初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2018年2月の記事一覧

新入園児1日入園とファミリア発表会

土曜日に両園の一日入園と小中学校のファミリア発表会が行われた。同日にこんな大きなイベントを重ねてしまったのは不徳の致すところだ。この時期は一度決めてしまったものは簡単に時期をずらすことができない。それでなくとも普段の平日であってもやることが詰まっていて、どこかに支障が出ることは目に見えている。しかしそれぞれに独立している幼稚園や学校であるので、実際に余裕がないのは私だけのことかもしれない。

幼稚園には可愛い生まれてから3年目の子たちが入って来る。今から30年前までは3歳児保育は幼稚園ではできなくて、みんな家庭で育てるか、保育所に行って4歳になるのを待って幼稚園に来たものだ。学校教育法に照らしてそれが幼稚園指導要領にうたわれていたものだ。今では子供の呼び方も1号2号3号という風に、親の働き方あるいは専業主婦とに分かれて、子どもの預け方が選択できる。選択と言ったが家庭によっては選択の余地がないかもしれない。政府あるいは官僚の政策は政策ではなくて対処療法で、都会ではいまだに待機児童の問題が解決できないでいる。この先何年もかかるであろう。国家が本気になっていない証拠だ。都会に集中して人が住むからこのようなことになるので、一極集中をやめることは強制的な力が必要だ。何かが狂いだしていることに以前から気がついていたはずだ。

小中学校のファミリア発表会はすごい!。子どもたちだけでこんなことができるのだろうか。何よりもみんなの目がきらきらしていて躍動的な子どもたちの力を感じる。このように生きているという証が必要ではないか。初等学部は中等部に入っても1年生はファミリアに入らなければならない。ファミリアは6年生までの専売特許ではない。初等中等とわけているのではなく、発達段階を理解して3年4年2年と言うように子どもたちの生活が充実するように構成されている。具体的な発達段階については学校のパンフに掲載されているので是非ご高覧戴きたいと思います。

そして先日ファミリアの現状について教員から報告を受けたが、中一になったファミリア最年長の子供たちの日ごろの生活ぶりを聞いた。ファミリアに於ける探究心もさることながら、普段の基礎授業についても知ろうとする意識が高く、教師に答えを求めるのではなく、自分たち仲間同士で確認し合いながらの学び合いがよく見られるようになったということである。やらされるのではなく、自発的に内燃機関が作動し自走できるようになる。これこそが私たちが求めているものではないか。内発的動機付けとなったものは何か。それはファミリア活動であったり、選択授業の充実ではないかと思っている。

生活発表会が終わった

先週の土曜、日曜で両園の発表会が終わった。インフルエンザが日本中に蔓延しているので、どうなることやら少々の不安があった。その不安が的中したクラスもあれば、まったく心配にならなかったクラスもある。特に第二幼稚園では全園年中と年長のみであるけれど、二人だけの休みであったのには驚きだった。子どもの自然治癒力だけでは病気を防ぐことは難しいので、どうしてもご両親の気遣いが必要になってくる。そう考えると自然に拍手したくなってくる。

あおば台幼稚園の年長のクラスは凄まじかった。7人も欠席者がいたのだから劇がどうなってしまうのか、後は子どもに任せるしかない。幼稚園まできて脇の下に体温計を挟んで涙ぐんでいる子もいた。私が子どもたちの前に出てみんなの顔を見渡すと、みんな無口でじっと私の顔を見ている。彼らは私が何と言うのか言葉を待っているようだったが、私は何とも言いようがないので『みんなで考えて』とだけ言って開幕の用意をしにステージに戻っていったが、そのあとの子供たちの葛藤がすごかった。

7人も休みがいれば7つの役に穴があいてしまうわけだから、それをどうにかして埋めなければならない。一人で何役もやらなければならないが、同じ劇ではそうは行かない。劇の中の女の子の役を男の子がやることになったが、女の子に言葉の指導をされて、男の子は『僕は男だから女の子の言葉は絶対嫌だ』と言って譲らない。女の子は『劇なんだからいいじゃない!』と言って譲らない。とうとう時間切れになって、劇が始まることになった。するとステージに上がってからも劇の中で言い合っている姿があった。何と楽しいではないか。子どもたちのやり取りをここまでじっと見守ってくれる幼稚園は数少ないであろう。

どちらの幼稚園も年中さんは年中さんらしく、年長さんは年長さんらしく、元気によく出来たと思う。ステージに上がって緊張感で泣き出した子も、背中を見せたまま前を向かなかった子も、いつかそのようなことが楽しい思い出となるだろう。そんな子の現象を観るのではなく、内面の心を観てあげようとすれば、ずいぶんよく頑張っているではないか。今度はきっとかっこよい姿を見せてくれるだろう。何も心配はない。最後に遅くまで頑張ってくれた保育者に感謝したい。良くやってくれた、ありがとう。

 

 

ちょっと違うかも

世の中の一般常識みたいなものと、現実は違うと言うようなことがある。まず民主主義と言うものは最高の決議機関だと言う。過半数が全てを制する訳だが、これが最高によい結果をもたらすものだろうか。実はそうではなくて法治国家は裁判官によって下される裁定を採用している訳だが、一応法律を学んだものに採決を委ねている。どちらか白黒つけるときにいちいち国民投票をするわけにはいかないし、そんなことをしていたらその費用だけで国家予算がなくなってしまう。その裁判官を任命するのも国民に委ねられているわけだが、勉強不足でその仕組みがよく解らない。これこそ非民主的であって、法曹界のものでしか理解できないのではないか。

社会の体制を維持していくのには、独裁か全体主義か民主主義の三つしか今のところはない。北朝鮮は独裁国家であるが、そんな国は沢山ある。アラブの産油国は殆どそうだし、ロシアも独裁だろう。かつて全体主義と言われていた社会主義国家も実のところ共産党一党独裁である。今の中国共産党もそうだ。そういう国家には自由がない。そしてわが国は自由と民主主義を標榜している民主主義国家である。どんな国家体制を選んだとしても平等というのはあり得ない。平等というのは、自由と同じで他から与えられるものではなく、自ら他と平等になるために勝ちとるものである。あまり努力もしないでもなれるものと努力してもなれないものとがいるが、だからこの世は不平等なのだ。

マルクスの言った労働者革命(階級闘争)は、まさに人類の平等をうたったものだが、人間が個として独立している以上、それがいくつかの思想の分類に分かれても、決して平等は生まれない。それは人間の個としての尊厳を認めるからであろう。そして人間に欲望と向上意欲がなくならない限り平等などの言葉は生まれない。だから平等は有名無実である。この偽りの言葉で、どれだけ多くの有能で勇気ある革命戦士が命を落としたことか。自由を求める人に平等は死語だし、民主主義を求める人に自由はない。そのようなことを覚悟して生きていかなければならない。

賑やかな子どもたち

いつものように、保育所の1歳児2歳児の保育室へ行くのには年中さんの部屋を通っていく。年中さんの部屋を覗いて、大きな声でややおどけた声で『お・はよー!』とアクセントを加えて挨拶をする。すると、一人の子が『あっ!園長先生だ!』と声を上げると7~8人の子が一斉にわーっと私の体にまとわりつく。その中の一人が私のお腹をさすって、『まん丸で大きい!』と嬉しそうにしている。

私は昨年の10月25日から炭水化物ダイエットというのをやっていて、これまでに5kgほど体重を減らした。その間海外にも二度ほど行ったが、焼きたてのおいしそうなパンにも出会ったが歯を食いしばって食べるのを拒んだ。肉や野菜ばかり食べていても、どうしてもご飯が食べたくなるものだ。私にとっては涙ぐましい努力であるが、子どもはいたって正直なもので、ときにはその結果が悲しくもなる。

私はすかさず『そんなことはないだろホラよく見て』と言ったら『少しへっ込んでいるようにも見える』と返してくれたが、私が言わせているみたいで後味が悪い。こんな小さな子にも『忖度する』気持ちがあるのだ。