NEW 園長ブログ
生きる力を考えたい
「教育」を語るYouTubeを見た。
そこに、現代の教育環境では、一人あたりのインプットの量が多すぎやしないかという声があった。
そう主張された方は『自分ならインプットの量を今の半分にしたい。そして空いたところに想像力が生まれるようにしたい。小学生の我が子には勉強しろとは言わない。没頭すること面白いことを探してほしい』
調べてみた。
私は昭和30年代の生まれだが、自分の時代より小学生時代に習う漢字の量がぐんと増えたことを思い出したからだ。
私が1年生の時の漢字は30字。今は80字。
6年間の合計は881字。今は1026字。
のんびりとした低学年時代だったが、今は追われてないか?
追われているとしたら何に追われているのだろうか?
それにしても、、と思う。
日本人はひらがな、カタカナ、漢字、それに加えてローマ字まで習っている。
こんな優秀な民族は他にいるだろうか!
これに気付いた時から、感動とともに日本民族として誇りを持つようになった。
そのYouTubeの番組で、日本人に求められてきた教育から生み出される人物像は「素直、まじめ、勤勉」だが、それなら、ロボットの方が優秀だそうだ。
これから必要とされる力は、生まれてから小学校低学年までどのように過ごしたかが関係すると言われる。
縁あってあおば台に来た子ども達には、好奇心を満たす没頭する遊びを自分で獲得できるようにしてあげたい。
その仕組みがあおば台にはあると思っている。
不確かな未来を生きる目の前の子ども達に身につけさせたい力を、もう一度みんなで考え保護者の皆さんと共有できたら幸せ。
実現してみたい!
気持ちの切り替え
大人でも子どもでも、気持ちの切り替えが上手な人と苦手な人がいる。
私が以前、尊敬している人から受けたアドバイスは、「自販機で飲み物を買う時、選ぶのに時間がかかる?かからない?気持ちの切り替えと、さっと選ぶのは比例しているんだよ」
当時私は、気持ちの切り替えがサッとできることを目指していたので、そのようにしてみた。
やってみて思ったのは、迷わず選ぶということは、瞬時に自分の何かを捨てる作業をしているということだ。
亡き夫によく「グズグズが好きだな!」とからかわれていた私にこのアドバイスは非常に役に立った。
今、お母さん達は苦労してないかな?
我が子に、次の行動に移させたいけど、なかなかその遊びがやめられないという時、子どもが自分で切り替えられなければ、積極的にアドバイスしたり助力することはとても効果があると感じる。
もし困ることがあれば遠慮なく園に相談してもらえたらと思っています。
AI
将来無くなっていく仕事は?と今までずいぶん話題になった。
コンビニも店員さんがいなくなり無人になるだろと予想されてきたがそうは見えず、進んでいるにしても超スロースピードだろう。
思いに反してクリエイティブな仕事にそれが表れているという。
例えば漫画も小説も脚本もデザインもAIが行う現実がもうあるのだろう。
知人に、チャットGPTを使ったことがあるかと聞くと数人の若者が経験していて「やっぱり便利です」と答えたその表情にどこが後ろめたさを感じた。
私達が行っている教育はAIにとって代わることが難しいと思うから、答えた知人は、私がそのようなことに反対する意見を持ち、便利さは教育には不要と思っているかもとおもんばかってくれたのだろう。
しかし、AIの話を聞くほどに、これからの不確実な時代を生きていく目の前の子ども達に必要であれば、是非使いこなせ、わけもなく活用できるようになってほしいと思っている。
しかし、何度も思うし何度も伝えたい事だが、「非認知能力を伸ばすには、幼児期と小学校低学年までの間にどれだけ遊んだかが重要」であるから幼児期の教育にそれを取り入れるという事ではない。
遊びの時間を保障するために、色々と工夫していきたいと思っている。
このことが初等学部も幼稚園も保育園にも関わっている多くの方と共有できるように取り組みたいし、世間にも周知されて行けば良いな、その為に自分で何が出来るかと思うこの頃だ。
好奇心
3月に近所の小学校を卒業した6年生が来てくれた。
お母さんからは
「あおば台で好奇心を育ててもらってその後にすごく役立っていて、、、とても感謝しています!」
勉強面一つとっても、『これはどうしてこうなるのだろう?』という発想から色々な知識を得ることにつながり生活を豊かにするのだろう。
好奇心から「生きる意欲」は高まってくると思う。
自分の話で申し訳ないが私自身YouTubeとの出会いで、どれほど世界が広がったか知れない。
YouTubeには、電磁波の危険性にさらされたり、快楽中枢を刺激するためにやめられないという問題面もあるが、いったんそれは横に置くとして、知りたいことがどんどん広がったり深まったりして『ありがたい。ラッキー!』という気持ちがあふれる。
書物、YouTubeなど好奇心を満たすものが無限にあるのが”今”という時代だ。
人類の発祥には諸説あるが以前脳科学者の方の話で記憶しているのは、
”アフリカにいた人類前の猿人(原人?)が人類に進化したのは、ある日地殻変動が起きて、「何事か?」と好奇心を抑えられなかったほうが、森を飛び出したのが人類の始まりとなった”というものだ。
好奇心は人間の本能だから、それが育たないとしたら環境だろう。
子ども達のためにそんな環境(人、モノ、時間)を整えてあげたいと思う。
何と悲しいこと
新学期早々にこんな話題は辛すぎるが、今一番思っていることなので聞いてほしい。
「2022年における15~19歳の死因の約半数が自殺」との話は、受け止めるには辛すぎる。
母親の胎内で10か月過ごし、その間には母子でしかわからない意思疎通があるだろうし、その後、手をかけ目をかけしながら育った子ども達のうち、そのような人生の終わり方をする子がいると思うと悔しい。
何とかならなかったのかと思う。
私の話にはたびたび登場する「OECD(経済協力開発機構)」だが、15~19歳の年代で死因のトップになっているのは日本のみという。
また15~24歳では、38か国中男性9位、女性7位だそうだ。
きっと、小さなうちから主体性と当事者性がそなわれば、自己肯定感も高くなり青少年のこの悲しい数値も変わるだろう。
だから、子ども達のために是非とも「自己肯定感」を幼稚園と小学校で育んでいきたいと切に思う。
卒園式
卒園式のこと。
あの日はとても不思議な一日だ。
いつも自由に伸び伸びと過ごしていいる子ども達に、厳粛な雰囲気を味わってもらうそんな日だ。
子どもは敏感に大人の気持ちに気付く。卒園式もそうだ。
しんみりとした大人の気持ちに触れて涙ぐむ子もいる。
式が終わりお別れの会になると、たかが外れまるで最後の時間を惜しむかのように心が躍っていた。
主体性を身につけ、他を思う心を持った子ども達に育った。
ご家庭での子どもの様子が幼稚園でも引き続き保障されたということだと感じる。
あとは、これから塚原学園全体の課題としたい「当事者性」を育てて生きたたい。
来年度からのことを考えると身が引き締まるしそれにもましてワクワクしている。
当事者意識
もう三月に入ったというのに、まだブログを1回も書いてなかった。
結構忙しい日々だった。
先週末に都内でセミナーがあり、信頼している方の勧めだったので参加した。
講師は二人。
一人は繊維業界の方でカンブリア宮殿にも出演された方。
もう一人が私が是非ともお会いしたいと思っていた工藤勇一先生だった。
だいぶ前に、麹町中学の学校改革を行い一躍有名になった工藤先生を知ったのはテレビの特集だった。
私が保育参観の日に保護者の皆さんに聞いていただいた話に「当事者意識」という言葉があったが、それを教えてくれた先生だ。
日本と韓国の子に「当事者意識」が欠如しているらしい。
受験があるのも日本と韓国と、、、アジアの中にあと数か国。
欧米にはないと聞いた。
であれば、子どもの日常がずいぶん違うだろう。
きっとゆったりと生活しているのだろう。
そんな日本になったら良いなとあこがれる。
当事者意識は、例えば砂場で遊ぶ子どもに「仲良く遊ぶのよ」「自分だけで道具を使ってはダメよ」「貸してって言われたら貸してあげてね」という、大人の声かけで失われていく。
確かにそうだ。
前園長の塚原港から、自分も現役の保育者時代に子どもを見守る大切さを何度も言われ、そうして身につけていった。
時代が変わり、それと反対の世界を求めるように世間が変わったのはどうしてだったのだろう、、、
色々と出口のない問いをつぶやくよりも、目の前の子ども達に本当の意味での主体性を身につけてもらおう。
本当の意味とは、当事者意識を伴った主体性!
これからのことを考えるとワクワクしてくる。
主体性ってこんなこと!
生活発表会の翌週、年長さんが、自分のやった劇ではなく他の子のやっていた別の劇をするという時間があった。
のぞいてみると、ステージに24名の子が上がっている。
担任は、音響とお客さんでそれぞれ一人で担当。
舞台上の子ども達の動きは驚きと感動に満ちていた。
舞台上の世界は、主体性そのもの。
全員の子が臨機応変に、大道具係、監督になっている。
決まった役割はないから、平たく言うと、全員が道具係で全員が監督だ。
セリフに詰まると、「こうだったよ」とか教え合っている。
打ち合わせナシ!
打ち合わせナシがどれほどスゴイ事かは、大人の自分と比べてみるとわかる。
大人は、話し合い、役割を分担して進める。というか大人になると打ち合わせもなく臨機応変に進めることはできるものではない。
それが子ども達にできるということは、毎日一緒に生活していてお互いをよくわかっているということだ。
そして主体性。この気持ちが基盤となっているからみんな楽しがってやれているのだ。
『そうなんだ、こんな風に子ども達をそだててきたのだった、、、』
改めて『あおば台でこだわって来たものは、これでしょう?』と見せてもらった気がした。
年少さんの保育参観が終わった
2園の年少さんの保育参観が先週、終わった。
年中や年長がホールの大きなステージで劇や踊りを行う姿を、真剣な眼差しで見ていた年少さん。
そこから『自分もやってみたい』という自然な流れができる。
子どもは小さいほど、自分より大きい子の様子を見て『憧れ』を持ち、成長意欲が刺激され主体的にやってみようとする自分が作られる。
こんなことを教わったのは、もう何十年も前。
一つは故久保田浩先生の主催する「語る会」のメンバーに。
一つは筑波大学の教授(故杉原一昭先生、現名誉教授櫻井茂男先生)の開いて下さったゼミ。そこは現役の大学生や院生、そして現場の保育者が集まっての勉強会だった。
教育には理論があってそれに沿って行なうことの重要性を知った。
年少クラスの一角を仕切りステージに見立てているところはとてもアットホームだが、そこに立てた子どもの姿は、気の弱い私からすると『すごい!』と拍手だ!
「観てもらう事」、特に保護者参観の行事をする場合、4歳前後の子ども達にとってさえ何かしらのモチベーションが必要だと私は思っている。
でないと、やらせになるのでは、、、
あおば台では、保護者参観の日を含めても、劇をやる回数はせいぜい4回程度だ。
1回1回に子ども達に「みせてあげてもいいよ」という承諾をもらう、そんなやり取りがある。
参観日は、大好きなおうちの人に見せてあげる日だ。
いつもの幼稚園での姿が、おうちの人の前でどこまで出せるか、、そんなことがあおば台のこだわりだ。
『おうちの人が来てくれる!』という喜びが、幕が開き『あれ?お家の人以外にもいっぱいいる!』と変わるのは当然で、そこへのサポートに力を注ぐ。それが保育者の役割だ。
嬉しそうな顔、恥ずかしそうな顔、得意そうな顔。
しばらく自分の気持ちを調整するのに時間をかけながら、子ども達は劇での役割を果たそうとする。
あんなに小さくて、見ようによってははかない存在。
そんな子ども達が、おうちの人のために一生懸命に行う。
心が洗われる。
幼稚園も、その絆を作られたお父さんお母さんと一緒のたくさんの手で、慈しんで育てていけたらと思っています。
夕暮れ時の空の色
夕暮れ空のきれいなこと。
この仕事に就くまで、空がきれいだ!なんて気づくことはなかった。
目線を上に向けると、赤と青が溶け合った奇跡の色に出会える。
日々忙しく過ごす人は多いだろう。忙しいという字は心をなくすとも読めると聞いた。
私も忙しい方だ。心をなくしていては子どもに向き合えないと思うが、子ども達のまなざしや態度から、心をやわらかくするエネルギーをもらっている。仕事なのにもらってしまっている。不思議な仕事だ。親業に少し似ていると思う。
自分が子ども達に与えているものもあるとは思うが、それよりはるかに多くもらっている。それが自分の仕事だ。この仕事に巡り合い感謝しかない。
空を見ることを意識していこう。
今日の空の色、明日の空の色。
一時も同じ色はない。まるで一人ひとりの個性が違うように。
子どもを思う時、その子は他の誰でもないその子なのだと、空の色を見て思う。
他の子と我が子を決して比べることのないように、、、私の願いです。
あおば台の子ども達は
元気いっぱい!!
NEW 園長ブログ
生きる力を考えたい
「教育」を語るYouTubeを見た。
そこに、現代の教育環境では、一人あたりのインプットの量が多すぎやしないかという声があった。
そう主張された方は『自分ならインプットの量を今の半分にしたい。そして空いたところに想像力が生まれるようにしたい。小学生の我が子には勉強しろとは言わない。没頭すること面白いことを探してほしい』
調べてみた。
私は昭和30年代の生まれだが、自分の時代より小学生時代に習う漢字の量がぐんと増えたことを思い出したからだ。
私が1年生の時の漢字は30字。今は80字。
6年間の合計は881字。今は1026字。
のんびりとした低学年時代だったが、今は追われてないか?
追われているとしたら何に追われているのだろうか?
それにしても、、と思う。
日本人はひらがな、カタカナ、漢字、それに加えてローマ字まで習っている。
こんな優秀な民族は他にいるだろうか!
これに気付いた時から、感動とともに日本民族として誇りを持つようになった。
そのYouTubeの番組で、日本人に求められてきた教育から生み出される人物像は「素直、まじめ、勤勉」だが、それなら、ロボットの方が優秀だそうだ。
これから必要とされる力は、生まれてから小学校低学年までどのように過ごしたかが関係すると言われる。
縁あってあおば台に来た子ども達には、好奇心を満たす没頭する遊びを自分で獲得できるようにしてあげたい。
その仕組みがあおば台にはあると思っている。
不確かな未来を生きる目の前の子ども達に身につけさせたい力を、もう一度みんなで考え保護者の皆さんと共有できたら幸せ。
実現してみたい!
気持ちの切り替え
大人でも子どもでも、気持ちの切り替えが上手な人と苦手な人がいる。
私が以前、尊敬している人から受けたアドバイスは、「自販機で飲み物を買う時、選ぶのに時間がかかる?かからない?気持ちの切り替えと、さっと選ぶのは比例しているんだよ」
当時私は、気持ちの切り替えがサッとできることを目指していたので、そのようにしてみた。
やってみて思ったのは、迷わず選ぶということは、瞬時に自分の何かを捨てる作業をしているということだ。
亡き夫によく「グズグズが好きだな!」とからかわれていた私にこのアドバイスは非常に役に立った。
今、お母さん達は苦労してないかな?
我が子に、次の行動に移させたいけど、なかなかその遊びがやめられないという時、子どもが自分で切り替えられなければ、積極的にアドバイスしたり助力することはとても効果があると感じる。
もし困ることがあれば遠慮なく園に相談してもらえたらと思っています。
AI
将来無くなっていく仕事は?と今までずいぶん話題になった。
コンビニも店員さんがいなくなり無人になるだろと予想されてきたがそうは見えず、進んでいるにしても超スロースピードだろう。
思いに反してクリエイティブな仕事にそれが表れているという。
例えば漫画も小説も脚本もデザインもAIが行う現実がもうあるのだろう。
知人に、チャットGPTを使ったことがあるかと聞くと数人の若者が経験していて「やっぱり便利です」と答えたその表情にどこが後ろめたさを感じた。
私達が行っている教育はAIにとって代わることが難しいと思うから、答えた知人は、私がそのようなことに反対する意見を持ち、便利さは教育には不要と思っているかもとおもんばかってくれたのだろう。
しかし、AIの話を聞くほどに、これからの不確実な時代を生きていく目の前の子ども達に必要であれば、是非使いこなせ、わけもなく活用できるようになってほしいと思っている。
しかし、何度も思うし何度も伝えたい事だが、「非認知能力を伸ばすには、幼児期と小学校低学年までの間にどれだけ遊んだかが重要」であるから幼児期の教育にそれを取り入れるという事ではない。
遊びの時間を保障するために、色々と工夫していきたいと思っている。
このことが初等学部も幼稚園も保育園にも関わっている多くの方と共有できるように取り組みたいし、世間にも周知されて行けば良いな、その為に自分で何が出来るかと思うこの頃だ。
好奇心
3月に近所の小学校を卒業した6年生が来てくれた。
お母さんからは
「あおば台で好奇心を育ててもらってその後にすごく役立っていて、、、とても感謝しています!」
勉強面一つとっても、『これはどうしてこうなるのだろう?』という発想から色々な知識を得ることにつながり生活を豊かにするのだろう。
好奇心から「生きる意欲」は高まってくると思う。
自分の話で申し訳ないが私自身YouTubeとの出会いで、どれほど世界が広がったか知れない。
YouTubeには、電磁波の危険性にさらされたり、快楽中枢を刺激するためにやめられないという問題面もあるが、いったんそれは横に置くとして、知りたいことがどんどん広がったり深まったりして『ありがたい。ラッキー!』という気持ちがあふれる。
書物、YouTubeなど好奇心を満たすものが無限にあるのが”今”という時代だ。
人類の発祥には諸説あるが以前脳科学者の方の話で記憶しているのは、
”アフリカにいた人類前の猿人(原人?)が人類に進化したのは、ある日地殻変動が起きて、「何事か?」と好奇心を抑えられなかったほうが、森を飛び出したのが人類の始まりとなった”というものだ。
好奇心は人間の本能だから、それが育たないとしたら環境だろう。
子ども達のためにそんな環境(人、モノ、時間)を整えてあげたいと思う。
何と悲しいこと
新学期早々にこんな話題は辛すぎるが、今一番思っていることなので聞いてほしい。
「2022年における15~19歳の死因の約半数が自殺」との話は、受け止めるには辛すぎる。
母親の胎内で10か月過ごし、その間には母子でしかわからない意思疎通があるだろうし、その後、手をかけ目をかけしながら育った子ども達のうち、そのような人生の終わり方をする子がいると思うと悔しい。
何とかならなかったのかと思う。
私の話にはたびたび登場する「OECD(経済協力開発機構)」だが、15~19歳の年代で死因のトップになっているのは日本のみという。
また15~24歳では、38か国中男性9位、女性7位だそうだ。
きっと、小さなうちから主体性と当事者性がそなわれば、自己肯定感も高くなり青少年のこの悲しい数値も変わるだろう。
だから、子ども達のために是非とも「自己肯定感」を幼稚園と小学校で育んでいきたいと切に思う。
卒園式
卒園式のこと。
あの日はとても不思議な一日だ。
いつも自由に伸び伸びと過ごしていいる子ども達に、厳粛な雰囲気を味わってもらうそんな日だ。
子どもは敏感に大人の気持ちに気付く。卒園式もそうだ。
しんみりとした大人の気持ちに触れて涙ぐむ子もいる。
式が終わりお別れの会になると、たかが外れまるで最後の時間を惜しむかのように心が躍っていた。
主体性を身につけ、他を思う心を持った子ども達に育った。
ご家庭での子どもの様子が幼稚園でも引き続き保障されたということだと感じる。
あとは、これから塚原学園全体の課題としたい「当事者性」を育てて生きたたい。
来年度からのことを考えると身が引き締まるしそれにもましてワクワクしている。
当事者意識
もう三月に入ったというのに、まだブログを1回も書いてなかった。
結構忙しい日々だった。
先週末に都内でセミナーがあり、信頼している方の勧めだったので参加した。
講師は二人。
一人は繊維業界の方でカンブリア宮殿にも出演された方。
もう一人が私が是非ともお会いしたいと思っていた工藤勇一先生だった。
だいぶ前に、麹町中学の学校改革を行い一躍有名になった工藤先生を知ったのはテレビの特集だった。
私が保育参観の日に保護者の皆さんに聞いていただいた話に「当事者意識」という言葉があったが、それを教えてくれた先生だ。
日本と韓国の子に「当事者意識」が欠如しているらしい。
受験があるのも日本と韓国と、、、アジアの中にあと数か国。
欧米にはないと聞いた。
であれば、子どもの日常がずいぶん違うだろう。
きっとゆったりと生活しているのだろう。
そんな日本になったら良いなとあこがれる。
当事者意識は、例えば砂場で遊ぶ子どもに「仲良く遊ぶのよ」「自分だけで道具を使ってはダメよ」「貸してって言われたら貸してあげてね」という、大人の声かけで失われていく。
確かにそうだ。
前園長の塚原港から、自分も現役の保育者時代に子どもを見守る大切さを何度も言われ、そうして身につけていった。
時代が変わり、それと反対の世界を求めるように世間が変わったのはどうしてだったのだろう、、、
色々と出口のない問いをつぶやくよりも、目の前の子ども達に本当の意味での主体性を身につけてもらおう。
本当の意味とは、当事者意識を伴った主体性!
これからのことを考えるとワクワクしてくる。
主体性ってこんなこと!
生活発表会の翌週、年長さんが、自分のやった劇ではなく他の子のやっていた別の劇をするという時間があった。
のぞいてみると、ステージに24名の子が上がっている。
担任は、音響とお客さんでそれぞれ一人で担当。
舞台上の子ども達の動きは驚きと感動に満ちていた。
舞台上の世界は、主体性そのもの。
全員の子が臨機応変に、大道具係、監督になっている。
決まった役割はないから、平たく言うと、全員が道具係で全員が監督だ。
セリフに詰まると、「こうだったよ」とか教え合っている。
打ち合わせナシ!
打ち合わせナシがどれほどスゴイ事かは、大人の自分と比べてみるとわかる。
大人は、話し合い、役割を分担して進める。というか大人になると打ち合わせもなく臨機応変に進めることはできるものではない。
それが子ども達にできるということは、毎日一緒に生活していてお互いをよくわかっているということだ。
そして主体性。この気持ちが基盤となっているからみんな楽しがってやれているのだ。
『そうなんだ、こんな風に子ども達をそだててきたのだった、、、』
改めて『あおば台でこだわって来たものは、これでしょう?』と見せてもらった気がした。
年少さんの保育参観が終わった
2園の年少さんの保育参観が先週、終わった。
年中や年長がホールの大きなステージで劇や踊りを行う姿を、真剣な眼差しで見ていた年少さん。
そこから『自分もやってみたい』という自然な流れができる。
子どもは小さいほど、自分より大きい子の様子を見て『憧れ』を持ち、成長意欲が刺激され主体的にやってみようとする自分が作られる。
こんなことを教わったのは、もう何十年も前。
一つは故久保田浩先生の主催する「語る会」のメンバーに。
一つは筑波大学の教授(故杉原一昭先生、現名誉教授櫻井茂男先生)の開いて下さったゼミ。そこは現役の大学生や院生、そして現場の保育者が集まっての勉強会だった。
教育には理論があってそれに沿って行なうことの重要性を知った。
年少クラスの一角を仕切りステージに見立てているところはとてもアットホームだが、そこに立てた子どもの姿は、気の弱い私からすると『すごい!』と拍手だ!
「観てもらう事」、特に保護者参観の行事をする場合、4歳前後の子ども達にとってさえ何かしらのモチベーションが必要だと私は思っている。
でないと、やらせになるのでは、、、
あおば台では、保護者参観の日を含めても、劇をやる回数はせいぜい4回程度だ。
1回1回に子ども達に「みせてあげてもいいよ」という承諾をもらう、そんなやり取りがある。
参観日は、大好きなおうちの人に見せてあげる日だ。
いつもの幼稚園での姿が、おうちの人の前でどこまで出せるか、、そんなことがあおば台のこだわりだ。
『おうちの人が来てくれる!』という喜びが、幕が開き『あれ?お家の人以外にもいっぱいいる!』と変わるのは当然で、そこへのサポートに力を注ぐ。それが保育者の役割だ。
嬉しそうな顔、恥ずかしそうな顔、得意そうな顔。
しばらく自分の気持ちを調整するのに時間をかけながら、子ども達は劇での役割を果たそうとする。
あんなに小さくて、見ようによってははかない存在。
そんな子ども達が、おうちの人のために一生懸命に行う。
心が洗われる。
幼稚園も、その絆を作られたお父さんお母さんと一緒のたくさんの手で、慈しんで育てていけたらと思っています。
夕暮れ時の空の色
夕暮れ空のきれいなこと。
この仕事に就くまで、空がきれいだ!なんて気づくことはなかった。
目線を上に向けると、赤と青が溶け合った奇跡の色に出会える。
日々忙しく過ごす人は多いだろう。忙しいという字は心をなくすとも読めると聞いた。
私も忙しい方だ。心をなくしていては子どもに向き合えないと思うが、子ども達のまなざしや態度から、心をやわらかくするエネルギーをもらっている。仕事なのにもらってしまっている。不思議な仕事だ。親業に少し似ていると思う。
自分が子ども達に与えているものもあるとは思うが、それよりはるかに多くもらっている。それが自分の仕事だ。この仕事に巡り合い感謝しかない。
空を見ることを意識していこう。
今日の空の色、明日の空の色。
一時も同じ色はない。まるで一人ひとりの個性が違うように。
子どもを思う時、その子は他の誰でもないその子なのだと、空の色を見て思う。
他の子と我が子を決して比べることのないように、、、私の願いです。