初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2017年5月の記事一覧

リヤカー運転免許証の魅力

今日は朝から重苦しい雲が垂れこめていて曇天である。9時から登園する子どもたちから順に試験を行うことに決めてあったが、どうも空模様が怪しくて空の雲とにらめっこが続く。大した雨ではなくて、多少濡れても構わないと言うことなら一気にやってしまいたいし、子どもたちもそれを望んでいる。雨もまた仲間で雨の中でやりたいとも思っている。『風邪を引いたら大変』だなどと思っているのは保護者で、今日は保護者が数人幼稚園に来ているので、雨の中でリヤカー試験やっていたとなると大騒ぎになる。それで仕方なく空模様を眺めていた。

雨が降ろうがやりが降ろうが雷が落ちても、今日免許証が貰えるとなると何としても試験をやりたいというのが子どもたちの気持ちであろう。そして帽子につけて年長だけのステイタスを満喫したい。デッキに腰掛けて恨めしそうに空を見上げている様子は何んともかわいい姿である。

すぐに雨がやんで、しばらくリヤカー試験をすることができたが、20人ぐらい終わったところでまた雨が降ってきた。いったん試験をやめて、子どもたちを中に入れたが、待っている子どもたちは、すでに終わって帽子に免許証を付けている仲間の様子を恨めしそうに見ている。そんな時『さあやろう!』と保育者の声がした途端、勢いよく飛び出す姿に子どもたちの何とも言えぬ期待感があふれている。私が『ゴーカク!』と言うたびに、保育者の執拗と思える拍手喝采に、子どもたちのにんまりとした笑顔が拍手喝采に余韻が残る。

小中学校の子どもたちも私にとっては同じだ。高学年の女子の頭をなでると言うことはしないが、時折ふと手が行ってしまう時がある。男の子は5年生にもなるのに頭をなでてやると、隣の子が頭を出してくる。男の子は単純にして明快だから分かりやすい。何と言っても青葉台の自主的委員会である『お替わり委員会』の存在がとてもユニークで、それを認めた高学年の子どもたちの寛容さが素晴らしいと、学校で食事をするたびに思っている。子どもたちの育ちの良さであろうなきっと。

世界に一つしかないリヤカーの免許

リヤカーの免許取得は年長さんのステイタスだ。リヤカーと言えども運転者とリヤカーの後輪の距離があるので内輪差が生じる。これがどうも子どもたちには難しいようで、何故歩いているようにリヤカーが歩いてくれないのか不思議なようだ。現実にリヤカーを見て後ろのタイヤが中に入って来るのを目撃しても、次やるときには同じことを繰り返してしまう。そんなことを繰り返しながら、出発点まで帰ってくると最後に待っているのは車庫入れだ。コースはS型やクランクがあって歩道では一時停止をしなければならない。ないのはサイド発進ぐらいなものだ。

車庫入れが終了すると、試験官の私のところへ来て、私が大声を出して名前を呼び『ゴーカク!』とやる。そして本人の前で印鑑を押す。そして隣の教師のところへ行ってラミネートしてもらうと、周りにいるみんなが『おめでとう』と言い、帽子のところへつける。これでめでたく免許証が自分のものになるのだけれど、まったく子供だましのようなことだけど、子どもたちも私も真剣にやる。だから見ている年長さんも真剣に応援してくれる。これで一つ年長さんのステイタスが上がった。

マンチェスターの大きなホールで若い歌手のコンサートに来ていた子どもたちがテロにあった。そして22名の尊い命が失われた。このようにテロと言うのは予見できない突然やってくるのだから、それを未然に防ぐのには多くの網を張らなくてはならない。

憲法に保障されている『表現の自由』に抵触するから駄目だと言っている人がいる。自分の身内が犠牲になったらそうは言うまい。日本の法律は何故にこんなにも犯罪者をかばうようにできているのか不思議であるが、それこそ自由と言っても周りを思い諮り自分を抑制しなければなるまい。このように権利ばかりを主張する輩は、自分勝手で幼稚な人が多い。どれだけの知識を持っていようがである。

断じて容認できない

断じて容認できないと言う言葉は、北のカリアゲ君がミサイル実験をする度に政府高官が発する言葉である。そんなことはもう何度も聞いているので、カリアゲ君は何事もなかったように何度もミサイル実験をしている。そしてまた『断じて容認できない』と言う。総理の発言もうつろに響く。日本には力がないと言うことを何度も確認させられた。だからどうするのかと言うアクションがないし、国民も同じように政府を突き上げるようなことはしない。

誰が何を言おうが危機管理システムの構築を急がなければならない。それどころか共謀罪の成立に反対をして、テロを未然に防ぐ法律を通そうとしない。一般人をも巻き込むからだというのが理由である。何も起こらないときには誰が一般人で、怪しいのはだれかなど分からないではないか。その一般人の区別はどのようにして決めるのだろうか。そのようなリスクがあろうがテロは未然に防ぐべきであろう。理想主義者や北朝鮮に抗議のできないものに耳を貸してはならない。彼らは日本を落し込めようとする仲間であるから。

危機的な日本と言うのを毎日見せられていながら、その防御についてのアナウンスがないのも不思議であるが、多分それはいたずらに国民を不安にさせてもならないという配慮であろう。いざと言う時のためにある程度の国民の負担は当たり前のことだ。トランプ大統領は、カリアゲ君と同じで予測不可能な人であるので、いつトマホークを打ち上げるか分からない。北朝鮮のミサイルを日本の技術で途中で撃ち落としてくれることを望んでいるけれど、それも難しくなったと言っている。もしもの場合にどうするのだ日本は?

あおば台プレイデイ

雨で1週間延期になったプレイデイだが、今日はさわやかな5月晴れである。それは良いとしても、市内の小学校の運動会と重なって、小学校へ参加する保護者が1クラス以上いた。それは仕方のないことだとあきらめて、大多数の保護者と子どもたちで伸び伸びと遊ばせて戴いた。最初の予定のときに休みを取ってしまって、延期されてしまった今日は取れなかったというお父さんもいる。気にしないでその分休みのときに遊んでやってほしい。子どもたちはきっとわかっているから。

きらきらした子どもの顔が素晴らしかった。いつも私のところでギャーギャーと騒いでいる子も、今日は音沙汰なしだ。私など路傍の石の存在である。それはそれで素晴らしいご家庭であろう。子どものいる風景とは緩やかなそよ風に似ている。

厭なニュースがあった。仙台の中2の自殺問題を、学校と教育委員会で隠蔽していたという。この問題だけではなく、学校と教育委員会の姿勢は許せないことが多い。多分泣き寝入りしているご家庭もあるだろうが、これでは教育機関の信用は地に落ちてしまうのは当然である。仙台と言えば東日本大震災で大変な目にあったところで、心の中にその傷跡もあったかもしれない。世の中に恨みを持つだろうな。そもそも教育委員会は、子ども達の味方ではなく学校の教員の味方で、そんなところに真相究明なんて頼んでも真実は出てこない。総理大臣以下真剣になって子どもを守ってほしいものだ。とにかく大人のウソは駄目だ。

暴力を伴う教師

愛のある暴力というのが本当に実在するのか。一番自分に近い親でも、殴るときには『お前を愛しているから』と言って殴りつける親がいるのだろうか。殴る行為そのものが常軌を失っているのではないか。殴り合いでも最高に高揚していて、冷静さとは全く逆のほうに自分の感情がある。憎悪があってやるものとそうではないものに区別ができるかもしれないが、それにしてもやはり人間はそんな野蛮なことをしてはなるまい。

私はどうだったかと言うと、20歳ぐらいまでは喧嘩三昧で、いつも顔にあざをつけられていた。今から考えると、自分の感情の逃避にしかならないけれど、自分の生き方が分からないのと、優秀な仲間を見ていてコンプレックスと焦りがあって、自分に対して怒りを持っていた。本を読んで何とか自分を変えようと努力はするものの、意志が弱かった。私を見ていて心配してくれていた仲間がいたことによって、何とか軌道修正ができた。野蛮で全く獣道であったように思う。恥ずかしい限りだ。だからそんな子供たちをつくってはならないと強く思っている。

小中学校時代は教師によく殴られた。殴られなくて教師に覚えめでたい子もいたのだから、私は教師からすると余程手に負えなかったのであろう。今だからはっきりと言うことができるけど、殴って人は育つわけがない。強制はできるだろうけれど、人を育てる手法ではない。兵隊のように自分の考え方を主張できない状況におかれなければ規律を保てない社会なら、それもひとつの考え方であるけれど、教育の現場では、絶対あってはならないことだ。時には熱血教師などと持てはやされるけれど、殴られている生徒の身になれば『これが先生か?』と大人を不信に追いやるだけだ。信頼関係こそが唯一子どもを救う道であると思っている。

私は家に帰ってくれば父親に殴られ、まったく身の置き場がない。それでも何とかまともに生きられたのは、最後まで私を信じてくれていた母親の存在であろうと思う。それによい仲間がいたからだ。親子の間では、殴られてもいつか忘れて強い愛情だけが残っていると言うことがあるけれども、感情的になれば憎しみだけが残ってしまう。修正不可能になってしまうようなことだけは絶対に避けるべきだ。教師の場合は、場面が沢山あるから、ふざけて頭をこつんとやるだけならまだしも、殴ってしまったら教師の負けだ。自己否定と同じことになる。