初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

あおば台プレイデイ

雨で1週間延期になったプレイデイだが、今日はさわやかな5月晴れである。それは良いとしても、市内の小学校の運動会と重なって、小学校へ参加する保護者が1クラス以上いた。それは仕方のないことだとあきらめて、大多数の保護者と子どもたちで伸び伸びと遊ばせて戴いた。最初の予定のときに休みを取ってしまって、延期されてしまった今日は取れなかったというお父さんもいる。気にしないでその分休みのときに遊んでやってほしい。子どもたちはきっとわかっているから。

きらきらした子どもの顔が素晴らしかった。いつも私のところでギャーギャーと騒いでいる子も、今日は音沙汰なしだ。私など路傍の石の存在である。それはそれで素晴らしいご家庭であろう。子どものいる風景とは緩やかなそよ風に似ている。

厭なニュースがあった。仙台の中2の自殺問題を、学校と教育委員会で隠蔽していたという。この問題だけではなく、学校と教育委員会の姿勢は許せないことが多い。多分泣き寝入りしているご家庭もあるだろうが、これでは教育機関の信用は地に落ちてしまうのは当然である。仙台と言えば東日本大震災で大変な目にあったところで、心の中にその傷跡もあったかもしれない。世の中に恨みを持つだろうな。そもそも教育委員会は、子ども達の味方ではなく学校の教員の味方で、そんなところに真相究明なんて頼んでも真実は出てこない。総理大臣以下真剣になって子どもを守ってほしいものだ。とにかく大人のウソは駄目だ。

暴力を伴う教師

愛のある暴力というのが本当に実在するのか。一番自分に近い親でも、殴るときには『お前を愛しているから』と言って殴りつける親がいるのだろうか。殴る行為そのものが常軌を失っているのではないか。殴り合いでも最高に高揚していて、冷静さとは全く逆のほうに自分の感情がある。憎悪があってやるものとそうではないものに区別ができるかもしれないが、それにしてもやはり人間はそんな野蛮なことをしてはなるまい。

私はどうだったかと言うと、20歳ぐらいまでは喧嘩三昧で、いつも顔にあざをつけられていた。今から考えると、自分の感情の逃避にしかならないけれど、自分の生き方が分からないのと、優秀な仲間を見ていてコンプレックスと焦りがあって、自分に対して怒りを持っていた。本を読んで何とか自分を変えようと努力はするものの、意志が弱かった。私を見ていて心配してくれていた仲間がいたことによって、何とか軌道修正ができた。野蛮で全く獣道であったように思う。恥ずかしい限りだ。だからそんな子供たちをつくってはならないと強く思っている。

小中学校時代は教師によく殴られた。殴られなくて教師に覚えめでたい子もいたのだから、私は教師からすると余程手に負えなかったのであろう。今だからはっきりと言うことができるけど、殴って人は育つわけがない。強制はできるだろうけれど、人を育てる手法ではない。兵隊のように自分の考え方を主張できない状況におかれなければ規律を保てない社会なら、それもひとつの考え方であるけれど、教育の現場では、絶対あってはならないことだ。時には熱血教師などと持てはやされるけれど、殴られている生徒の身になれば『これが先生か?』と大人を不信に追いやるだけだ。信頼関係こそが唯一子どもを救う道であると思っている。

私は家に帰ってくれば父親に殴られ、まったく身の置き場がない。それでも何とかまともに生きられたのは、最後まで私を信じてくれていた母親の存在であろうと思う。それによい仲間がいたからだ。親子の間では、殴られてもいつか忘れて強い愛情だけが残っていると言うことがあるけれども、感情的になれば憎しみだけが残ってしまう。修正不可能になってしまうようなことだけは絶対に避けるべきだ。教師の場合は、場面が沢山あるから、ふざけて頭をこつんとやるだけならまだしも、殴ってしまったら教師の負けだ。自己否定と同じことになる。

あおば台に保育所ができる

作っている私自身があまり興味がない。これから結婚をして子どもを産む先生たちにとっては朗報だろう。働いている先生たちが、安心して子育てができて仕事にも専念することができるように願って保育所を建てることにした。興味がないというのには理由がある。そもそも幼稚園から初めて、日本一の幼稚園を作ろうと、幼児教育の文献を漁り、筑波大の故杉原一昭先生や、幼年教育研究所の故久保田浩先生に学び、机上の空論を是正しながらあおば台の幼児教育を作ってきた。

保育所の『子どもを預ける』と言う概念とは一線を画し、発達心理や小児科医の小林登先生の本などに傾倒し、徐々に保育所的な施設は、子どもをしっかり育てることはできないという結論に達し、保育所イコール虐待ではないかという極論にいたった経緯がある。確かに保育所は子どものための施設と言うよりは、働く母親の利便性に焦点を置いている。これにどうにも納得がいかなかった。多くの保育者仲間と議論をし、目の前に困っている母親がいるのだから一概に保育所はだめだと言えないのではないか、と言う仲間がいる。多いに反発をし、今でも幼児教育について語りあっている。

保育所には生後3カ月から入所できる。乳幼児施設で死亡事故が起こるのは、0歳児が一番多い。子どもへの愛情がどうのと言うより、利便性だけを考えて保育所選びをした結果である。政府の後押しも働く母親の利便性ばかりを考えているようで、設置基準による安全性などは声を大きくして叫んだりはしない。設置基準のハードルを高くすれば、保育所が建たなくなってしまうからだ。その上大阪の方では保育所設置に反対する大人たちがいる。彼らは自分もかつて子どもであったということを忘れている。老後を静かに暮らしたいというのが理由だそうだ。静かになんてできやしない。そのあとで閻魔さまに大声で怒鳴られるだろうから。

そのような経緯があって、保育所施設はそれほど身を乗り出してまで作ることに意欲が乏しい。0歳児は母親が責任を持って育てなければだめだ。その後のことは、私どものスタッフで何とかするように、保育室を建てる。1歳児でも2歳児でもいればいたで、可愛くてどうにもならなくなって、作ってよかったなどと言うにきまっているから、私の理論上の拒否と感情の受け入れは、まったくベクトルが違う。

プレイデイ

今日はあおば台のプレイデイだったが、朝から本降りに近い雨音で昨日のうちに延期を決定しておいてよかった。何か行事があるときには、いつも天候が気になる。私個人としては、その時勝負でも仕方がないと思っているけれど、保護者の中にはその日に休みを取るなどと会社と相談しなければならない人もいるから、なるべく全員参加でやりたいので、空模様を気にしなければならない。保護者と子どもたちと保育者が一緒になって遊ぶという企画だから、子どもたちばかりではなく、保育者もまた楽しみに期待している日なのだ。明日は第二だけれども空模様は大丈夫だろう。

人の成長と言うのは、(教育と言うのは)自立を持って終息すると言う考え方があるけれど、だからと言って早く自立を促せばよいというものではないだろう。年齢的な発達理解が大切だし、人によって発達と言うのは一様ではない。自立と言うのにも何を持って自立と言うのか、自分の力で飯が食えるようになればそれで自立と言うのか。そうでは決してあるまい。もっと細かに分析すれば、エリクソンのアイデンテティの概念のステイタスが、どの程度まで本人が認知しているのかであろう。

以前にも書いたように、10歳ごろから子どもたちは大人になる訓練を自ら非認知の中で習得していくように感じる。子どもが反抗するのもこの頃からで、12歳から16歳までの間に正常な反抗期は終了するように思われる。その間に親も子育てには苦労するけれども、子どもが反抗するのは、自分がどうにもならないというサインを出しているのだから、成長過程の一コマと思い、子どもと一緒になって熱くならないで『よく育ってくれた』と自分に言い聞かせ冷静になりましょう。子どもも辛いのだから。

芸術家のいる風景

音楽家にしても画家や彫刻家あるいは焼き物をやる人や工芸家など、何かを作り出す人に私は憧れを持っている。芸術家というのは自分の作品に絶対的な自信を持っている。他の作品に対して批判的な意見をすぐに述べられるという特技も持っていることも特徴的だろう。彼らには天上天下唯我独尊的な要素がないと、自分に嫌になってしまうだろうから、常に感性を磨くために時間を惜しまない。そんな性格であっても、何食わぬ顔で堂々としていられる神経が私を魅了してやまない。自分を何かに没頭することができるということに人として尊敬することができる。それは老若男女年齢差に関係なく、素晴らしいことは素晴らしいのだ。

例えば校内のアトリエ(大倉庫)を使って、長内先生が彫刻をしているところへ、子どもたちが集まって来て、その様子をじっと見ているなどの光景は素晴らしいではないか。東山魁夷のような日本画家がここから生まれるかもしれない。そんなことより教科書のテストの成績が上がった方がいいですか。そんなこと長い人生からすると小さいひとコマだ。

学校の子どもたちも何も芸術家でなくとも、自分が没頭できる何かを探して生きていってほしいものだ。誰が何を言おうとも『自分を生きる』ことができなければ死に体と同じ事だから、強烈にでも辛抱強くでも自己主張して生きてほしい。今『忖度』と言う言葉が流行になりそうだけれど、自己主張には『忖度』できる包容力を持ってできる人格の磨きも大切なことだ。人が好くて、真面目に生きるということは十分にアピールできているのだから、あとは目標に向かってやり抜くという己の力を発揮する時だ。

格好をつけなくてもよい。どうせ人生なんてものは泥まみれになったところに新鮮な新芽が出てくるものだから、汚れることを気にしてはならないと思う。2年生の『進路宣言』が素晴らしかったというのは、彼女たちはしっかりと自分を観ていて、浮ついたところもなく、しっかりと大地を踏みしめているからだ。そのようなことが人間の基本になるのではないか。