初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

どうしたらいいのかなぁ?

夏の穂高の研修で、最近子どもたちの遊びの中で“おかあさんごっこ”が以前よりもかなり見られなくなったという報告があった。代わって犬や猫といったペットになる遊びが増えていると言う。前者は、お母さんは忙しすぎるからと言い、後者はかわいがってもらえるからと言う。情けないことに人間に生まれてくることより、犬とか猫といったペットに生まれてくることを望んでいるようではないか。―――おとうさん役はあってもおとうさんごっこは言うに及ばず今でも聞いたことがない。おとうさん役を買って出てやる子はまれである。「いってまいりまーす」「ただいまー」「おやすみなさーい」というようにセリフがいたって単調で力の出しようがないので面白くない。
わが園ではそんなことはないであろうと、高をくくって2学期の子どもの遊びを注意してみていると―――あった。ままごと遊びはあるが、お母さんごっこは見られない。ままごとでもバブちゃん(あかちゃん)になる子は少なく、兄とか姉になって命令調で得意になって指図する側にいることを好んでいるようだ。そうかと思うと、犬や猫になって紐を手に巻きつかせていたり、自ら首に紐を巻きつけて、従順にご主人様のうしろについていくといったことを真顔で楽しんでいる。
私たちの育った年代の母親が、犬や猫になって楽しんでいるこのような光景を目にしたら何と言うであろうか。セピア色した話で申し訳ないが、たぶん半狂乱になって私たちを叱り付けたに違いない。見方、考え方の違いだと言えばそれまでの話だが、人間であることを楽しむ遊びのほうが人間として自然である。断っておくが、これは表現遊びや擬態表現を楽しんでいると言ったものではない。子どもの自然な心の発露だからこそ問題視しなければならないのである。
 昼食のお弁当にしても、子ども達は自らの空腹を癒すために食するのではなく、おかあさんに悪いからと言う。母親もまた「食べてくれない」「食べてくれた」“くれた”“くれない”という表現を使う。病人でもあるまいに、飽食の時代だからとはいえ、何か歯車が狂いだしているように思えてならない。
幼児教育を預かっている私にも何らかの責任がある。どうしたら子どもたちが安定した生活の中で、生き生きと希望をもった毎日を送れるようになるのだろうか。―――子どもが生き生きと生活するには、愛されなくてはならない人に愛されているという実感と、いたずらや冒険をする権利を保障されることが大切なことだ。たくさんのおもちゃを与え、嫌がるほど満腹にさせることではない。―――幼稚園の受容の中でたくさんの冒険をさせてほしいものだ。
子どもから見て親や大人はどうしたらいいかということは、あまり口にしないほうがいいらしい。出来もしないことを理想だけ追いかけていると周りにいる人たちがくたびれるそうだ。子どもたちにとっては大人が自分達に責任を取ってくれない受難の時代だ。―――できるか出来ないかは、親や大人に覚悟があるかないかの話なのだから。
少子化問題を解消するために、子育てが大変だから生んでくれさえすれば後は国が面倒を見ましょうといった政策がとられるようになった。社会を構築する最小単位の親子の情愛を無視した政策である。これで世の中うまくいくはずがない。ルーマニアのチャウセスクがとった政策でもある。もっとも中身は大分違うが、親ではなくて国が子どもを育てると言う発想は東ヨーロッパの独裁国家にあった。彼らはそうしてロボットを作ることを考えた。
人間の子は皆未熟児で生まれてくる。生まれてから親に抱きかかえられ知恵を授けてもらうためだ。ジャングルの中で生活している動物達は、生まれてまもなく立ち上がるものもいる。しかし母親は危険な場所を知らせることと狩りが一人前にできるまでは決して子どもを手放したりしない。こう考えてくると、子どもたちが犬や猫になって好んで遊んでいる現象も分かるような気がする。地球の自然を守ると同時に、人間の営みも自然に回帰せよと言う信号ではないか。―――子どもたちが変わったのではない、大人たちが変わったのだとゆうことを再認識しようではないか。