初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

オアシスは満タン

初等学部のオアシスへ幼稚園の子どもたちが来た。実は昨日は第二幼稚園が来る日であったけれどもあいにくの天候で中止になってしまった。今日はあおば台の年中と年長の子どもたちが、両手足を伸ばしてキャッキャッキャッと楽しんでいる。楽しいという日が毎日のようにあればいいな。
         
小さなプールだけども、初等学部の最初の子どもたちがオアシスと名付けた。ここにはキャンプ場があるけれどもその場所の名前は軽井沢だ。左上の写真はゆっくりと階段を下りてオアシスに入っていくようす。
           
オアシスの上からちょうど滑り台のようにして遊べるのが楽しい。右上はロープを伝ってオアシスから出るところ。小さな子どもたちでは、オアシスの上まで登るのには滑ってなかなか難しい。
         
オアシスの隣にある全長202Mのクジラ川でカヤックに乗って楽しんでいる年長の子どもたち。深いと危ないので、昨日のうちに初等学部の教員たちが川の水を抜いてくれた。年長と年中の子どもたちを一緒に遊ばせておくと、年中の子が年長に引っ張られるようにして、より活動的になる。楽しい光景である。子どもたちが帰る頃になって、雨がぱらつきだした。

進路指導

私の友人の兄に京都大学病院の院長をしていた人がいる。勿論その姉も弟も優秀である。私の友人の方はいたって楽しい人で、幼稚園の保育者をしている。研修会などで、日本でも著名な講師を呼んだりするのは、実は大学病院の院長の差し金であったことがつい最近分かった。そんなことを自慢したりしないから、幼年教育研究所の所長の久保田浩先生がお呼びしていたものとずっと思っていた。大学病院の院長というのは、大学に残って病院を運営して一人院長になるわけだからすごいと思う。しかも京都は研究所としては東大よりも世界では有名だ。

初等学部にもすでに医学部志望の児童がいて一生懸命勉強している。医者の子の多くは医者になろうとしているのがいる。自分の親が医者だとそうしたいと思うのだろうか。開業医の場合には、医療器具の支払いに追われて一代では返済できないと言われていて、何とかわが子にあとを継いで戴きたいと思うのは自然な思いである。他人が入って来るよりそのほうが良いということだろう。だがこれは弁護士も公認会計士でも世襲制でないから、大変なことだ。もっとも大変だと思うのは凡人の悲鳴にすぎないが、医者は自分の通ってきた道だから、きっとわが子にもできるはずだなどと思いがちなのだろう。医者になるという目的を持っているのは数人にすぎないが、健気に勉強に取り組んでいる姿がいじらしい。

高校を選ぶならそのような雰囲気のある学校が絶対よい。同じ目的を持っている仲間が近くにいるということは励みになるから、勉学にも相乗効果があって目的意識も強固になって目的を突破できるだろう。何も将来の目標は医者だけでないから、世の中に役立つような人になりたいという希望に沿ったことを推奨して、学習に励むという内発的な動機を培養してあげることが大切だ。私個人としては、手っ取り早く社会に貢献できるのは医者がよいという気持ちはある。白衣を着て聴診器をぶら下げて、意味もなくふらふらと歩いていたって様になるではないか。しかも世界の人類に役立てる。

出来ることなら子どもたち全員に『医者になれ!』と号令かけてみたいが、それだけの器が私にないからあまり無責任なこともできない。私の尊敬する先輩に医者がいるけれど、その先輩は土浦一高で数学はトップだったらしい。周りの人に聞いてみるとそれほど勉強ばかりしていたとは思えないと言っている。養老猛さんも東大医学部へ進んだけれど、少年時代は虫捕りばかりやっていて、その標本作りに毎日を使いきっていたというし、同じように身近にいる優秀な人はよく遊んだ話ばかりしかない。没頭して遊ぶということが大切なのだ。中国の諺に『小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す』というのがある。世を正すことも医者の役目だったことがあるのだ。チェ・ゲバラも医者で、革命がはやっていたころには医者が登場する。

正義とは何だ

正義=善ではなかろう。正しいことが正義だという論拠はない。公平なものが善であるとは言い切れない。人それぞれに自己主張の根拠を持っているからだ。子どもが生を受けて、幼稚園に通っているときは間違いなく性善説であるが、徐々に大人に近付いてくると性悪説に近付いて、性悪説を認めざるを得なく。人間の本性である欲望が自分自身を取り囲んだ時に、善悪の意識を超越してしまうのだ。社会に警察や軍隊があるのは性悪説に基づいている。大人になると善悪で物事を判断することが難しくなって、利害得失に決断を迫ることになるのは、これもまた人間の持つ本性なのか。正義を振りかざして生きようとすると、『世間(流れに)に掉(さお)させば流される』ことになる。『とかく世間は住みにくい』ものなのだ。

私の幼児教育から小学校での子育て論は正論である。正論であるという根拠は、発達理解と実践記録によるものだ。だからと言って、これがすべての人たちに押し付けられるものではないことは十分承知している。正論といえども、だれにでも当てはまるものではなく一般論に過ぎないものだからだ。正論がいつでも正しい善であるとは限らないということになるけれど、しかし、だれかが正論を声高らかに言い続けていなければ、必ず世の中のうねりは楽な方の道を探し出すだろうし、それが常態化されると真実に変わってしまう。真実はあくまでも正論の中にあるというのが私の持論だ。

子どもたちの発達は肉体的な発達と心の発達があるけれども、肉体的な発達は現象的に顕著に表れるからとても見えやすいけれども、心の発達は幼児期から9歳までは良く見えるが、10歳ごろになると見えにくくなる。それは何度か言っているけれども、他者評価ができるようになってくると同時に、その評価を自分の中に閉じ込めて自分個人の秘密にしておくという、親からの独立宣言みたいな発達があるからである。女児の場合は男児よりも発達が早いので、よくよく観察していないと子どもに出し抜かれてしまう。子どもたちの独立宣言は、児童期にある。正しく対応できるように心がけていよう。

私はある市の『子ども子育て会議』に出ている。子どもを産んで子どもを預けられるようになるのは産休が明ける3ヶ月後からである。まだ赤ちゃんは目が見えない時期だ。子どもも母親も可哀そうで不幸な境遇である。これが経済大国を誇った日本の子育てに関する国家の政策である。本来母親が安心して家庭で子育てが出来るというのが国家の政策でなければならない。子どもを産んで間もなく仕事に就かなければならない人は、保育所へ。そうではなく家庭で子育てができる人は家庭で。そして3歳になったら幼稚園へ行けばよいというのが現在の方向だ。否、家庭にいる母親を無理やり仕事場に引き出している。これは正義でも善でもない。建前と本音というご都合主義である。豊かな国家では決してない。子どもにとっては母親に育てられるというのが至福である。

初等学部で昼食の時間が終わると、6年生が一目散でオアシスの方向へ走っていく。何をするのだろうかと思っていたら、たまたま担任が通りかかったので『6年生どうしたの?』と聞いたら、『鬼ごっこです』とこともなげに答える。こんなことが好きなんだ。確かに子どもというのは、陸上競技でもないのに、むきになって走りだしたりする。私らの年になるとこの行動が意味不明で、ただ疲れるだけという受け取り方しかできない。6年生が鬼ごっこをしていると、何とも迫力がある。

教育の基本は幼児教育

教育そのものを人格の育成と知識の培養とするならば、その基本的なことは幼児教育にあるのだろう。人間の生活様式は小学生でも幼稚園の園児でも全く変わらない。生活の中に小学校では文字を使った『教科書』が配布され、年間時数が文科省によって決められているが、人間の営みは変わるものはない。幼稚園の中にもちょっと発達の早い子による『いじめ』に似たようなことが起こることがある。しかしそれらは幼稚園の中で解決できるようにしている。そんなものに特効薬はないけれど、ひたすら注意深く『見守る』ということで、子どもたちは自然にそのような事象でも乗り越えていく。そのような復元力みたいなものを持っているものだ。

何日か前のあおば台幼稚園の保護者からのお話がブログに載っていた。幼稚園から帰ったわが子の顔が少し腫れているので『どうしたの?』と聞いたところ、友達のA君が何かを振り回していて、それが顔にあたったらしい。それでもわが子は『でも先生に言わないで、A君叱られると可哀そうだから』と言ったので、思わず母親の方が涙でむせいでしまったという。人を思いやる心が芽生えてきているわが子に感動したり、つたない言葉で自分の気持ちをはっきりと伝えることができたという成長に思わず涙ぐんでしまったのだろう。

子ども同士の出来事は、子どもの中でしか本当の解決は出来ない。保護者がこのようなことを聞きつけて先に幼稚園に解決を迫ったら、親もまたこのようなわが子の成長に気づくこともなかったろうと思う。子どもの心の成長の殆どは、親の知らないところで育つものだ。子どもを信頼して見守ることが出来ると、子どもの発達がよく見えると何度か書いたことがあるけれど、今回の幼稚園での保護者のブログもそれを証明している。子どもを愛するが故に、子どもの気持ちまで感情移入してしまうと、当然子どもは見えなくなってしまう。子どもを思う親心は仕方のないところもあるけれど、そのようなことも差し引かなければならない。

小学生の心の発達についても、幼児の発達を観るスタンスと全く同じである。子どもを見、寄り添う基本は幼児教育にあるのだ。子ども同士で何かぶつかり合いがあると、ある程度の心の葛藤の先が読めるので両方の子どもの様子を『見守る』様にしているが、保護者の方が敏感に反応して来ることもあるので、子どもの心の葛藤を観察するゆとりがない。何が起きても学校でそれを把握していれば問題は起きないものだが、当事者である子どもの保護者であれば、そんな悠長なことは言ってられないのだろう。それもまた親の愛の表現だ。だから一般的に言われるネグレクト(無関心)などは、この学校では無関係である。しかしもっと大きくなって、思春期を迎えるころまで親が入り込むような状態だと、それが子どもにとってはネグレクト(分かってくれない)となる。

教育の神髄って何だ?

学校教育を受ける者、そして教育を授ける者とに分かれるが、実はこの両者は分かれてあってはならないもので一体でなければならない。一体であるということは同じ方向を向いているということで、同じ思惑の中にいる。ここでの『真髄』は『真理』と置き換えてもよい。平たく言ってしまえば何のために勉強するのかという疑問に、噛み砕いて説明できるかということだ。子どもたちの永遠の、大人たちへの質問でもある。大人たちは即座に『自分のためだ』と答えるのが一般的らしいけれども、これを子どもたちが自分の中に取り込んで反芻して理解するのには難解である。大人は経験知の中で話をするが、子どもには宇宙の大きさを測るようなもので理解できない。

何故幼稚園に通ったり、小学校とか中学校へ行かせなければならないのか。保護者は周りの人たちがいくから、わが子も後れを取ってはならないなどと、臨戦態勢に入っている様な言葉では応えないだろう。わがこのためにの一念であることには間違いがないけれども、押しつけているわけでもない。それが社会通念となって誰もがそのような行動をとるようになっているからだ。しかし日本ではそうであるけれども、幼稚園などには世界の同年齢で幼児教育を受けられるのは10%に満たないのだ。小学校へ通える子も半分に満たない。幼稚園や小学校へ通えるというのは地球上でも選ばれた民なのだ。

まあそのようなことを頭に入れといて、何故幼稚園に通うのか。全日本私立幼稚園協会では、幼稚園を『子供が初めて通う学校』というような位置づけでいる。学校というより『子供たちのたまり場』の方がしっくりといく。多くの不特定多数の子たちと混ざり合って、人と関わり合う術を体得してほしいと願い、人生における基本的なスキルを磨いてほしいと願っている。そして、友達ができてその子の名前が出てくると親も歓喜する。全く親子ともに正常な心の発達である。この状況を『はぐくむ』というのだろう。そんな状況だから、親子ともに多くの事柄に対して寛容である。子どもたちからその時に寛容さを学ぶ。

そうはいっても小学校へ入ると、『教科を学ぶ』という新たな取り組みがあって、それについて保護者は他を意識するようになる。子どもたちは、できるとかできないとかいうことには無頓着で、全くマイペースで大らかである。何故学ばなくてはならないのかという疑問は、小学生の低学年では起きてこない。自己評価も他者評価も何となくできるようになる9歳から10歳のころだろう。そんなことは全く考えずに飄々と学問に打ち込んでいる子もいることは確かだ。そんなことを意識させずにひたすら学習できるという態度は驚嘆に値するだろう。そのような子を含めて、子どもたちが幸せになってくれるように願いながら学校や幼稚園がある。

人間として生を受けて一番その子らしく生きられるということは、自分の人生を自分で選択でき、周りの支配を拒絶できる知識と自信を得ることだ。親からも誰からも支配されるということを敢然として拒否することだ。自分の生きざまを自分の力でコントロールできるということは素晴らしいことだ。支配されるということは、奴隷になるということだから、拒絶して自分を一生懸命生きなければならない。そんな自由を得られた子は幸せである。米国で南北戦争が終結したとき、奴隷であった黒人が『次に生れてくるときに奴隷であるならば私は躊躇なく死を選ぶ』と言ったという。

講演会決まる

保護者会役員から要望のあった堀真一郎先生をお招きしての後援会がほぼ確定した。当初は10月下旬の土曜日ということを指定されていましたが、堀先生のスケジュールが一杯で、11月7日ということになりました。また当日は和歌山から出て来るというので、午後からの講演となります。午後1時から3時までということで、幼稚園の保護者も動員いたします。幼稚園の子どもたちは小学生とかかわって遊んでもらうようにします。勿論所々に幼稚園の保育者を配置いたします。初等学部の教師は全員が聴講いたします。講演後には質問をお受けいたしますので、できれば堀先生の書いた本を読んでおいたほうがよろしいかと思います。

堀先生は卒論で『デユーイ』をやると決心していたけれども、ニイルのサマーヒルスクールを知ってニイルに傾倒していったと言っています。教育学を学んだ学生の卒論の定番が『デユーイ』であったり『ピアジェ』であるので、ニイルに対してよほどのインパクトがあったのだろうと思う。堀先生は、霜田静志先生の『ニイルの思想と教育』を読んでビックリ仰天したと『ニイル選集5』のあとがきに書いている。何をびっくりしたのかというと、①授業に出る出ないは子どもたちの自由 ②全校集会で5歳の子も校長も同じ1票 ③校長が、盗癖のある子を連れて真夜中にニワトリ泥棒に入るなどである。『ええっまさか!』という驚きや疑問がやがて『なるほど』に変わったと述懐している。

徐々に自分も学校を作りたいという気持ちが高まっていって、現在の『きのくに子どもの村学園』ができた。日本という土壌では、自由はあこがれのことばであるけれども、『自由』という発想や思想はなかなか受け入れにくいところがあるので、学校を作ってみたけれど理想と現実のはざまで想像以上の問題が山積したのではないかと推察している。何かをやりとおすのには、自分のゆるぎない信念が何よりも大切なものなので、どんな暴風雨に出会ってもしっかりと舵を握って、意見を聞いても流されてはならない。へりくだったり妥協したりせずにぶれてはならないものだ。おもねることも絶対にない。この孤独さを乗り越えられなければ何も残らないのだ。

私が学校を作ると約束したのは,今から11年前の卒園児たちとのことだった。卒園してそれぞれに幼稚園を離れてしまう泣きじゃくっている子どもたちに、非常に感傷的な動機にすぎないけれど『先生も小学校作るから』と言ったことから始まってしまったのだ。発心正しからざれば万業空しというけれど、子どもたちとかかわり合う職業にある者が、自然体で発した言葉なので、発心は全く正しいと思っている。そしていつか『約束は守るためにある』と子どもたちに言う。

幼稚園の先生

昨日は14時から幼稚園の夏の研修の報告会と、それに伴う研修を行った。1年生の保育者からも活発な意見や感想が聞かれたので、よく育っているなという感じがした。幼稚園の保育者と保護者の距離は子どもを通して非常に近いところにあるから、互いに理解しやすいし、信頼を醸成していくことが案外容易にできる気がする。また幼児教育に関して理解しようとする保護者が多いということも幼稚園運営に関して容易にならしめている。親父クラブの活動にしても、かゆい所に手が届くような気の利いたものである。保護者と幼稚園が一体となって同じ方向を見ているようだ。

何年か前だか忘れてしまったけれど、はじめて保育者になってあおば台に務めた女性が年少の受け持ちになって、慣れないこともあってしょっちゅうへまをしていた。保護者からも聞えよがしに私のところへ苦情が入ってくる。勿論担任の保育者に直接小言を言わないで、主任に苦情が寄せられていた。主任から私のところへ保護者の苦情が伝わってくるのだが、そのようなことは私は殆ど無視していた。そんなときにある保護者から保育者にダイレクトに手紙が届いた。内容は『私もお母さん1年生です。先生よろしくお願いいたします』というものでとても短い文章だった。彼女はその手紙を何度も何度も読み返し、握りしめたまま保育室をしばらく出て来なかったが、目を真っ赤にはらしながら職員室にやってきた。そしてその手紙を私に渡すと『わーっ!』と泣き崩れてしまった。思いつめていたものを一気に吐き出したようだった。

大卒でも社会人1年生なんていうものは、人生見習いの初歩の初歩である。社会人を何年も経験した者が高い目線で見ていたら、初歩の一歩が踏み出せないだろう。1年生に寛容なのは当たり前のことで、近くにいる大人が当然とらなければならない態度である。社会人1年生というのは感性も豊かで敏感でもある。だから自分がどのように見られているのかを、すでに見抜いている。大人が子ども時代があったということを忘れてしまっているように、また初めて世の中に出て不安でいっぱいだった自分を忘れてしまっていることがままある。わが子には寛容で優しいけれど、他人には厳しく寛容にはなれないということだろうか。それでは人は育たないのではないでしょうか。

それでその保育者はどうなったのかというと、保護者にも子どもにも好かれる素晴らしく明るい立派な保育者になった。それはそれとして、学校に来る時には多くの田んぼを通って来る。どの田んぼの稲穂も重く頭を垂れているけれど、学校の近くへ来て我が校の田んぼを見ると、まだ稲穂がはっきりと見えない。茎が丈夫そうにまっすぐに伸びている。茎が黄色く変色している田んぼもあるのに、1カ月も遅く田植えをしたのだからと言い聞かせても、やはり気になる我が家の田んぼだ。雨が降ると田んぼの水を気にしなくてもよいので、雨はありがたい。

1年生と6年生の作文を読ませていただいた。ともに二人ずつで、女性の作文だ。鋭い感性と、文の構成力に優れている。文節もすっきりしていて、読むのにつっかえたりしない。素晴らしい能力だ。大切に育んでいってほしいものだ。大人になったらどんな文章を書くのだろうか、今からが楽しみである。

もう一度昔のこと

昔の海軍の寮は松班と竹班に分かれていて、その間の端に独立した多分賄いの部屋だと思うが、その家が改造されて私の家になっていた。竹班も松班も木造の二階建てで、真ん中にだだ広い廊下があってその廊下を挟んで個室がある。その個室が引揚者にあてがわれていたのだ。何人もの家族ではひと間しかないものだから息苦しくなる。それでも住む家がなかったから雨風さえしのげれば文句は言えないという状況であった。その大きな木造の寮だったところは相次いで火災で焼失したが、焼失した後はみんなどこへ行って暮らしていたのか知らない。その火災で何人かが焼け死んだ。

私が小学校低学年の頃に、寮の焼け跡に新しい住宅が立った。すると何処からともなく、かつて寮に住んでいた人たちが戻ってきて、新しい家に住みついた。私の家はあいも変わらず夜でも月がよく見える快適な家であった。台風が来ると大きな重たそうな石を父親が前に抱えてお勝手の下屋の中央に置いて、屋根の樽木の間に幾重にも縄を巻いて大きな石にくくりつけて風で飛ばされるのを防いでいた。台風が来る旅に私は、父親のサバイバルな力強い姿を見ることができて、そのたびに誇らしかった。『武士は食わねど高楊枝』は仕方なく言わざるを得なくても、私は父親を尊敬していた。

5時から土浦幼稚園協会の会議があるので、今から出掛けなくてはならない。

わらのお家

わらのお家を作りたい。そしてそれは『婦ー!と吹けば飛んじゃうようなおうち』。どうやったら作れるのだろうか。とりあえず骨組みを作らないと形にならないので、いくつかの提案をした。分かったような顔をしていたけれど、空間座標の中の話は理解できるはずはない。そして『作って見れば分かるよ』と行ったら1年生から5年生までの子どもたちが首を縦に振ったので、やってみようということになった。昨日は竹取りに行って、今日は骨組みを作るのに、取ってきた竹を縦に8分の1ぐらいに割った。その時の子どもたちの真剣な顔・顔・顔。

人間が初めて道具を手にした瞬間である。子どもたちは道具を使いこなすと言うことが大好きで、そのためにはいくら時間を使っても構わない。何時までも何時までもやっているだろう。そしてまた道具が変わると、我先にとその道具によってたかって近づいてくる。文明はこうした人間の好奇心の蓄積によって開かれてきたのだと、人間誕生の数万年前の類人猿の時代に思いをはせることができる。このような状況の子どもたちなのだから、あまり先を急ぐことはあるまいと、つくづくそう思う。人間形成はゆっくりと醸成していくものである。わらのお家はしばらく時間がかかるだろうけれど、だれもが納得できるものにしていきたい。

昔のこと

私は戦後生まれだから戦争を知らないけれど、敗戦後の荒廃した節度のない社会を体験している。節度のないのは大人も子供みんながそうだった。私の生まれたところは昔からの農家の部落である。しかしそこの村の生れであった父親は、決してその部落になじもうとせず、むしろその人たちに染まることを拒否していたのではないかと思う。かたくなで閉鎖的な社会が嫌だったのかもしれない。だから満州からの引揚者が新しく住んだ海軍の宿舎を改造してそこに住んだ。私の家だけは寮とか宿舎とか言われる建物とは別棟の建物を改造して住んでいた。村の実力者が世話をしてくれたのだろう。別に独立してあるというだけで、まったく粗末なもので、夜になるとあちらこちらから月の光が洩れて家の中に差し込んでくる。

私の部落は満州からの引揚者の部落で、旧村の人たちから貧乏部落とか言われていた。私は子ども心にもその意味がどんなものであったのかをはっきり分かっていたけれど、別に卑屈になることもなかった。誰もが同じような生活をしていたからだ。ある時私の部落の人たちが集団で農作物を荒らしまわってしまって、それが多くの人たちの知るところとなり、駐在所のお巡りさんが部落の何人かを駐在所に呼んで注意をしたそうだ。それ以来わが部落の名称は『泥棒部落』に変更された。

その名称に激怒した父親は、毎晩素振りを欠かさず行っていた日本刀をもちだして、泥棒部落と名前をつけた農家の家に行って『貴公出て来い!』とやった。狭い農村のことだからみんなが出てきて、父親を遠巻きにして一生懸命なだめようとしていた。当然のことながら村の駐在も出てきて、父親の持っていた日本刀を取り上げてしまった。由緒ある名刀であったので、駐在に懇願して返還してくれるように頼んだが、それはかなわなかった。のちに父親は『まったくバカなことをしてしまった』と悔恨していた。父親は旧村の庄屋の出だったから、どうにも我慢がならなかったのだろう。

私は貧乏に慣れていた。学校へ行っても給食ではなく毎日弁当持ちである。弁当の中身は麦飯弁当でご飯が真っ白ではない。そこに海苔を二段に入れて醤油をかけてふたを閉めて、それで立派な弁当である。他人の弁当をうらやましがる暇はない。昼ごはんになったら一目散にご飯をおなかに詰めて、足らないときには水道の水を飲む。それでも生き生きとはつらつとして生きている。父親は二言目には言っていた。『武士は食わねど高楊枝』。本当はうまいものを腹いっぱい食べさせたかったのだろうけれども、そういって教育しなければならないわけがあった。男として自分の不甲斐なさに何度も涙したことだろうと思う。

指導者の責任

ギリシャの新しい指導者に選ばれたちプラス氏は、緊縮財政を嫌いEU諸国の提示した政策に反対してギリシャ国民から支持を得て当選したものだが、だれもが緊縮策などには反対であろう。しかしそうは簡単にことがおさまることはなく、チプロス氏は自分で責任をとることはせずに、EUが提示した政策を国民投票という形で責任を国民に投げてしまった。ほかに打つ手がなかったろうけれども、当初から緊縮財政反対の立場で当選してきたのだから、国民投票などはパフォーマンスにしか映らない。その分財政出動があるだろうに。

ひどい言葉がある。民主主義を生んだギリシャがまた再び民主主義を取り戻したなどとチプラス氏はのたうちまわっている。粉飾決算を繰り返し、EUを騙し通して来たギリシャが今度は借金を踏み倒そうとしている。デフォルトに陥れば自然に踏み倒すことを宣言するようなものだ。それが民主主義とでもいうのだろうか。若者の半分は無職で国民の25%は公務員だなんて、そんな国だから人は働かないし、歴史という過去の遺産で観光地として成り立っている国だ。いずれにしてもEUからの追加支援がなければ、国家は破綻する。そうなると国民は現在よりももっと苦しい状況に追い込まれてしまうだろう。

日本に目をやれば、憲法論議で与野党ともに議論伯仲している。国家の責任は国民の暮らしと財産を守り、そして他国の侵攻を決して許さないことと、領土を守るというのが当たり前の話である。なのにすぐにでも戦争が始まるようなアジ演説が横行している。私は60年安保の時に、亡くなった東大の学生だった樺美智子さんのことを思い出す。あの時も当時の社会党をはじめとする野党や文化人が『戦争反対!』を叫んで、まじめな純粋な青年が『戦争反対!』のことばにおどらされた。そして反帝学評や、全学連が国会を取り囲んだ。みんな一生懸命に真剣に生きていた。

当時の野党の先見性が間違っていて、機動隊も多くの学生が傷ついてしまった。沖縄の問題でも、あの戦争で多くの市民が犠牲になったのは沖縄ではなく、広島である。戦争に行ったすべての人たちが日本の礎になったのだ。犠牲になったといえば私の父親もそうであるし、身内の人たちが戦争で亡くなっていった。『戦争反対!』はだれでもそうであるし、とても耳触りがよい。そんなことで日本の国は国際的にどうなってしまうのか、『trustme』と言って国を危険に陥れた者がいたではないか。同じ轍を踏んではならない。

育ちは様々

学校で子どもたちに同じように接していても、まったく感じ方の違いで内面の育ちは違う。現象的な育ちというのは、形で表れるものだから、だれか一人が右と言えばそれに追随するというのがあるから、一概にだれがどうだとは量りにくい。今日は面白いことがあった。ファミリアの時間に吹けば飛ぶような小屋を作りたいので作り方を教えて下さいと言う。吹けば飛ぶような小屋だから、丈夫に作れないし、骨がしっかりしていないのは組み立てが出来ない。オオカミが来て吹き飛ばす場面だから、頑丈な奴ではだめだという。いろんな話をしていて、屋根を二段階にして一番上のを飛ばせるようにしたらいいという結論である。

小屋の骨組みは竹がいいということになって、具体的な話に進んでいった。1年生の二人も話が分かっているのかどうかわからないが、ノートに小屋の形を書いている。年上の人たちの話は聞いていてもわからないことが多いと思うので、『どう?』と水を向けたら、『やってみればわかるかもしれないからやってみる』というしっかりした答えが返ってきた。非常に能動的な姿が嬉しいではないか。そこでそれでは竹を取りに行こうではないかという話になって、竹取物語だからだれがかぐや姫になるのと言ったら、女の子4人でじゃんけんを始めてしまって、少し楽しい脱線になった。

入れ替わりに、食のファミリアが来て18日の日に行商に出かけたいので周りの道を調べに行きたい、ということで私に許可をもらいに来た。外は雨なのでどうしますか、と言ったら『今行かないと時間がない』と言うことらしく、どうしても行くと言うので車に気をつけてと言うことにして、許可を出した。そこで竹取りに戻るけれども、竹取りのメンバーには『今なら一緒に竹取りに行けるよ』と言ったのに、『今は雨が降っているからこの次にしよう』とのことだった。計画には入っていなかったようで、自分たちの計画が壊されてしまうのが嫌だったようだ。

住のファミリアが来て道具を買いに行きたいので許可を下さいと言ってきた。カナヅチと釘とのこぎりだけでは、出来るものが決まってしまう。ノコギリにも釘にもインパクトドライバーを使うにしても、色々な形の違ったものや、用途の違うものがあるからしっかりと見てきた方がよいだろう。もっとダイナミックなものを作りたくなったかなと思う。子どもたちは創作的なモノづくりが大好きで、やりたい物の中に必ずある。

お泊り会

両園ともにお泊まり会があった。以前は日にちをずらしてやっていたけれども、初等学部を作ってからは同時にやることにした。同じ日にやっても第二幼稚園では外で花火をすることが出来たが、あおば台幼稚園では花火は出来なかった。両園共に外でのキャンプファイヤーは中止となって、キャンドルファイヤーになったけれども、私たちにとってはちょっぴり残念という他の年と比較があるけれど、子どもたちには比較対象がないから、キャンドルでも結構楽しめたのではないか。それに保育者の趣向を凝らした出し物があって、十分すぎるほど楽しんだのではないか。

このところ『度胸だめし』と言う出し物はなくなった。保育者が面白がって?真剣になって、子どもたちが泣き出すまでやってしまった年があって、そのあとで就寝などと言っても寝付かれずに思い出して寝床で泣き出すようなこともあって、『度胸ためし』はやめることにして『夜の探検』などと言ってちょっと気取った出し物にした。何をしても仲間と一緒にいると言うだけで楽しいのだから、満面楽しさであふれている。そして知らずうちに内的な力が備わってくる。『ひとりで泊まれた』ということは、子どもたちには大きな自信になるものだ。

小学校でも同じことが言えるだろう。親から離れるということだけで、否が応でも子どもの自立を助長させるものだ。もっとも兄弟の多い家庭では、万遍なく全員に気配り目配りができるわけではないから、自分自身で何とかしなくてはならないと気付いた子は自立が早い。だが実は気配り目配りが足らないということではなくて、親がじっと見守っているということもある。何度も書いたことがあるけれど、自立する力が自尊感情を高める。自尊感情が高まると、自己選択と自己決定を容易にさせてくれる。間違った道を選ぶことはなく、その抑止力になるものだ。

今日はPTAの役員会がある。毎月1回は行うようにして学校と役員との意思の疎通を図ろうというものだ。お泊まり会の後なので少し眠いけれど、あと少し頑張ろう。

研修詰め

昨日から水戸で泊まりがけの研修である。先月の29日には東京市ヶ谷のホテルで研修があった。幼稚園関係は、このところ制度の変更があって研修が多い。今まで手慣れた県の職員が事務手続きをしていたので、それほど繁雑には感じなかったが、認定子ども園や施設型給付と言うのが新たに加えられたため、事務手続きが各市町村に下ろされた。各市町村の職員も初めてのことだから、見当がつかないのか右往左往していて保育料の振り込み手続きが遅れている。このような法律ができたのだから、そのための研修会を開いて市町村の職員も危機管理に備えるべきであったろうに。何もこれは茨城の話ということではなく、全国の市町村に波及している現象だ。

認定子ども園に関する勉強会に勢いを感じるが、このまま幼稚園側が手を打たないで放置していくようなことがあると、幼稚園が無くなってしまうのではないかという危惧がある。そんなことを29日の全日の集まりで全日の会長に話をしたところ、『いやそれは絶対にない。今幼児教育振興法を提出して、幼児教育を確立していく』という返答であった。幼児教育というのは、幼稚園・保育書・認定子ども園・家庭教育に関するもの、地域社会に関するものとすべての幼児に関するものである。これは官僚の作文であって、全日のスタッフの発案ではないから、どうなるものだかわからない。幼児教育振興法が真に幼稚園のためのものであるように祈りたい。

新しい教員を連れて、知事との懇談会に出席してきた。知事と同席して忌憚のない打ち解けて話し合いが出来たものと思う。知事の仕事はストレスの多い仕事だと思うけれども、さすがにそのような素振りは全く見せない。知事がたまたま幼児教育に造詣が深いものだから、茨城の幼児教育界は有形無形にその恩恵にあずかっている。助成金や補助金を戴いても当たり前のように思っている輩がいることには、少しばかり腹の立つこともあるが、私が腹を立ててもしょうがない。しかし困った時には声を大きく張り上げるのも彼らだ。そのような人は何処の社会にもいるものだ。

今日はあいにくの雨模様だけれども、幼稚園のお泊まり会である。雨だろうが何だろうがそのような集まりがあると言うだけで子どもたちは喜んでいる。雨なら雨のように楽しくやればよい。キャンプファイヤーができないけれども、どこか時間を作ってやってあげたらいい。楽しみが増えるということだ。

オリンピック後

ファミリアオリンピックは強行して行われたのではなく、天候は朝の模様以上には崩れないという予測の上で始まったものだ。結果的には最後までやれてよかった。ただファミリア独自の種目が、結構良いことをやっていたにもかかわらず、本校関係者にしかお見せすることができなかったのが残念である。とはいってもメインステージ以外の方にも見てもらうとなるとどうすればよいのかという宿題が残る。終わったばかりだから、次回のための話し合いの時間はいくらでもあるので、よくよく考えてより良いものを作っていきたい。

幼稚園の子どもたちの行儀の良さを多くの保護者からおほめの言葉をいただいた。幼稚園の保護者からも、初等学部からの保護者からも。とても嬉しいけれど、保育の実態が分からない人には唸るほど素晴らしいと言うように映るかもしれないが、それにはそうなる指導が行きとどいている。保育者の指導のお陰だと行ってしまえばそれっまでだが、まず初等学部に来るまでの何日かで、興味を惹きそうな話をして導入の部分を丹念にやる。年長だけの人数をひとどころにまとめて、15人前後の教師がひっきりなしに声かけをしているのだ。自分の両親よりも興味を惹くではないか。何処へ行っても、どのような場所でも『寄り添う』ということが定着している。

オリンピックが終わってからが忙しかった。あくる日の日曜日には翌日の午前3時までかかってあおば台・第二幼稚園・初等学部の三か所の予算書を作り上げた。今回は幼稚園の法の制度が変わって支出の法は分かるけれども、収入の方がさっぱり分からない。市役所自信がてんてこ舞いで、しっかりと理解している人がいない。そんな中で私たちに正確さを求めるのは酷ではないか、などとぶつぶつ言いながらだから時間がかかる。そしてその日の午前中(月曜日)には、グランドヒル市ヶ谷で全日の研修だ。この研修は自分で求めていったものだから全然眠くはなかった。

昨日は初等学部へ視察に、県の総務課から二人の係官が来て学校を見ていった。その中の一人は、幼稚園行政のベテランの方でよく知っている方だったので気軽に学校のすべてを見てもらった。総務課へは色々な情報が行っていて、私とお話をするときにも時折笑みを浮かべながら大変気を使ってくださっていた。そして『人数は大丈夫ですか?』即座に『気にしていません』と言ったら笑っておられました。小中学校の一貫教育が国会を通りました。これは初等学部を作る時からの私の要望でしたので、あとは県がどのような判断をするかであります。だがまだ書類は提出していませんが。これから水戸で知事との懇談会がありますので水戸へ向かいます。

ファミリアオリンピック

朝3時半に目が覚めて外に出てみたら霧雨模様であった。ヤフーの天気予報が信じられなくなった。それからと言うものは寝付かれずにうとうととしていたら5時過ぎにTTから電話があり『どうしますか?』ということだった。テレビでの天気予報では、霧雨のような雨模様も9時には上がり、あとはくもり空が続くと言うことであった。雨が上がるということだから、決行しようということで決断した。しかしスタートしてからも霧雨は続き、幼稚園の子どもたちももうすぐ集まるのに、困った空模様である。良かったことは熱い日でなかったので、子どもたちの体調の心配はいらなかった。

朝から駐車場係をしていただいたお父様方に感謝いたします。それも用意周到に運動会だというのに合羽持参である。学校行事なるものは、誰かしらが手助けをしてくれないとうまく行かない。初等学部は、子どもの人数は少ないけれども、やることは他の小学校と同じように時間をかけているので、このような日には塚原学園全体で後押しをして盛りたててくれている。幼稚園の先生方や保護者の方にも感謝したい。競技には親子とも出っぱなしという感があって、全く疲れるファミリアオリンピックである。

子どもたちは手抜きをせずに最後までやり抜くと言う姿勢がとても好感が持てる。というよりそんな子供たちが大好きだ。良く見てみると保護者の競技などでも、大人であっても手を抜くようなことはしない。そのような真摯な態度が子どもたちの一生懸命さを育てているのだなと、一大発見したような気持ちだ。子どもたちも、教師も保護者も一つになってファミリアを盛りたててくれた。久しぶりに充足感を感じる。心から感謝をしたいと思います。『ありがとうございました。そしてお疲れさまでした』。

明日晴れるかな?

明日はファミリアオリンピックの予定日であるけれど、明日は何処の天気予報を見ても晴れるような気配はない。朝から天気予報とにらめっこであるけれど、にらめっこをしても予報が劇的に変わることはなくても、何とか変化をして欲しいと願っているのだ。お昼ごろには出来ないだろうと言う結論を出して、幼稚園には日曜日に延期すると伝えてしまった。ところが午後3時半ごろにヤフーの天気予報では明日は曇りだと言うことを幼稚園から行ってきた。慌ててヤフーを開いてみると確かに雨マークが消えている。3日前から天気予報を気をつけて見ていたけれど、どうにも土曜日は助かりようがなかった。これもツキなんだろうか。

普通ならば学校行事は家庭行事よりも楽しみにするというのがこの時期の子どもたちの普段の心理状況である。仲間関係が優先するということもあるけれど、みんなの前で両親や家族の方に自分の晴れ姿というか、自分がしっかりと仲間の中(社会の中)でも堂々といると言うことを認めてもらいたいのだ。それは成長を確認して褒めて欲しいという願いでもあるのだから、どんな失敗をしようが、良いところをしっかりと見て褒めてやってほしいものである。それが大きくジャンプするきっかけにもなることは確かであるのだから。学習態度にもよい影響を与えることになる。

6年生が校内で行う宿泊学習について2月に延期するということを言ってきた。みんなで話し合ったらその時期が一番よいということになったらしい。なるほど素晴らしい民主主義である。強い者の意見がまかり通るなどはない、大人よりも内面が育っているではないか。人数が少ないから、周りがよく見渡せるのか、細かいところまで報告をしに来た。これで修学旅行一本に絞れるなどと言っているらしいが、行き先のブリーフィングを忘れないようにと釘を刺しておいた。釘を刺したつもりだったが、彼らはすでにその準備に取り掛かっているようである。

昔『今を生きる』という映画があった。主人公の教師はユダヤであったのでナチスドイツから迫害を受けながら、子どもたちに自分の心のままを一生懸命行きなさいと言い伝えている。しかし何度も親の中傷で、生きざまを変えなければならないことがあった。最後には自分を生きることの素晴らしさを体得し、ナチスに連れて行かれる教師の後姿を子どもたちが見送るといった映画であった。多分保護者の皆さんが少年少女の頃の映画であって、中には見たという方もおられるだろう。だれかに生かされているのではない、自分自身が生きているのだということを強く主張できる子どもであってほしいものである。

GW 何をしていましたか?

私には長い休みは、退屈の何物でもありません。日曜日からの始まりだったけれども、最初の日曜日は幼稚園で事務的な仕事をしていた。静かだから仕事がはかどると言う考え方もあるでしょうが、幼稚園で事務的な仕事をするときには子どもたちがいる日が多く、園長室でしている。その時には子どもたちがいるので、子どもたちの声をBGMにしているので、子どもたちのいないあまりにも静かすぎると、どこか落ち着かない。自分で決めたやるべき範囲の仕事を終わらせると、その次にやることがないので読書にふける。これといった趣味がないので大困りだ。

次の日には『風に立つライオン』という映画を観に行った。とても良い映画だった。これは実話に基づいて、さだまさしが書いて歌を創ったものだということを聞かされた。素晴らしい日本人がいて、自分の器の小ささに瞬間落胆するけれど、間髪を入れずに勇気を戴けるというものである。そして次の日にはかつてから気になっていた柚子の木の消毒である。昨年は1枚残らず葉っぱを小さな黒い虫に食べられてしまって、一つもならなかった。これで大丈夫なんだろうなと、半ば信じられずに消毒をした。

その次は庭の草取りである。実は草取りは女房が3日もかけてやっていた。申し訳なかったが、私はかがむと腰が痛いのと、痛くて長続きしないので、代わりに夕食の支度をしたり風呂の用意をしたりしていた。私は料理をしたりするのが好きだから、何ら問題はないし、風呂の用意なんて言ってもボタンを押すだけでいいのだから、草取りから考えれば何とも代わりになるようなものではない。それと草刈りの燃料も買いに行ってきた。うちの場合には家事に拘ることは婦唱夫随である。

今日は30年ぶりにスクールバスの運転をした。初等学部では初めてのことだ。子どもたちの待っているバス停に近づくと、ドキドキするような新鮮な感じであった。この子たちを大切に育ててやりたいと思う。幼稚園のバスを運転していた時には、みんな話をせずに前の握り棒をしっかりと握っていたが、初等学部の子は私が運転していようといまいとお構いなしで、子どもの世界の世間話をしている。とても微笑ましく、そういったことが社会人になるためのスキルを磨いているのだなと感じ入った。帰りのバスも頑張っていくぞ!。

私用で立川へ行って来た。常磐線が東京駅までノンストップで行けるようになった。全ての電車ではなく、通勤時間帯は品川まで行くらしい。とても驚いて、夜でも新橋あたりから常磐線に乗れるのかと思いきや、それはないらしい。夜でも乗れなければ生真面目な通勤時間帯だけでは、私には恩恵がない。それに久しぶりだから、昼食を思い切って特盛りのラーメンを注文したら、特盛りの姿には納得したけれども、レピーターにはなりたくないような味で、自分には合わなかった。ラーメンにも、自分に合わない味があるということを初めて知った。

台湾灯篭流し

台湾で初めての灯篭流しが行われた。私も両親が終戦後に住みたいと言っていた場所なので、灯篭に両親の戒名を書いて、台北の隣の市の川まで団体のバスに50分ほど揺られて参加してきた。広い河原があって、そこで地元の人たちが1万5千人、日本から約1千人強の人がその河原を埋め尽くした。灯篭は合計1万基が流されたと言っていました。
      
この日はあいにくの大雨で、ちょっとした間に雨がやんで、地元の大学生のサークルが演奏してくれた。大雨の影響でせっかく作った灯篭が雨に濡れてふにゃとなってしまっている様子。この人たちに傘を借り、椅子を借り、合羽を借りて無事に灯篭流しに参加できた。周りは立錐の余地がないほどであるが、せっかく親切にしてくれた親子に申し訳ないので写真を撮って後で礼状を書くつもりでいる。大雨が降りしきる中で、じっと待っていたわけだが、その途中で『みんながんばれ!』と応援してくれているのか、雁の群れが、大空を、私たちの頭上を飛び越えていった。すごい大きな鳥に見えた。
      
上の写真は灯篭流しが終わった後の様子で、奥の両脇に赤く輝いているのが灯篭で、さすがに一人一人の先祖の明りだけあって、喜んで輝いている様であった。前後してしまいますが、私の灯篭は雨に濡れて散々だと思っていましたが、中には身を挺して灯篭を守ったという方もおられた。そのくらいの気持ちで先祖に対しての感謝を表さないといけないのだろう。思い出したので合掌して先祖に謝る。右側にあるステージで法要が行われた。
      
これはオプショナルツアーで焼き物の街へ行ったときに、偶然小中学校の前を通った時にきれいなモザイクがあったので写真に収めた。子どもたちが作ったような、大人が作ったようなどちらともとれるようなものであるが、あおば台でも子どもたちと一緒に作ってみたい。
      
この上の写真が校門であって出入りは自由ではない。曲者は絶対に入れないという。この門の右側が中学校で、左側が小学校であった。中学校の塀の壁はなかなか難しいモザイクでできている。絶対に作ってみたい。楽しいだろうな。

集会に参加した

掃除の時間が短いのではないかと言うことが下級生から提案された。上級生からは、『ちゃんと集中してやらないからだ』という意見があって、結局現状のままに落ち着いたけれども、私としても現状では少し短いかなと思っている。この学校はクラスが離れていたり、特別教室が離れているので、移動の時間だけでも下級生にして見れば時間が過ぎて言ってしまう。私が裁定を下すわけではないので、子どもたちが決定したことを尊重しながらも、下級生を思いやる考え方を示唆してあげる必要があるのではないかと思う。子どもたちの思考は柔軟だから、すぐに吸収してくれる。

6年生に『素晴らしい6年生へ』という私からのメッセージを渡して私が読み上げたことがある。そこで、好きなだけ勉強して好きなだけ遊ぶには時間が足りないと言うことも話をした。6年生にとっては同感であったのか、今度学校に泊まりたいと言って来た。すかさず1日ぐらいではただの遊びになってしまうから、最低1週間泊まれるようなら許可しようと言っておいた。まずお母さんの許可を取らないと、という話をしたら『めんどくせーな』ということを言っていた子もいる。子どもたちが自分で決断して、自分たちで1週間の計画を練るのはすごいことだ。

どのような計画が出て来るのか今から楽しみにしているが、昨日の話では7月にやることにしたと言うことを聞いた。それはなぜかと言うと、5月は連休が会ってみんなで話し合う時が少ないそうで、6月はファミリアオリンピックがあるのでそれに集中したいらしい。そこで比較的暇になるのは7月だと言うことだ。『何が比較的暇なのだ』と子どもたちの思考回路を覗いてみたくなった。結構語彙も増えてきたので、会話が面白くなってきた。さてそのようにやると決まったら、教職員のローテをどのようにするか頭が痛い。楽しみにしていることだから何とかしたい。

私が政治的なことを書くのは、この国の中にいて教育に携わっているからで、思想的には右でも左でもない。ただ自虐的な日本人には決してなってはならないと子どもたちに伝えて行く。若いころ、とはいっても21か2ぐらいまではマルクスの『労働価値論』などを読み気取っていた。その方がカッコ良かったからで、馬鹿馬鹿しい本だと気付いたのにはそうは時間がかからなかった。私は社会に出るのが早かったから、そんな悠長なことは言ってはいられなかった。そのあとはジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に感服した。今は雑多な本を読んでいる。