初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2017年6月の記事一覧

幼稚園での生活

初等中等学部の校長を兼任していたときには、最後の最後まで学校に残るので、ゆっくりと幼稚園を見ることが出来なかった。ゆっくりと見ることが出来ないと言うことは、子どもたちとの会話が薄れてしまっていると言うことだ。3月一杯で校長をやめ、以前のように幼稚園に専念することが出来ると、子どもたちの中に入って行く機会も多くなって新しい発見もある。何よりも子どもたちの一直線の真っ黒い瞳で直視されることの心地よさは格別である。こんな子どもたちがやがて大人になって今の社会に入っていくことを考えたら、ちょっと言葉に詰まることがある。

47%の職業が何かに代わって行くと言うのだから、今の大人が考えているようなものではなくそれこそ大地がひっくりかえるようなパラダイムシフトが行われるのであろう。私の職業から考えられることは、2歳児以下の子どもたちには癒し系のロボットが活躍するだろうし、そうなれば現在の保育士減の馬鹿馬鹿しい騒ぎも収まるだろうし、保護者も保育所に入れなかったなどの騒ぎはなくなる。ただし人口減による保育所や幼稚園の閉鎖が頻繁に行われることになるので、希望の園に入れるかは分からない。

馬鹿馬鹿しい騒ぎと言ったのは大都市圏での待機児童の騒ぎが起こった時に、東京の幼稚園協会と話し合いを持って、幼稚園の解放をお願いすればよかった。私は東京都の協会の会長と『幼稚園の一部屋を保育所に貸してやったらどうでしょう』と言うことをお願いしたことがあるが、認定子ども園の定義があいまいであるということと、大人が8時間労働という労働規約があるのに、なぜ子どもたちは11時間も保育所にいるのかということを言われて返す言葉がなかった。この人は国の子ども子育て会議に出ていて、幼児の保育時間について最後まで持論を譲らなかった。立派な方だと思っている。

国の働き方改革だかよく分からないが、母親を家庭から追い出して、子どもと引き裂いた政策には反対である。私が反対をしてもどうにかなるものではないけれども、国は経済的なことばかり考えていて、家庭の中のぬくもりに無頓着である。まだまだ衣食が足りないとでもいうのだろうか。私の子どものころは敗戦の後処理で食うものもなければ、着るものも足らない状態であったが、私は幸せだった。両親のことが誇りだったし、食うものさえあればそれ以上のものを望んだりしなかった。