初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2015年12月の記事一覧

初等学部の餅つき

山奥の過疎地の『やまびこ小学校』みたいなところでないと餅つきなどの行事は行わないだろう。ここは過疎地ではないけれど、過疎地にできたような学校だからとても家族的で、校長が全員の名前と顔が一致するなんて言う小学校は都会ではないであろう。職員室は校長のクラスで、クラス分けなどない出入り自由なクラスだ。そこでストーブを囲んでお話をするという、とても牧歌的雰囲気のあるクラスだ。子どもの中に同化できるのは、私の唯一の特技だ。

幼稚園の餅つきと違って、つき手も愛の手も子どもたちがやっている臼のグループがある。6年生がやるとそれなりに杵の音がよく出ていたりするけれども、定額ん年がやると、杵に振り回されたりしていて楽しい。大体やりたがるのは男児であるが、杵に足をとられても、さすがに弱音を吐かない。周りで見ている子どもたちが心配そうにしていて、杵を振り上げる度に『危ない!』という気勢を上げる。それがとてもタイミングがよい。

吹きあがったもち米を臼の中に入れて、それから杵で練り上げて多少餅になってきたところでつくのだけれども、練り上げるところが力の入れどころで、うまく腰を使わなければならないが、それを子どもたちが大人のまねをしてやる格好が面白い。何でもはじめてのことはやりたがる。やりたがりが何度も失敗して見事な技術者になるのだろうな。だから学習の初発は興味や関心からだというデユーイの言うとおりだ。教科書を出して、教科書を暗記させることなんて面白くもないし、それが楽しいなんて言う子がいるのだろうか。

面白いことあり

6年生の修学旅行の報告会があった。こちらで報告して下さいと頼んだわけではないけれど、自発的に全学年を集めて始まった。もっとも自分たちで決めた旅行だから、最後まで起承転結を行わなければならないと感じたのだろうか。順にしたがって報告をしていたが、全体的な報告のプログラムも整理されていて見事だった。いつも感心させられるのが、パッと出てきても怖気づくことなく堂々と話ができるということだ。私自身をだぶらせてみても、多分心臓の音が隣の人に聞こえてしまうのではないかと思うくらいのものだ。

最後の流れのところで気になったところがあったので、6年生全員を職員室に呼んで話をした。勿論ほめることが最初だ。じっくりと私の話を聞いていたが、私がいつも食べているこんにゃくがストーブにかけてあったのでそれが気になったようだ。これは全員に配った後の残りであったけれども、特別に6年生へのご褒美としてあげると言ったら、順序良くきれいに食べてしまった。おつゆだけ残っていたので『これどうするの?』との質問があり、『このおつゆでおそばをゆでて食べるのだが皆も食べるか?』と言ったら『食べたーい!』という返事だったので『そんなに簡単に食べることはできない』ともったいぶって言った。

するとみんなが次の私の言葉を待つようにじっと私を見つめている。『うんそうだな、運動場10周かな』と言ったら、すぐさまみんなで顔を見合せ『よし!行こう!』と言って、靴をはき替えに靴箱の前まで突進していった。随分と気の合うものだ。そばを食べると言ったって、それほどあるものではないし、お椀に少しづつぐらいなものなのに、みんなで一緒に気を合わせるというのはこんなに楽しいものなのだ。10周と言えば2kmだ。みんな気を抜かずに走っている。はーはーと息を切らしながら、そばを食べるために。

やがて一人二人と10周を終えてゴールしてきたが、体がとても熱そうである。フーフーと言いながらおなかを抱えていて、おなかが痛いというものもあらわれたり、『あっそうだ僕はそばアレルギーだった』というのもいる。それでも笑っていたのは私と担任だけで、あとの子たちは疲れて笑えなかったようだ。全員が私の机の後ろにある長テーブルに座り一緒にそばをすすった。6年生といえどもこのような純真さだ。この学校の良さが分かるだろう。

美しいもの

一番最初に『きれいだな』と感じたものは小学生の低学年の頃で、やんちゃな仲間と一緒に山歩きをしていて、山歩きと言っても雑木林であるが、そこで見た鉄砲ユリだろうとかすかな記憶がある。その雑木林もどこだったかをはっきり覚えているし、友達の顔も覚えている。花粉がつくと洗濯してもなかなか落ちなくて、母ちゃんに叱られるから、触らないで匂いだけかいたほうがよいということまでガキ大将に教えて戴いた。野に自然に咲いている花なので、どうしても根っこからとってきて家の庭に植えておきたかった。

家からスコップをもってきて根っこのところまで掘り下げて球根まで取り出したけれど、家まで持ってくる間に、茎が折れてしまって、家に着いた時には無残な形になってしまっていた。三つぐらいに分かれてしまっていたので、球根のある部分は庭に植えて、茎だけの部分は捨てて、花のある部分は母親が畑から帰ってきて、すぐにコップに水を入れて飾ってくれた。家の中に花があることがとても誇らしいし、嬉しかった。自分が家族のためになったという気持ちを持てたのは多分この日が初めてだったような気がする。

10数年ぐらい前にj純白の西洋ユリ(カサブランカ)を紹介されたときには、その美しさに固唾を呑んで一瞬声が出なかった。それから家にはカサブランカを何本か植えたけれど、最初だけ純白であったけれど、あとはピンクになったり赤いゴマが入ったりして自分のイメージとは少し離れてしまって興味が薄れてしまった。花弁が大きくて、とても立派で気品があって貴婦人のようなんだけれど残念である。女性の美しさは『瞳』であろうと思う。『目は口ほどにものを言う』とあるようにそれがすべてである。あくまでも個人的主観であるけれど。

心打たれる純粋さの美しさは少女の頬を伝わる涙(tears)であろう。悲しみの涙でも、うれし涙でもどちらでもよい。瞼の内側にたまった涙(しずく)がそっと頬を伝わるとき、まるで真珠の輝きではないか。、それはピュアを越してイノセントだ。女房曰く『単細胞にして最も騙されやすいタイプ』だと。何と言われようが半世紀もそう思い続けてきたのだ。現実に戻ったところで何も面白き事はない。かつて高杉晋作は、そうであっても面白く生きようと言っていたが、それほどの人物にはなれそうにない。

しばらく見なかった風景

家の庭にあるもみじがいつの間にか散ってしまっている。何日か前は真っ赤に燃えるような色をつけていたのに、もっとゆっくり見ておくべきだった。家の裏にある大きな土山に、山の下につながれているヤギがその山の中腹まで登って行って草を食べている。ヤギは何を考えているのか、いつも食べることだけしか考えていないのか、土山を登るときは、こちら側がよいとかこちらは危険だとかの考えはないのだろうか。それでも幸せなのだろうか。いやそのような意識は持てないのだろう。そのような意識が持てないほうが幸せなのか、それとも意識をはっきりと持てる人間のほうか幸せなのか。

あおば台幼稚園の周りの風景も少しずつ変わっていっている。南の道を挟んだ近くには住宅が建っているし、今日はその一角で住宅展示会か見学会をやっている。東側正面玄関の前は、少し前まで田んぼであったけれど、そこを埋め立てて空手道場が建った。これからは、道場に通う彼らが、幼稚園の警備を担当してくれるだろう。工事に来ている職人さんが自分たちが施工した側溝のところに座って、みんなでタバコをふかしている。ずいぶんとうまそうに煙を吸い込んでは吐き出している。物を作り上げるという自負心が、年老いた親父たちの顔ににじみ出ていて、力強い頼もしさを感じる。

私ももっともっと若かった時に同じような土方仕事をしていた経験がある。一日の日当が1600円だった。腕の良い職人さんは3000円。親方格になると3500円だった。日当が少なくても、それがどのような意味かをよく理解していたから不満など全くなかった。給料をもらって、ガソリン代を払うとあまり手もとに残らない。それでも意気揚々としていて、朝方まで飲み歩き、あくる日はしゃきっとして仕事へ出て行ったものだった。今のように土曜日曜が休みだなどと言われると、食えなくなってしまって日干しになってしまう。それでもなんだか、毎日が幸せだったような気がする。

あの時のことを思うと、今のほうが経済的には楽にはなった。いや、私の資産の話をすると結婚前より全く乏しくなって、話せるようなものではないが、生活そのものは文明とともに楽になっている。仕事にも恵まれ、子どもとともにいられる仕事は最高に素晴らしい仕事である。しかも運もよく小学校まで作らせて頂いた。何も不満はない、何か不満でもあるのかと自分自身を問い詰めてみると、都合のよいことを言ってのらりくらりと逃げてしまう。子どもと一緒にいられることは何事にも代えがたいことだが、それ以外はだれかにやってもらってもいいなんて、情けなくも逃げ出そうとする自分がいる。

今日は仲間の認定子ども園の認可になった建物の竣工式で、招待されて挨拶をしてきた。早稲田の応援団にいた凄い先輩だけど、彼も大変な時があったのだと思うと少し重荷が取れたような気にもなった。私も人生つきまくっているようだけれども、彼もつきまくっている。本人がそう言っていたから間違いないだろう。