初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2012年2月の記事一覧

兵隊

『内憂外患交々来る』というのがある。まさに言いえて妙である。世の中はいいことばかりではないけれど、そう解っている上にまたまた内憂外患交々来てしまう訳だ。その繰り返しが人生なのかもしれない。毎日ニコニコと笑顔で暮らすことは至上の歓びだろうが、そうはいかない方が人生の長い間には、多分多い。それでも書物などには「わが人生悔いはなし!」などと精一杯の強がりを言ってご臨終というのが多いのは何故か。精一杯の人生への皮肉なのか。

水木しげるさんは、初年兵としてラバウルへ行ったが、彼らを最後に新しい兵隊は誰もラバウルには行かなかった。だから水木さんはずっと初年兵のままでラバウルで終戦を迎えたことになる。定かではないが2年ぐらいはいたらしい。毎日ロッキードの爆撃にさらされ、うまいこと弾に当たらずにいたけれど、小隊で移動の最中に現地の組織に襲われ、仲間とは生き別れ、三日間もジャングルの中をさまよっていた。椰子をとりその中の水でのどの渇きを凌いだ。

地上戦で交戦する前は、毎日陣営作りと小銃の手入れに飯盒洗い。たまに上等兵のふんどし洗いもしたらしい。そして気に入らなければビンタが飛んでくるという毎日の生活だ。しかも自分より新しい兵隊が入ってこないのだから、やられっ放しだ。そんな毎日を暮らしていて、自分のいた小隊が全滅になって三日もジャングルをさまよい歩きやっと日本軍の兵舎にたどり着いたら、「小隊が全滅したのに何故生きて帰ってきたのか!」と怒鳴られたそうだ。人間不信になったとある。

戦争とはとんでもないことである。兵隊のそのような生活は何も日本ばかりではない。他国の兵隊もとんでもない生活を強いられたことは、外国の戦記にも色々掲載されている。ただ日本は武士道というのがあって、精神論が前面に強く出されるので困る場合もある。竹やりではどうやっても戦闘機には勝てないだろう。その精神を鍛えるのにビンタがある。これは兵隊にだけあったのではない。戦後の学校はどこもかしこもビンタばかりだった。ビンタは手っ取り早い統制である。

ビンタでもしなければ統制のとれない男どもは今でもいるが、こんなことで言うことを利かせても空しくなるだけだ。あれは統制ではなく、統率者の欲求不満のはけ口ではなかったのかと思う。水木しげるさん生きて帰ってきて本当に良かったと思う。結構要領が悪くて、誰よりも多くのビンタを頂いたらしいけれど、生きて帰ってきてくれてありがとう。これからももっともっと生きて、素晴らしい作品を残してほしい。

汐見俊幸先生とその御一行様が青葉台初等学部を見学に来た。早速できたばかりの桜の木の上のバンブーハウスにのぼり、子ども達と記念写真を撮っていた。川を作った時の土山の上に上がっては、ニコニコしながら下を向いて楽しんでいる。川を見て「夏には必ず来るぞ!」とニヤニヤ。私よりも年寄りなのに子どものような感性をお持ちでいらっしゃる。あの中央教育審議委員の先生が・・・・とても親しみやすいお人柄であった。松永先生は第二幼稚園の子どもたちの前で腹話術をして遊んでくれた。いつもいつもありがとうございます。