初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

オアシスは満タン

初等学部のオアシスへ幼稚園の子どもたちが来た。実は昨日は第二幼稚園が来る日であったけれどもあいにくの天候で中止になってしまった。今日はあおば台の年中と年長の子どもたちが、両手足を伸ばしてキャッキャッキャッと楽しんでいる。楽しいという日が毎日のようにあればいいな。
         
小さなプールだけども、初等学部の最初の子どもたちがオアシスと名付けた。ここにはキャンプ場があるけれどもその場所の名前は軽井沢だ。左上の写真はゆっくりと階段を下りてオアシスに入っていくようす。
           
オアシスの上からちょうど滑り台のようにして遊べるのが楽しい。右上はロープを伝ってオアシスから出るところ。小さな子どもたちでは、オアシスの上まで登るのには滑ってなかなか難しい。
         
オアシスの隣にある全長202Mのクジラ川でカヤックに乗って楽しんでいる年長の子どもたち。深いと危ないので、昨日のうちに初等学部の教員たちが川の水を抜いてくれた。年長と年中の子どもたちを一緒に遊ばせておくと、年中の子が年長に引っ張られるようにして、より活動的になる。楽しい光景である。子どもたちが帰る頃になって、雨がぱらつきだした。

進路指導

私の友人の兄に京都大学病院の院長をしていた人がいる。勿論その姉も弟も優秀である。私の友人の方はいたって楽しい人で、幼稚園の保育者をしている。研修会などで、日本でも著名な講師を呼んだりするのは、実は大学病院の院長の差し金であったことがつい最近分かった。そんなことを自慢したりしないから、幼年教育研究所の所長の久保田浩先生がお呼びしていたものとずっと思っていた。大学病院の院長というのは、大学に残って病院を運営して一人院長になるわけだからすごいと思う。しかも京都は研究所としては東大よりも世界では有名だ。

初等学部にもすでに医学部志望の児童がいて一生懸命勉強している。医者の子の多くは医者になろうとしているのがいる。自分の親が医者だとそうしたいと思うのだろうか。開業医の場合には、医療器具の支払いに追われて一代では返済できないと言われていて、何とかわが子にあとを継いで戴きたいと思うのは自然な思いである。他人が入って来るよりそのほうが良いということだろう。だがこれは弁護士も公認会計士でも世襲制でないから、大変なことだ。もっとも大変だと思うのは凡人の悲鳴にすぎないが、医者は自分の通ってきた道だから、きっとわが子にもできるはずだなどと思いがちなのだろう。医者になるという目的を持っているのは数人にすぎないが、健気に勉強に取り組んでいる姿がいじらしい。

高校を選ぶならそのような雰囲気のある学校が絶対よい。同じ目的を持っている仲間が近くにいるということは励みになるから、勉学にも相乗効果があって目的意識も強固になって目的を突破できるだろう。何も将来の目標は医者だけでないから、世の中に役立つような人になりたいという希望に沿ったことを推奨して、学習に励むという内発的な動機を培養してあげることが大切だ。私個人としては、手っ取り早く社会に貢献できるのは医者がよいという気持ちはある。白衣を着て聴診器をぶら下げて、意味もなくふらふらと歩いていたって様になるではないか。しかも世界の人類に役立てる。

出来ることなら子どもたち全員に『医者になれ!』と号令かけてみたいが、それだけの器が私にないからあまり無責任なこともできない。私の尊敬する先輩に医者がいるけれど、その先輩は土浦一高で数学はトップだったらしい。周りの人に聞いてみるとそれほど勉強ばかりしていたとは思えないと言っている。養老猛さんも東大医学部へ進んだけれど、少年時代は虫捕りばかりやっていて、その標本作りに毎日を使いきっていたというし、同じように身近にいる優秀な人はよく遊んだ話ばかりしかない。没頭して遊ぶということが大切なのだ。中国の諺に『小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す』というのがある。世を正すことも医者の役目だったことがあるのだ。チェ・ゲバラも医者で、革命がはやっていたころには医者が登場する。

正義とは何だ

正義=善ではなかろう。正しいことが正義だという論拠はない。公平なものが善であるとは言い切れない。人それぞれに自己主張の根拠を持っているからだ。子どもが生を受けて、幼稚園に通っているときは間違いなく性善説であるが、徐々に大人に近付いてくると性悪説に近付いて、性悪説を認めざるを得なく。人間の本性である欲望が自分自身を取り囲んだ時に、善悪の意識を超越してしまうのだ。社会に警察や軍隊があるのは性悪説に基づいている。大人になると善悪で物事を判断することが難しくなって、利害得失に決断を迫ることになるのは、これもまた人間の持つ本性なのか。正義を振りかざして生きようとすると、『世間(流れに)に掉(さお)させば流される』ことになる。『とかく世間は住みにくい』ものなのだ。

私の幼児教育から小学校での子育て論は正論である。正論であるという根拠は、発達理解と実践記録によるものだ。だからと言って、これがすべての人たちに押し付けられるものではないことは十分承知している。正論といえども、だれにでも当てはまるものではなく一般論に過ぎないものだからだ。正論がいつでも正しい善であるとは限らないということになるけれど、しかし、だれかが正論を声高らかに言い続けていなければ、必ず世の中のうねりは楽な方の道を探し出すだろうし、それが常態化されると真実に変わってしまう。真実はあくまでも正論の中にあるというのが私の持論だ。

子どもたちの発達は肉体的な発達と心の発達があるけれども、肉体的な発達は現象的に顕著に表れるからとても見えやすいけれども、心の発達は幼児期から9歳までは良く見えるが、10歳ごろになると見えにくくなる。それは何度か言っているけれども、他者評価ができるようになってくると同時に、その評価を自分の中に閉じ込めて自分個人の秘密にしておくという、親からの独立宣言みたいな発達があるからである。女児の場合は男児よりも発達が早いので、よくよく観察していないと子どもに出し抜かれてしまう。子どもたちの独立宣言は、児童期にある。正しく対応できるように心がけていよう。

私はある市の『子ども子育て会議』に出ている。子どもを産んで子どもを預けられるようになるのは産休が明ける3ヶ月後からである。まだ赤ちゃんは目が見えない時期だ。子どもも母親も可哀そうで不幸な境遇である。これが経済大国を誇った日本の子育てに関する国家の政策である。本来母親が安心して家庭で子育てが出来るというのが国家の政策でなければならない。子どもを産んで間もなく仕事に就かなければならない人は、保育所へ。そうではなく家庭で子育てができる人は家庭で。そして3歳になったら幼稚園へ行けばよいというのが現在の方向だ。否、家庭にいる母親を無理やり仕事場に引き出している。これは正義でも善でもない。建前と本音というご都合主義である。豊かな国家では決してない。子どもにとっては母親に育てられるというのが至福である。

初等学部で昼食の時間が終わると、6年生が一目散でオアシスの方向へ走っていく。何をするのだろうかと思っていたら、たまたま担任が通りかかったので『6年生どうしたの?』と聞いたら、『鬼ごっこです』とこともなげに答える。こんなことが好きなんだ。確かに子どもというのは、陸上競技でもないのに、むきになって走りだしたりする。私らの年になるとこの行動が意味不明で、ただ疲れるだけという受け取り方しかできない。6年生が鬼ごっこをしていると、何とも迫力がある。

教育の基本は幼児教育

教育そのものを人格の育成と知識の培養とするならば、その基本的なことは幼児教育にあるのだろう。人間の生活様式は小学生でも幼稚園の園児でも全く変わらない。生活の中に小学校では文字を使った『教科書』が配布され、年間時数が文科省によって決められているが、人間の営みは変わるものはない。幼稚園の中にもちょっと発達の早い子による『いじめ』に似たようなことが起こることがある。しかしそれらは幼稚園の中で解決できるようにしている。そんなものに特効薬はないけれど、ひたすら注意深く『見守る』ということで、子どもたちは自然にそのような事象でも乗り越えていく。そのような復元力みたいなものを持っているものだ。

何日か前のあおば台幼稚園の保護者からのお話がブログに載っていた。幼稚園から帰ったわが子の顔が少し腫れているので『どうしたの?』と聞いたところ、友達のA君が何かを振り回していて、それが顔にあたったらしい。それでもわが子は『でも先生に言わないで、A君叱られると可哀そうだから』と言ったので、思わず母親の方が涙でむせいでしまったという。人を思いやる心が芽生えてきているわが子に感動したり、つたない言葉で自分の気持ちをはっきりと伝えることができたという成長に思わず涙ぐんでしまったのだろう。

子ども同士の出来事は、子どもの中でしか本当の解決は出来ない。保護者がこのようなことを聞きつけて先に幼稚園に解決を迫ったら、親もまたこのようなわが子の成長に気づくこともなかったろうと思う。子どもの心の成長の殆どは、親の知らないところで育つものだ。子どもを信頼して見守ることが出来ると、子どもの発達がよく見えると何度か書いたことがあるけれど、今回の幼稚園での保護者のブログもそれを証明している。子どもを愛するが故に、子どもの気持ちまで感情移入してしまうと、当然子どもは見えなくなってしまう。子どもを思う親心は仕方のないところもあるけれど、そのようなことも差し引かなければならない。

小学生の心の発達についても、幼児の発達を観るスタンスと全く同じである。子どもを見、寄り添う基本は幼児教育にあるのだ。子ども同士で何かぶつかり合いがあると、ある程度の心の葛藤の先が読めるので両方の子どもの様子を『見守る』様にしているが、保護者の方が敏感に反応して来ることもあるので、子どもの心の葛藤を観察するゆとりがない。何が起きても学校でそれを把握していれば問題は起きないものだが、当事者である子どもの保護者であれば、そんな悠長なことは言ってられないのだろう。それもまた親の愛の表現だ。だから一般的に言われるネグレクト(無関心)などは、この学校では無関係である。しかしもっと大きくなって、思春期を迎えるころまで親が入り込むような状態だと、それが子どもにとってはネグレクト(分かってくれない)となる。

教育の神髄って何だ?

学校教育を受ける者、そして教育を授ける者とに分かれるが、実はこの両者は分かれてあってはならないもので一体でなければならない。一体であるということは同じ方向を向いているということで、同じ思惑の中にいる。ここでの『真髄』は『真理』と置き換えてもよい。平たく言ってしまえば何のために勉強するのかという疑問に、噛み砕いて説明できるかということだ。子どもたちの永遠の、大人たちへの質問でもある。大人たちは即座に『自分のためだ』と答えるのが一般的らしいけれども、これを子どもたちが自分の中に取り込んで反芻して理解するのには難解である。大人は経験知の中で話をするが、子どもには宇宙の大きさを測るようなもので理解できない。

何故幼稚園に通ったり、小学校とか中学校へ行かせなければならないのか。保護者は周りの人たちがいくから、わが子も後れを取ってはならないなどと、臨戦態勢に入っている様な言葉では応えないだろう。わがこのためにの一念であることには間違いがないけれども、押しつけているわけでもない。それが社会通念となって誰もがそのような行動をとるようになっているからだ。しかし日本ではそうであるけれども、幼稚園などには世界の同年齢で幼児教育を受けられるのは10%に満たないのだ。小学校へ通える子も半分に満たない。幼稚園や小学校へ通えるというのは地球上でも選ばれた民なのだ。

まあそのようなことを頭に入れといて、何故幼稚園に通うのか。全日本私立幼稚園協会では、幼稚園を『子供が初めて通う学校』というような位置づけでいる。学校というより『子供たちのたまり場』の方がしっくりといく。多くの不特定多数の子たちと混ざり合って、人と関わり合う術を体得してほしいと願い、人生における基本的なスキルを磨いてほしいと願っている。そして、友達ができてその子の名前が出てくると親も歓喜する。全く親子ともに正常な心の発達である。この状況を『はぐくむ』というのだろう。そんな状況だから、親子ともに多くの事柄に対して寛容である。子どもたちからその時に寛容さを学ぶ。

そうはいっても小学校へ入ると、『教科を学ぶ』という新たな取り組みがあって、それについて保護者は他を意識するようになる。子どもたちは、できるとかできないとかいうことには無頓着で、全くマイペースで大らかである。何故学ばなくてはならないのかという疑問は、小学生の低学年では起きてこない。自己評価も他者評価も何となくできるようになる9歳から10歳のころだろう。そんなことは全く考えずに飄々と学問に打ち込んでいる子もいることは確かだ。そんなことを意識させずにひたすら学習できるという態度は驚嘆に値するだろう。そのような子を含めて、子どもたちが幸せになってくれるように願いながら学校や幼稚園がある。

人間として生を受けて一番その子らしく生きられるということは、自分の人生を自分で選択でき、周りの支配を拒絶できる知識と自信を得ることだ。親からも誰からも支配されるということを敢然として拒否することだ。自分の生きざまを自分の力でコントロールできるということは素晴らしいことだ。支配されるということは、奴隷になるということだから、拒絶して自分を一生懸命生きなければならない。そんな自由を得られた子は幸せである。米国で南北戦争が終結したとき、奴隷であった黒人が『次に生れてくるときに奴隷であるならば私は躊躇なく死を選ぶ』と言ったという。

講演会決まる

保護者会役員から要望のあった堀真一郎先生をお招きしての後援会がほぼ確定した。当初は10月下旬の土曜日ということを指定されていましたが、堀先生のスケジュールが一杯で、11月7日ということになりました。また当日は和歌山から出て来るというので、午後からの講演となります。午後1時から3時までということで、幼稚園の保護者も動員いたします。幼稚園の子どもたちは小学生とかかわって遊んでもらうようにします。勿論所々に幼稚園の保育者を配置いたします。初等学部の教師は全員が聴講いたします。講演後には質問をお受けいたしますので、できれば堀先生の書いた本を読んでおいたほうがよろしいかと思います。

堀先生は卒論で『デユーイ』をやると決心していたけれども、ニイルのサマーヒルスクールを知ってニイルに傾倒していったと言っています。教育学を学んだ学生の卒論の定番が『デユーイ』であったり『ピアジェ』であるので、ニイルに対してよほどのインパクトがあったのだろうと思う。堀先生は、霜田静志先生の『ニイルの思想と教育』を読んでビックリ仰天したと『ニイル選集5』のあとがきに書いている。何をびっくりしたのかというと、①授業に出る出ないは子どもたちの自由 ②全校集会で5歳の子も校長も同じ1票 ③校長が、盗癖のある子を連れて真夜中にニワトリ泥棒に入るなどである。『ええっまさか!』という驚きや疑問がやがて『なるほど』に変わったと述懐している。

徐々に自分も学校を作りたいという気持ちが高まっていって、現在の『きのくに子どもの村学園』ができた。日本という土壌では、自由はあこがれのことばであるけれども、『自由』という発想や思想はなかなか受け入れにくいところがあるので、学校を作ってみたけれど理想と現実のはざまで想像以上の問題が山積したのではないかと推察している。何かをやりとおすのには、自分のゆるぎない信念が何よりも大切なものなので、どんな暴風雨に出会ってもしっかりと舵を握って、意見を聞いても流されてはならない。へりくだったり妥協したりせずにぶれてはならないものだ。おもねることも絶対にない。この孤独さを乗り越えられなければ何も残らないのだ。

私が学校を作ると約束したのは,今から11年前の卒園児たちとのことだった。卒園してそれぞれに幼稚園を離れてしまう泣きじゃくっている子どもたちに、非常に感傷的な動機にすぎないけれど『先生も小学校作るから』と言ったことから始まってしまったのだ。発心正しからざれば万業空しというけれど、子どもたちとかかわり合う職業にある者が、自然体で発した言葉なので、発心は全く正しいと思っている。そしていつか『約束は守るためにある』と子どもたちに言う。

幼稚園の先生

昨日は14時から幼稚園の夏の研修の報告会と、それに伴う研修を行った。1年生の保育者からも活発な意見や感想が聞かれたので、よく育っているなという感じがした。幼稚園の保育者と保護者の距離は子どもを通して非常に近いところにあるから、互いに理解しやすいし、信頼を醸成していくことが案外容易にできる気がする。また幼児教育に関して理解しようとする保護者が多いということも幼稚園運営に関して容易にならしめている。親父クラブの活動にしても、かゆい所に手が届くような気の利いたものである。保護者と幼稚園が一体となって同じ方向を見ているようだ。

何年か前だか忘れてしまったけれど、はじめて保育者になってあおば台に務めた女性が年少の受け持ちになって、慣れないこともあってしょっちゅうへまをしていた。保護者からも聞えよがしに私のところへ苦情が入ってくる。勿論担任の保育者に直接小言を言わないで、主任に苦情が寄せられていた。主任から私のところへ保護者の苦情が伝わってくるのだが、そのようなことは私は殆ど無視していた。そんなときにある保護者から保育者にダイレクトに手紙が届いた。内容は『私もお母さん1年生です。先生よろしくお願いいたします』というものでとても短い文章だった。彼女はその手紙を何度も何度も読み返し、握りしめたまま保育室をしばらく出て来なかったが、目を真っ赤にはらしながら職員室にやってきた。そしてその手紙を私に渡すと『わーっ!』と泣き崩れてしまった。思いつめていたものを一気に吐き出したようだった。

大卒でも社会人1年生なんていうものは、人生見習いの初歩の初歩である。社会人を何年も経験した者が高い目線で見ていたら、初歩の一歩が踏み出せないだろう。1年生に寛容なのは当たり前のことで、近くにいる大人が当然とらなければならない態度である。社会人1年生というのは感性も豊かで敏感でもある。だから自分がどのように見られているのかを、すでに見抜いている。大人が子ども時代があったということを忘れてしまっているように、また初めて世の中に出て不安でいっぱいだった自分を忘れてしまっていることがままある。わが子には寛容で優しいけれど、他人には厳しく寛容にはなれないということだろうか。それでは人は育たないのではないでしょうか。

それでその保育者はどうなったのかというと、保護者にも子どもにも好かれる素晴らしく明るい立派な保育者になった。それはそれとして、学校に来る時には多くの田んぼを通って来る。どの田んぼの稲穂も重く頭を垂れているけれど、学校の近くへ来て我が校の田んぼを見ると、まだ稲穂がはっきりと見えない。茎が丈夫そうにまっすぐに伸びている。茎が黄色く変色している田んぼもあるのに、1カ月も遅く田植えをしたのだからと言い聞かせても、やはり気になる我が家の田んぼだ。雨が降ると田んぼの水を気にしなくてもよいので、雨はありがたい。

1年生と6年生の作文を読ませていただいた。ともに二人ずつで、女性の作文だ。鋭い感性と、文の構成力に優れている。文節もすっきりしていて、読むのにつっかえたりしない。素晴らしい能力だ。大切に育んでいってほしいものだ。大人になったらどんな文章を書くのだろうか、今からが楽しみである。

もう一度昔のこと

昔の海軍の寮は松班と竹班に分かれていて、その間の端に独立した多分賄いの部屋だと思うが、その家が改造されて私の家になっていた。竹班も松班も木造の二階建てで、真ん中にだだ広い廊下があってその廊下を挟んで個室がある。その個室が引揚者にあてがわれていたのだ。何人もの家族ではひと間しかないものだから息苦しくなる。それでも住む家がなかったから雨風さえしのげれば文句は言えないという状況であった。その大きな木造の寮だったところは相次いで火災で焼失したが、焼失した後はみんなどこへ行って暮らしていたのか知らない。その火災で何人かが焼け死んだ。

私が小学校低学年の頃に、寮の焼け跡に新しい住宅が立った。すると何処からともなく、かつて寮に住んでいた人たちが戻ってきて、新しい家に住みついた。私の家はあいも変わらず夜でも月がよく見える快適な家であった。台風が来ると大きな重たそうな石を父親が前に抱えてお勝手の下屋の中央に置いて、屋根の樽木の間に幾重にも縄を巻いて大きな石にくくりつけて風で飛ばされるのを防いでいた。台風が来る旅に私は、父親のサバイバルな力強い姿を見ることができて、そのたびに誇らしかった。『武士は食わねど高楊枝』は仕方なく言わざるを得なくても、私は父親を尊敬していた。

5時から土浦幼稚園協会の会議があるので、今から出掛けなくてはならない。

わらのお家

わらのお家を作りたい。そしてそれは『婦ー!と吹けば飛んじゃうようなおうち』。どうやったら作れるのだろうか。とりあえず骨組みを作らないと形にならないので、いくつかの提案をした。分かったような顔をしていたけれど、空間座標の中の話は理解できるはずはない。そして『作って見れば分かるよ』と行ったら1年生から5年生までの子どもたちが首を縦に振ったので、やってみようということになった。昨日は竹取りに行って、今日は骨組みを作るのに、取ってきた竹を縦に8分の1ぐらいに割った。その時の子どもたちの真剣な顔・顔・顔。

人間が初めて道具を手にした瞬間である。子どもたちは道具を使いこなすと言うことが大好きで、そのためにはいくら時間を使っても構わない。何時までも何時までもやっているだろう。そしてまた道具が変わると、我先にとその道具によってたかって近づいてくる。文明はこうした人間の好奇心の蓄積によって開かれてきたのだと、人間誕生の数万年前の類人猿の時代に思いをはせることができる。このような状況の子どもたちなのだから、あまり先を急ぐことはあるまいと、つくづくそう思う。人間形成はゆっくりと醸成していくものである。わらのお家はしばらく時間がかかるだろうけれど、だれもが納得できるものにしていきたい。

昔のこと

私は戦後生まれだから戦争を知らないけれど、敗戦後の荒廃した節度のない社会を体験している。節度のないのは大人も子供みんながそうだった。私の生まれたところは昔からの農家の部落である。しかしそこの村の生れであった父親は、決してその部落になじもうとせず、むしろその人たちに染まることを拒否していたのではないかと思う。かたくなで閉鎖的な社会が嫌だったのかもしれない。だから満州からの引揚者が新しく住んだ海軍の宿舎を改造してそこに住んだ。私の家だけは寮とか宿舎とか言われる建物とは別棟の建物を改造して住んでいた。村の実力者が世話をしてくれたのだろう。別に独立してあるというだけで、まったく粗末なもので、夜になるとあちらこちらから月の光が洩れて家の中に差し込んでくる。

私の部落は満州からの引揚者の部落で、旧村の人たちから貧乏部落とか言われていた。私は子ども心にもその意味がどんなものであったのかをはっきり分かっていたけれど、別に卑屈になることもなかった。誰もが同じような生活をしていたからだ。ある時私の部落の人たちが集団で農作物を荒らしまわってしまって、それが多くの人たちの知るところとなり、駐在所のお巡りさんが部落の何人かを駐在所に呼んで注意をしたそうだ。それ以来わが部落の名称は『泥棒部落』に変更された。

その名称に激怒した父親は、毎晩素振りを欠かさず行っていた日本刀をもちだして、泥棒部落と名前をつけた農家の家に行って『貴公出て来い!』とやった。狭い農村のことだからみんなが出てきて、父親を遠巻きにして一生懸命なだめようとしていた。当然のことながら村の駐在も出てきて、父親の持っていた日本刀を取り上げてしまった。由緒ある名刀であったので、駐在に懇願して返還してくれるように頼んだが、それはかなわなかった。のちに父親は『まったくバカなことをしてしまった』と悔恨していた。父親は旧村の庄屋の出だったから、どうにも我慢がならなかったのだろう。

私は貧乏に慣れていた。学校へ行っても給食ではなく毎日弁当持ちである。弁当の中身は麦飯弁当でご飯が真っ白ではない。そこに海苔を二段に入れて醤油をかけてふたを閉めて、それで立派な弁当である。他人の弁当をうらやましがる暇はない。昼ごはんになったら一目散にご飯をおなかに詰めて、足らないときには水道の水を飲む。それでも生き生きとはつらつとして生きている。父親は二言目には言っていた。『武士は食わねど高楊枝』。本当はうまいものを腹いっぱい食べさせたかったのだろうけれども、そういって教育しなければならないわけがあった。男として自分の不甲斐なさに何度も涙したことだろうと思う。