初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2015年12月の記事一覧

幼稚園はできたけど

幼稚園はできたけどその理念は何もない。園長はやとわれ園長で、その人がどうにか維持してくれていた。私は理事長職でめったなことがなければ幼稚園に顔を出すこともない。むしろ私のような者が幼稚園をやっているということに羞恥心を持っていた。だから行事があるたびに呼び出されたりするけれども、恥ずかしくてなるべく保護者と顔を合わせることがないように隠れていたものだ。素人が大切なお子様を預かるようなことはダメだと自分を許せなかったのだ。

幼稚園は年寄りの大人でしかも女性がやるものだというような先入観があった。結婚してから女房が幼児教育の本を沢山買い集めて私に読んでみたらどうだと勧めてくるようになった。園でも保育者たちが園外研修を私に勧めるようになってきたし、どうしても動かざるを得なくなってとうとう園外研修へ出てみることにした。これも全くの部外者であるけれども、他の者たちは私を部外者だと思ってはいないことが恥ずかしくて苦しかった。

回を重ねるごとに「この仕事は有意義なことで、だれかに任せればよいというような安易に考えられるようなものではない」というように考え方が変わっていった。こうなれば観念して、どうせやるなら日本一の幼稚園にしてみようというような大それた考えを持つようになって、以前お世話になったことがある筑波大学の杉原先生の部屋を訪ねたことから『幼児心理学研究会』を立ち上げていただいて猛勉強を始めた。やはり職人になるには現場が一番であるけれども、幼児教育を修めようとするには確かな原論を学ばなければならない、というのがふと感じたことであったからだ。保育現場では、久保田浩先生とその仲間たちという素晴らしい保育者を得て、私のそばには最高の師がいた。あとは私の「やる気」にかかっている。

久保田浩先生も杉原一昭先生も亡くなられてしまったけれど、大学の幼心研は26年間続けて、久保田先生が長らく所長を続けていらした『幼年教育研究会』は今も続けている。特に学生と一緒に学んだ幼心研での発達心理は、杉原先生の得意とするピアジェやエリクソン、教育学のデューイを幾度となく登場させてお話をされていて、それが小学校を始めるための文献を選ぶのに非常に役立った。しかも久保田先生の三層構造論がデューイからのものであったことが、小学校を始めてやっと気がつかせていただいた。

私が小学校を始めたのは、卒園式に子ども達が泣きわめいて『園長先生!小学校を創って下さい!』と情に訴えられたのがきっかけで、安易に『よしわかった』と応えてしまったことから始まった。子ども達に志を伝えるものとしては、だれと約束しようが、約束は必ず成就させなければならないのが使命である。しかし小中学校は約束したけれども、高校までは約束していない。校長になることも約束はしていなかったけれども、幼児教育をやってきた者として、小学校教員たちとあまりにも子どもを観る目が違うことに驚いて、自分が校長を引き受けただけのものだ。だから久保田先生の三層構造論が幼児教育にも義務教育にも当てはまるものだということも発見できた。

明日は正月だこの辺で野暮はやめよう。素晴らしい新年をお迎えください。また来年も親しくお付き合いください。この後のことは1月2日以降に書きます。1年1年を一生懸命生きていきます。

幼稚園はどのようにしてできたのか

年の瀬も迫り、また一つ年を取っていくけれど私の先輩たちは私の歳を聞いて「まだ若いな」という。私の尊敬する先輩で医者をやっている人が、75歳を機に医院の規模を小さくするといっていた。大体70を境に自分の身の振り方を考えている人が多い。だから私もそうしたい。もう40年も幼稚園をやってきたし、小学校も作ることができたし、中学校も来年度からできることになった。私の人生では『図らずもこうなった』というのが幼稚園の先生である。

20歳の時に父親を亡くし、これからどうしようというとき友人が『男なら何でもできる』と無責任にも励ましてくれた。その友人は大学生だったけれど、あまり学業には興味はなく、商売をやってみたいという。ある時『ドライバー1本で金になる』という仕事があるといって私のところへ来た。今ならそんなうまい話があるわけないだろうといえるが、何しろ世間のことはゼロに近い。彼は学生やめるから一緒にやろいうといってくれたので、私はその勢いに完全に飲まれてしまって、二つ返事で了解してしまった。それが私の一大転機になった。その仕事というのは空調や水道を扱う設備屋だ。職人ばかりの世界へ飛び込んで行って、その人種というのは短期で気が荒くて、しかし妙に人懐っこい人の良さもある。

半年ぐらい職人の手元をやったりしていたけれども、会社から設計をやって見ないかと言われてやってみることにした。初めて見るトレーシングペーパーに自分が線を引いたものが焼き付けされる。そしてそれが職人の手に渡り仕事の指針となる。なんだか夢のような出来事で、図面を書くことがとても気に入ってしまって、本物の施工図を描いてみたいという願望が強くなっていった。そんな時に同じ職人の仲間から、ある会社で現場代人になれる人を探しているということを聞き、その会社に移ってしまった。その会社の専務という人がとても優秀な人で、私に一生懸命図面のことを教えてくれた。現場代人というのは会社を代表するもので私のような駆け出しにその資格は全くなかったけれど、その専務が目をつぶって私を仕込んでくれた。

私をこの仕事に引き入れた友人は、独立して現在でも会社の社長として立派に仕事をこなしている。実は会社を二人で始めたけれども、私はいい恰好をしてしまい金銭感覚が彼とは違っていたのでうまく行かなかった。経営者はやはり彼の方が飛びぬけてよかったと思っている。私も専務に助けてもらい独立して会社を始めたが、融通手形を持たされて失敗してしまった。約束手形は必ず返してもらえるものだと保証人となる裏版をいとも簡単に押してしまったのだ。とても恥ずかしい話だ。当時の金額で数千万円に上る。手形を渡された会社へ行って何でもよいから持ってこなくてはダメだといわれても、そんなことを本気でできるものではない。それで私は会社にあった機械や材料をすべて職人に渡して、会社をたたんでしまった。

倒産させたわけではないので、私は設備図面屋一本で生計を立てることにした。A-1の施工図は8千円で、A-2は4千円であった。この方が給料取りよりよほど楽しいし、金額も良い。家から一歩も出ることなく何日も部屋の片隅で過ごしたこともある。そんな日が楽しかった。融通手形のことで私がお願いした弁護士が、私の私生活について『まだ若いのに家に閉じこもってばかりではだめだ』と言って私のこれからの仕事をいろいろと世話をしてくれた。『塾』『保育所』『幼稚園』といったものを考えてはどうかと真剣に考えてくれた。それで『幼稚園がいいな』と言ったら、弁護士と懇意にしていた建設会社の人が勝手に現在の場所を整地してしまった。

私は当時の図面描きがとても気に入っていて、お宅でも何と言われてもその方が良かった。たまたま幼稚園のある土地が私の名義になっていて、差し押さえになる可能性があるから公的な施設を作った方が良いのではないか、という誰かの入れ智慧であったのだ。私にはお金もなく、幼稚園を作るなどの大金も工面できる自信もないし、そのような知り合いも人材もない。できるわけがないではないか。99パーセント無理な話であると自分では結論を出していたけれど、まずはやってみなければわからないと思って、土浦市にある金融機関をすべて歩くことにした。

私が25歳の時で、案の定会社をやっていた時の主銀行をはじめどこへ行っても体よく断られてしまう。銀行が悪いのではなく、あの当時だったら冒険を侵さなくても銀行は十分にやっていけるのだから、私のようなどこの馬の骨だかわからないものに簡単に銀行が付き合ってはくれないだろう。裏付けになる担保も不足しているし、保証人になってくれる者もいない。どのようにひっくり返っても、無理というものだ。世の中はそんなに甘いものではないのだ。考えてみれば、もしも借りられたとしてもどのように返済できるのかを考えていなかった。

毎日のように戦術を考えて銀行で借り入れができるかどうかということが私の仕事になってしまったようだった。『絶対できる」『絶対にやる』『借りられるまでは絶対に引き下がらない』『どんな手を使ってもやり抜く』。決心が徐々にエスカレートしていって、私に寝る暇を与えなくなってしまう。ある日まだ行っていない茨城大手の銀行の入り口に立って『何を言ったらいいのか』を考えていた時、名案が浮かんだ。名案といってよいものかどうか『今まで殆どの銀行や金融機関を回りましたが、どこへ行っても貸してはもらえませんでした。そこで県に相談しましたら貴行に話をしてみたらどうですかと言われました』と。県がそのようなことを言うはずもないし、詐欺みたいなものだ。でもその銀行は快く貸してくれた。当時の借入金3600万円であった。それで幼稚園を建てることができた。

生きてきたこと

まだこれを書くのには早すぎるが、今まだ生きているのだから生きて来たことに後悔はしていない。バラ色の人生であったとは言いきれないけれど、多くの人たちに無量の迷惑を駆けてきたことは事実だろう。もし人生がやりなおせるものであるなら、そしてこの時代だけはやり直したくないというものがあるとしたらそれはいつの時代だろうか、思い起こしてみる。

12歳までの小学校時代は学校は嫌いだったけれど、仲間と遊んでいた自分はあのままで失いたくない時代である。戦後の復興期であったので、しかも私がすんでいた部落は満州からの引揚者の集合住宅であった。私の家族はその集合住宅に入らずに、かつて軍が使っていたと言われていた調理場の家を改装してそこに住んでいた。集合住宅というのは、松班とか竹班とか言われていた寮で、軍人さんが住んでいた。その寮が焼失してしまって、その後にできたのが2DKの一軒家である。勿論水道はなくみんなで利用する井戸が集落にいくつかあった。また風呂はあるけれど、新築されたときに据え付けられていたものではなく、新しく入居したものが買い足したものだ。そしてどの家でも薪を燃やして風呂を沸かす。私の家の勝手場は外にあって、流し台やバケツに入った飲み水も外にあった。

農家の集落は隣り合わせにあって、近くの畑や田んぼには豊かに実った稲や野菜を目にしたことがあった。私の家も農家であっったけれども、父がラバウルから帰還兵として戻ってきて、分けてもらった田畑では足りなかった。しかも両親ともに農業を知らなかった。できたコメは家で食べるものまで削って全部売ってしまうから、満足に食べられない日もあった。皆が貧しい生活をしていたので、今客観的に考えてみると貧乏のどん底にあったような気にもなるけれど、当時は食べられない家族はたくさんいたからそれほど気にはならなかった。

小学校時代は私の年代はベビーブームのまっただ中であったので、あちこちに子どもがうようよといた。小学校から帰ってくると、いつもみんなで集まるところがあって、そこには必ずリーダーがいる。そのリーダーになっている人がすべてであって、学校の先生の話よりもよく聞くし、いつも遊びは生活に実践的なものであって、雀を捕まえるやり方を教えてくれたり、魚釣りに連れて行ってもらったり、霞ケ浦の淡貝を取りによく行った。今文科省で「生きる力」を教育の柱にしているけれど、そのころは何を柱にしていたのかは知らないが、放課後の子どもたちの遊びの中で確かに生きる力を実践して教えていただいた。しかもそれは家族の一員として役に立ちたいという一念であったように思う。

子ども達の団結力も強く、隣村の子ども達の集団に仲間がいじめられたりしたら、リーダーが仲間を招集してかたき討ちに行ったりもした。その仲間に入らないと次の遊びに入れてもらえないので、ちいさい体の自分としては相手が恐ろしいほど大きく見えて怖かった。体中の勇気を振り絞って参加するけれども、やられてしまって体中傷だらけになって家に帰ってきたものだった。近所の大人たちも子ども達の喧嘩だとよく知っていて、だれがどのようになったのかなどは、口出しも知ろうともしないので子どもの集団はそれだけで独立していた。喧嘩は泣いたらおしまいだ、だから泣くまいと歯を食いしばって頑張った。それは仲間のために、そして自分のためにだ。

私たちの集落は引揚者だけの部落なので、旧村の子どもの人数と比べると極端に少ないけれども、親も子ども達も団結力が強く一つにまとまっていた。私の父親が旧村の出身者だったので、私の存在は異端児であって旧村の子ども達からも、引揚者部落の子ども達からも距離を置かれていたようだった。しかし私としては中途半端ではなく引揚者部落の仲間としてふるまっていた。何故かというと旧村の大人たちは、引揚者たちを貧乏人呼ばわりしていて鼻持ちならなかったからだ。貧乏人であったけれど子どもたちの心は豊かであったように思う。とても楽しかった時代は小学校5年生ぐらいまでのことだ。だからといって、そのあとはそれほど面白くなかったということでもない。

結婚式

幼稚園の教師も初等学部の教師も女性は未婚の人が多いので、結婚式に出ると言うのはさほど珍しいことではない。最近の式は教会で行うのが多く、おごそかな雰囲気で牧師が何やら英語なまりの日本語で始まる。耳が聞こえないうえに歯の抜けたような日本語を聞いているので、式の間は自然に寡黙になる。そして讃美歌を強制的に歌わせられることになるのだが、これが何度聞いても覚えられない。しかし同席している同僚たちは元気に堂々と、口を大きく開けて歌っている。後から聞いてみると『何度も歌っているから』と言っていた。

一応私が主賓として招かれているので新婦側での御挨拶と言うことになる。好きなように話して良いからなどと心にもないことを言って、私の緊張を取り除いてくれようとしているのはよくわかるが、その心に緊張が増す。いつも女房に式場に行く間にレッスンを受けて参加するのだが、ある程度紙に書いて置くのだが、いざマイクの前に立つと、一通りの礼儀のような挨拶が終わると、次の言葉に窮する。そして結局は紙に書いたものを思い出してそれをつなぎ合わせる。あまりにも時間が短すぎると、あとはアドリブだ。失礼がないように神経をいっぱい使う。とにかく疲れるのだ。

余興に入ると私の勝手な解釈だが、幼稚園の先生方の出し物は芸能人ばりで、一味も二味も違う。とにかく圧巻なのだ。隣に座っている女房が言っていた『舞台慣れしているね』と。素晴らしいエンターテナーなのだ。新婦に送る素晴らしい披露宴であったろう。きっと会場におられた方々も最高に喜んで頂いたはずだと思う。あのような保育者のいる幼稚園なのだから、子ども達も楽しいはずだ。来年度は40周年だから何か考えたほうがいいのかな。とにかく重ねてご結婚おめでとうございます。

余計なことかもしれないが、最近のと言ってもこの30年ぐらいの結婚式は、最初はおごそかな気分で会場を水を打ったようにシーンとさせて、披露宴に入ると賑やかにがやがやと楽しくなって、最後の締めは新婦が『お母さん・お父さんありがとう』と言って会場を涙で包んでしまう。悲喜こもごもだ。そして帰りは『よかったね』とか言って散りじりに別れる。

リーダーシップ

自己主張を押し通すことは良い時もあれば悪い時もある。それが個性だと言われればそうなのかもしれないが、個性とは自己主張の内容であって、押し通すのは我であると思っている。我を通すと言うことは一概に悪いことばかりではない。ただこの言葉と一緒に付きまとうのが、『わがまま』とか『和を乱すトラブルメーカー』『他の意見を聞かない』など、あまりよい評価を得られない。しかしそれで善処できた場合には良い評価が爆発する。民主主義が定着する前には、世を治めた人たちは、すべてが自己主張が強くわがままな人ばかりだ。

企業の創業者も似たところがある。何かを始めるというときに、最初の発想は一人の人から始まるのだろう。『船頭多くして船山を登る』の例えがあっても、船頭を多くしたからといっても船は山を登らない。何でも最初は一人が決めて、協力者が知恵を出すという方式が良い。最初に決めたことがよくなければ協力者は現れないだろうから、決定する者にはそれなりの覚悟が必要だ。誰もついてこなかったら孤立無援となり消えてしまう。このような現象は、集団生活の中では経験知としても必要であると思う。リーダーシップをとるということは、大きな声を張り上げても腕力を振っても、うまくいくことはないということを体感してほしいものだ。