初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2015年10月の記事一覧

脱穀

今日は第二幼稚園で3歳児に運動会があった。私はいつものように、ごく普通の顔をしていても保護者の前に出るときには『もっとにこやかに』とか言われる。これは女房だけに言われるなら無視もできるが、最近では私の顔に慣れてきたのか、保育者までもが『もっと笑って』とかいうようになった。しかし今日は朝からそんなことを言う保育者はだれもいなかったし、女房も終始ニコニコ顔でああった。それはそうだろう。あの子たちの笑顔を見て『ブスッ!』としている大人はそうはいない。子どもの顔もそうだけれども、ご両親の顔も素晴らしかった。

みんなの顔がこぼれそうな笑顔で、至福を感じるひと時であった。それはそれでよかったけれども、昨日の初等学部の脱穀で、ずっと立ちつくしてやっていたもので、腰や足の筋肉が硬直してしまったのか痛くて仕方がなかった。やっているときには無理してやっているなどの意識は全くなくて、ちょっと疲れてきたら教師に代わるというようにしていたけれども、朝起きるときには這う様にして起きた。年寄りの痛みは、すぐにやってこないから用心しないと大変なことになる。それにしても初等学部の教諭たちと投光器を点けながらの脱穀だったけれども、よくやるなと思う。経験があるのは私と事務長だけなのに頑張った一日だった。


今の子どもたちは毎日白いご飯を食べているけれども、田植えをして稲穂が実ったあとのことは殆ど知らないと思う。籾摺りや玄米を白米にする精米などのことは知らない子の方が多いだろう。知らなくても現在の大学受験にはあまり関係がないかもしれないが、実はこれからの受験はそうはいかなくなるのではないかと思う。田植えから白米になるまでの過程を知っているということではなくて、その過程で起こる自分の心の動きが様々な科学の芽を育てることになるのだ。受験のためのドリルをいくら消化したところで、総合的な体験的学習には遠く及ばない。

愛おしきもの

第二幼稚園の1週間遅れの運動会があった。昨日の夜からと今日の朝方は18日にやった方が確実性が高いということで、日曜日にやろうとほぼ決めていたけれど、雨雲の予想通過を見てみると、かろうじてつくばの上は通らないだろうということでゴーサインを出した。1週間遅れだけでもがっかりしている子どもたちだし、お手伝いの6年生にしてもそれぞれに予定を組んでいるかもわからないし、お仕事をなさっているご両親にしても予定がくるってしまうことは極力避けたいという気持ちもあった。

子ども達にとっては雨だろうがなんだろうがやりたいときにはやりたいものだ。大人が駄目というから渋々承諾しなければならないだけの話である。子どもが生まれてから這い這いをし、立ったり座ったりするようになると、いよいよ歩き出す。「立てば歩めよの親ごころ」である。歩き出すと視野が広がり、手に触ったものについては口に持って行って確かめようとする。知識を得たいという原型の本能である探究心が働き出す。腕や足がプクプくしていて、まだ協応性がないから、動作がどうもおぼつかない。しかしどうにもたまんなく可愛い。これ以外に表現の仕方が分からない。

この頃の子は、ベビーシェマと言って顔のパーツがほぼ中央によっていて、黙っていても可愛い顔をしている。それが動き出すようになるから、ご両親や祖父母にとってはぬいぐるみでは表現できない可愛さをすべて持ち合わせているので、どうにもならないくらい可愛い。この時期ならわが子がどうしようが何をしようが、ありのままの姿をすべて抱擁し、寛容に育児ができることでしょう。この気持ちを忘れずにいてほしいものだ。愛おしいもの、それは子どもたちの笑顔だろう。

子どもは育てたようにしか育たないと思うほうが正しいと思う。奇跡は起こらないとみるべきだろう。これからも保護者の皆様とスクラムを組んで子育てに邁進してまいりましょう。今日は子どもの顔と、大人の顔の両方にとても癒された一日でした。お父様方も、朝から駐車場の整理をありがとうございました。とても助かりました。

なんでも計画的に

計画というのは見通しを持つということだから、こうなるはずだという予測を持って出発するのが普通で、どうなるか分からないのは、多分計画とは言わないのだろう。思いつきで動くというのがあるけれど、この『思いつき』というのはうまくいかない場合は周りからヒンシュクを買うけれど、これが当たった時には創造力の豊かな人であるという、おほめの言葉を戴くことになる。幼稚園の行事や運動会の種目、あるいは劇遊びのシチュエイションなどは特にこの突発的な創造力がものをいうときがままある。ねらいは子ども達がどのように食いついてくるかであるけれども、こんなことを考えていると時間を忘れる。

だから『発見』や『発明』には計画性はない。きっかけは思いつきだから、『思いつき』や『ひらめき』をもっと大切にしてやりたい。田んぼを借りたのは思いつきではなく、こうするのだ、ああしたいのだというものはあったけれども、600坪というのが大きすぎた。最初から分かっていた大きさだけれども全部を使うことではなくその中の半分ぐらいと考えていたけれど、水を引くのにそうはいかないということで、借りた分だけ田植えをすることにした。当然あれだけの大きさは私たちの手に負えないので、事務長のお父様に機械を入れてもらって、田植えまで手伝って戴いた。

稲刈りが終わってオダカケをしてある分の稲はこれから脱穀をしなければならないが、あれやこれやと行事や活動が入っていてどうも脱穀まで手が回らないようだ。脱穀用の竹細工はいくつか出来たようだが、自費で脱穀機を買ってしまった。これさえあれば私と事務長とでできる。その間に見物に来た子どもたちにやらせればよいと思っている。やりたがればの話だけれども。これも不確実性の無計画の中の計画である。

初等学部では初めてファミリア活動を観てもらおうと参観日を設けた。最初のころは教師も子どもたちも戸惑うところが見えたけれども、今では高学年と低学年のペアがうまく行っていて、それらが低学年の学習になっているし、高学年はファミリアの活動そのものに理解を深めたいという意欲が出て来たので、これが学習意欲につながっていくことを強く願っている。学習のためにファミリアがあるのではなく、学習そのものが生きるためのスキルであることに気づいてくれれば、もっと面白くなる