初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2013年11月の記事一覧

勉強は何のためにするのか?

筑波大心理学教授だった故杉原一昭先生が、退官時に『生きることと死ぬことと』という議題でさよなら講演を行った。私はその話の中で、あるユダヤの青年がアウシュビッツに送られていく汽車の中で『どうしても読みたい本がある』と言って、途中の駅で一泊した時に、汽車を抜け出し友人とともにその街の中で図書館を探し、読みたい本を漁り、汽車に戻ったという話を聞きました。今死にに行く汽車の中で、なおも『読みたい』という本を読もうとする行動に彼を動かしているものは、一体何なのか。

私はその話を聞いて講堂を出た時に、どうしても涙があふれてきて仕方がなかった。はっきりとは言葉に表せない感動が、全身を稲妻が走ったように通り過ぎて行って、体が震えていた。私はものを識ると言うことにあまりにも無頓着であった。知識に対して甘く見ていたのだ。自分が生きていくのに不自由のない知識で十分であるという狭い領域でしかものを捉えていなかった。何とあまりにも低俗な生き方ではないか。自分の情けなさに涙したのだ。

それ以来専門分野は勿論のこと、それ以外についても学ばなければならない事に気がついた。色々なことを学ぼうとすればするほど、自分の底の浅い知識を自覚する。そうなるとますます貪欲にはなるけれども、あまりにも知らないことが多すぎて、自分自身にあきれ返ってしまうこともしばしばであった。杉原先生の最後の講義で教えて頂いたことは、様々な生き方があるけれども、人生は知的に生きることの素晴らしさである。

私が目指している『精神的貴族』像は、まずそれなりの知識を得なければならないではないか。しかもその知識は個人所有のものではなく、多くの人々に分け与えていくことでなければならない。その結果として自分も飯の食える人間にならなければならないのだ。勉強はそのような人間になるためにやるのだ。勉強はやりたくないとか、ずっと遊んでいたいなどの話は聞いていられない。皆で困っている人を救っていかなければならない、ということを自覚しなければならない。

医者に成りたいと言っている子が結構な数いる。ままごと遊びではないから、願望だけでは夢物語である。何故なりたいのか、正しい意識がしっかりしていれば必ずなれる。それがお父さんやお母さんのためでは絶対にうまくいかない。なぜなら途中下車しても親なら甘いから、それに責任を感じないだろう。内発的動機が社会のためなら責任はいつも自分にあるという意識をもつものだ。しっかりと子ども達に伝えなければならない。