初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2016年6月の記事一覧

昨日の続き

幼稚園を建てた人は幼児教育をやりたいのであって、間違っても子どもを預かる保育と言うものはやらないと言ったことが、幼稚園連合会で研修を積んで来たものにはそう言った不文律があった。ところが園児数が減り文科省も幼稚園を救うために乗り出さざるを得なくなって、究極の選択肢が認定子ども園ということになった。だから認定子ども園というのは、保育所へ預けたいけれども空きがないと言った保護者のために新しい制度ができたのではなく、園児減で経営不振になった幼稚園を救うためにできた救済措置なのである。

それはそれでその制度は功を奏したと私は思っているけれども、同時に保育所の保育者のシステムについても幼稚園教諭の知るところとなって、同じくして私も初めて知ったことだが保育に関する保育料の決め方がこと細かくできていて、それをまとめ上げるのにA-4の上で1年間で10センチぐらいの量になる。この事務手続きだけでうんざりしてしまって認定子ども園を返上する幼稚園もちらほらと出てきた。もっとも認定子ども園の保育料などは、まだどうなるのか見切り発車してしまったということも否めないが、県の宣伝効果が最も表れた格好となった。

都市部で保育所が足らないと言っても今から土地を探して新設するとなるとそう簡単には行かない。かすみがうら市や、筑波山のふもと辺りには結構な土地があるけれど、そのへんは坪いくらというところではなく1反歩いくらというところで、したがって人家もない。それよりも子どもの未来や国の将来を考えるなら、子どもにとっては母親に育ててもらいたいと思うのが当たり前のことだろう。何故子供と母親を引き離したりする政策がまかり通るのか。どうして母親は声を上げないのか、私には不思議である。

ずっと子どもと一緒に家にいて四六時中顔を見合わせていたら、それこそ大変だろうと主けれども、そんな時にこそ母親が息抜きに保育施設にきてリフレッシュすればよいのではないか。大人の一生はまだまだ長い。幼児期の時間はそれほど長くはない。そう思えば、母親が1・2年家にいて子育てしても良いのではないか。子どもにとってはそれが最高に幸せである。昨日も描いたけれども母親が家にいて、子育てに専念することに後ろめたさを感じているのだろうか。そうであるならばそのような社会的な価値観をひっくり返さないと、いつになっても子どもの幸せはやってこないのではないか。

待機児童は減らない

待機児童が5.5%増えたという記事を読んだ。多少出生率が増えたと言ってもこれだけ政府が待機児童を減らそうと躍起になっても、待機児童はなかなか減らない。しかも幼稚園なども認定子ども園にして、何とか保育所における待機児童を減らそうとしているが、待機児童は減らない。待機児童が存在している都市部では、幼稚園を認定子ども園にして待機児童を減らそうとする動きが鈍い。もともと幼稚園が認定子ども園にして保育所機能を併せ持つと言ったことは、待機児童解消のためではなく、幼稚園自身の自己防衛のためであったのだから仕方のないことである。

昔は大家族で、子どもが何人もいてもおばあちゃんやおじいちゃんがいたからどうにか子育てが出来た。しかし今は家族の単位が分散化されてしまって、核家族と言われるようになってしまった。そんな中で子育てするのは容易ではない。社会事象として核家族と言うことが一般的になっているにもかかわらず、家にいて子育てしようと思っている母親を無理やり外へ出して仕事につかせようとしている。子どもは当然置き去りにされてしまうから、行き場がなくなってしまう。それで保育所が足らないと言っているのにはどこかに無理があって、家庭生活にひずみのようなものができてしまうのではないか。

政府の要人は『未来は子どもたちからの借り物である』などときれいなことを言うけれども、子どもの側から政策を考えたことがない。だからやっていることが後手後手だし、可哀そうなのは意見を言えない子どもたちだ。子どもの側からものを言える、未来を見ようとする政治家が必要だと思う。子どもを産んで3カ月もすると、家庭から離れて仕事に就こうとする母親がなんと多いことか。生まれてきた子どもは、何故自分を生んだのかと質問したくなるだろう。例え政府がお金を出してくれるからと言っても、それは幸せに続く道では決してない。生まれてからすぐに母親の温もりから無理やり離されるなんてことは不幸の始まりである。

母親は社会に出て自分も社会の役に立ちたいという願望というか、強迫観念みたいなものもあるのだろうけれども、女性が子どもを産んで子どもを育てる行為は、それに優るような職業はこの世にはないということを、人間すべてが認識すべきだ。女性が子どもを産んで何カ月かの間はぐっすりと眠ることも出来ない、産みの苦しみを通って来る。そんな女性に対して子どもを産んだら社会に出て働けとは罰が当たるのではないか。子育てを選挙の道具にしか使えないようではだめだ。もっと子どもも女性も優しく扱わないと日本の将来はないのではないか。私は幼稚園の園長として、つくづくそう思っている。

ブログを読む

久しぶりに友人とあって夕食を共にした。その友人というのは私のところの建設委員長で、言ってみれば私の相談役のようなもの。その人が曰く、『最近俺のブログ読んでねーだろ』全くその通りだったので、慌てて彼のブログを開けてみた。実に面白いことをたくさん書いてある。たまにハッとするような示唆を与えられるので、読むようにしていたのだが、コンスタントに書かれていないので、時々抜かしてしまうことがある。彼の文章は無駄がなく歯切れがよいので読んでいても抵抗がなく、いつの間にか引き込まれてしまうような気がする。

誰でも生きることに一生懸命だが、彼は自分のことだけではなく、常に人生というものを他者とともに考えることのできる稀有な存在の人だ。言ってみれば、人生における己の美学というものを会話の中にちりばめてくるから、何を考えているのかがよく解る。頭脳明晰でもそのような素振りはみじんにも見せない。子煩悩で女房想いである。医者のことをかいているけれども、よく書いてあるのは私のよく知っている医者であって、あまりピンとこない書き方をしているのは、私は全く知らない医者である。私に気を使っているわけではあるまいが。

あおば台幼稚園の玄関には、毎年のことだけれども燕の巣があって、そこに小さな子どもが4羽ぐらい育っている。親鳥が巣のところへ餌を運んでくると、黄色いくちばしを一斉にピーピーと泣いて顔いっぱいに口をあけて餌をおねだりしている。ピーピーピーと全くにぎやかだけれども、その上をふと頭を持ち上げてみてみると、ベランダの手摺のところでピーピーピート園児たちが連なって私の名を読んでいる。このコントラストがなんとも愉快であった。子どもたちの心の中も、燕の子どもの心も何か似ているような気がした。