初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2015年12月の記事一覧

幼稚園はどのようにしてできたのか

年の瀬も迫り、また一つ年を取っていくけれど私の先輩たちは私の歳を聞いて「まだ若いな」という。私の尊敬する先輩で医者をやっている人が、75歳を機に医院の規模を小さくするといっていた。大体70を境に自分の身の振り方を考えている人が多い。だから私もそうしたい。もう40年も幼稚園をやってきたし、小学校も作ることができたし、中学校も来年度からできることになった。私の人生では『図らずもこうなった』というのが幼稚園の先生である。

20歳の時に父親を亡くし、これからどうしようというとき友人が『男なら何でもできる』と無責任にも励ましてくれた。その友人は大学生だったけれど、あまり学業には興味はなく、商売をやってみたいという。ある時『ドライバー1本で金になる』という仕事があるといって私のところへ来た。今ならそんなうまい話があるわけないだろうといえるが、何しろ世間のことはゼロに近い。彼は学生やめるから一緒にやろいうといってくれたので、私はその勢いに完全に飲まれてしまって、二つ返事で了解してしまった。それが私の一大転機になった。その仕事というのは空調や水道を扱う設備屋だ。職人ばかりの世界へ飛び込んで行って、その人種というのは短期で気が荒くて、しかし妙に人懐っこい人の良さもある。

半年ぐらい職人の手元をやったりしていたけれども、会社から設計をやって見ないかと言われてやってみることにした。初めて見るトレーシングペーパーに自分が線を引いたものが焼き付けされる。そしてそれが職人の手に渡り仕事の指針となる。なんだか夢のような出来事で、図面を書くことがとても気に入ってしまって、本物の施工図を描いてみたいという願望が強くなっていった。そんな時に同じ職人の仲間から、ある会社で現場代人になれる人を探しているということを聞き、その会社に移ってしまった。その会社の専務という人がとても優秀な人で、私に一生懸命図面のことを教えてくれた。現場代人というのは会社を代表するもので私のような駆け出しにその資格は全くなかったけれど、その専務が目をつぶって私を仕込んでくれた。

私をこの仕事に引き入れた友人は、独立して現在でも会社の社長として立派に仕事をこなしている。実は会社を二人で始めたけれども、私はいい恰好をしてしまい金銭感覚が彼とは違っていたのでうまく行かなかった。経営者はやはり彼の方が飛びぬけてよかったと思っている。私も専務に助けてもらい独立して会社を始めたが、融通手形を持たされて失敗してしまった。約束手形は必ず返してもらえるものだと保証人となる裏版をいとも簡単に押してしまったのだ。とても恥ずかしい話だ。当時の金額で数千万円に上る。手形を渡された会社へ行って何でもよいから持ってこなくてはダメだといわれても、そんなことを本気でできるものではない。それで私は会社にあった機械や材料をすべて職人に渡して、会社をたたんでしまった。

倒産させたわけではないので、私は設備図面屋一本で生計を立てることにした。A-1の施工図は8千円で、A-2は4千円であった。この方が給料取りよりよほど楽しいし、金額も良い。家から一歩も出ることなく何日も部屋の片隅で過ごしたこともある。そんな日が楽しかった。融通手形のことで私がお願いした弁護士が、私の私生活について『まだ若いのに家に閉じこもってばかりではだめだ』と言って私のこれからの仕事をいろいろと世話をしてくれた。『塾』『保育所』『幼稚園』といったものを考えてはどうかと真剣に考えてくれた。それで『幼稚園がいいな』と言ったら、弁護士と懇意にしていた建設会社の人が勝手に現在の場所を整地してしまった。

私は当時の図面描きがとても気に入っていて、お宅でも何と言われてもその方が良かった。たまたま幼稚園のある土地が私の名義になっていて、差し押さえになる可能性があるから公的な施設を作った方が良いのではないか、という誰かの入れ智慧であったのだ。私にはお金もなく、幼稚園を作るなどの大金も工面できる自信もないし、そのような知り合いも人材もない。できるわけがないではないか。99パーセント無理な話であると自分では結論を出していたけれど、まずはやってみなければわからないと思って、土浦市にある金融機関をすべて歩くことにした。

私が25歳の時で、案の定会社をやっていた時の主銀行をはじめどこへ行っても体よく断られてしまう。銀行が悪いのではなく、あの当時だったら冒険を侵さなくても銀行は十分にやっていけるのだから、私のようなどこの馬の骨だかわからないものに簡単に銀行が付き合ってはくれないだろう。裏付けになる担保も不足しているし、保証人になってくれる者もいない。どのようにひっくり返っても、無理というものだ。世の中はそんなに甘いものではないのだ。考えてみれば、もしも借りられたとしてもどのように返済できるのかを考えていなかった。

毎日のように戦術を考えて銀行で借り入れができるかどうかということが私の仕事になってしまったようだった。『絶対できる」『絶対にやる』『借りられるまでは絶対に引き下がらない』『どんな手を使ってもやり抜く』。決心が徐々にエスカレートしていって、私に寝る暇を与えなくなってしまう。ある日まだ行っていない茨城大手の銀行の入り口に立って『何を言ったらいいのか』を考えていた時、名案が浮かんだ。名案といってよいものかどうか『今まで殆どの銀行や金融機関を回りましたが、どこへ行っても貸してはもらえませんでした。そこで県に相談しましたら貴行に話をしてみたらどうですかと言われました』と。県がそのようなことを言うはずもないし、詐欺みたいなものだ。でもその銀行は快く貸してくれた。当時の借入金3600万円であった。それで幼稚園を建てることができた。

生きてきたこと

まだこれを書くのには早すぎるが、今まだ生きているのだから生きて来たことに後悔はしていない。バラ色の人生であったとは言いきれないけれど、多くの人たちに無量の迷惑を駆けてきたことは事実だろう。もし人生がやりなおせるものであるなら、そしてこの時代だけはやり直したくないというものがあるとしたらそれはいつの時代だろうか、思い起こしてみる。

12歳までの小学校時代は学校は嫌いだったけれど、仲間と遊んでいた自分はあのままで失いたくない時代である。戦後の復興期であったので、しかも私がすんでいた部落は満州からの引揚者の集合住宅であった。私の家族はその集合住宅に入らずに、かつて軍が使っていたと言われていた調理場の家を改装してそこに住んでいた。集合住宅というのは、松班とか竹班とか言われていた寮で、軍人さんが住んでいた。その寮が焼失してしまって、その後にできたのが2DKの一軒家である。勿論水道はなくみんなで利用する井戸が集落にいくつかあった。また風呂はあるけれど、新築されたときに据え付けられていたものではなく、新しく入居したものが買い足したものだ。そしてどの家でも薪を燃やして風呂を沸かす。私の家の勝手場は外にあって、流し台やバケツに入った飲み水も外にあった。

農家の集落は隣り合わせにあって、近くの畑や田んぼには豊かに実った稲や野菜を目にしたことがあった。私の家も農家であっったけれども、父がラバウルから帰還兵として戻ってきて、分けてもらった田畑では足りなかった。しかも両親ともに農業を知らなかった。できたコメは家で食べるものまで削って全部売ってしまうから、満足に食べられない日もあった。皆が貧しい生活をしていたので、今客観的に考えてみると貧乏のどん底にあったような気にもなるけれど、当時は食べられない家族はたくさんいたからそれほど気にはならなかった。

小学校時代は私の年代はベビーブームのまっただ中であったので、あちこちに子どもがうようよといた。小学校から帰ってくると、いつもみんなで集まるところがあって、そこには必ずリーダーがいる。そのリーダーになっている人がすべてであって、学校の先生の話よりもよく聞くし、いつも遊びは生活に実践的なものであって、雀を捕まえるやり方を教えてくれたり、魚釣りに連れて行ってもらったり、霞ケ浦の淡貝を取りによく行った。今文科省で「生きる力」を教育の柱にしているけれど、そのころは何を柱にしていたのかは知らないが、放課後の子どもたちの遊びの中で確かに生きる力を実践して教えていただいた。しかもそれは家族の一員として役に立ちたいという一念であったように思う。

子ども達の団結力も強く、隣村の子ども達の集団に仲間がいじめられたりしたら、リーダーが仲間を招集してかたき討ちに行ったりもした。その仲間に入らないと次の遊びに入れてもらえないので、ちいさい体の自分としては相手が恐ろしいほど大きく見えて怖かった。体中の勇気を振り絞って参加するけれども、やられてしまって体中傷だらけになって家に帰ってきたものだった。近所の大人たちも子ども達の喧嘩だとよく知っていて、だれがどのようになったのかなどは、口出しも知ろうともしないので子どもの集団はそれだけで独立していた。喧嘩は泣いたらおしまいだ、だから泣くまいと歯を食いしばって頑張った。それは仲間のために、そして自分のためにだ。

私たちの集落は引揚者だけの部落なので、旧村の子どもの人数と比べると極端に少ないけれども、親も子ども達も団結力が強く一つにまとまっていた。私の父親が旧村の出身者だったので、私の存在は異端児であって旧村の子ども達からも、引揚者部落の子ども達からも距離を置かれていたようだった。しかし私としては中途半端ではなく引揚者部落の仲間としてふるまっていた。何故かというと旧村の大人たちは、引揚者たちを貧乏人呼ばわりしていて鼻持ちならなかったからだ。貧乏人であったけれど子どもたちの心は豊かであったように思う。とても楽しかった時代は小学校5年生ぐらいまでのことだ。だからといって、そのあとはそれほど面白くなかったということでもない。

結婚式

幼稚園の教師も初等学部の教師も女性は未婚の人が多いので、結婚式に出ると言うのはさほど珍しいことではない。最近の式は教会で行うのが多く、おごそかな雰囲気で牧師が何やら英語なまりの日本語で始まる。耳が聞こえないうえに歯の抜けたような日本語を聞いているので、式の間は自然に寡黙になる。そして讃美歌を強制的に歌わせられることになるのだが、これが何度聞いても覚えられない。しかし同席している同僚たちは元気に堂々と、口を大きく開けて歌っている。後から聞いてみると『何度も歌っているから』と言っていた。

一応私が主賓として招かれているので新婦側での御挨拶と言うことになる。好きなように話して良いからなどと心にもないことを言って、私の緊張を取り除いてくれようとしているのはよくわかるが、その心に緊張が増す。いつも女房に式場に行く間にレッスンを受けて参加するのだが、ある程度紙に書いて置くのだが、いざマイクの前に立つと、一通りの礼儀のような挨拶が終わると、次の言葉に窮する。そして結局は紙に書いたものを思い出してそれをつなぎ合わせる。あまりにも時間が短すぎると、あとはアドリブだ。失礼がないように神経をいっぱい使う。とにかく疲れるのだ。

余興に入ると私の勝手な解釈だが、幼稚園の先生方の出し物は芸能人ばりで、一味も二味も違う。とにかく圧巻なのだ。隣に座っている女房が言っていた『舞台慣れしているね』と。素晴らしいエンターテナーなのだ。新婦に送る素晴らしい披露宴であったろう。きっと会場におられた方々も最高に喜んで頂いたはずだと思う。あのような保育者のいる幼稚園なのだから、子ども達も楽しいはずだ。来年度は40周年だから何か考えたほうがいいのかな。とにかく重ねてご結婚おめでとうございます。

余計なことかもしれないが、最近のと言ってもこの30年ぐらいの結婚式は、最初はおごそかな気分で会場を水を打ったようにシーンとさせて、披露宴に入ると賑やかにがやがやと楽しくなって、最後の締めは新婦が『お母さん・お父さんありがとう』と言って会場を涙で包んでしまう。悲喜こもごもだ。そして帰りは『よかったね』とか言って散りじりに別れる。

リーダーシップ

自己主張を押し通すことは良い時もあれば悪い時もある。それが個性だと言われればそうなのかもしれないが、個性とは自己主張の内容であって、押し通すのは我であると思っている。我を通すと言うことは一概に悪いことばかりではない。ただこの言葉と一緒に付きまとうのが、『わがまま』とか『和を乱すトラブルメーカー』『他の意見を聞かない』など、あまりよい評価を得られない。しかしそれで善処できた場合には良い評価が爆発する。民主主義が定着する前には、世を治めた人たちは、すべてが自己主張が強くわがままな人ばかりだ。

企業の創業者も似たところがある。何かを始めるというときに、最初の発想は一人の人から始まるのだろう。『船頭多くして船山を登る』の例えがあっても、船頭を多くしたからといっても船は山を登らない。何でも最初は一人が決めて、協力者が知恵を出すという方式が良い。最初に決めたことがよくなければ協力者は現れないだろうから、決定する者にはそれなりの覚悟が必要だ。誰もついてこなかったら孤立無援となり消えてしまう。このような現象は、集団生活の中では経験知としても必要であると思う。リーダーシップをとるということは、大きな声を張り上げても腕力を振っても、うまくいくことはないということを体感してほしいものだ。

初等学部の餅つき

山奥の過疎地の『やまびこ小学校』みたいなところでないと餅つきなどの行事は行わないだろう。ここは過疎地ではないけれど、過疎地にできたような学校だからとても家族的で、校長が全員の名前と顔が一致するなんて言う小学校は都会ではないであろう。職員室は校長のクラスで、クラス分けなどない出入り自由なクラスだ。そこでストーブを囲んでお話をするという、とても牧歌的雰囲気のあるクラスだ。子どもの中に同化できるのは、私の唯一の特技だ。

幼稚園の餅つきと違って、つき手も愛の手も子どもたちがやっている臼のグループがある。6年生がやるとそれなりに杵の音がよく出ていたりするけれども、定額ん年がやると、杵に振り回されたりしていて楽しい。大体やりたがるのは男児であるが、杵に足をとられても、さすがに弱音を吐かない。周りで見ている子どもたちが心配そうにしていて、杵を振り上げる度に『危ない!』という気勢を上げる。それがとてもタイミングがよい。

吹きあがったもち米を臼の中に入れて、それから杵で練り上げて多少餅になってきたところでつくのだけれども、練り上げるところが力の入れどころで、うまく腰を使わなければならないが、それを子どもたちが大人のまねをしてやる格好が面白い。何でもはじめてのことはやりたがる。やりたがりが何度も失敗して見事な技術者になるのだろうな。だから学習の初発は興味や関心からだというデユーイの言うとおりだ。教科書を出して、教科書を暗記させることなんて面白くもないし、それが楽しいなんて言う子がいるのだろうか。

面白いことあり

6年生の修学旅行の報告会があった。こちらで報告して下さいと頼んだわけではないけれど、自発的に全学年を集めて始まった。もっとも自分たちで決めた旅行だから、最後まで起承転結を行わなければならないと感じたのだろうか。順にしたがって報告をしていたが、全体的な報告のプログラムも整理されていて見事だった。いつも感心させられるのが、パッと出てきても怖気づくことなく堂々と話ができるということだ。私自身をだぶらせてみても、多分心臓の音が隣の人に聞こえてしまうのではないかと思うくらいのものだ。

最後の流れのところで気になったところがあったので、6年生全員を職員室に呼んで話をした。勿論ほめることが最初だ。じっくりと私の話を聞いていたが、私がいつも食べているこんにゃくがストーブにかけてあったのでそれが気になったようだ。これは全員に配った後の残りであったけれども、特別に6年生へのご褒美としてあげると言ったら、順序良くきれいに食べてしまった。おつゆだけ残っていたので『これどうするの?』との質問があり、『このおつゆでおそばをゆでて食べるのだが皆も食べるか?』と言ったら『食べたーい!』という返事だったので『そんなに簡単に食べることはできない』ともったいぶって言った。

するとみんなが次の私の言葉を待つようにじっと私を見つめている。『うんそうだな、運動場10周かな』と言ったら、すぐさまみんなで顔を見合せ『よし!行こう!』と言って、靴をはき替えに靴箱の前まで突進していった。随分と気の合うものだ。そばを食べると言ったって、それほどあるものではないし、お椀に少しづつぐらいなものなのに、みんなで一緒に気を合わせるというのはこんなに楽しいものなのだ。10周と言えば2kmだ。みんな気を抜かずに走っている。はーはーと息を切らしながら、そばを食べるために。

やがて一人二人と10周を終えてゴールしてきたが、体がとても熱そうである。フーフーと言いながらおなかを抱えていて、おなかが痛いというものもあらわれたり、『あっそうだ僕はそばアレルギーだった』というのもいる。それでも笑っていたのは私と担任だけで、あとの子たちは疲れて笑えなかったようだ。全員が私の机の後ろにある長テーブルに座り一緒にそばをすすった。6年生といえどもこのような純真さだ。この学校の良さが分かるだろう。

美しいもの

一番最初に『きれいだな』と感じたものは小学生の低学年の頃で、やんちゃな仲間と一緒に山歩きをしていて、山歩きと言っても雑木林であるが、そこで見た鉄砲ユリだろうとかすかな記憶がある。その雑木林もどこだったかをはっきり覚えているし、友達の顔も覚えている。花粉がつくと洗濯してもなかなか落ちなくて、母ちゃんに叱られるから、触らないで匂いだけかいたほうがよいということまでガキ大将に教えて戴いた。野に自然に咲いている花なので、どうしても根っこからとってきて家の庭に植えておきたかった。

家からスコップをもってきて根っこのところまで掘り下げて球根まで取り出したけれど、家まで持ってくる間に、茎が折れてしまって、家に着いた時には無残な形になってしまっていた。三つぐらいに分かれてしまっていたので、球根のある部分は庭に植えて、茎だけの部分は捨てて、花のある部分は母親が畑から帰ってきて、すぐにコップに水を入れて飾ってくれた。家の中に花があることがとても誇らしいし、嬉しかった。自分が家族のためになったという気持ちを持てたのは多分この日が初めてだったような気がする。

10数年ぐらい前にj純白の西洋ユリ(カサブランカ)を紹介されたときには、その美しさに固唾を呑んで一瞬声が出なかった。それから家にはカサブランカを何本か植えたけれど、最初だけ純白であったけれど、あとはピンクになったり赤いゴマが入ったりして自分のイメージとは少し離れてしまって興味が薄れてしまった。花弁が大きくて、とても立派で気品があって貴婦人のようなんだけれど残念である。女性の美しさは『瞳』であろうと思う。『目は口ほどにものを言う』とあるようにそれがすべてである。あくまでも個人的主観であるけれど。

心打たれる純粋さの美しさは少女の頬を伝わる涙(tears)であろう。悲しみの涙でも、うれし涙でもどちらでもよい。瞼の内側にたまった涙(しずく)がそっと頬を伝わるとき、まるで真珠の輝きではないか。、それはピュアを越してイノセントだ。女房曰く『単細胞にして最も騙されやすいタイプ』だと。何と言われようが半世紀もそう思い続けてきたのだ。現実に戻ったところで何も面白き事はない。かつて高杉晋作は、そうであっても面白く生きようと言っていたが、それほどの人物にはなれそうにない。

しばらく見なかった風景

家の庭にあるもみじがいつの間にか散ってしまっている。何日か前は真っ赤に燃えるような色をつけていたのに、もっとゆっくり見ておくべきだった。家の裏にある大きな土山に、山の下につながれているヤギがその山の中腹まで登って行って草を食べている。ヤギは何を考えているのか、いつも食べることだけしか考えていないのか、土山を登るときは、こちら側がよいとかこちらは危険だとかの考えはないのだろうか。それでも幸せなのだろうか。いやそのような意識は持てないのだろう。そのような意識が持てないほうが幸せなのか、それとも意識をはっきりと持てる人間のほうか幸せなのか。

あおば台幼稚園の周りの風景も少しずつ変わっていっている。南の道を挟んだ近くには住宅が建っているし、今日はその一角で住宅展示会か見学会をやっている。東側正面玄関の前は、少し前まで田んぼであったけれど、そこを埋め立てて空手道場が建った。これからは、道場に通う彼らが、幼稚園の警備を担当してくれるだろう。工事に来ている職人さんが自分たちが施工した側溝のところに座って、みんなでタバコをふかしている。ずいぶんとうまそうに煙を吸い込んでは吐き出している。物を作り上げるという自負心が、年老いた親父たちの顔ににじみ出ていて、力強い頼もしさを感じる。

私ももっともっと若かった時に同じような土方仕事をしていた経験がある。一日の日当が1600円だった。腕の良い職人さんは3000円。親方格になると3500円だった。日当が少なくても、それがどのような意味かをよく理解していたから不満など全くなかった。給料をもらって、ガソリン代を払うとあまり手もとに残らない。それでも意気揚々としていて、朝方まで飲み歩き、あくる日はしゃきっとして仕事へ出て行ったものだった。今のように土曜日曜が休みだなどと言われると、食えなくなってしまって日干しになってしまう。それでもなんだか、毎日が幸せだったような気がする。

あの時のことを思うと、今のほうが経済的には楽にはなった。いや、私の資産の話をすると結婚前より全く乏しくなって、話せるようなものではないが、生活そのものは文明とともに楽になっている。仕事にも恵まれ、子どもとともにいられる仕事は最高に素晴らしい仕事である。しかも運もよく小学校まで作らせて頂いた。何も不満はない、何か不満でもあるのかと自分自身を問い詰めてみると、都合のよいことを言ってのらりくらりと逃げてしまう。子どもと一緒にいられることは何事にも代えがたいことだが、それ以外はだれかにやってもらってもいいなんて、情けなくも逃げ出そうとする自分がいる。

今日は仲間の認定子ども園の認可になった建物の竣工式で、招待されて挨拶をしてきた。早稲田の応援団にいた凄い先輩だけど、彼も大変な時があったのだと思うと少し重荷が取れたような気にもなった。私も人生つきまくっているようだけれども、彼もつきまくっている。本人がそう言っていたから間違いないだろう。