初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2018年5月の記事一覧

大人の生き方が投影される

今の日本の政治の在り方は幼児教育から義務教育高校教育まで全てが対処療法であって、今決めたことが10年後や20年後にそのまま残るのかというと、そんなことはあるまいと思う。考え方によってはその都度社会の価値観が変化して行くたびに変えていけばよいということで対処療法は一つの方法で仕方のなおことだと考えられなくもない。しかしそれは為政者のすることでも賢人の考えることではない。

今世界の大きな流れは米国の強い保護主義が恫喝とともに小国は混乱されようとしている。理念のない日本もそれに脅かされている。国際的な取り決めも横暴な米国によって無視されていく。なんといっても経済も軍事も世界のナンバー1であるから、これにたてつくことは一国の命運にかかわってくるから、正義を盾に議論しても相手が乗ってこなければどうにもならない。本来このようなことは許されてはならないことは当然である。

もしも日本の国の政治も皆さんの家庭もこれから先経済一辺倒の考え方で生きていくとしたら、永遠に心の安らぎを覚えることはないだろう。何故ならよほどの賢者でもない限りは己の欲望を抑制することができないだろうから、井戸や池の水は枯渇することはあっても人の欲望は枯渇することがないから、大海よりも深いのが人間の欲望なのだ。この欲望から早めに離脱する知恵を持った者が勇者であろうし賢者である。

経済への貪欲さを植え付けられた子供は不幸せである。死ぬまで安らかな人生を得ることはできないだろう。本当の人格者は自分の生活のためにとか、自分のために金儲けをするという人はほぼいない。衣食足りて礼節を知るという諺があるけれど、有り余るものを私たちは持っているが、それに気づこうとはしないで、もっともっとと言って自分を苦しめているのだ。この辺でパラダイムシフトと言ってもいい意識の変革が必要だ。子どもたちの将来のために。

子どもたちが私たち大人を観ている。幸せになるためには色々な道がることを今まで生きてきた大人たちの知恵で方向を上手に伝えられれば良い。私の学校はそのようなことを発信していかなければならないのではないか。何故勉強をするのかという問いに皆さんはどのように応えるのであろうか。学校は詰められるだけの知識を詰めて、それが人生のスキルとなるというのでは無責任ではないか。その知識を人類のために使うことを教えてあげられないと学校の役割にはならないのではないか。

幼稚園は子供の楽園

両園ともに世界に恐らく一つであろうリヤカーの免許証が一人一人に手渡された。ただでもらえるわけではない。リヤカー運転試験があって、園庭いっぱいに白線で道路を描き、自動車教習所と同じように、S形もクランクもあり、最後にはバックで車庫入れもある。白線を踏まないように教えてもらった通りに懸命になって運転をする。子どもにとっては自分が立っている位置とリヤカーの内輪差などがあってその感覚が結構難しい。前に二人、後ろに助手のような役割の子が二人、乗客が二人の6人構成で出発する。そういえば二日前に幼稚園に巣を作った燕が5羽巣立っていった。

2台のリヤカーを動かし交互に試験を受けることになるが、途中でつっかえてもだれも文句を言ったりはしない。うまくいかないで戸惑っている前のリヤカーの子がうまくいくまでじっと待っている。忍耐がいるとかではなくて、子供の世界では当たり前のことなのであろう。悠久のあるいは無量の時間が子供達には与えられている。無事に車庫入れが終わって試験官である私の前に来ると、大きな声で名前を呼び『ゴーカーク!』と私が叫ぶ。同時に子どもたちはにんまりとする。

免許証をもらえた子どもたちは得意そうに早速帽子に付け、写真の貼ってある側を意識してすれ違う人に見せつけるように得意がっている。それはそうだ。なんといったって免許証は年長さんのステイタスなのだから。とはいえ生まれて初めての試験というものにぶつかって、なかには憂鬱になった子もいるのではないかと思うけれども、何でもやってみなければわからない。ちなみに両園ともに欠席者なしである。

日大のアメフット部は学生日本一になったけれど、中身は全くお粗末である。今回の危険行為についてコーチや監督は学生一人に責任転嫁して挙句の果てに雲隠れだ。教育機関に身を置くものとして恥を知るべきである。学生の方が全く潔くて好感が持てる。人生は長いのだから、堂々と胸を張って生きていってほしい。日大の記者会見でもかつて共同通信の記者をしていたという者が司会をし、傲慢不遜な態度である。もうこれでは学生が可哀そうである。情けない日本の隅にある一コマではあるけれども、日本人として恥ずかしい。

米朝首脳会談は結局流れてしまった。うまく言って困るのは中国だし、だから中国は何のコメントもしない。思う通りである。会談をしても中国の後ろ盾を確信した北朝鮮に、トランプはそれをよしとはしないシグナルだろうし、北朝鮮にもう一度考えるチャンスを与えた。今一度日本海に第7艦隊を出動させれば北は米国の本気度が分かるだろう。そうなると拉致問題も解決するだろうが、それこそ戦争へ突入する危険も高まる。日本は対岸の火事というわけにはいかない。拉致問題を解決するには強大な軍事力しかない。日本人の殆どの人がそう感じているけれど、平和裏に解決なんてありっこない。

 

日本周囲で起こること

全くの予想に過ぎないが、北朝鮮の居直りのような強気に出ている背景には、中国との何らかの確約があってのことだ。あくまでも現体制を保障するとトランプは言っているけれども、通常兵器しか持たなくなった北朝鮮は国内向けに説得力を欠く。南北の軍事境界線はどうなるのか。核なき戦争を始めるかもしれないが、そんな時日本はどうするのか。多分ギリギリのところで米国が北朝鮮に攻め入った時、その時は中国が北朝鮮に派兵して米国を食い止めるみたいなことも話し合っているはずだ。そうでなければ一度震えあがった北朝鮮が米国の虎の足を何度も踏みつけられるはずはない。

南北戦争が起こったら韓国の難民は済州島までにして、日本の国内に入れないようにできないだろうか。あの国とは絶交したほうがよい。当然スワップだの漁業協定などはもってのほかで、そのくせ日本の魚は買わないとまだ言っている。友達だって約束を破ったら、その次からはあえなくなるではないか。

それよりも最悪のシナリオが、米国と中国が地上戦でも始めたら日本の国は最前線となる。そうならないようにどちらにも最高の結果をもたらす会談にしてもらいたい。戦争回避には最大限の努力をしてもらいたいし、併せて拉致被害者家族にも最高の喜びを伝えてあげたら最高である。そんな会談を世界が望んでいる。

怪しくなってきた米朝会談

拉致問題などは日本の問題だから日本が率先して行うべきだが、相手がそれには応じようとしない。中国は軍備を増強して米国にならって覇権を唱えようとしている。北朝鮮は中国へ行って、核の全廃は中国自身の米国に対するカードを失うことになることを言葉巧みに伝え、核を撤廃するような素振りを見せつけるだけで、経済制裁から逃れようとしている。中国と北朝鮮は必ず密約があるだろう。北朝鮮は中国にすり寄って米国の脅しを正面から受けて、自分の強さをアピールしているがこの後が大変だ。

米国の外交は恫喝外交で軍艦外交だ。人を説得させるのには愛情と恫喝の二通りしかない。米国のトランプ大統領は主に恫喝を使って相手を説得させるというより屈服させている。力によって相手をねじ伏せているのだが、こんなことは長い歴史を見ればそんなに長くは持たない。どこかにひずみができて誰もが米国の言うことは聞かなくなる。エルサレム問題も無用の危機を生んでいるが、アラブ世界を敵に回すことになるだろう。日本は自分の意志を持たない世界の笑いものになるだろう。このまま米国に従属するのか。

それでは日本はこれからどのように生きていけばよいのか。極端かもしれないが憲法を変えて軍隊を持ち、自分の国は自分で守ることを宣言し、外国軍隊を日本国内から出ていってもらう。これにはどこの国も反対はしないだろう。その上であらゆる国と不戦条約を交わす。不戦条約をするなら軍隊はいらないだろうと思われるが、そうではない。軍隊を持っているから条約が締結できるのだ。今の日本は独立国家ではない。米国という大虎の威を借る狐である。これでは誇り高い子どもが育たない。基本がだめだからすべてが駄目である。空しい限りだ。

米朝会談が空振りに終わったら、その後の日本はどうなるのか。また米国大統領に泣きすがることしかできないではないか。自民党や今の国会議員の責任ばかりではない。日本国民に対しての一番の加害者でもあり被害者は日本国民である。

泥んこ祭り

初等中等学部では田植え前の田んぼに入って泥んこの中で運動会だ。全く楽しいだろうな。もっとも私たちの時代には、別に『泥んこ祭り』とか銘打ってやることはない。毎日がそんなものだから真っ黒になってそれに没頭することが大切で、汚れることに気遣っていたら楽しくない。なかには必ず悪乗りする輩がいて、その場を壊してしまうのが成り行きだが、それも全体的に見れば余興のうちだ。こんなことを高学年になってもやらせてもらえるのはとてもよい。女性は気後れする子が多いけれども、内心頭の中では自分の存在を目で追っている。

土曜日曜日は幼稚園のプレイデイがあって初等中等学部のグランドを貸してもらった。どちらの幼稚園も半日で終わったがとても快適であった。その後は私の講話があって、何を話したのかと言うとこの後小学生になったら幼稚園と違って周りの子供たちの成績やわが子の成績が気になって仕方がなくなる。しかし勉強ができるとかよく学習しているという子は遺伝によることが50%だ。中学3年生の成績は35%が遺伝によるものである。『何故この子は勉強しないの!』などと言って子どもを叱るのは藪蛇だということ。そんな話をした。それに学校の教科の成績のような認知能力よりも、世の中で必要な能力は非認知能力だろうが。ということ。

国会は『モリ・カケ』ばかりで蕎麦屋の宣伝ばかりだ。はっきりとさせない総理に一番責任があるだろうけれど、それしか言えない野党の視野の狭さが気にかかる。北朝鮮が中国へ行って何を話してきたのか、それは核の全面放棄だけは何とか食い止めてくれということだろう。核を失ったら北朝鮮の人民をつなぎとめておく大義がなくなるし体制が持たない。何度も騙されてきたのだから、今度だけはそのようなことがないようにして欲しいものだ。

侍がいない?

侍などというと時代錯誤だなんてお叱りを受けるかもしれないが、国会も官僚もみんな正義や真実とは程遠いところにいる。誠実には野党も与党も生きられないようだ。つまり損得でしか生きる隙間を見いだせないでいる。正邪を説いてみてもナンセンスである。彼らの頭は腐りかけの卵のようで、隣によると腐った卵のにおいがしそうだ。近くでは世界的に注目を浴びている米朝の初めての対話があって、これがこの地域の平和と安定をもたらすかも知れないというのに、国会ではそんな話は全然出て来ない。

それで何かあったら政府与党の責任であると言えばその通りだが、体たらくな野党だから国民も誰も期待はしていないが、国会は1年以上も『盛りかけ』ばかりの話で、この解決こそが国民の幸せにつながるとでも思っているのだろうか。またこの疑惑はすべて総理個人の問題であってこのことによって国会を空転させたりすれば、自民党の責任にしないで総理個人が潔く腹を切らなければならないだろう。

昔の政治家には本当に潔く腹を切ったものがいた。中野正剛と言って『日は東方より出る』とかいって、少しかっこよすぎるけれども、個人が自尊心の塊みたいで、そう言う政治家の集まりだった。現在みたいに隠し通せるものなら隠してしまおうという卑怯な政治家は仲間からも糾弾された。そんな日本ならば『日本に住みたい』と思う国民が増えるだろうけれど、今のままだと国民は政治にそっぽを向いてしまうだろう。尊敬できる侍がいないのだ。

戦争にでもなったら真っ先に逃げ出しそうな政治家ばかりではないか。米国の恫喝外交に何も苦情やいさめるようなことはしない、これでトランプとはうまくいっているようなことを平気で言っていたのではだめだ。日本の国は経済優先ではなくて心のありようを大切にする国家にしなくてはだめだと思う。だから判断の基準が損得になってしまうのだ。何とも嘆かわしいではないか。米朝会談がうまくいかなかったときにはどうするのか。拉致問題はどうなるのか。国会で議論しなければならないことはたくさんある。子どもたちに明るい将来の展望を持たせてあげてほしい。今のままではみんな嘘になる。

徒然草

『徒然草』を書いたのは吉田兼好だったか忘れてしまったけれど、日本のジャーナリストのはしりだと評した評論家もいた。徒然なるがままに世の中を風刺して書きつづったもので、現代文に訳されたものしか読んだことはないけれど、文節がしっかりしていてとても読みやすく、その頃の庶民の生活がよく分かる。肩に力が入っていない。このような人をコラムに参加させたら一気に新聞や週刊誌は売れ行きが良くなるだろう。

あっさりと人の心をつかむような世の中の出来事を書けるなんて天才だろう。だから現代まで息付いているのだろうけれども。そういえば日本の訳者というのはすごい。外国文学を生き返らせたのは日本の訳者だ。ヘッセの詩集『孤独者の音楽』やアンドレジードの『狭き門』数え上げたらきりがないけれど、特に詩集の感性の鋭さにはため息の出るほどの見事さである。日本人の感性に優る民族などいるのだろうか。日本語が素晴らしいのであろう。

久しぶりに土浦青年会議所の青年と一緒に故寛仁親王殿下の宮邸に行ってきた。御所に入ってすぐ右側が秋篠宮邸でそこに眞子様がいらっしゃる。30年も前になるけれど土浦青年会議所が寛仁親王殿下に大変お世話になったころからのお付き合いで、それからづっと続いている。青年会議所は単年度切り替えだけれども、そんな付き合い方をしていたのでは友達をなくす。

帰って来たら初等中等学部の草取りを幼稚園の先生方がやっている。今度の土曜日曜日にプレイデイがあるのでそのための用意であるが、校庭が広いから先生たちも大変だ。本当によくやるよ。

明るいのか暗いのか

子どもを育てていくときに、これからの世の中はどうなっていくのだろうかということをある程度勉強しなければならない。流れに任せるという生き方もあるだろうが、今までのように米ソの冷戦があって、なんとなく自由主義陣営が勝利をおさめ、経済戦争でも自由主義国家が勝利した。その中で、主体を持たず、ただ米国に従っていた日本は、いずれ中国が台頭してきたときには厳しい選択を強いられるだろう。

亡くなられた宇宙物理学者のホーキング博士は『地球の残存期間はこのままでは後100年』と言っているが、その根拠となるのは一体どのようなものであるのか。その肝心なところが書いてなかったのか見過ごしてしまったのか定かではないけれども、無性に知りたいところだが、どこでその記事を読んだのかも忘れてしまった。本当に100年しか持たないとしたらどんなことが考えられるのだろうか。考える余力のない頭をひねってみると、まず地球そのものが巨大な隕石にぶつかって大破してしまってなくなってしまうのか。

宇宙そのものの変化ではなく、地球上で起こる様々な事象によって地球そのものが自らを維持できなくなってしまうのか。例えば第3次世界戦争によって核を持っている国の掟破りによる世界核戦争になって人類が生きられなくなってしまう地球になるのか、その場合には人類は滅亡しても地球は残る。

人類が生きている間は地球太古の昔に帰ることはないだろうが、生きている人が大変だ。この先明るい方向に話をする人が少ないので、自然と暗くなる情報ばかりだ。子どもたちにどのような夢を持ってもらいたいのか。現実と夢をどのようにつなげていけばよいのか。希望をどのように育んでいけばよいのか。