初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

物言えば唇寒し・・・

もう冬で日増しに寒くなる季節。表題は秋の季語がついているので現状に似つかわしくないが、社会のあり様をちょっとひねってみただけのこととご理解願いたい。この表題で以前にも書いたような気がする。が、ボキャが少なくて気にしないで書くことにする。


4年生の保護者と、1年生の保護者と相次いで話し合いをした時、特に4年生の保護者は中学校ができるのかどうかということが中心的な話であったように記憶している。目先すぐの話だから無理もありません。

 

あおば台所属学園は伝統のある大きな学園ではなく、小さな個人商店みたいなものだから、何をやるのでもまず私が最初に旗を振り、膨大な文書を用意し、役所との交渉に入らなければならない。合議制などというものはない。私が判断し、私が決断する。そして私が責任を取るというのがあおば台である。

 

既に私は、中学校建設に前向きどころか決断している。絶対にやるという決断です。小学校は気合と共に何とかやらせていただいたが、大きな壁が立ちはだかっていることは事実。それはどのようなことかというと、設置基準に合致しているかどうかということで、尚具体的なことを言えば、それだけの資産があるかどうかということである。それだけを追求されれば、ない。今までは、それがどうしたという気持ちでやってきたが、通る場合と通らない場合とがある。

 

児童数が少ないのが建設に大きな影響を及ぼすのは確かなこと。何とか少しでも建設に足がかりを付けたいと、あおば台と第二幼稚園保護者に「入学のお願い」を書いたことが、園長は「ぶれた」と取られた保護者もいるという。悲しいかな私は他人の目を気にして生きてはいない。何を今更この歳で「ぶれる」必要があるのか。初等学部児童1人になっても、その子のために命がけでやるというのが私の信条だ。そうでなければ初等学部を創った意味も、私が生きながらえている意味もない。

 

私が神様に願っていることは、中学校ができるまで、高校ができるまで生かせて欲しいということ。寄宿舎を建て、子ども達を家族から離しそこから通わせる。親の愛情は離れてみて、親の偉大さは、死別でしか理解不能であるというのが私の考え方。祖父母に畏敬の念を、両親に感謝。どちらも無言のうちに伝える方法である。

 

 幼稚園は今個人面談花盛り。色々と保育者から情報を頂きますが、保護者の方の子どもに対する愛情の深さにありがたさを感じます。子どもが常に「愛されている」という気持ちを持ち続けることは、やがて子ども自身が判断したり決断したりしなくてはならない時に、必ず背中を押してくれる。勇気を与え、強い支えになることは間違いのないこと。

 

ここで間違ってはならないことがあります。「愛している」というメッセージは常に出しておく必要がありますが、押し売りはいけません。押し売りは見返りを求めるものだから、すぐに見破られてしまいます。「私はあなたをこんなに愛しているから、だからお願いこうして欲しい」では、子どもはやがて口を閉ざしてしまいます。

 

「今ある子どもの心に沿うこと」は保育者の必須条件ですが、一番身近にいる保護者の皆さんこそ、この極意が身についたら鬼に金棒です。一緒に努力していきましょう。