初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2017年11月の記事一覧

マリーナベイサンズ

 三つの高層ホテルの天辺に船の形をしたプールが載っている場所へ行ってきた。そのホテルの中へ行ってきたわけではないけれど、私の 泊まっているホテルから歩いて10分ぐらいの距離にあるので、散歩がてらに行ってきた。少し異様な気がしたけれど、このホテルの建設を請け負った韓国の会社は、建設終了後引き渡しが終わるとすぐに倒産してしまったらしい。日本の建設会社はこの工事に疑義があって、入札に応募しなかったらしい。そんなことも あって、日本の中では「このホテル大丈夫?」と言う風に一部では囁かれている。

昨日は日曜日ということもあって、この地域は夜でも人が賑わいで行き交っている。すぐ間近にシンガポールの港があって、静かな海辺を高速道路が走っている。そんな情景もいいけれども、さすがにアジアの金融都市というだけあって活気がある。そしていろいろな人種のるつぼでもある。肌の色も違えば、宗教も違うし、日々の生活習慣も違う。そんな人たちがうまく調和しひしめき合っている。この国を思えば、人間は肌の色や宗教が違っても争いを起こさずに平和に暮らす事ができるのだ。

シンガポール

シンガポールにきている。ANAに久しぶりに乗ったけれども、沖縄を越えるところからずいぶんっと揺れていたのに、客室乗務員は何事もないようなそぶりで客 に相対していた。日本は地震が多いから案外気にならないのかもしれない。外国の航空会社では、すぐにアナウンスが入って乗務員も同じく座席に腰掛けて揺れ が収まるのを待つといった状況だ。偉いなと感心すると同時に大変な仕事だと思う。

かつて初等学部で英語を教えていた先生に会 いにきた。実はその先生の息子はあおば台幼稚園の卒園児だ。もう21歳になると言うのでどのような青年になっているのか、非常に楽しみであった。現在は徴兵に出ているけれども、なんとプロのサッカーチームに所属していると言う。驚いたけれども、驚いたのはそれだけではない。サッカーはいつまでもできないから、しっかりと国立の大学へ行って仕事に付かなければならないと思っていると言う。しっかりとした考え方を持っているしそれを実行している。

21歳にしては日本の青年と比べたらしっかりしている。日本の青年が大人になりきれない雰囲気を漂わせているのは、多分親の介入ではないかと思っている。子離れできない親が軟弱な青年にしてしまうのではないか。そればかりとは言えないが、大きな違いは徴兵制がある事だろう。 若い時から命をかけると言う経験をしたものはそれなりに心の基本的なものに筋金が入るものだ。

年少さんの保育参観

両園ともに年少さんの保育参観が終わった。初めて幼稚園に来て、友達という仲間ができてどんな子どもの世界を演出しているのだろうか、興味津々と言ったところであろう。仲間がいると言っても、意思の疎通はなく場の共有はあっても同じ意識は持てないから、同じ遊びの中でもすぐに衝突が起こる。3歳児の心の発達の出発点みたいなものだから、かえって動作や仕草や言葉のやり取りなどに興味がある。混沌とした心の葛藤があって、人として成長していくのだろうなと思う。

幼稚園に来るまでの子どもたちの育ちをすぐそばで見守っていたお母様はよく頑張って来たなと思う。部屋の中で子どもと二人きりで、子どもはまだ言葉を理解しない状態である時など、煮詰まってしまってときには発狂したくなる時もあったろうと思う。それは重々理解できるが、だからこそ子どもの成長を楽しみに待てるのではないかと思う。楽しく前を向いて子育てしてくれるようにお長いしたい。必ず子どもは親の期待に沿って行ってくれると信じてほしい。そして何よりもお母さんが幸せになること。

チバニアン

77万年から12万5千年前の地層が見つかった。国際学会での名称が『チバニアン』と命名された。ただチバニアンという名前を聞いても、千葉にもインディアン 部落があったのかぐらいで聞き流してしまう。ましてやその筋の研究者しか知らない用語で解説されても分からない。地軸が反転したなどと聞いても、地球が180度回転したのかとか、その時の地上にある物はどんな現象を起こすのだろうかと考えると、地球が180度回転するのには少し無理があるから、S極とN極が瞬間移動したのだろうなと思うが、それは何故?。

そもそも極が反転したなどどうして分かったのだろうか。いやいや説明はいい、聞いても理解できないから。多分大型恐竜が地球上を闊歩していた時代でもあるだろう。まだまだ人間は登場してこない。ちょっと待って、大型恐竜の時代は6500 万年前に終わっているのだから、その後の地層だ。小型の哺乳類などが生まれてきたころではないか。こんな研究をしている人はロマンがあって生きがいがあるだろうな。学習の初発はやはり興味や関心からだ。そして探究心を深める。

小学生の少年に戻って、今ぐらいの知識を持っていたら地球物理学者になりたかったな。地球の果ては大きな滝があって、そこへ行くともう戻って来られないなどと真剣に考えていて、地球というところはとても恐ろしいところだと思っていたので、コペルニクスや、ガリレオガリレオよりも前の古い知識しか持っていなかった私には地球物理学は無理だ。誰が私にそんなことを教えたのだろうか。

それでオルタナティブは?

自由な学校としてのオルタナティブスクールには大賛成だが、それで教育者としての責任は果たせるのだろうか?という疑問が残る。多様な価値観があるので個人の教育的価値観を押し付けるわけにはいかないけれど、義務教育というのは文科省の教育的価値観を押し付けているといっても、全く的外れな意見だとは思わない。そこで教育というのは国家に帰属するものなのかそれとも個人に帰属するものなのかという議論が沸き起こってきてもよさそうだと思うけれども、国家に財 政的な援助をお願いしている立場上、国家に帰属するのではないと強くは言いにくい。

それは私が勝手にそう思っているだけのもので、国家が国家に帰属するものだということは教育基本法にも書いていない。けれども学校法人を取得するのには、国家が介入してくる。だれにでもできないようにしてあってそのハードルは高い。そのことは『私たちの言うことを聞かないと学校は作らせませんよ』と言っているようなものだ。だから日本国中に散らばっているオルタナティブの考え方では法人は作れない。彼らが法人にしたいとは言ってないが、それで運営するのはどうやって?感心する。

も う一つの疑問!。教育者としてある程度の知識を子どもたちに与えなければならないと私は思っているけれども、そのへんのところはどうだろう。青葉台では発達に応じて縦割りの学級を作っていてそこで基礎学習を学ぶ。その他には選択授業として、子どもたちが興味を示す学習に取り組むようになっている。それは堀先生のところで取り入れたものが多いけれど。子どもの学習への発露を重視している。だから全くやる気になるまで待つといっても待つばかりではない。静かに背中を押しているのだ。

焼き芋パーティ

プライマリークラス主催の焼き芋パーティである。ミドルやハイクラスの先輩を招いての楽しいパーティの始まりです。今日はあおば台でも焼き芋パーティだ。

 

先輩から教えて戴いたセレモニーはしっかりと。

 

一番年齢の低い子がリーダーシップをとっていても、茶化す者もなく先輩たちは神妙にして聞いている。
この学校のいいところだ。

 

1.2年生号令のもと、みんなで『いただきまーす』。とてもおいしかった。

 

1年生からの招待状

『やきいも大かい』『11がつ9にち(もく)』『じかん 3じかんめのこうはんごろ』『大そうこのまえ』と外国人が日本語を初めて習ったようなたどたどしい平仮名で書いてある。『りじちょうせんせいへ やきいも大かいをたのしみにしていてください プライマリーより』と添え書きもしっかりとある。何かあるたび にこのような招待状をもらう。たどたどしくも一生懸命書いている姿が浮かんできて、ありがたく頂いている。彼らにとって何かの思い出になればいいなと。

こ の10年間で不登校や何らかの理由で学校へ行かない子どもの数が増えているという。そのせいかオルタナティブスクールという学校に人気が集まっているとい う。オルタナティブというのはもう一方のとかもう一つのという意味の学校である。文科省の義務教育では満足できないというか、うまくなじめない人たちが自分の居場所を探してたどりつく学校である。サドベリーバレーの教育もこの種に入るが、日本の社会構造にうまく溶け込めるのだろうか。しかし私はこの教育的考え方には賛成だ。

なぜなら画一的な義務教育に、私の生き方はぴったりとくるなんて人はほんの一握りに過ぎない。そこにじっとしていなけ ればならないほうが拷問のようではないか。そこに反発できる子どもの方がむしろ自分を生きる要素を色濃く持っているのではないか。とはいえ日本は学歴社会 で、幸せイコール高学歴ではないということを理解していながら、あとは親の体裁で何とか人前に出ても恥ずかしくない学歴をと思っている。このような凝り固 まった感覚が幅を利かせている間は、オルタナティブは試練を強いられる。

またオルタナティブでは運営資金に事欠く。きのくにこどものむら学園の堀真一郎先生も、それが大きな問題であった。どのような形にしても教育をするのには資金が必要だからである。その結果学校法人の資格を取った。私は最初から法人格を持っていたから、法人以外の学校を作ろうとは思わなかったが、結構強い縛りがあって、自分の思うようになんてことはできない。勿論オルタナティブのようなことは絶対にできない。でも堀先生はうまいことやっている。

秋深まる

寒い日ではなく、冷たい風が吹き低い気温になると秋は一瞬に深まる。太陽の傾く西の方から木々の葉も色づいてくる。そんな想いを持って空を見上げてみると、 鰯雲だか飛行機雲だかが東から西の方に流れている。一抹の冷たい風がヒューッと頬をなでていくと、秋は短い、もう冬がそこまで来ていると感じる。しばらくすると、年の瀬となりそこでまた感慨深くなるだろう。そしてその次には、年齢の重みに深いため息をすることになる。年をとることに抵抗はないが、加齢による何とかという言葉が大嫌いだ。

いつだったか保育園保育士と幼稚園教諭の仕事の違いを書くと言っていたのでこの紙面を借りて少し書いてみ ようと思う。まず誰もが知っている様に保育士は厚生労働省の行政担当であって、幼稚園教諭は文科省の管轄である。幼稚園は教育法によってその地位が確保されている。保育所は社会福祉法によるものだ。幼稚園にはクラスの担任がいるけれど、保育所にはクラスがあっても担任とは言わない。担当である。

幼稚園の教育時間は4時間であって、保育所は8時間以上が義務づけられている。保育所の場合親が8時間勤務だからなのだろうか、それは定かではない。そんなわけで幼稚園は担任はできるが保育所は担当制で交替でそのクラスをみる。だからと言って幼稚園が楽な訳ではない。幼稚園は指導要録があって、卒園したらそ の指導要録を進学する小学校へ提出しなければならないが、保育所にはそれがない。

私は企業内保育所という無認可の保育所を内閣府の補助金で設立した。面倒な書類が必要ないので簡単に出来るのでやってはみたけれど、そこで驚いたのが、保育所というのは子どもが中心ではなく、働く親のためにあると言うことが堂々と書かれていることである。建物が出来るころに一夜漬けで勉強したものだから、全ては後の祭りである。今まで子ども中心の勉強をしてきたものだから、唖然としてしまった。もっともこの施設は、あおば台の幼稚園あるいは小中学校の教員のお子さんを預かるのが主たる目的だから、今までの発達理解や教育理念に沿ってやっていけばよいことだが。

トランプ大統領来日

他のことを書くつもりでも、日本にとってはトランプ大統領の来日がトップニュースにならなければならないだろうと思って、表題はそれにした。北朝鮮問題を早く解決して、拉致被害者を一刻も早く救済して戴きたいものだ。中にはトランプ大統領来日反対なんて叫んでいる者もいるようだけれども、その理由を言って欲しい。誰が日本の周辺について安全を保障できるのか。日本独自で自国を守るというのはできればそうしたいけれども、今の状況では集団安保にすがるしかない だろう。

9人も殺した殺人鬼のその後の自供で、9人の中で誰も自殺願望者はいなかったと言っている。この殺人鬼は自分で働きもせず、お腹がすけば知り合いのところへたかりに行くような生活をしていたようだ。社会に対して無気力で、仲間関係もうまく構築できないようだ。普通に育った人間なら このような人と関わり合いたくないだろうし、このような人間の生い立ちについて、追跡調査をしなくても何となくその背景が分かりそうな気がする。全容解明 までまだ時間がかかりそうだが、この件に関してはもう何も知らなくてもよい。

金土と慶事が2件あった。一つは仕事場の結婚式で、素晴らし いお嬢さんを戴いた。私の職場は女性が多いので出しっぱなしで少々不満であったけれども、今回は何んとなく余裕を持って式を迎えることができた。あの讃美歌も少しずつ覚えてきたようだし、温かい披露宴であった。みんなにこにこして帰った。もう一つは地元で100周年を迎える歯医者さんの記念式典に出席し た。『100年てすごいな!』と言ったら私の隣に座っている柴沼醤油は400年だって。

とんでもない者

オーム真理教もとんでもない者だったけれども、9人も人を殺した殺人気がまだこの世の中にいた。想像を超える神経の持ち主なのは確かだが、どのように育ってきたのか榊原セイトと同じく心理学者にとっては興味のあるところだろう。何故そうも簡単に人を殺 せるのだろうかという、人と狂気の分岐点は何なのかということが知りたいのだ。幼児期の発達心理から犯罪心理学まで幅広い分野で犯罪者の生い立ちを追っていくだろう。人を殺すという決断はどのようにして芽生えるのか、知りたくもある。

人を殺すという行為にいたるまでの心理も大切だが、死にたくなるという自殺願望の心理にも困ったものだ。せっかく生まれてきて、親に育てられて、簡単に死なれたら親としてはやるせないどころか、気が狂ってしまうような苦しみを味わうことになる。犯罪心理はさておいて、この世の中を希望を持って楽しく生きられるようにしなくてはなるまい。手放しでもしっかりと育つ子はいる。そういった子に限って明るく楽しい生活を送っている。そのキーとなることは『認められている』ということに尽きるだろう。

それは親が思っているだけではだめで、口に出して子どもがそれを理解している状況を作らなければいくら認めていると言っても、子どもには通じない。認めていないことと同じだ。まず子どもが自分を大切に思われていると感じること。いつも自分が必要であると思われていることを感じていること。良く感謝されたりしていることが大切だろうと思う。大切なお子さんだから、大切なように育てなければならない。