『自分自身が意識して実行すべき1つの行動である』(9年生)

 

「そう思っていた。」

「考えていた。」

「そうだろうな。」

 

”同意”を感じさせる言葉だろう。

この言葉たちの後に続く言葉によっては、聞き手の気持ちを落胆させてしまう。

 

「そう思っていた。けど…、それが何?」

「考えていた。でも、別にそれ以上は…。」

「そうだろうな。うん。」

 

”同意”の後に続く、その人の意志や希望が見えて来ない。

むしろ、同意していることさえも消し去ってしまいそうなくらいの

無関心さを感じてしまう。

 

良く、授業や行事の中で

どう感じたのか・どう考えたのか・どう伝えようとするのか

簡単なようで難しく、時に勇気のいる課題を設定します。

 

先日、9年生の国語の授業では、

その課題は他者に設定されるものではなく、

『自分自身が意識して実行すべき1つの行動である』

ということを伝えたようです。

 

昨日、6年生の成果発表会があり、感想を聞かれる場面がありました。

マイクエスコートの男の子が「何か感想などありますか?」と

皆がいるところで聞いたので、手を挙げ、指名された子が感想を言えるというもの。

 

9年生の1人がしばらくして、手を挙げた。

低学年の子どもたちが多く挙手する中で、

9年生がパッと手を挙げたことに「おっ!」とは思ったが、

正直、珍しい光景では無かったので「おっ!」以上の驚きは無かった。

しかし、感想を聞いてみると、明らかにいつもと違っていました。

 

「声が大きくて、とても良かったです。」

「発表が上手で、驚きました。」などが、私が予想していた感想だったからだ。

 

「”忘れられない言葉”という作文で〇〇ちゃんが発表してくれた「失敗は成功の近道」

という言葉が、今の私にぴったりで、私の心にも響きました。詩も、堂々と発表していてすごかったです。」

とすばらしい感想を述べてくれました。

自分は、こう感じた!

1つじゃなくて、あれも、これも、たくさん感じたことがあった!

すごかったよ!と、発表を見て思ったことがよく伝わってきました。

それに、なぜそう感じることができたかもその子を知る私たちからは、想像ができました。

 

何!?すごいんだけど!?何!? 驚いている私に、国語の先生が

『自分自身が意識して実行すべき1つの行動である』を伝えたという

授業の話をこそっと教えてくれました。

「自分なりに考えて、意識してみたのかな(^^)?」私は、そう思うことができました。

 

 

もう1人の9年生も、きっと意識したのだろうと思える場面がありました。

発表会後、さっと6年生の女の子に話しかけに行っている姿をみました。

話している2人の表情はとてもよかった。

「何て声をかけてもらったの?」

声をかけてもらって嬉しそうな顔をしていた6年生の女の子に後ほど聞いてみたところ、

「すごくよかったって言ってもらいました!嬉しかったです!」

とこたえてくれました。

 

「思っていた。」

「考えていた。」

だけでは繋がらなかった想い。

思っていた・考えていた後に起こした行動によって

互いの心が通ったし、学び合うことができましたね。