初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

騒ぐな!私はここにいる

何か変わったことがあると騒ぎ立てる者がいる。必ず震源地があるわけだが、震源地が当事者で、それに近いところにいるものがその仲間である。学校は何ら揺らぐことはない。いたって平穏で波一つない、カーム状態である。波を立て波を作るそばにいると、やがてその波と一緒に揺れ動くことになる。何があっても不動心であることが一番である。ここには子どもたちがいる。分別のない大人の濁った心で、その手で近寄ることを禁ず。

ここは学校だ。学校には子どもたちの心を育む神聖なものがある。それを育てていく義務が私たちや保護者にある。そのことを無視したりその邪魔をする者は、ここから出ていかなくてはならない。当たり前のことだ。どうも勉強さえできれば社会での優位性を保てるという風潮が根強くある気がする。そんな失敗は当の親たちが経験していることではないか。そうでなくとも社会を見渡してみればわかる。

人間にとって、何よりも大切なことは恥を知ることだ!。矜持の心がない者に優位性などバカな話はない。金があっても使い方が分からない者、金がなくて金持ちに媚びる者、いずれも根底にあるのは意地汚さである。何がなくても現状で満足し、周りに感謝ができる人間の心が一番澄み切っている。私たちはどのような仕事をしていても、人間が評価されるのではなく職業が評価されているので、偉くもなんともない。職業も人間性も同じように評価されればそれに越したことはない。

そういった意味では人間は平等だ。しかし福沢諭吉が言ったように、学問をいくら積んだからと言っても「心の持ち方で卑しくも貴くもなる」。私はこの学校を立てるとき、あのスペインの哲学者オルテガの言う「精神的貴族」を目指していこうと決意した。これは経済的に貧困である私にも、立派に生きられると感じたからほかにない。保護者も自らの姿勢を正すべき。子どもには勉強だけさせといて、自分は何もやってもいいということにはならない。子どもは慎重に親を見ている。そして教師も。

良くも悪くもその結果は必ず現れる。善因善果で悪因悪果である。何度でも言うけれども子どもは親を見ていて見抜いているところもある。小学校の高学年になれば、言ってもいいことや言わない方がいいことなどをきちんと分けている。子どもの顔にも、笑いの中にふと陰りがあるときもある。そんな悲しい思いをさせてはならない。