初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2015年7月の記事一覧

もう一度昔のこと

昔の海軍の寮は松班と竹班に分かれていて、その間の端に独立した多分賄いの部屋だと思うが、その家が改造されて私の家になっていた。竹班も松班も木造の二階建てで、真ん中にだだ広い廊下があってその廊下を挟んで個室がある。その個室が引揚者にあてがわれていたのだ。何人もの家族ではひと間しかないものだから息苦しくなる。それでも住む家がなかったから雨風さえしのげれば文句は言えないという状況であった。その大きな木造の寮だったところは相次いで火災で焼失したが、焼失した後はみんなどこへ行って暮らしていたのか知らない。その火災で何人かが焼け死んだ。

私が小学校低学年の頃に、寮の焼け跡に新しい住宅が立った。すると何処からともなく、かつて寮に住んでいた人たちが戻ってきて、新しい家に住みついた。私の家はあいも変わらず夜でも月がよく見える快適な家であった。台風が来ると大きな重たそうな石を父親が前に抱えてお勝手の下屋の中央に置いて、屋根の樽木の間に幾重にも縄を巻いて大きな石にくくりつけて風で飛ばされるのを防いでいた。台風が来る旅に私は、父親のサバイバルな力強い姿を見ることができて、そのたびに誇らしかった。『武士は食わねど高楊枝』は仕方なく言わざるを得なくても、私は父親を尊敬していた。

5時から土浦幼稚園協会の会議があるので、今から出掛けなくてはならない。

わらのお家

わらのお家を作りたい。そしてそれは『婦ー!と吹けば飛んじゃうようなおうち』。どうやったら作れるのだろうか。とりあえず骨組みを作らないと形にならないので、いくつかの提案をした。分かったような顔をしていたけれど、空間座標の中の話は理解できるはずはない。そして『作って見れば分かるよ』と行ったら1年生から5年生までの子どもたちが首を縦に振ったので、やってみようということになった。昨日は竹取りに行って、今日は骨組みを作るのに、取ってきた竹を縦に8分の1ぐらいに割った。その時の子どもたちの真剣な顔・顔・顔。

人間が初めて道具を手にした瞬間である。子どもたちは道具を使いこなすと言うことが大好きで、そのためにはいくら時間を使っても構わない。何時までも何時までもやっているだろう。そしてまた道具が変わると、我先にとその道具によってたかって近づいてくる。文明はこうした人間の好奇心の蓄積によって開かれてきたのだと、人間誕生の数万年前の類人猿の時代に思いをはせることができる。このような状況の子どもたちなのだから、あまり先を急ぐことはあるまいと、つくづくそう思う。人間形成はゆっくりと醸成していくものである。わらのお家はしばらく時間がかかるだろうけれど、だれもが納得できるものにしていきたい。

昔のこと

私は戦後生まれだから戦争を知らないけれど、敗戦後の荒廃した節度のない社会を体験している。節度のないのは大人も子供みんながそうだった。私の生まれたところは昔からの農家の部落である。しかしそこの村の生れであった父親は、決してその部落になじもうとせず、むしろその人たちに染まることを拒否していたのではないかと思う。かたくなで閉鎖的な社会が嫌だったのかもしれない。だから満州からの引揚者が新しく住んだ海軍の宿舎を改造してそこに住んだ。私の家だけは寮とか宿舎とか言われる建物とは別棟の建物を改造して住んでいた。村の実力者が世話をしてくれたのだろう。別に独立してあるというだけで、まったく粗末なもので、夜になるとあちらこちらから月の光が洩れて家の中に差し込んでくる。

私の部落は満州からの引揚者の部落で、旧村の人たちから貧乏部落とか言われていた。私は子ども心にもその意味がどんなものであったのかをはっきり分かっていたけれど、別に卑屈になることもなかった。誰もが同じような生活をしていたからだ。ある時私の部落の人たちが集団で農作物を荒らしまわってしまって、それが多くの人たちの知るところとなり、駐在所のお巡りさんが部落の何人かを駐在所に呼んで注意をしたそうだ。それ以来わが部落の名称は『泥棒部落』に変更された。

その名称に激怒した父親は、毎晩素振りを欠かさず行っていた日本刀をもちだして、泥棒部落と名前をつけた農家の家に行って『貴公出て来い!』とやった。狭い農村のことだからみんなが出てきて、父親を遠巻きにして一生懸命なだめようとしていた。当然のことながら村の駐在も出てきて、父親の持っていた日本刀を取り上げてしまった。由緒ある名刀であったので、駐在に懇願して返還してくれるように頼んだが、それはかなわなかった。のちに父親は『まったくバカなことをしてしまった』と悔恨していた。父親は旧村の庄屋の出だったから、どうにも我慢がならなかったのだろう。

私は貧乏に慣れていた。学校へ行っても給食ではなく毎日弁当持ちである。弁当の中身は麦飯弁当でご飯が真っ白ではない。そこに海苔を二段に入れて醤油をかけてふたを閉めて、それで立派な弁当である。他人の弁当をうらやましがる暇はない。昼ごはんになったら一目散にご飯をおなかに詰めて、足らないときには水道の水を飲む。それでも生き生きとはつらつとして生きている。父親は二言目には言っていた。『武士は食わねど高楊枝』。本当はうまいものを腹いっぱい食べさせたかったのだろうけれども、そういって教育しなければならないわけがあった。男として自分の不甲斐なさに何度も涙したことだろうと思う。

指導者の責任

ギリシャの新しい指導者に選ばれたちプラス氏は、緊縮財政を嫌いEU諸国の提示した政策に反対してギリシャ国民から支持を得て当選したものだが、だれもが緊縮策などには反対であろう。しかしそうは簡単にことがおさまることはなく、チプロス氏は自分で責任をとることはせずに、EUが提示した政策を国民投票という形で責任を国民に投げてしまった。ほかに打つ手がなかったろうけれども、当初から緊縮財政反対の立場で当選してきたのだから、国民投票などはパフォーマンスにしか映らない。その分財政出動があるだろうに。

ひどい言葉がある。民主主義を生んだギリシャがまた再び民主主義を取り戻したなどとチプラス氏はのたうちまわっている。粉飾決算を繰り返し、EUを騙し通して来たギリシャが今度は借金を踏み倒そうとしている。デフォルトに陥れば自然に踏み倒すことを宣言するようなものだ。それが民主主義とでもいうのだろうか。若者の半分は無職で国民の25%は公務員だなんて、そんな国だから人は働かないし、歴史という過去の遺産で観光地として成り立っている国だ。いずれにしてもEUからの追加支援がなければ、国家は破綻する。そうなると国民は現在よりももっと苦しい状況に追い込まれてしまうだろう。

日本に目をやれば、憲法論議で与野党ともに議論伯仲している。国家の責任は国民の暮らしと財産を守り、そして他国の侵攻を決して許さないことと、領土を守るというのが当たり前の話である。なのにすぐにでも戦争が始まるようなアジ演説が横行している。私は60年安保の時に、亡くなった東大の学生だった樺美智子さんのことを思い出す。あの時も当時の社会党をはじめとする野党や文化人が『戦争反対!』を叫んで、まじめな純粋な青年が『戦争反対!』のことばにおどらされた。そして反帝学評や、全学連が国会を取り囲んだ。みんな一生懸命に真剣に生きていた。

当時の野党の先見性が間違っていて、機動隊も多くの学生が傷ついてしまった。沖縄の問題でも、あの戦争で多くの市民が犠牲になったのは沖縄ではなく、広島である。戦争に行ったすべての人たちが日本の礎になったのだ。犠牲になったといえば私の父親もそうであるし、身内の人たちが戦争で亡くなっていった。『戦争反対!』はだれでもそうであるし、とても耳触りがよい。そんなことで日本の国は国際的にどうなってしまうのか、『trustme』と言って国を危険に陥れた者がいたではないか。同じ轍を踏んではならない。

育ちは様々

学校で子どもたちに同じように接していても、まったく感じ方の違いで内面の育ちは違う。現象的な育ちというのは、形で表れるものだから、だれか一人が右と言えばそれに追随するというのがあるから、一概にだれがどうだとは量りにくい。今日は面白いことがあった。ファミリアの時間に吹けば飛ぶような小屋を作りたいので作り方を教えて下さいと言う。吹けば飛ぶような小屋だから、丈夫に作れないし、骨がしっかりしていないのは組み立てが出来ない。オオカミが来て吹き飛ばす場面だから、頑丈な奴ではだめだという。いろんな話をしていて、屋根を二段階にして一番上のを飛ばせるようにしたらいいという結論である。

小屋の骨組みは竹がいいということになって、具体的な話に進んでいった。1年生の二人も話が分かっているのかどうかわからないが、ノートに小屋の形を書いている。年上の人たちの話は聞いていてもわからないことが多いと思うので、『どう?』と水を向けたら、『やってみればわかるかもしれないからやってみる』というしっかりした答えが返ってきた。非常に能動的な姿が嬉しいではないか。そこでそれでは竹を取りに行こうではないかという話になって、竹取物語だからだれがかぐや姫になるのと言ったら、女の子4人でじゃんけんを始めてしまって、少し楽しい脱線になった。

入れ替わりに、食のファミリアが来て18日の日に行商に出かけたいので周りの道を調べに行きたい、ということで私に許可をもらいに来た。外は雨なのでどうしますか、と言ったら『今行かないと時間がない』と言うことらしく、どうしても行くと言うので車に気をつけてと言うことにして、許可を出した。そこで竹取りに戻るけれども、竹取りのメンバーには『今なら一緒に竹取りに行けるよ』と言ったのに、『今は雨が降っているからこの次にしよう』とのことだった。計画には入っていなかったようで、自分たちの計画が壊されてしまうのが嫌だったようだ。

住のファミリアが来て道具を買いに行きたいので許可を下さいと言ってきた。カナヅチと釘とのこぎりだけでは、出来るものが決まってしまう。ノコギリにも釘にもインパクトドライバーを使うにしても、色々な形の違ったものや、用途の違うものがあるからしっかりと見てきた方がよいだろう。もっとダイナミックなものを作りたくなったかなと思う。子どもたちは創作的なモノづくりが大好きで、やりたい物の中に必ずある。