初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

新学期始まる

卒園式を書いたすぐ後に新学期始まるを書くのに少し申し訳ないような気がするけれど、何も書かなかったわけではない。何回かブログの更新を行おうと試みたけれども、以前のものと違うところがあって、長い文章を書いて一時保存すると、時間切れか何かになってしまって、もう一度書きなおさなければならない。何とかそれを直してもらうようにお願いしていたけれども、直ってない。それならそれで時間切れになる予告を出してくれるとよいのだが、それも併せてできていない。便利になると聞いてホームページをいじったのだが、私にとっては何が便利になったのかが分からない。それで結局今まで空欄になってしまったのだ。

幼稚園では両園ともに入園式が終了し、新しい園児たちが幼稚園に来ることになった。年少さんの担任になった保育者に一日の感想を述べてもらうと『何がなんだか分からないうちに一日が過ぎてしまった』ということを異口同音に言っていた。中には『何が起こっているのか整理する間もなくお帰りになってしまった』というのもある。私も両園を見てきたが、可愛いだけではなく、保育者に抱かれて『ママーママーこっちへ来てー!』と泣き叫んでいる子がいる。これは大体男の子に多い。そんなところをビデオに撮っておいて大きくなって親には向かうようになったら見せてあげればいい。そう思っている。幼稚園に慣れるまでは、最近の子はそれほど長くはかからない。

小学校には7人の子が入学したが、これがまた可愛いな。幼稚園の子とは違い、小学校へきたんだと言うステイタスのようなものを感じるし、前にのめり込みそうな力を感じる。それでもみんなで列をなしてクラスからクラスへ行くときや、お帰りのときに担任の教師に連れられてくる様は、まるでオヤガモとコガモのようであって何とも微笑ましい。この子たちが幸せな学校生活と幸せな成長を保障してあげたい。もっともこれは親の協力があってなせることだが共に手を携えてやっていきたいものだ。

 

 

卒園式

あのような心を揺さぶる卒園式を、二日も続けてやると心身ともにくたくたになる。静かに心までも突き刺すような純真な目で私の言葉を聞いている。素晴らしい子どもたちに出会えたことに感謝しなければならないだろう。保護者主催の『ありがとうの会』では保護者のパフォーマンスにぐったりするほどの感動を戴いた。さすがに能ある鷹である。最後に子どもたちが両脇に並んだところの真ん中を歩いて、子どもたちに最後の言葉をかける。いつもの泣かされるシーンだ。両脇の子供に一人づつ握手をしながら『元気でな』『また遊びに来いよ』『5月か6月にはまた会えるからな』とか思いだす言葉を並べてさよならを言う。

私はもう少しで70になる。いったん幼稚園から離れようかなと少しばかり考えていたのだが『小学校行っても頑張れよ』の言葉に『先生も幼稚園頑張ってね』と返された。死ぬまで張り付いていなければならないのかなと考えてしまった。本当に優しい子どもたちばかりで、『あおば台に来てくれてありがとう』というと『幼稚園作ってくれてありがとう』と返してくれる。全てが終わって園庭に出てくると、あるお父さんが『幼稚園の卒園式なのに子どもたちがあんなに泣くなんて』ともらい泣きしていた。

子どもたちと保育者が一体となって生活してきた青葉台の保育も卒園式を持って一応の区切りとなるけれども、最後の最後に行った『立派な年長』の儀式は、生涯にわたって自己肯定感を持つことに役立つことだろう。みんなが自分のよさを認めてくれたんだ。何かあるときには必ずこれを思い出してくれるようにお願いしたい。

もう卒園だ

卒園式のリハをしてきた。子どもたちの張りのある歌声を聴いていると、すぐそこにお別れの卒園式があるなんてことは考えられない。いつになく整然としていて、子どもたちの一生懸命さがひしひしと伝わってくる。少しだけサポートしてあげると、あとはすべて自立してやることができる。いつからこんなに立派になったんだと聞きたくなるくらいだ。このように誰にでも自立して、自分がやるという気概を持っている。そこに親が入ると途端に、できなくなってしまうのは不思議だ。一人ひとりよく育ってくれたと思う。大きな拍手を送りたい。

公文書の書き換えは、総理が昨年の2月17日の国会で『私や妻が何らかの関わりがあったら総理を辞めるし国会議員も辞める』と言った後で、総理の気持ちを忖度して文書の改ざんが始まったと野党は追及している。それではこの1年間の国会は何だったのか。麻生さんも辞める時期を失うと、世間から袋たたきにあって憲政史上に汚点を残すことになるだろう。それでなくとも、今回の財務省の件では評判が良くないのだから。政治家の言っていることが我々の感覚とはあまりにも遊離していて、国民との距離が離れてしまっている。政治家の誰もが責任を取らないで、前理財局長だけにすべての責任をなすりつけるようなことになれば、自民党は大敗するだろう。

お粗末な政府

森友の土地に係る関係文書が書き換えられているという。このようなことが財務省理財局であった。ことの発端は首相夫人の昭恵さんだ。『悪のたくらみ』という題の付いた写真に、総理と加計学園の理事長、それに2人ぐらいの人がおさまっている。その前の写真には森友学園の理事長夫妻と総理夫人がにこやかに掲載されている。これで何もなかったなど、普通の人なら普通に考えて何かある。

『改ざん』されたものを『訂正』だと言いくるめたり、省の部局だけに責任を押し付けたり、全て白日のもとにさらけ出して、政府は一旦出直して欲しい。政府は第一に国民のことを考えなければならない立場にあるのに、国民に嘘をついたりしては最悪ではないか。保身はやめて正しいやり方をしてほしいものだ。国民に背を向けてみんなでかばい合っているような素振りは、政治を腐らせてしまう。腹をくくった侍はいないのか。

自民党の中には離党したくなるような人も沢山いるだろうが、そんなことは民進党を見ればわかるように、かつては自民党にいた人が多く含まれている惨めな党になり下がるだけだからやめた方がよい。形振り構わず総辞職して国民に謝罪すべきだ。何があっても私はこの国を任せられるのは自民党以外にはないと思っているから、私は自民党を裏切らないけれども、自民党が一般党員や隠れ党員を裏切っているのではないか。かつて野に下った時のように思いあがりがあるのではないか。為政者は謙虚でなければならないだろうが。

これから日本の国を背負っていく子どもたちの顔をまともに見られるのだろうか。子どもたちの顔を真正面から見られるような政治をしてほしい。

米朝対話実現するか?

ピョンチャン冬季オリンピックに北朝鮮が参加して、にわかに融和ムードが加速していったが、何度も北朝鮮に煮え湯を飲まされてきた経緯があるので簡単に信用するわけにはいかない。米国のトランプ大統領も、核廃棄の道筋を確かめ、廃棄が終了するまで今まで通り圧力をかけていくと明言している。日本は核廃棄だけではなく、拉致問題の解決もあるから簡単には手を緩めるわけにはいかない。しかし人道上の支援と政治的な駆け引きを一緒にしてはだめだなどの世論があると、人道支援に踏み込むこともあるから注意が必要だ。北朝鮮が核廃棄に真剣に取り組むとはとても思えない。何故なら先軍主義が彼らの国是だからである。

しかし米国のトランプさんは、勝手なことをいって世界を震撼させている。あまりあのような人について生きたくはないけれど、自分の好き嫌いで国を左右させてはならないから、政治家は大変な仕事である。あのような傍若無人な人が世界のリーダーとなってしまうと、政治経済を読みとる評論家たちは読みとれないことが多く、セオリーが壊滅状態になってしまった。日本の国もまだ米国の統治下にあるのではないかと思わずにいられない。例えば沖縄における、あるいは駐留米国軍との地位協定やら、米国から購入する兵器などについては米国のいいなりであって、買い物はすべて前金である。お金を支払ってもまだ品物が来ないとか、米国の軍事機密なるものは兵器を購入してもその先は教えてもらえない。日本は自分の力で国を守るという気概を持たなくては、これから先も米国の属国になってしまう。それでも良いとだれかが決めたのか?。

幼児教育現場の混乱

地方自治体が保育者確保のために右往左往している。ことの発端は東京都の知事の発言にある。それまで国は保育者の処遇改善をして保育に従事していただけるように、保育料のほかに保育者の処遇改善費と言うのを新規に設け保育者の確保に万全を期すべく努力をしている。その上に都が独自に2万円を上乗せするというものだ。都に隣接する自治体はそれを聞いて浮足立ってしまい、我先にと保育者への給料のかさ上げをすることになったらしい。茨城県ではつくば市が最初であるが、保育者の通帳に直接振り込むという。金額は1月一律3万円である。

私としてみれば実に好ましい現象である。今までの保育者の給料は、仕事の割にしては薄給であって、何度も補助金の増額を県に頼んだ経験を持っている。その甲斐があって、茨城県は補助金の額が国内では5位以内にランクされたこともあるけれども、全体的に保育者の給与は安かった。特に幼稚園と言うところは、良家の子女が行儀見習いに幼稚園で働いたということもあって、あまり金銭のことを声高に言うと恥ずかしいことのようであった。しかし世の中の潮流がそれを許さなくなった。それはそれでとてもよいことである。

しかし問題もある。モラルハザードの問題である。保育者になると夢を描いてきた学生はそれなりに崇高な使命を抱いて、保育者になろうとしているが、今回の金銭問題で崇高なステージから引き落とされるような危惧がどうしてもぬぐい去ることができないでいる。私の思いすごしか、それとも思い上がりならそれでいいけれど。とにかく保育者を大切にしていこう。

新入園児1日入園とファミリア発表会

土曜日に両園の一日入園と小中学校のファミリア発表会が行われた。同日にこんな大きなイベントを重ねてしまったのは不徳の致すところだ。この時期は一度決めてしまったものは簡単に時期をずらすことができない。それでなくとも普段の平日であってもやることが詰まっていて、どこかに支障が出ることは目に見えている。しかしそれぞれに独立している幼稚園や学校であるので、実際に余裕がないのは私だけのことかもしれない。

幼稚園には可愛い生まれてから3年目の子たちが入って来る。今から30年前までは3歳児保育は幼稚園ではできなくて、みんな家庭で育てるか、保育所に行って4歳になるのを待って幼稚園に来たものだ。学校教育法に照らしてそれが幼稚園指導要領にうたわれていたものだ。今では子供の呼び方も1号2号3号という風に、親の働き方あるいは専業主婦とに分かれて、子どもの預け方が選択できる。選択と言ったが家庭によっては選択の余地がないかもしれない。政府あるいは官僚の政策は政策ではなくて対処療法で、都会ではいまだに待機児童の問題が解決できないでいる。この先何年もかかるであろう。国家が本気になっていない証拠だ。都会に集中して人が住むからこのようなことになるので、一極集中をやめることは強制的な力が必要だ。何かが狂いだしていることに以前から気がついていたはずだ。

小中学校のファミリア発表会はすごい!。子どもたちだけでこんなことができるのだろうか。何よりもみんなの目がきらきらしていて躍動的な子どもたちの力を感じる。このように生きているという証が必要ではないか。初等学部は中等部に入っても1年生はファミリアに入らなければならない。ファミリアは6年生までの専売特許ではない。初等中等とわけているのではなく、発達段階を理解して3年4年2年と言うように子どもたちの生活が充実するように構成されている。具体的な発達段階については学校のパンフに掲載されているので是非ご高覧戴きたいと思います。

そして先日ファミリアの現状について教員から報告を受けたが、中一になったファミリア最年長の子供たちの日ごろの生活ぶりを聞いた。ファミリアに於ける探究心もさることながら、普段の基礎授業についても知ろうとする意識が高く、教師に答えを求めるのではなく、自分たち仲間同士で確認し合いながらの学び合いがよく見られるようになったということである。やらされるのではなく、自発的に内燃機関が作動し自走できるようになる。これこそが私たちが求めているものではないか。内発的動機付けとなったものは何か。それはファミリア活動であったり、選択授業の充実ではないかと思っている。

生活発表会が終わった

先週の土曜、日曜で両園の発表会が終わった。インフルエンザが日本中に蔓延しているので、どうなることやら少々の不安があった。その不安が的中したクラスもあれば、まったく心配にならなかったクラスもある。特に第二幼稚園では全園年中と年長のみであるけれど、二人だけの休みであったのには驚きだった。子どもの自然治癒力だけでは病気を防ぐことは難しいので、どうしてもご両親の気遣いが必要になってくる。そう考えると自然に拍手したくなってくる。

あおば台幼稚園の年長のクラスは凄まじかった。7人も欠席者がいたのだから劇がどうなってしまうのか、後は子どもに任せるしかない。幼稚園まできて脇の下に体温計を挟んで涙ぐんでいる子もいた。私が子どもたちの前に出てみんなの顔を見渡すと、みんな無口でじっと私の顔を見ている。彼らは私が何と言うのか言葉を待っているようだったが、私は何とも言いようがないので『みんなで考えて』とだけ言って開幕の用意をしにステージに戻っていったが、そのあとの子供たちの葛藤がすごかった。

7人も休みがいれば7つの役に穴があいてしまうわけだから、それをどうにかして埋めなければならない。一人で何役もやらなければならないが、同じ劇ではそうは行かない。劇の中の女の子の役を男の子がやることになったが、女の子に言葉の指導をされて、男の子は『僕は男だから女の子の言葉は絶対嫌だ』と言って譲らない。女の子は『劇なんだからいいじゃない!』と言って譲らない。とうとう時間切れになって、劇が始まることになった。するとステージに上がってからも劇の中で言い合っている姿があった。何と楽しいではないか。子どもたちのやり取りをここまでじっと見守ってくれる幼稚園は数少ないであろう。

どちらの幼稚園も年中さんは年中さんらしく、年長さんは年長さんらしく、元気によく出来たと思う。ステージに上がって緊張感で泣き出した子も、背中を見せたまま前を向かなかった子も、いつかそのようなことが楽しい思い出となるだろう。そんな子の現象を観るのではなく、内面の心を観てあげようとすれば、ずいぶんよく頑張っているではないか。今度はきっとかっこよい姿を見せてくれるだろう。何も心配はない。最後に遅くまで頑張ってくれた保育者に感謝したい。良くやってくれた、ありがとう。

 

 

ちょっと違うかも

世の中の一般常識みたいなものと、現実は違うと言うようなことがある。まず民主主義と言うものは最高の決議機関だと言う。過半数が全てを制する訳だが、これが最高によい結果をもたらすものだろうか。実はそうではなくて法治国家は裁判官によって下される裁定を採用している訳だが、一応法律を学んだものに採決を委ねている。どちらか白黒つけるときにいちいち国民投票をするわけにはいかないし、そんなことをしていたらその費用だけで国家予算がなくなってしまう。その裁判官を任命するのも国民に委ねられているわけだが、勉強不足でその仕組みがよく解らない。これこそ非民主的であって、法曹界のものでしか理解できないのではないか。

社会の体制を維持していくのには、独裁か全体主義か民主主義の三つしか今のところはない。北朝鮮は独裁国家であるが、そんな国は沢山ある。アラブの産油国は殆どそうだし、ロシアも独裁だろう。かつて全体主義と言われていた社会主義国家も実のところ共産党一党独裁である。今の中国共産党もそうだ。そういう国家には自由がない。そしてわが国は自由と民主主義を標榜している民主主義国家である。どんな国家体制を選んだとしても平等というのはあり得ない。平等というのは、自由と同じで他から与えられるものではなく、自ら他と平等になるために勝ちとるものである。あまり努力もしないでもなれるものと努力してもなれないものとがいるが、だからこの世は不平等なのだ。

マルクスの言った労働者革命(階級闘争)は、まさに人類の平等をうたったものだが、人間が個として独立している以上、それがいくつかの思想の分類に分かれても、決して平等は生まれない。それは人間の個としての尊厳を認めるからであろう。そして人間に欲望と向上意欲がなくならない限り平等などの言葉は生まれない。だから平等は有名無実である。この偽りの言葉で、どれだけ多くの有能で勇気ある革命戦士が命を落としたことか。自由を求める人に平等は死語だし、民主主義を求める人に自由はない。そのようなことを覚悟して生きていかなければならない。

賑やかな子どもたち

いつものように、保育所の1歳児2歳児の保育室へ行くのには年中さんの部屋を通っていく。年中さんの部屋を覗いて、大きな声でややおどけた声で『お・はよー!』とアクセントを加えて挨拶をする。すると、一人の子が『あっ!園長先生だ!』と声を上げると7~8人の子が一斉にわーっと私の体にまとわりつく。その中の一人が私のお腹をさすって、『まん丸で大きい!』と嬉しそうにしている。

私は昨年の10月25日から炭水化物ダイエットというのをやっていて、これまでに5kgほど体重を減らした。その間海外にも二度ほど行ったが、焼きたてのおいしそうなパンにも出会ったが歯を食いしばって食べるのを拒んだ。肉や野菜ばかり食べていても、どうしてもご飯が食べたくなるものだ。私にとっては涙ぐましい努力であるが、子どもはいたって正直なもので、ときにはその結果が悲しくもなる。

私はすかさず『そんなことはないだろホラよく見て』と言ったら『少しへっ込んでいるようにも見える』と返してくれたが、私が言わせているみたいで後味が悪い。こんな小さな子にも『忖度する』気持ちがあるのだ。