初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2010年4月の記事一覧

まずは幼稚園Ⅲ

先日幼稚園の子ども達の黒目の美しさを名状しがたい美しさだと書いたがまったくその通りだ。ただの美しさだけではあまりにも軽軽しい。あの透き通った汚れなきむくな瞳はななにものにもかえられない。じっとみつめているとしばし時を忘れる。美しいものに多くの言葉は要らないが、是非にごらなくても良いものならば、そのままそっとしておきたい。

 

まあその話はあとにして。年少の子が最近よくないているのをみかける。その理由は何かというと、それがどうもわからない。多分集団の恐怖から来るものではないかと思っているが、これは集団に馴染めない子が暴発的にふるいたたせるエネルギーだ。だからその力は強くて十分すぎるほどの爆発力だ。これは、幼児が世に出るためのセレモニーだから余りきにしなくても良い。

初等学部のPTA総会

昨晩の雪が朝方にはうっすらと積もっていた。4月に入って今頃に降る雪など私の記憶にはない。この異常な天候。きっと今日の授業参観と総会を天地創造の神までもが一緒になって喜んでおられるのだろう。お陰で1週間前に満開になった校庭のど真ん中にあるサクラの花びらが落ちない。しっかりと額に収まっている花びらが、とてもけなげだ。そして力強い。

 

サクラの花びらを「力強い」と表現するのはおよそ私が初めてだろう。サクラはその花びらが暖かな春風に揺られて、さらさらとはらはらとゆったりと舞う姿がどうにも日本人の情緒にぴったりと合う。散り惜しむ人間の心の姿がサクラの木の下で行われる酒盛りなのであろう。サクラ散るわびしさを、酒盛りで押し隠してしまう心はとても恥ずかしがり屋だ。これが大和心のウィットだ。

 

あのサクラのこと、ずっと山桜と思っていたがどうも違う。ソメイヨシノではないことは確かなので近くにいる人に聞いてみたが、その名を知っている人はいなかった。なんとも負けず嫌いがいるもので「山桜とソメイヨシノの中間」と言う答えを出した。本居宣長は、古事記をその当時の読み方で編纂した国文学者であるが、山桜を評して「敷島の大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花かな」と詠った。語尾の「かな」が入ると字余りであるけれど、わたしはこのように暗記してしまった。知る人ぞ知るこれが土浦市の町名の由来である。

 

ずいぶん総会の話からそれてしまったが、総会が今終わって職員室の席に座ったばかりである。前段は総会までのウォーミングアップである。昨日幼稚園の父母会の会長のご挨拶についてコメントしたばかりだが、初等学部の前会長に今回の会長のお話もなかなか心がこもっていてとても優しさを感じるものであった。私は事務長から今年度初等学部の児童数と名前の入ったリストを頂いたとき、感激と感謝で思わず手を合わせてしまった。今でも仏壇のところにそのリストが置いてある。生涯忘れはしない。

 

会長のご挨拶は、まだ始まったばかりの初等学部だから、みんなで力を合わせて児童数を増やして楽しい学校生活を作っていこうと言うものだ。私の挨拶は、全クラスの子どもの様子を感じたままに保護者の皆様に伝えようと思って話し出したところ、時間超過で短縮を余儀なくされた。非常に残念である。話して聞かせたいことと、ホームページに掲載することとちょっと違う気がするけれど。子ども達のことをもっと話したかった。

まずは幼稚園Ⅱ

今日は第二幼稚園で父母の会総会があった。ーーーなぜ「まずは幼稚園」なのか。それはあまり初等学部にのっこみすぎて、幼稚園がおろそかにならないための戒めである。幼稚園も初等学部もどちらも100%の力を傾注することは当たり前のこと。是非ご心配に及びませんので安心してお預けください。幼稚園にしばらくいたから、初等学部でカルチャーショックにあっただけのこと、と言えどもそのショックはとても新鮮だ。

 

あの幼稚園での3歳児のポニャポニャプニャプニャした顔のところに、透き通った黒目の愛くるしさは、確かにこの世のものではない。神様や仏様の贈り物に違いない。大切にしないとバチが当たる。ホントのことだ。

 

242人中10人の委任状で232人の参加。この数字が驚異的だ。そこで新しい役員が決まった。前年度会長と今年度会長のご挨拶をフロアーから聞いていましたが、なるほど含蓄のある言葉が並んだ。保育者よりも保育者のようなところもあった。と言うより社会人として成熟に近いのかもしれない。私もしっかり勉強しないと追い越されてしまうと危機感みたいなものを感じたと同時に、あおば台はあのような素晴らしい保護者に支えられてここまで来たのだという、改めて保護者の力に感謝したいと心からそう思った。

 

子どもが脇にそれた行動や、家庭内暴力に陥る原因は主に保護者とりわけ母親の無関心を装う態度である。よくneglectと言う言葉を耳にするが、これがそうである。母親に子どもが言葉をかけているにも拘らず隣の奥さんと話し込んでいて子どもをおろそかにしてしまう。これもネグレクトだ。一度は子どもの話を聞いてあげればいいことだ。自分の意見を一方的に子どもに押し付けるのもネグレクトだ。あおば台ではこのネグレクトを一掃するように保護者の一人ひとりが少しばかり気に止めよう。

 

初等学部ではいよいよ3年生が書いた(設計した??)アスレチック広場の建設にかかる。期待してもらってもいいのだが、私が大将で手下なしだからなかなか進まないと思う。だが理想は遠大である。着実に少しづつ・・・。

まずは幼稚園

まずは幼稚園のことを書く。朝から雨模様で少し肌寒い。三寒四温ではなく二寒三温のようだ。そんな中でも大勢の保護者の皆さんが幼稚園に足を運んでくれて、保護者会総会が盛大に行われた。前年度役員の皆様、特に卒園児保護者の皆様も積極的に足を運んでくれたことに心から感謝したい。ついこの前卒園したばかりなのに随分前のような気がした。多分新しい子が入ってきて、園内の雰囲気が変わったせいかも知れない。

 

いくつかの委員会があって、その委員会にみんなが所属するけど出欠は自由という、まったく拘束力のない決まり??の中で、それぞれに仲良く助け合って生活できたらいいなと思っている。何といっても不特定多数の人たちが仲良くできるというのは最高の人間の知恵だから、そうして笑ってすごしていただきたい。母親の笑顔それが子どもにとって一番の幸せなのだから。

 

小雨降る寒い朝の中、足を運んでくれたことに重ねて感謝します。「ありがとうございます」青葉台の保育と子どもの発達については、これからのクラス便りや園便りでお知らせいたします。個別な事項については園長又は副園長がお話を伺います。遠慮しないで下さい。よろしくお願いいたします。

 

5年生のクラスで初めて食事をした。1・2・3年生のクラスを回っていたので5年生のクラスがまったくよその家のよう。何が違うかと言うと、端的に言って会話の迫力が違う。大人のようなと言うにはまだ遠すぎるけれど、明らかに3年生とはゼネレーションが違う。食事中の会話が私の頭のすぐ脇を飛び交っている。うるさいのではない。闊達な自己主張が部屋中に充満している。伸び伸びとこんな生活ができていいな~とそう思う。

 

そういったストレスを持たない生活の持続が大切だ。脳を活性化させるからだ。だから5年生の授業の集中力はすごい。そのような子がたまたま集まったのだといったら身も蓋もないが、教師の力もあるのだろうが、子どもの目が黒板やスライドに突き刺さっていて微動だにしない。あの子ども達の迫力がまだ私の身体を包んでいる。甘美なしびれだ。

初等学部のお昼の時間

初等学部の昼食は、担任のほかに専科の教師がクラスに入って一緒に食べる。私も万屋専科の教師だからどこかのクラスに入って食事をする。今日は1年生のクラスからのオファーである。

昨日は2年生のクラスであった。そこで私はちょっとしたジョークを言ったが、それはジョークでもなんでもないという酷評を頂いた。それが顔色一つ変えず淡々と「面白くもなんともない普通の話」だって。そんなことを言う2年生だ。少し手ごわいぞと言ったのが命中した。今度は手を変える。

 

1年生のクラスへ入ると私の食事の用意がしてあって、1年生全員が「みなと!!」「みなと!!」の大合唱。それでは少しおかしいことに気がついたのか「みなと先生!!」と呼び直す子もいる。明るくて元気のいい子ばかりだ。食べにくいものは残しているようだが、全部食べなければだめとか時間内に食べることなどの指示はまだ出してはいない。自分たちが時間内に食べようと言う気になってくれればそれに越したことはない。

 

仲間関係も平等にかかわりを持つような雰囲気が伝わってくる。この辺のことはさすが幼稚園の経験のある教師だけのことはある。目配りが行き届いている。徐々に信頼関係が深まってくると授業もやりやすくなる。1年生2年生3年生の教師は幼稚園の経験がある。だから外に出て鬼ごっこをしたりして一緒に校庭を駆け回っている。小学校の先生が最近では見られない光景だ。

 

かつて小1プロブレムといって、集中力がなくて授業にならない1年生のクラスがあった。そんなことはここでは異次元の話だ。騒ぎまわっているときも、集中して授業を受けているときも、みんなで一つになっている。そんな力を結集して、これから初等学部の生徒全員がスペインの哲学者オルテガの言う「精神的貴族」の道を歩んでいく。ご期待あれ!!。

 

そういえば昨日、冷たい雨の中を辻さんご夫婦が畳を運んでインスタントの茶室をこしらえ、早速お手前の授業をしてくれた。本当に申し訳ない。茶室が予算の関係でなかなか建てられないでいる。色々な人にお手数をかけてしまっている。恩返しは必ずしますからもう少し待っていてください。教師も児童も一堂に会して食事をするのに、とりあえず今食堂を作っている。

入園式が終わった

幼稚園の入園式が終わった。年々泣く子が少なくなっている。20年前は母親から離れられない子が普通であったが、そのような子は見られない。もっともあおば台の入園式は、隣に母親が座るようになっているので、不安がる子はいないのかもしれない。

 

親が見えない場所にあっては、不安を通り越してかなりの恐怖感を持つ。動物の中でこれほど弱弱しく生まれてくるのは人をおいて他にあるのだろうか。だからこそ、そばにいて常に安心安全の生活をして、人を信頼できる人に育って欲しい。「優しい人に育って欲しい」と願っていても安定した温もりの中でしかそのような情緒は育たない。是非心に留めて欲しい。

 

待機児童の解消と言うのがもっともらしく叫ばれているが、正しくはその対象となっているのは乳幼児である。3歳児未満の乳幼児が対象である。実態の分からないものが懸命になって保育所を沢山造れといっている。保育所は乳幼児期から入所でき、保育時間も長い。働く母親にはとても都合の良いものであるが、子ども側からみたらどうだろうか。乳児期に他人に育児を任せてしまうのは、個体発生の発達に合わない。うまくいった例を挙げて言う人もいるけれど、うまくいかないことのほうが大半を占める。

 

一方では母親が安心して子どもを産み育てることが出来る環境を作ると言いながら、保育所の増築だけでは本末転倒な話。母親の要求は経済的なことだけではないと思う。一番に必要なのは、子育てに対する社会の理解である。産まれてから1年ぐらいは、赤ちゃんの夜泣きなどで眠りにつくことができないで、悶々とした毎日を送っている母親に、優しくねぎらう社会が必要なのだ。家庭で安心して親が子どものそばにいてあげられる社会を作るのが本当の話で、保育所を沢山造って、親子を切り離すことを奨励しているような国策はまったくもって愚策である。

 

とにかく今日は、新入園児が始めて親元を離れて幼稚園に来る日である。朝一番に初等学部で子どもたちを出迎えて、そのあとは二つの幼稚園に行って、新しい子どもの様子を見るのと大きな声で挨拶をしに行った。「安心して楽しみに元気に来て下さい!」と言って歩いた。やはり泣いている子がいた。「ママー!ママー!」と保育者の背中にいても呼び続けている。「パパー!」といって泣く子は見たことがない。

 

母親がこういった状況を目の当たりにしたら、きっと子どもと一緒に泣いているのだろうなと思う。親も子もそういったことを経て成長していくのだから、思い出のアルバムの1ページにそっとしまっておけばいい。

 

偉そうなことを散々言ってきたけれど、保護者のご協力がなければ私たちは手も足も出ない。共に手を携えていくことを重ねてお願いをしたいと思う。これから、幼稚園の保育者ともどもよろしくお願いします。きっと素晴らしいお子さんになってお返しすることができます。

授業が面白い

昨日、英語の教師のゾルタンの出身地のハンガリーについて2年生の前で話した。その首都についてどのようにしてできたのかと言うことを話していたら、子どもたちは興味津々。それでは日本の首都はどこかと言う問いに全員が「東京!」と答えた。こんなことって・・・・?2年生で首都をやるの・・・・?少し驚いたが気を取り直して「東京ってなぜ名前ができたか知ってる?」と聞いたら、みんな黙って首を横に振り、困ったように私の顔を見る。その顔がうっとりするほどいい顔をしている。

 

2年生相手に勝ち誇ったようにしていたわけではないけれど、少しばかり言わせて頂くと気持ち良かった。それでしばらく2年生に会うと「先生東京の話してよ!」と言うことになった。今日はあの感激の入学式だけれども、午後の時間に2年生からオファーがあって授業をすることになった。例の「東京」の話だ。ひとしきり奈良、京都、東京の順に話を進め、そして子どもから「北京もあるよ!」の声。

 

何をやっているのか分からなくなって「今は何の時間?」と聞くと「国語の時間!」と元気に答える。今まで地理と歴史をやっていたのだが、子どもたちは良く黙って聞いてくれた。即座に国語の教科書を出してもらい、子どもたちに順番に本を読んでもらった。ここでまたひっくり返るような驚き!!。きれいな声で声優のような抑揚で見事な読み方だ。手ごわい相手だった。

 

楽しいよ!!初等学部。明日は1年生が来る。幼稚園の入園式もある。生きている実感が十分すぎるほど身体から滲み出しているようだ。