初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2001年2月の記事一覧

たかが弁当されど弁当

 わが園は創立以来(昭和52年)ずっと弁当持ちで、給食にするなど考えたこともなかった。創立当時はまだ、幼稚園はお弁当持ちみたいな暗黙の了解のようなところがあって、弁当がいいか給食がいいかなど問題視されていなかった。3歳児入園にしても2年保育が主流で非常に珍しかった。
 九州のある地方の話である。夫婦と1.3.5年生になる男の子ばっかりの兄弟との5人家族の一家が、マイホームを建てごく普通の幸せな生活をしていたが、ある日一家の柱でもある父親が交通事故を起こし、しばらくの間意識不明のまま入院していたが、とうとう亡くなられてしまった。
 事故の後始末に対人補償などの思いもかけなかった借金が出来てしまった。住宅ローンと重ねると大変な負担である。それでも3人の小学生の子を持つ母親は、夫の形見でもある家を絶対に離すまいと決心し仕事に就くことになった。
 昼間は保険の外交をし、昼休みにはレストランの皿洗いに、夜はビル掃除にと。しかし女の細腕では世間の風は冷たく、借金の元金はおろか利息さえも遅れ気味となってしまった。情け容赦ない社会のシステムに心身ともに疲れ果て、いつの頃か家を手放そうと決心する。昔主人がお世話になっていた大きな家の主に「軒先でも倉庫でも結構ですから」とこれから住む家を何とか確保できたが、家を売ったからといって借金が消えたわけではなく、暮らしが少しでも楽になるということではなかった。気丈な母親であったが、家を手放した頃から生きる力が徐々に失せていった。そして長男の首に手を回そうと妄念がちらつくようになった。
 小学校の運動会。昼休みに少々照れくさいけれど家族で食事をするのが、至福の喜びである。誰もが幸せを感じるときだ。5年生担任の女の先生が、余計なことかもしれないが多分お母さんは忙しくてこれないだろうと思い、3人の男の子の分までお弁当を作ってきてくれた。それはそれは立派なお弁当で、重箱いっぱいに花を敷き詰めたような、見るからにおいしそうなお弁当である。心を込めて時間をかけて一生懸命つくったに違いない。
 食事の時間がきた。先生が3人の男の子を呼び寄せる。「さあ召し上がれ」と、半ば歓喜で迎えてくれることをひそかに期待しながら。しかし彼らはせっかく時間をかけ工夫しながら作ってくれた先生の弁当には目もくれなかった。彼らが寡黙に食べていたのは、母親が作ってくれた白いご飯の上に紅生姜で?ガンバッテ?とただ書いてある弁当だった。彼らはそれを崩さないように大事そうに食べている。教師は初めて教師である限界を感じたと後に述懐している。
 そんなことがあったことを知ってか知らずか、とうとう母親は今晩長男の首に手を回すことを決心する。最後の夜になるという日に母親は初めてお酒に酔った。子どもたちが寝付く頃を見計らい重い足を家路に向ける。
 裸電球のスイッチをひねり、3人の子どもの寝顔にひるむまいと覚悟を決めて長男の首に手を回すと、枕もとに?おかあさんへ?という手紙があった。その手紙に手をやってあけてみると、

  おかあさんへ
  毎日ぼくたちのためにお仕事ありがとうございます。
  今日学校から帰ってからお母さんに教えてもらったお り豆をにました。弟たちは「こんなまずいものは食えねえや」と言って先にねてしまいました。今度はきっと上手ににるからもう一度教えてください。なべの中に豆があります一粒でもいいから食べてください。お願いします。

と書いてあった。そして母親は言うに及ばず、もう一度生きていく決心をしたのだ。

私が弁当に拘るのには、私の経験からくるものだがこのような実話があることも大きな要因になっている。現実主義者や理屈っぽい人から、「だからなんだ」と言われればみもふたもない。
懐古趣味みたいに、セピア色になったものを後生大事にしていると、もっと大切なものに目が行かなくなるぞとも言われる。
 生まれたときから、電化製品で氾濫している時代に育ったお母さんたちに、たらいと洗濯板を渡したって無意味なことだとも言う。反面弁当持ちで3年間過ごしてきた母親のすべてが、この時代だからこそ子育てに自信がついたと異口同音に話している。しかしそれは入園してからの話で、ほとんどは入園前に弁当を作ることに抵抗を感じていることは事実だ。
 絶対に弁当持ちがいいことは自明であるが、作ることが面倒なのだろうし、なるべくいやなことはしないでうまく育ってくれたらいいと思っているのが本音だろう。弁当がもたらす教育的意義は、親子の絆を深めることばかりではない。名状しがたい無量の価値がある。弁当が全てだとは言わないが、弁当の大切さを改めて認識して欲しいものである。