初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

初めて幼稚園で遊ぶ

もーりの、3歳になる前に幼稚園で遊ぶことができた何人かを除いては、初めて幼稚園で遊ぶことができた。あおば台の入園式が終わった後に、今日初めて幼稚園に登園してくる3歳児の様子が見たくて第二幼稚園へ行ってみた。保育者の第一声は『泣く子がいない』『とにかく遊びたくて、泣いている暇がない』と弾んだ声で言ってきた。バスに乗るときには何人かの子が泣いたと聞いているけれども、バスに乗ってしまえばそのあとは楽しいことばかりだ。バスに乗るときに泣いた子はこの次もなくだろうか。休みが間にあるから、泣くかもしれないがそれほど長くはないだろう。

バスに乗せるときに子どもが泣き始めてお母さんから離れないということがあるけれども、そんな時には強引にでもお母さんの手から離す。まるで人さらいのようだけれども、保育者も足でけられたりして、必死の思いでバスに乗せなければならない。そんな状況は長くたって1週間と続かない。だから来週いっぱいが経過すると、だれも泣きながら登園してくるものはいなくなる。そうなると子ども自身にも自信がついて、少し大きくなったという実感がわいてくる。沢山ほめてあげると次の段階にいきやすい。だから何もなくスーと幼稚園に溶け込むよりは、何か困ったことがあった方がよい。いずれにしても、これからそのようなことにぶつかっていかなければならなくなる。楽しみに成長を見守ってほしい。

初等学部では児童のファミリアのアンケートが出そろった。どのファミリアに自分が所属したいのかということだが、やはり一番多かったのは基地を作ろうといった『建物ファミリア』が多かった。その次はお店を出そうといった『食べること大好きファミリア』が多く、最後は『お芝居大好きファミリア』だった。それぞれに教師が張り付き子どもたちに夢を抱かせるような導入が必要になってくる。建物とか、食べ物とかは目に見えやすく具現化されやすいけれども、芝居の方は創造力がいる。私は三つのファミリアに所属し、何かと助言を与えていきたい、子どもたちの邪魔にならないように。

アンケート調査の結果、多分この子とこの子はいつも一緒にいるから同じファミリアになるだろうなどの予測は見事に打ち破られて、子どもたちの主張が色濃く出ている結果となった。これから学校での活動は自己決定の原則の中で生活することになる。寄宿舎があれば夜遅くまでもやりたいことに没頭できるのにと思う。フロー教育は時間の制限があってはなかなか到達することは困難だ。だからファミリアなどということが生まれたのだけれども、寄宿舎は絶対に必要だ。何と思われようが必要なものは必要だ。原則保護者には強制しないということを約束すれば、やり易いのではないか。

入園式

小学校の入学式とはちょっと違った雰囲気の幼稚園の入園式があった。大変な思いをしてここまで育ててくれたと言う気がするが、子どもたちにとってはそうしてもらうのが当たり前だから、わがまま言って親を困らせている。それでも親というのは見返りを求めない無償の愛だから、にこにこしてわがままに付き合っている。人間の愛について言えばこれほど高尚な愛はないだろう。かつて高田好胤先生が生前に父母恩重経というお経の話をしてくれたときに、『子が親を思う心に優る親心』という話を聞いたことがある。

その無償の愛も、徐々に子どもたちが大きくなって来ると親子でいい争いが起こったりする。これも子どもが成長する時のセレモニーみたいなもので、通らなければならない関所のようなものだ。何故いい争いが起こったりするかと言うと、ほとんどの場合が親が子どもの成長に追いついて行けない場合が多い。親からして見れば何時までたっても親子関係は消えて無くなるわけではないから、どうしても親権というものを使ってしまう。これは子どもにとっては抗えない禁じ手である。私が産んだ子だから、あなたのことは何でも知っている、ということになる。しかし実際のところ、子どもの年齢とともに子どもの視野が広がってくると、親の知りうることはそれに反比例して知らないことの方が多くなる。

あなたのことは何でもと言えるのはせいぜい3年生までである。それ以後はあまり使わないほうがよい。それは子どもの主体がはっきりしてきて、他者評価も自己評価も不安定ながらできるようになってきているから、大人を評価する時の基準が両親であるから、良い印象を与えておいた方がよい。良い印象というのは、子どもにへつらうことではない。子どもの意見をよく聞き、公平な判断を促すことである。そういったことが大人を信頼し、社会を信頼する大きな要素となって、立派な大人になっていく。

可愛い子どもたちだ。しっかりと手を携えて、ご両親ともどもと歩調を合わせてやっていきたい。卒園するころには『あおば台で良かった!』と言わせしめるよう努力して行くつもりだ。それには互いに一方的な会話はやめて、何かあったらしっかりと話し合える雰囲気を作っていこう。保護者も幼稚園も子どものためには一生懸命なのだから。親子ともども楽しい園生活を過ごせるように、できることは何でもやろう。

寒い日

子どもたちは冬だというのに、素足で幼稚園の室内を駆け回っている。全員ではないけれどもそんな子が結構いる。さすがに3年生以上になると、そのような子は見当たらないが、半袖になって遊んでいる子はいる。寒いというような感覚がないのだろうか。『寒くないのか?』と聞いても舌を出してげらげらと笑っている。子どもらしいといえば子どもらしいけれども、風邪をひいたりして辛いのは本人だから、我慢せずに厚着をしてくれたらいい。

友人が喉頭がんで亡くなった。そのお兄さんには私は名状しがたいほどお世話になった。お兄さんと私は師弟関係といっても過言ではなく、無能な私を開発してくれて、社会に通じる仕事人にしてくれた。幼稚園を始める以前の話だ。そんなものだから当然亡くなった弟さんとは面識がある。それどころか青年会議所で、同じ時期に監事をやらせていただいた経験がある。とても頭の良い方でひとの話を絶対にそらさない。昨年何かの勲章をもらったという話を聞いた。

癌が大きくなって頸動脈を圧迫して、血管が破裂してしまったというようなことを聞いた。死ぬのかもしれないという意識はあったのだろうか。死ぬという覚悟はできていたのだろうか。死ぬという覚悟はどのようなものなのだろうか。どのように自分を設計すればよいのだろうか。どんな気持ちで、死に際を迎えればよいのか。あまりにも身近な人が無くなったので、とても他人ごとではないような気持ちになった。私はまだやることがあるので、生きる覚悟はするけれども、死ぬ覚悟はできないし、それがどんなものかもわからない。

今日から始まった

幼稚園も学校も今日から始まった。幼稚園での挨拶をすると、子どもたちは精いっぱいの大声を張り上げて「おめでとうございます!」という。きらきらと目が輝いていて眩しいくらいだ。とにかく、年長さんはあと3カ月で終わりだから、楽しい思い出をたくさん作ろうということを話した。また年中や年少には、あと少しで年長さんになったり年中さんになったりするから、よく話を聞けるようになろうということを話した。するとさすがに年中さんは、顔を引き締めました。年長になるということは彼らのステイタスなのだということが、はっきりとわかる。

初等学部には昼前に行ったが、ポニーを13時半に迎えるのでその時に外で挨拶をしてくれというので、ポニーが学校に帰ってきてから子どもたちに新年の挨拶をした。幼稚園の子どもたちのように大声を張り上げる子はいなかったが、職員室前での集まりが解散されてからは、低学年の子どもたちが個別に『おめでとうございます』と挨拶に来てくれた。とてもうれしかった。年賀状をもってきてくれた子もいて、読むのが楽しみだ。幼稚園の子も年賀状をかけるけれども、難解なのが多い。小学生は無理やり漢字も書くし、読めるからいい。

今日は賀詞交換会で今から出かけなければならない。賀詞交換会などと言っても地元生まれで地元の育ちだから、知らない人はほとんどいない。知らない人は地元の企業でない人で、いわゆる落下傘部隊だ。ネクタイをしていないけれどこれが仕事着だから許してもらおう。

明日から全開

長い休みはもやもや感があって、どうもすっきりしない。子ども達の前に出れば、すべてすっきりする。子どもたちの癒しの力はすごいものがある。同じ人間でありながら、子ども時代のあの見えない力は一体何なのだろうか。力もなく、考える力も大人には遠く及ばないが、無限の力量があるのは何なのか。口に出してしまうと壊れそうなので、めったやたらと口には出せないが、何か尊いものが潜んでいるのは確かだ。しかもガサツな人間には、絶対に見えぬものだから不思議だ。

子どもの目には、優しさだけではなく、大人を諭すような神々しい光があるではないか。そのもったいないような子どもたちに明日から会える。子どもたちの生きようを、静かに、大切に手のひらで包むように見守り、育んでいってほしいものだ。

幼稚園でも、初等学部でも色々なことを考えて試してやって来ましたが、今年は行動の時、見えるような成果を上げるときにしたい。幼稚園ではそれなりの歴史もあるけれども、旧態依然とし過去の保育力にすがっていたのではならないでしょう。一人一人が現状から脱皮し、新しい自分を感じられるような生き生きとした保育者になっていきましょう。

保護者の皆様へ
あけましておめでとうございます。
子ども達の『幸せ』を追求して、今年も燃え尽きるごとく力いっぱい汗をかきます。よろしくご支援のほどをお願いいたします。また皆様のご家族が、お健やかにお幸せに過ごされますよう、心からお祈りいたします。