないかと、ダイエット中だけれどすごい開放感があって沢山食べてしまった。4人しか卒業していないから、私の乗用車にちょうど乗れるので手軽に連れて歩ける。彼らが初等学部にいたときには、赤坂御所の中まで連れて行って、お亡くなりになられた三笠宮寛仁親王邸に上がらせて頂いたこともある。ちょうど皇太子殿下のお子様と同じ年の子だったので、話も弾んだ。ここは東京見物に来ても、そのコースにはなっていないので、御所の中に入ることは普段ではなかなかできない。

前回あったのが中学校に入ってちょうど疲れてくるのではないかと思われる6月1日の日曜日にあった。だからかれこれ半年が経過しているが、仲間同士というのは屈託がなくて話の内容も遠慮がない。皆よく勉強も出来て、表彰されたという子もいる。今やっている彼らの勉強は基礎学だから、途中で下りるわけにはいかない。どこかで何日も休んでしまったらもうお手上げだから、少しづつでも続けていくことが大切だ。まじめな子どもたちだから授業が面白いと言っていた。徐々に専門的な学習に入るともっと面白くなるだろう。

一人は家族旅行に行ってしまって参加することができなかったが、次回会う日を決めてきた。彼らは大人のような会話ができるので、こちらもいらぬ遠慮はしなくて済むし、初等学部の6年生といえども、会話の先は読めるものだが、中学生になると読めないから面白い。それだけ視野が広まっているのだろうなと思う。それから彼らは6年生の進路について、気になるのか一人一人の名前を挙げて、私に尋ねていた。そして6年生全員の名前を挙げて予想などしていたが、なぜかよく当たっている。

今日は衆議院と県議会の投票日である。卒業生と昼食を済ませて家にたどりつき、楽しい浮いた気持で投票に行って来た。今年は投票時間が短縮されて夕方6時までである。差し迫った浮ついた政局でもないし、少数政党の惨敗に終わるのではないか。政権与党側は絶対安定多数を確保しないと思いきったことができないだろうから、大勝利を得なければならないだろう。もう絶対に民主党政権に戻すなどと愚かな選択をしてはだめだ。政権の変化は面白いけれど、素人政権はこりごりだ。

しばらく見なかった風景

家の庭にあるもみじがいつの間にか散ってしまっている。何日か前は真っ赤に燃えるような色をつけていたのに、もっとゆっくり見ておくべきだった。家の裏にある大きな土山に、山の下につながれているヤギがその山の中腹まで登って行って草を食べている。ヤギは何を考えているのか、いつも食べることだけしか考えていないのか、土山を登るときは、こちら側がよいとかこちらは危険だとかの考えはないのだろうか。それでも幸せなのだろうか。いやそのような意識は持てないのだろう。そのような意識が持てないほうが幸せなのか、それとも意識をはっきりと持てる人間のほうか幸せなのか。

あおば台幼稚園の周りの風景も少しずつ変わっていっている。南の道を挟んだ近くには住宅が建っているし、今日はその一角で住宅展示会か見学会をやっている。東側正面玄関の前は、少し前まで田んぼであったけれど、そこを埋め立てて空手道場が建った。これからは、道場に通う彼らが、幼稚園の警備を担当してくれるだろう。工事に来ている職人さんが自分たちが施工した側溝のところに座って、みんなでタバコをふかしている。ずいぶんとうまそうに煙を吸い込んでは吐き出している。物を作り上げるという自負心が、年老いた親父たちの顔ににじみ出ていて、力強い頼もしさを感じる。

私ももっともっと若かった時に同じような土方仕事をしていた経験がある。一日の日当が1600円だった。腕の良い職人さんは3000円。親方格になると3500円だった。日当が少なくても、それがどのような意味かをよく理解していたから不満など全くなかった。給料をもらって、ガソリン代を払うとあまり手もとに残らない。それでも意気揚々としていて、朝方まで飲み歩き、あくる日はしゃきっとして仕事へ出て行ったものだった。今のように土曜日曜が休みだなどと言われると、食えなくなってしまって日干しになってしまう。それでもなんだか、毎日が幸せだったような気がする。

あの時のことを思うと、今のほうが経済的には楽にはなった。いや、私の資産の話をすると結婚前より全く乏しくなって、話せるようなものではないが、生活そのものは文明とともに楽になっている。仕事にも恵まれ、子どもとともにいられる仕事は最高に素晴らしい仕事である。しかも運もよく小学校まで作らせて頂いた。何も不満はない、何か不満でもあるのかと自分自身を問い詰めてみると、都合のよいことを言ってのらりくらりと逃げてしまう。子どもと一緒にいられることは何事にも代えがたいことだが、それ以外はだれかにやってもらってもいいなんて、情けなくも逃げ出そうとする自分がいる。

今日は仲間の認定子ども園の認可になった建物の竣工式で、招待されて挨拶をしてきた。早稲田の応援団にいた凄い先輩だけど、彼も大変な時があったのだと思うと少し重荷が取れたような気にもなった。私も人生つきまくっているようだけれども、彼もつきまくっている。本人がそう言っていたから間違いないだろう。

 
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2014/12/12
アベノミクス
| by:塚原 港
安倍首相の唱えた経済政策で三本の矢にたとえられているものだ。デフレが進行し景気を何とか回復させるべく、日銀と協力して円安に持って行ったけれど、その間に消費税率を今までの5%から8%に上げたためにまた景気が落ち込んだ。消費税を上げないと、掲げた政策がうまく行かないこともあって、政策遂行のために円高是正をしたようなものだが、意外とうまくいかないものだ。野党が政権を取ったところで自民党よりうまくいくことはない。もっと混乱を招くだけだ。この際、圧勝して安倍さんには腰を据えて経済政策に取り組んでほしい。

円安で史上空前の莫大な利益を得た大手の自動車会社などは、為替で得た利益は為替で損もするという理屈で、その利益を下請けに回そうとしない。お金が大会社でだぶついているだけでなかなか下請まで下りて来ないのも、景気が停滞している所以でもある。大会社ばかりが潤っていて、中小企業までお金が巡回して来ないのだから、零細企業などはおこぼれもない。私たちの事業所などは経常費補助金が頼りで、まったくの他力本願であるので力の出しようがない。景気のよくなったという実感がないどころか、みんなは物価が高くなったから、実質給与が目減りしていると言っている。

以前の消費税から5%上がるわけだから、5%以上の給与を上げなければみんなの暮らしは良くならないではないか。まず所得が上がってから消費税をやったら良かったのではないか。まず塊より始めよで、公務員から給与を上げていくのはいかがなものだろうか。経常費は今年度はすでに決定していてこれから増額されるということもないから、昇給はどうしたら良いのか。私たちの仕事はブラック企業になってしまうではないか。新採の初任給をどうするかではなく、今いる教師の次年度の昇給について思い切ったことをしなければ、いつまでも彼らの犠牲に頼ってはいられないだろう。

私立学校の教師は公務員の教師と所得を比べられる。教育内容は私立独自のものがあるから、断然私立の方が選択余地があると思うけれども、学校教員になりたいというより公務員になりたいという人の方が多い。また私立の幼稚園教諭は公立の学校教員から比べると、情けないほど低給である。学校教員も仕事は良くするけれども、幼稚園教諭はそれと比べて優るとも決して劣ることはない。しかも私立の学校というのは、常に競争の中に晒されていて自己研さんを怠るとすぐにお払い箱になる。なのに公立より給与が低いのは納得がいかない。いつの日か、学校教諭も幼稚園教諭も同格の給与になることを夢見ている。

今日の餅つきはあおば台で行われた。仕事を休んでお手伝いに来てくれたお父様ありがとうございます。昨日からもち米を冷やしておいてくれたりして、またおいしいけんちん汁を作ってくれたお母様ありがとうございます。おかげで子どもたちは大喜びです。心から感謝いたします。

アベノミクス

安倍首相の唱えた経済政策で三本の矢にたとえられているものだ。デフレが進行し景気を何とか回復させるべく、日銀と協力して円安に持って行ったけれど、その間に消費税率を今までの5%から8%に上げたためにまた景気が落ち込んだ。消費税を上げないと、掲げた政策がうまく行かないこともあって、政策遂行のために円高是正をしたようなものだが、意外とうまくいかないものだ。野党が政権を取ったところで自民党よりうまくいくことはない。もっと混乱を招くだけだ。この際、圧勝して安倍さんには腰を据えて経済政策に取り組んでほしい。

円安で史上空前の莫大な利益を得た大手の自動車会社などは、為替で得た利益は為替で損もするという理屈で、その利益を下請けに回そうとしない。お金が大会社でだぶついているだけでなかなか下請まで下りて来ないのも、景気が停滞している所以でもある。大会社ばかりが潤っていて、中小企業までお金が巡回して来ないのだから、零細企業などはおこぼれもない。私たちの事業所などは経常費補助金が頼りで、まったくの他力本願であるので力の出しようがない。景気のよくなったという実感がないどころか、みんなは物価が高くなったから、実質給与が目減りしていると言っている。

以前の消費税から5%上がるわけだから、5%以上の給与を上げなければみんなの暮らしは良くならないではないか。まず所得が上がってから消費税をやったら良かったのではないか。まず塊より始めよで、公務員から給与を上げていくのはいかがなものだろうか。経常費は今年度はすでに決定していてこれから増額されるということもないから、昇給はどうしたら良いのか。私たちの仕事はブラック企業になってしまうではないか。新採の初任給をどうするかではなく、今いる教師の次年度の昇給について思い切ったことをしなければ、いつまでも彼らの犠牲に頼ってはいられないだろう。

私立学校の教師は公務員の教師と所得を比べられる。教育内容は私立独自のものがあるから、断然私立の方が選択余地があると思うけれども、学校教員になりたいというより公務員になりたいという人の方が多い。また私立の幼稚園教諭は公立の学校教員から比べると、情けないほど低給である。学校教員も仕事は良くするけれども、幼稚園教諭はそれと比べて優るとも決して劣ることはない。しかも私立の学校というのは、常に競争の中に晒されていて自己研さんを怠るとすぐにお払い箱になる。なのに公立より給与が低いのは納得がいかない。いつの日か、学校教諭も幼稚園教諭も同格の給与になることを夢見ている。

今日の餅つきはあおば台で行われた。仕事を休んでお手伝いに来てくれたお父様ありがとうございます。昨日からもち米を冷やしておいてくれたりして、またおいしいけんちん汁を作ってくれたお母様ありがとうございます。おかげで子どもたちは大喜びです。心から感謝いたします。