初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2001年9月の記事一覧

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ニュ-ヨ-クの世界貿易センタ-ビルへ、旅客機をハイジャックしたテロリストが突っ込んだ。現実は小説よりも奇なりと言う諺があるが、映画のシ-ンでも見られないような光景であった。事件のあった当日何も知らなかった私は、翌朝のテレビのニュ-スを見て気づいたのたが、最初はまだ自分が寝ぼけているのではないかと何度も我が目と我が耳を疑った。他のチャンネルを回してもどこでも同じニュ-スを流していることに、ようやく事の重大さに気づいたという、何とも情けない次第であった。
 ちょうど朝の仕事始めか出勤時間に重なって、その被害は計り知れない。いち早くブッシュ大統領は「アメリカへの戦争行為である」「われわれはテロ組織の殲滅を確実に行う」ことを全世界にアナウンスした。日本の野党議員の中には「ざまあみろ!と思っている人もいる」と自分のホ-ムペ-ジに書いた若い女性議員もいた。大衆の批判によって慌てて謝罪したらしいが、そういった価値観しか持ち得ない人物が国会議員にいるというだけで、日本の、日本人の社会性とモラルが疑われる。
 このような重大な事件が起こると、その人の価値観や人生観がはっきりと表れてくる。日本でも今回は湾岸戦争のときよりも意識が高く87%の国民が後方支援に賛成している(読売)。日本人を含め世界80ヶ国の人々が犠牲になったのだからその怒りは当然のことである。無差別大量破壊と大量殺人に世界が愕然としているにもかかわらず、まだ「アメリカの問題」「武力反対」だの「罪のないアフガンの市民はどうなるのか」などと倒錯した論理をかざしている日本人もいる。
 わたしは思う。国の始まりが一つの家庭だとするならば家庭の主人に問うてみればよい。あなたの妻子が何らかの人的な事故に巻き込まれた時、暴漢に襲われて命の危険にさらされた時や、そして命を奪われた時、あなたはどのような行動をとるのか。普通の人間なら、そして家庭に愛情が深ければ深いほど、悲しみも深く憎しみも深くなるはずである。フェミニスト然として遠くのほうで「武力行使反対」を唱えてもいいが、毅然と論拠を示し命がけで主張すべきである。忘れてならないのは犠牲になった家庭の人々の前でもしっかりと主張しなければならない。

 さてこのところ当然といえば当然のことだが、アメリカのアフガン進攻がいつになるのかということが大体のニュ-スの行き着く場所になってしまっているが、問題があるのはアフガンばかりではない。
尖閣列島に中国の調査船が入って地質調査の名目で掘削作業までしていたという報道があった。国際法上他国の領土での掘削活動はしてはならないということになっているらしいが、外務省は「やめてください」と先方に伝えただけで「そんなことをするなら出て行ってくれ」とは言わなかった。中国は覇権を唱えないと対外的に紳士の風情を見せながら、フィリピンとベトナムが領土を主張している南沙諸島の問題では、話し合いよりもまず軍隊を出して既成事実を作ってしまった。それほど遠くない将来、いずれ尖閣列島も武力をちらつけながら領有権を主張してくるだろう。そのとき日本はどうするのか―――。戦うくらいなら領土を放棄してしまえという類も出てくるかもしれない。靖国問題でも教科書問題でも国内の問題にもかかわらず韓国や中国に干渉されている。どこの国にこのようなことを許している国民がいるのか。
 わたしは戦後生まれだから、戦争によって日本軍がどれほど悪いことをしたのか分からない。父は軍人だった。多分両親から聞いてはいないが、身内の中で何人かは軍人で人殺しをしただろう。わたしはそれを恥じだとは決して思ってはいない。世界史を紐解いても、中性のヨ-ロッパは植民地政策一色で隣国同士で覇権を唱えて争ってばかりいた。日本といえば1853年にペリ-が黒船を連れて浦賀にやってきた時初めて安眠から目がさめた程度で世界で何が起こっているやら知る由もなかった。アフリカを欧州列強が植民地化しほぼ制定した頃、今度はその矛先はアジアに向けられた。アメリカは1776年に独立したので植民地政策を採るのがかなり遅れて、殆どが欧州に取られた後であった。浦賀に来たアメリカ人は、日本人のちょんまげを見て「皆頭にピストルを乗せている」といって恐れをなしたというエピソ-ドが残っている。アメリカのあとにはフランス、イギリスなどが続々と日本に開国を迫り虎視眈々と日本を餌食にすることを狙っていた。そして明治維新を迎えた。
西郷隆盛は大政奉還後職を失った浪人対策に征韓論を唱え、日本もまた欧州列強の餌食にならないように、植民地政策をとることになる。1894年日清戦争、1904年日露戦争、1914年第1次世界大戦と10年おきに戦争をしている。この戦争の全てに勝利したが1941年に真珠湾攻撃やシンガポ-ル上陸作戦に始まった第2次世界大戦で1945年遂に日本は敗戦国となった。無条件降伏だから何とも言いようがないが、あの東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁いた裁判で、同じ敗戦国であるドイツはニュ-ルンベルグ裁判でナチスが裁かれている。
戦勝国が敗戦国を裁くこと自体すでに平等性を失っている。また戦争という狂気に満ちた状況を平時の法に照らすこと自体ばかげていると言い放った日本側弁護人のアメリカ人がいた。そして彼はなおも続けて「もしどんな手段でも戦争において人が人を殺したことを罰するなら、わたしは一瞬にして何十万もの非戦闘員を殺した爆弾を投下することを命令した人の名を知っている」と言った。A級戦犯などとは戦勝国の終戦処理に使った言葉で日本人が使う言葉ではない。
歴史教科書はどこの国でもわが国からでしか見ない。朝鮮半島がヂンギスハ-ンに攻め滅ぼされその配下になったときでも戦争に負けたとは書かない。事実を知らないから何とも言えないが、戦争を好まないわが国民は仕方なく云々―――と書く。アヘン戦争もイギリスの世界史とは大分違う書き方をするのであろうし、同じ中国でも台湾との歴史観は天と地ほどの差があるだろう。
国と国との駆け引きには何とかカ-ドというカ-ドをちらつけながら折衝をする時がままある。靖国や教科書問題を他国の駆け引きの道具(カ-ド)にされないように、内政干渉させないという独立国家として背筋の通った外交を願いたいものである。また国内がトップの為政者に不利な世論が横行している時、国民の目を国外に転化させるのは途上国の為政者の常套手段である事もつけ加えておきたい。

わたしの友人から、東京都知事のように乳幼児期から早めに親から手を離す政策が善政とみなされることに少なからぬ危惧を抱いているというメッセ-ジが届いた。わたしも同感である。親の利便性の追求が痛ましい事故につながっていることはすでに承知であるが、この種の事故が絶えることがない。
テロへの報復で自衛隊派遣もいいが、子どもたちの賑やかな声が街角に響かなくなった国は衰退するのみ。子どもたちのゆとりある生活を求めて、来年度から学校5日制になるが、誰がゆとりある生活なのか。労働者である教師の生活のゆとりである。教師も労働者であるといって授業放棄してストに参加した教師もいた。その名残がまだ脈々として存在している。教師は特別だから公務員特別法によって一般公務員とは違う給与体系になっている。教師は特別だからという意味は聖職だからなのに、何を持って特別法が必要なのか疑問である。自分達の要求ばかりして子どものことなど何一つ考えない労働者もいる。この労働者とは労働者階級のことを言うのであって、わたし達は別名彼らを労働貴族と呼び、一般労働者から搾取している詭弁論者を指すことが多い。マルクス、レ-ニン主義の労働者革命から由来しているが、旧ソ連にしても中国共産党にしても、医者と教師は労働者という階級から外してあった。
藪から棒だが緊急提言したい。公立の教師採用にあたっては1年以上の民間会社での採用を条件として、その職務成績によって採否を決定する。なぜなら教師は知識の切り売りだけではなく全人格的な要素が子どもに影響するからである。ドイツではすでに行われている。2番目に乳児0歳から1歳までは各自家庭において親が養育する。それに関わる費用は国や地方自治体が負担する。でき得るその根拠として0歳から1歳までの乳児を預かる保育所などの経費から算出すれば容易にできる。また夫婦に不安を生じさせないよう子育て相談員は地域の幼稚園や保育所が行う。
「米百表」の話もすらっと出てくるほど教育に造詣の深い小泉総理のことであるから「国づくり百年の計」は「平成の教育改革」からを是非とも機会あるごとに提言していきたい。

どうしたらいいのかなぁ?

夏の穂高の研修で、最近子どもたちの遊びの中で“おかあさんごっこ”が以前よりもかなり見られなくなったという報告があった。代わって犬や猫といったペットになる遊びが増えていると言う。前者は、お母さんは忙しすぎるからと言い、後者はかわいがってもらえるからと言う。情けないことに人間に生まれてくることより、犬とか猫といったペットに生まれてくることを望んでいるようではないか。―――おとうさん役はあってもおとうさんごっこは言うに及ばず今でも聞いたことがない。おとうさん役を買って出てやる子はまれである。「いってまいりまーす」「ただいまー」「おやすみなさーい」というようにセリフがいたって単調で力の出しようがないので面白くない。
わが園ではそんなことはないであろうと、高をくくって2学期の子どもの遊びを注意してみていると―――あった。ままごと遊びはあるが、お母さんごっこは見られない。ままごとでもバブちゃん(あかちゃん)になる子は少なく、兄とか姉になって命令調で得意になって指図する側にいることを好んでいるようだ。そうかと思うと、犬や猫になって紐を手に巻きつかせていたり、自ら首に紐を巻きつけて、従順にご主人様のうしろについていくといったことを真顔で楽しんでいる。
私たちの育った年代の母親が、犬や猫になって楽しんでいるこのような光景を目にしたら何と言うであろうか。セピア色した話で申し訳ないが、たぶん半狂乱になって私たちを叱り付けたに違いない。見方、考え方の違いだと言えばそれまでの話だが、人間であることを楽しむ遊びのほうが人間として自然である。断っておくが、これは表現遊びや擬態表現を楽しんでいると言ったものではない。子どもの自然な心の発露だからこそ問題視しなければならないのである。
 昼食のお弁当にしても、子ども達は自らの空腹を癒すために食するのではなく、おかあさんに悪いからと言う。母親もまた「食べてくれない」「食べてくれた」“くれた”“くれない”という表現を使う。病人でもあるまいに、飽食の時代だからとはいえ、何か歯車が狂いだしているように思えてならない。
幼児教育を預かっている私にも何らかの責任がある。どうしたら子どもたちが安定した生活の中で、生き生きと希望をもった毎日を送れるようになるのだろうか。―――子どもが生き生きと生活するには、愛されなくてはならない人に愛されているという実感と、いたずらや冒険をする権利を保障されることが大切なことだ。たくさんのおもちゃを与え、嫌がるほど満腹にさせることではない。―――幼稚園の受容の中でたくさんの冒険をさせてほしいものだ。
子どもから見て親や大人はどうしたらいいかということは、あまり口にしないほうがいいらしい。出来もしないことを理想だけ追いかけていると周りにいる人たちがくたびれるそうだ。子どもたちにとっては大人が自分達に責任を取ってくれない受難の時代だ。―――できるか出来ないかは、親や大人に覚悟があるかないかの話なのだから。
少子化問題を解消するために、子育てが大変だから生んでくれさえすれば後は国が面倒を見ましょうといった政策がとられるようになった。社会を構築する最小単位の親子の情愛を無視した政策である。これで世の中うまくいくはずがない。ルーマニアのチャウセスクがとった政策でもある。もっとも中身は大分違うが、親ではなくて国が子どもを育てると言う発想は東ヨーロッパの独裁国家にあった。彼らはそうしてロボットを作ることを考えた。
人間の子は皆未熟児で生まれてくる。生まれてから親に抱きかかえられ知恵を授けてもらうためだ。ジャングルの中で生活している動物達は、生まれてまもなく立ち上がるものもいる。しかし母親は危険な場所を知らせることと狩りが一人前にできるまでは決して子どもを手放したりしない。こう考えてくると、子どもたちが犬や猫になって好んで遊んでいる現象も分かるような気がする。地球の自然を守ると同時に、人間の営みも自然に回帰せよと言う信号ではないか。―――子どもたちが変わったのではない、大人たちが変わったのだとゆうことを再認識しようではないか。