初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2015年8月の記事一覧

教育の神髄って何だ?

学校教育を受ける者、そして教育を授ける者とに分かれるが、実はこの両者は分かれてあってはならないもので一体でなければならない。一体であるということは同じ方向を向いているということで、同じ思惑の中にいる。ここでの『真髄』は『真理』と置き換えてもよい。平たく言ってしまえば何のために勉強するのかという疑問に、噛み砕いて説明できるかということだ。子どもたちの永遠の、大人たちへの質問でもある。大人たちは即座に『自分のためだ』と答えるのが一般的らしいけれども、これを子どもたちが自分の中に取り込んで反芻して理解するのには難解である。大人は経験知の中で話をするが、子どもには宇宙の大きさを測るようなもので理解できない。

何故幼稚園に通ったり、小学校とか中学校へ行かせなければならないのか。保護者は周りの人たちがいくから、わが子も後れを取ってはならないなどと、臨戦態勢に入っている様な言葉では応えないだろう。わがこのためにの一念であることには間違いがないけれども、押しつけているわけでもない。それが社会通念となって誰もがそのような行動をとるようになっているからだ。しかし日本ではそうであるけれども、幼稚園などには世界の同年齢で幼児教育を受けられるのは10%に満たないのだ。小学校へ通える子も半分に満たない。幼稚園や小学校へ通えるというのは地球上でも選ばれた民なのだ。

まあそのようなことを頭に入れといて、何故幼稚園に通うのか。全日本私立幼稚園協会では、幼稚園を『子供が初めて通う学校』というような位置づけでいる。学校というより『子供たちのたまり場』の方がしっくりといく。多くの不特定多数の子たちと混ざり合って、人と関わり合う術を体得してほしいと願い、人生における基本的なスキルを磨いてほしいと願っている。そして、友達ができてその子の名前が出てくると親も歓喜する。全く親子ともに正常な心の発達である。この状況を『はぐくむ』というのだろう。そんな状況だから、親子ともに多くの事柄に対して寛容である。子どもたちからその時に寛容さを学ぶ。

そうはいっても小学校へ入ると、『教科を学ぶ』という新たな取り組みがあって、それについて保護者は他を意識するようになる。子どもたちは、できるとかできないとかいうことには無頓着で、全くマイペースで大らかである。何故学ばなくてはならないのかという疑問は、小学生の低学年では起きてこない。自己評価も他者評価も何となくできるようになる9歳から10歳のころだろう。そんなことは全く考えずに飄々と学問に打ち込んでいる子もいることは確かだ。そんなことを意識させずにひたすら学習できるという態度は驚嘆に値するだろう。そのような子を含めて、子どもたちが幸せになってくれるように願いながら学校や幼稚園がある。

人間として生を受けて一番その子らしく生きられるということは、自分の人生を自分で選択でき、周りの支配を拒絶できる知識と自信を得ることだ。親からも誰からも支配されるということを敢然として拒否することだ。自分の生きざまを自分の力でコントロールできるということは素晴らしいことだ。支配されるということは、奴隷になるということだから、拒絶して自分を一生懸命生きなければならない。そんな自由を得られた子は幸せである。米国で南北戦争が終結したとき、奴隷であった黒人が『次に生れてくるときに奴隷であるならば私は躊躇なく死を選ぶ』と言ったという。