初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2014年1月の記事一覧

学校を選ぶ

初等学部は私立の中学校へ行こうとする児童が多い。子ども達だけで自分はどこの中学校へ行きたいなどと、誰かの助言や示唆がなければ選びようがないはずだけれども、5年生の全員が、そして4年生の殆どの子が目標としている中学校を選んでいる。私学に通っているからということも大きな要因だと思うが、それはそれで普通の公立に通っていたらそんなことはこの近辺では稀であろう。すごい体験である。

学校を選ぶとなると必然的に学校のランクというのが付いて回る。これは殆どが大人社会のランク付けであるけれども、それを子どもたちが素直に継承してくる。そこまでは良いけれども、必ずと言っていいほどランク上位を狙う子たちは、ランク下位にある学校を何らかの形で蔑んだり侮ったりする傾向がある。これはよくないことだ。受験における学校教育なんて、これからの人生を考えればほんの瞬間に過ぎない。

難関の中学校を合格することは、それなりに評価すべきであるが、それは人生における一過性の出来事であるから、気を引き締めて謙虚に行動することが好ましい。学校をランク付けすることが、それが人間性をランク付ける事ではないということを、両親が子ども達に言い聞かせねばならない。そんな思いあがった傲慢不遜な子どもに育ててはならない。もしそういった子どもがこの学校で育ってしまうようなことがあれば、学校としての意味をなさない。ご両親は、よくよく気を付けてほしい。

大学を卒業して、社会に出てどのように勝負できるかということが究極のプロセスである。どれだけ素晴らしい大学を出て、優秀な成績を収めても、その人間性に欠陥があれば一流企業の人事部では採用してはくれない。意見を持たないと一人前の社会人として扱ってくれないが、独りよがりな独善的な意見では話にならない。精神的貴族の卵をしっかりと温めて育ってくれることを心から望んでいる。

賀詞交歓会・病院・昨日の続き

賀詞交歓会に少し早目に行ったつもりでいたけれども、受付にはかなりの人出で混雑していた。一時間にわたるセレモニーの後にようやく乾杯があって、セレモニーの間にもううんざりして、何度もあくびをしている者もいた。私の座っている目の前にはレンコンの天ぷらが並べられていて、学校で食べたレンコンを思い出しながら挨拶を聞いていた。乾杯の後に早速レンコンに手を伸ばしたけれども、学校で食べたレンコンの方が素材が良かったのか数倍おいしかった。賀詞交歓会の感想はこんなもの。

久し振りに検査のために病院へ行ってきた。急患の出入り口から入り一般受付までの通りの両脇に、長椅子が置いてある。そこに腰を曲げて座っている人たちは、平均年齢がかなり高い人ばかりだ。血色も良くないし、会話もなくシーンと静まり返っているが、大勢の人が座っている。何とも不気味な通りだ。病院だから活気にあふれているというわけにはいかないけれども、会話だけなら活きの良い会話ぐらいできそうなものだが。

一番活気がある?のは採血室だ。看護婦さんの患者の名前を呼ぶ声に力がある。しかし何故そのようになってしまうのかというと、名前を呼ばれても返事をしない人が殆どだからである。何度も呼ばれているのに、明後日の方を向いていて、挙句の果てに動きはスローモーションだ。看護婦さんの声も徐々に高まってしまうのは当然である。ああ~私もいつかは誰かにそのように見られてしまうときが来るのだろうなと、少ししょんぼり。

これからは昨日の続き。ゆとり教育の発想は決して間違ってはいないということを昨日書いた。現場の理解がなかったということと、現場の力量不足ということも書いた。また「ゆとり」というネーミングも、日本人には緩いとか遊びとかいう風に短絡的に理解されてしまうのではないか。生活化の導入も、最初は教師の裁量で授業を組み立ててもよいということだったが、情けないことに教科書がないと授業ができないということになった。

『ゆとり教育』は押し付ける授業から、能動的に自分たちが考える授業を目指していたものなのだ。ところがあてがわれて授業を受けてきた者たちが教師になって、どうしてよいものか現場は混乱してしまったのだ。このようなアメリカ型の自由で主体的な授業というのは日本には馴染まないけれども、その授業こそがノーベル賞受賞者を沢山輩出する授業なのだ。

日本の授業では、たとえば自由研究などの選択授業を提案したら、子ども達は困惑してしまう。なぜなら自分たちで考えるという授業に慣れていないし、誰かの規格に合ったものでしか学習できないように訓練されてしまっているからだ。初等学部で2年生まで宿題を出さないのは、もっと人と絡み合って対人関係でも、自然現象からも『自分で考える』というプロセスを大切に考えているからなのです。

教育改革が始まる

安倍総理が誕生して総理自身がやり遂げたかった教育改革がある。道徳教育の導入・ゆとり教育の廃止・英語教育の小学校導入などである。今年初めの通常国会に法案が提出されることになる。この三つはすべてが初等教育のものだ。その中で特にゆとり教育の廃止については、かなりの誤解があるのではないかと思っている。

文科省の役人がこの教育方針を打ち出したことについて、何ら間違ったことではない。ゆとり教育の廃止の原因となったのは、OECDの学力調査で、算数も文章の読解能力も年々下降している事が原因である。前にも書いた事があるけれど、30か国中日本は大体10位以内にいたがそれが面白くないらしい。しかし世界でノーベル賞受賞者1位のアメリカなどはいつも15位のところをうろうろしている。なのに教育改革などの話は出てこない。

アメリカの教育改革で有名なのは、スプートニクだかボストーク2号だか定かではないけれどもガガーリン少佐が『地球は青かった』とか言って、ソビエト連邦に宇宙科学で先を越された時に『ヘッドスタート』という教育方針を打ち出したことだ。その後も何かがあったかもしれないが、それほどセンセーショナルなもの見当たらない。学力第一主義になって、机上の空論に時間を費やしてしまっても、日本国民の人間形成にはあまり意味を持たないのではないか。

ゆとり教育の理念と方向性は理解できるし、決して間違っているものではない。ただ文科省官僚と現場の教師や社会に対しての広報活動など理解不足であった。それに導入の時に現場の教師の力量を推し量ることもできなかった。

時間が来てしまった。今日は賀詞交歓会があるのでこれから出かける。この後の事は明日書くことにする。