初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

生きてきたこと

まだこれを書くのには早すぎるが、今まだ生きているのだから生きて来たことに後悔はしていない。バラ色の人生であったとは言いきれないけれど、多くの人たちに無量の迷惑を駆けてきたことは事実だろう。もし人生がやりなおせるものであるなら、そしてこの時代だけはやり直したくないというものがあるとしたらそれはいつの時代だろうか、思い起こしてみる。

12歳までの小学校時代は学校は嫌いだったけれど、仲間と遊んでいた自分はあのままで失いたくない時代である。戦後の復興期であったので、しかも私がすんでいた部落は満州からの引揚者の集合住宅であった。私の家族はその集合住宅に入らずに、かつて軍が使っていたと言われていた調理場の家を改装してそこに住んでいた。集合住宅というのは、松班とか竹班とか言われていた寮で、軍人さんが住んでいた。その寮が焼失してしまって、その後にできたのが2DKの一軒家である。勿論水道はなくみんなで利用する井戸が集落にいくつかあった。また風呂はあるけれど、新築されたときに据え付けられていたものではなく、新しく入居したものが買い足したものだ。そしてどの家でも薪を燃やして風呂を沸かす。私の家の勝手場は外にあって、流し台やバケツに入った飲み水も外にあった。

農家の集落は隣り合わせにあって、近くの畑や田んぼには豊かに実った稲や野菜を目にしたことがあった。私の家も農家であっったけれども、父がラバウルから帰還兵として戻ってきて、分けてもらった田畑では足りなかった。しかも両親ともに農業を知らなかった。できたコメは家で食べるものまで削って全部売ってしまうから、満足に食べられない日もあった。皆が貧しい生活をしていたので、今客観的に考えてみると貧乏のどん底にあったような気にもなるけれど、当時は食べられない家族はたくさんいたからそれほど気にはならなかった。

小学校時代は私の年代はベビーブームのまっただ中であったので、あちこちに子どもがうようよといた。小学校から帰ってくると、いつもみんなで集まるところがあって、そこには必ずリーダーがいる。そのリーダーになっている人がすべてであって、学校の先生の話よりもよく聞くし、いつも遊びは生活に実践的なものであって、雀を捕まえるやり方を教えてくれたり、魚釣りに連れて行ってもらったり、霞ケ浦の淡貝を取りによく行った。今文科省で「生きる力」を教育の柱にしているけれど、そのころは何を柱にしていたのかは知らないが、放課後の子どもたちの遊びの中で確かに生きる力を実践して教えていただいた。しかもそれは家族の一員として役に立ちたいという一念であったように思う。

子ども達の団結力も強く、隣村の子ども達の集団に仲間がいじめられたりしたら、リーダーが仲間を招集してかたき討ちに行ったりもした。その仲間に入らないと次の遊びに入れてもらえないので、ちいさい体の自分としては相手が恐ろしいほど大きく見えて怖かった。体中の勇気を振り絞って参加するけれども、やられてしまって体中傷だらけになって家に帰ってきたものだった。近所の大人たちも子ども達の喧嘩だとよく知っていて、だれがどのようになったのかなどは、口出しも知ろうともしないので子どもの集団はそれだけで独立していた。喧嘩は泣いたらおしまいだ、だから泣くまいと歯を食いしばって頑張った。それは仲間のために、そして自分のためにだ。

私たちの集落は引揚者だけの部落なので、旧村の子どもの人数と比べると極端に少ないけれども、親も子ども達も団結力が強く一つにまとまっていた。私の父親が旧村の出身者だったので、私の存在は異端児であって旧村の子ども達からも、引揚者部落の子ども達からも距離を置かれていたようだった。しかし私としては中途半端ではなく引揚者部落の仲間としてふるまっていた。何故かというと旧村の大人たちは、引揚者たちを貧乏人呼ばわりしていて鼻持ちならなかったからだ。貧乏人であったけれど子どもたちの心は豊かであったように思う。とても楽しかった時代は小学校5年生ぐらいまでのことだ。だからといって、そのあとはそれほど面白くなかったということでもない。

結婚式

幼稚園の教師も初等学部の教師も女性は未婚の人が多いので、結婚式に出ると言うのはさほど珍しいことではない。最近の式は教会で行うのが多く、おごそかな雰囲気で牧師が何やら英語なまりの日本語で始まる。耳が聞こえないうえに歯の抜けたような日本語を聞いているので、式の間は自然に寡黙になる。そして讃美歌を強制的に歌わせられることになるのだが、これが何度聞いても覚えられない。しかし同席している同僚たちは元気に堂々と、口を大きく開けて歌っている。後から聞いてみると『何度も歌っているから』と言っていた。

一応私が主賓として招かれているので新婦側での御挨拶と言うことになる。好きなように話して良いからなどと心にもないことを言って、私の緊張を取り除いてくれようとしているのはよくわかるが、その心に緊張が増す。いつも女房に式場に行く間にレッスンを受けて参加するのだが、ある程度紙に書いて置くのだが、いざマイクの前に立つと、一通りの礼儀のような挨拶が終わると、次の言葉に窮する。そして結局は紙に書いたものを思い出してそれをつなぎ合わせる。あまりにも時間が短すぎると、あとはアドリブだ。失礼がないように神経をいっぱい使う。とにかく疲れるのだ。

余興に入ると私の勝手な解釈だが、幼稚園の先生方の出し物は芸能人ばりで、一味も二味も違う。とにかく圧巻なのだ。隣に座っている女房が言っていた『舞台慣れしているね』と。素晴らしいエンターテナーなのだ。新婦に送る素晴らしい披露宴であったろう。きっと会場におられた方々も最高に喜んで頂いたはずだと思う。あのような保育者のいる幼稚園なのだから、子ども達も楽しいはずだ。来年度は40周年だから何か考えたほうがいいのかな。とにかく重ねてご結婚おめでとうございます。

余計なことかもしれないが、最近のと言ってもこの30年ぐらいの結婚式は、最初はおごそかな気分で会場を水を打ったようにシーンとさせて、披露宴に入ると賑やかにがやがやと楽しくなって、最後の締めは新婦が『お母さん・お父さんありがとう』と言って会場を涙で包んでしまう。悲喜こもごもだ。そして帰りは『よかったね』とか言って散りじりに別れる。

リーダーシップ

自己主張を押し通すことは良い時もあれば悪い時もある。それが個性だと言われればそうなのかもしれないが、個性とは自己主張の内容であって、押し通すのは我であると思っている。我を通すと言うことは一概に悪いことばかりではない。ただこの言葉と一緒に付きまとうのが、『わがまま』とか『和を乱すトラブルメーカー』『他の意見を聞かない』など、あまりよい評価を得られない。しかしそれで善処できた場合には良い評価が爆発する。民主主義が定着する前には、世を治めた人たちは、すべてが自己主張が強くわがままな人ばかりだ。

企業の創業者も似たところがある。何かを始めるというときに、最初の発想は一人の人から始まるのだろう。『船頭多くして船山を登る』の例えがあっても、船頭を多くしたからといっても船は山を登らない。何でも最初は一人が決めて、協力者が知恵を出すという方式が良い。最初に決めたことがよくなければ協力者は現れないだろうから、決定する者にはそれなりの覚悟が必要だ。誰もついてこなかったら孤立無援となり消えてしまう。このような現象は、集団生活の中では経験知としても必要であると思う。リーダーシップをとるということは、大きな声を張り上げても腕力を振っても、うまくいくことはないということを体感してほしいものだ。

初等学部の餅つき

山奥の過疎地の『やまびこ小学校』みたいなところでないと餅つきなどの行事は行わないだろう。ここは過疎地ではないけれど、過疎地にできたような学校だからとても家族的で、校長が全員の名前と顔が一致するなんて言う小学校は都会ではないであろう。職員室は校長のクラスで、クラス分けなどない出入り自由なクラスだ。そこでストーブを囲んでお話をするという、とても牧歌的雰囲気のあるクラスだ。子どもの中に同化できるのは、私の唯一の特技だ。

幼稚園の餅つきと違って、つき手も愛の手も子どもたちがやっている臼のグループがある。6年生がやるとそれなりに杵の音がよく出ていたりするけれども、定額ん年がやると、杵に振り回されたりしていて楽しい。大体やりたがるのは男児であるが、杵に足をとられても、さすがに弱音を吐かない。周りで見ている子どもたちが心配そうにしていて、杵を振り上げる度に『危ない!』という気勢を上げる。それがとてもタイミングがよい。

吹きあがったもち米を臼の中に入れて、それから杵で練り上げて多少餅になってきたところでつくのだけれども、練り上げるところが力の入れどころで、うまく腰を使わなければならないが、それを子どもたちが大人のまねをしてやる格好が面白い。何でもはじめてのことはやりたがる。やりたがりが何度も失敗して見事な技術者になるのだろうな。だから学習の初発は興味や関心からだというデユーイの言うとおりだ。教科書を出して、教科書を暗記させることなんて面白くもないし、それが楽しいなんて言う子がいるのだろうか。

面白いことあり

6年生の修学旅行の報告会があった。こちらで報告して下さいと頼んだわけではないけれど、自発的に全学年を集めて始まった。もっとも自分たちで決めた旅行だから、最後まで起承転結を行わなければならないと感じたのだろうか。順にしたがって報告をしていたが、全体的な報告のプログラムも整理されていて見事だった。いつも感心させられるのが、パッと出てきても怖気づくことなく堂々と話ができるということだ。私自身をだぶらせてみても、多分心臓の音が隣の人に聞こえてしまうのではないかと思うくらいのものだ。

最後の流れのところで気になったところがあったので、6年生全員を職員室に呼んで話をした。勿論ほめることが最初だ。じっくりと私の話を聞いていたが、私がいつも食べているこんにゃくがストーブにかけてあったのでそれが気になったようだ。これは全員に配った後の残りであったけれども、特別に6年生へのご褒美としてあげると言ったら、順序良くきれいに食べてしまった。おつゆだけ残っていたので『これどうするの?』との質問があり、『このおつゆでおそばをゆでて食べるのだが皆も食べるか?』と言ったら『食べたーい!』という返事だったので『そんなに簡単に食べることはできない』ともったいぶって言った。

するとみんなが次の私の言葉を待つようにじっと私を見つめている。『うんそうだな、運動場10周かな』と言ったら、すぐさまみんなで顔を見合せ『よし!行こう!』と言って、靴をはき替えに靴箱の前まで突進していった。随分と気の合うものだ。そばを食べると言ったって、それほどあるものではないし、お椀に少しづつぐらいなものなのに、みんなで一緒に気を合わせるというのはこんなに楽しいものなのだ。10周と言えば2kmだ。みんな気を抜かずに走っている。はーはーと息を切らしながら、そばを食べるために。

やがて一人二人と10周を終えてゴールしてきたが、体がとても熱そうである。フーフーと言いながらおなかを抱えていて、おなかが痛いというものもあらわれたり、『あっそうだ僕はそばアレルギーだった』というのもいる。それでも笑っていたのは私と担任だけで、あとの子たちは疲れて笑えなかったようだ。全員が私の机の後ろにある長テーブルに座り一緒にそばをすすった。6年生といえどもこのような純真さだ。この学校の良さが分かるだろう。

美しいもの

一番最初に『きれいだな』と感じたものは小学生の低学年の頃で、やんちゃな仲間と一緒に山歩きをしていて、山歩きと言っても雑木林であるが、そこで見た鉄砲ユリだろうとかすかな記憶がある。その雑木林もどこだったかをはっきり覚えているし、友達の顔も覚えている。花粉がつくと洗濯してもなかなか落ちなくて、母ちゃんに叱られるから、触らないで匂いだけかいたほうがよいということまでガキ大将に教えて戴いた。野に自然に咲いている花なので、どうしても根っこからとってきて家の庭に植えておきたかった。

家からスコップをもってきて根っこのところまで掘り下げて球根まで取り出したけれど、家まで持ってくる間に、茎が折れてしまって、家に着いた時には無残な形になってしまっていた。三つぐらいに分かれてしまっていたので、球根のある部分は庭に植えて、茎だけの部分は捨てて、花のある部分は母親が畑から帰ってきて、すぐにコップに水を入れて飾ってくれた。家の中に花があることがとても誇らしいし、嬉しかった。自分が家族のためになったという気持ちを持てたのは多分この日が初めてだったような気がする。

10数年ぐらい前にj純白の西洋ユリ(カサブランカ)を紹介されたときには、その美しさに固唾を呑んで一瞬声が出なかった。それから家にはカサブランカを何本か植えたけれど、最初だけ純白であったけれど、あとはピンクになったり赤いゴマが入ったりして自分のイメージとは少し離れてしまって興味が薄れてしまった。花弁が大きくて、とても立派で気品があって貴婦人のようなんだけれど残念である。女性の美しさは『瞳』であろうと思う。『目は口ほどにものを言う』とあるようにそれがすべてである。あくまでも個人的主観であるけれど。

心打たれる純粋さの美しさは少女の頬を伝わる涙(tears)であろう。悲しみの涙でも、うれし涙でもどちらでもよい。瞼の内側にたまった涙(しずく)がそっと頬を伝わるとき、まるで真珠の輝きではないか。、それはピュアを越してイノセントだ。女房曰く『単細胞にして最も騙されやすいタイプ』だと。何と言われようが半世紀もそう思い続けてきたのだ。現実に戻ったところで何も面白き事はない。かつて高杉晋作は、そうであっても面白く生きようと言っていたが、それほどの人物にはなれそうにない。

しばらく見なかった風景

家の庭にあるもみじがいつの間にか散ってしまっている。何日か前は真っ赤に燃えるような色をつけていたのに、もっとゆっくり見ておくべきだった。家の裏にある大きな土山に、山の下につながれているヤギがその山の中腹まで登って行って草を食べている。ヤギは何を考えているのか、いつも食べることだけしか考えていないのか、土山を登るときは、こちら側がよいとかこちらは危険だとかの考えはないのだろうか。それでも幸せなのだろうか。いやそのような意識は持てないのだろう。そのような意識が持てないほうが幸せなのか、それとも意識をはっきりと持てる人間のほうか幸せなのか。

あおば台幼稚園の周りの風景も少しずつ変わっていっている。南の道を挟んだ近くには住宅が建っているし、今日はその一角で住宅展示会か見学会をやっている。東側正面玄関の前は、少し前まで田んぼであったけれど、そこを埋め立てて空手道場が建った。これからは、道場に通う彼らが、幼稚園の警備を担当してくれるだろう。工事に来ている職人さんが自分たちが施工した側溝のところに座って、みんなでタバコをふかしている。ずいぶんとうまそうに煙を吸い込んでは吐き出している。物を作り上げるという自負心が、年老いた親父たちの顔ににじみ出ていて、力強い頼もしさを感じる。

私ももっともっと若かった時に同じような土方仕事をしていた経験がある。一日の日当が1600円だった。腕の良い職人さんは3000円。親方格になると3500円だった。日当が少なくても、それがどのような意味かをよく理解していたから不満など全くなかった。給料をもらって、ガソリン代を払うとあまり手もとに残らない。それでも意気揚々としていて、朝方まで飲み歩き、あくる日はしゃきっとして仕事へ出て行ったものだった。今のように土曜日曜が休みだなどと言われると、食えなくなってしまって日干しになってしまう。それでもなんだか、毎日が幸せだったような気がする。

あの時のことを思うと、今のほうが経済的には楽にはなった。いや、私の資産の話をすると結婚前より全く乏しくなって、話せるようなものではないが、生活そのものは文明とともに楽になっている。仕事にも恵まれ、子どもとともにいられる仕事は最高に素晴らしい仕事である。しかも運もよく小学校まで作らせて頂いた。何も不満はない、何か不満でもあるのかと自分自身を問い詰めてみると、都合のよいことを言ってのらりくらりと逃げてしまう。子どもと一緒にいられることは何事にも代えがたいことだが、それ以外はだれかにやってもらってもいいなんて、情けなくも逃げ出そうとする自分がいる。

今日は仲間の認定子ども園の認可になった建物の竣工式で、招待されて挨拶をしてきた。早稲田の応援団にいた凄い先輩だけど、彼も大変な時があったのだと思うと少し重荷が取れたような気にもなった。私も人生つきまくっているようだけれども、彼もつきまくっている。本人がそう言っていたから間違いないだろう。

講演会

堀真一郎先生をお呼びして保護者会主催の講演会があった。堀先生は、イギリスの教育学者ニイルの著書5巻を翻訳した教育者として日本では有名な方である。大学の先生をしていて、それを投げうって自ら『きのくに子どもの村学園』という学校を中心に何校かを経営しているので、彼の学問は机上の学説ではない重みのあるものであって、著書でもいつの間にか引き込まれてしまう魅力がある。信じて来たものを具現化して、これが真に子どもたちを幸せに導くものだという信念がある。私は彼の著書の一つである『きのくに子どもの村の設計』を、身震いしながら読んだ記憶がある。大学教授の退職金では学校経営は困難だろうから、それなりのご苦労はなさっているはずなのに、それはおくびにも出さない。

もっとも現在が順調ならそんなことは懐かしい昔のことであって、ことさら大変だったことなど思い出さないものでもある。私もいつかお呼びして、ご講演を戴きたいと思っていたけれど、保護社会の会長からいとも簡単に『堀先生を読んで講演会をやろう』と平然と言うものだから、駄目もとでもよいから思い切ってお願いをしたところ思いかけなく快諾を戴いたのでありがたかった。ちょっと失礼かなと思いながらもやってみるものだ。新たに強烈な図々しさが体中にみなぎったような気がした。

このところ男子生徒の高学年が野球らしきものをやっている。いわゆる三角ベースという奴だが、学年だけでは人数が足りないので、色々な学年が入り混じってやっている。男子だけではなく必要とあらば女子まで一緒になってやっているのを見た。今日などは女子だけが外に出てバットを振り回している。なかなかバットにボールが当たってくれない。見ている方がイライラしてくるが、当の本人たちは一生懸命なのだろうなと思う。校庭や中庭などを見ても、よく子どもたちは走り回っている。なんだか分からないけれど楽しいのだろうな。

3歳児の保育参観が第二幼稚園であった。保育参観のあとは私がお話をすることになっているけれども、実際3歳児について話などない。無邪気で可愛らしくて、あの子たちを見ていて母親に何を示唆するようなことがあるだろうか。今はこのままでよい。あるがままの姿を抱きしめてあげる。これ以上何もないではないか。『お幸せに』と手を合わせたい。

楽しい話2話

第1話  何時そうなったのか自分でも分からないけれども、鼻の頭のところに吹き出物のようなおできのような物がぽつりとできていて、そこのところが赤くなっていてまるでピエロのようであった。それを目ざとく見つけた年少さんが『先生!鼻のそこんとこ赤くなっているよ!どうしたの?』と思い切り上を向いて私に言う。『うんこれはね、もう少しでクリスマスが来るだろ、だからトナカイさんの練習してるんだ』と言うと、けげんそうな顔をして『じゃあ先生って変身できるんだ、へええっ!』と言って『変身!変身!』と叫びながら散っていってしまった。それを見ていた年長さんは『先生!そこはいたくないの?』と心配してくれる。

第2話  それは栗ご飯を食べる日であった。私の役割は毎年そうなのだが味噌汁当番で、その具材は決まって豆腐とワカメである。200人もの味噌汁を作るのであるから、味加減を整えるのに私が選ばれているわけだ。私の舌が肥えているからではなく、あんなに大きい鍋で作る味加減は度胸がないとできないだろう。まあどうでもいいやと言う、半ばどうにでもなれというような気構えがないと対処できない。それで私が責任をとってやるわけだが、今までに失敗したことはない。庭で火を燃やして、そこに鍋をかけて火の当番をしていると、かわるがわる各クラスごとに『先生ありがとうございます』を言いに来る。

やはりまた年少さんだが、ピョコンピョコンとお辞儀をしながら『ありがとうございます』を言ってくる。そんな子どもたちに『先生の作る味噌汁はおいしすぎてほっぺが落ちちゃうよ』と行ったらきょとんとしている。すかさず一緒にいる保育者がそれを優しく話をしてあげると、真剣な顔をしてほとんどの子が頬を両手で押さえていた。保育室へ入ると、『ほっぺたが落ちたらどうする?』と真顔で話している。『大丈夫だよあとでさ、ガムテープでくっつければ』と言うものもいるけれども、いざ食事になったら頬を抑えながら食べる子も何人かいた。

中学校ができる!

2005年に卒園した子どもたちとの約束がいよいよ果たすことができる。卒園式の時に『小学校を作って!』と哀願する子どもたちにほだされて、約束したのが『小学校も中学校も作る』と勢いあまって言ってしまった約束であるけれども、その当時の子どもたちはとっくの昔に忘れてしまっているだろう。相手が子どもだからといっても、約束は約束で守るためにあるものだ。思いは思い続けることで実現できるという見本みたいなものだ。やろうとしていることへの絶対的な価値観を持ち続ければ、おのずと他に対しても説得力が生まれるだろうし、共感も得られる。

しかし最初の想いは一人だが、想いを同じにする何人かの仲間がいないと出来ない。実現までには多くの人の力や知恵が必要になってくる。そうなって来ると同時に良質な仲間が必要になって来る。仲間は切磋琢磨出来る仲間がいい。その仲間を追いつけ追い越せして、自分を磨いていき仲間の幸せを考えてあげられるようになったら、最高の人間になるだろう。わが子にはどんな仲間がいるのだろうか。

文科省が平成28年度4月から新たに教育基本法第1条の『学校とは』というところの学校種に『小中学校』という小学校と、中学校を合体させた一貫教育学校が新設される。この学校種に移行する教育機関は新たなカリキュラムに取り組まなければならない。今までの6・3制を自由に解体することが出来る。何もしないで移行するのでは意味がないから、そのような学校は移行はしない。わが校のカリキュラムは当然見直しをすることになるので、教職員にはこれからの奮闘をお願いしたい。発達に見合った制度にするので、新教育ではなく『真教育』にするつもりだ。

最近土曜日に休む子が多い。病気というのであれば仕方のないことであるが、そうでない場合があるらしい。公立は土曜日が休みだが、わが校はきちんとした教育を行う時数に数えられている。しかも土曜日は子どもの内面を自分たちで創作する集会がある。これは学校の目玉としてとても大切にしているもので、あまりそのことに重きを置かない行為というのは看過することはできない。学校は授業料さえ納めれば何をやってもよいような安っぽいものではないし、商業的感覚でいる教職員は誰一人としていない。義務教育期間は学年を問わず、何処の学校へ移ろうと、要請があればあるがままの内申書をお送りしなければならないので、学校行事を軽んじているようでは論外である。

今日お父様たちが来て戴いて登り棒の修理をして戴いた。青竹が目に飛び込んでくる。ずいぶん頑丈に作られたと思う。もっとも自分たちの子が、この棒を渡ったりするのだと思うと、作りながら点検しているのだろうから、登って安全安心だ。子どもたちのために、ありがとうございます。