初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

国は国民を見ていない

学校法人がつまらない。本来神聖で正義であることを要求されるはずのものなのに、森友の小学校建設が下火になってきたと思ったら、今度は大学の学部建設について加計学園がやり玉に挙がっている。いずれにしても現在の総理が絡んでいる話で、全くの潔白であるならば堂々とその潔白性を国民の前に晒さなくてはなるまい。それが国を預かる者の責任である。そしてその潔白が証明されたら、一連の仕掛けをしたものを国家恥辱罪か何かの法律を作って厳正に罰すればよいと思う。そのジャッジをするのは評論家ではなく国民であることを忘れてはならない。

私は国を預かる政党は今のところ自民党しかないと思っているので、安倍総理のこのようなことが毎日国会で議論されていることが情けないと思っている。早めに幕引きをしようとすれば余計に疑惑が深まるだけで、日本国のために良くない。日本を取り巻く国際情勢などを考えてみれば、こんなことに時間をかけなければならない国会を思うと、日本国民は不幸である。誰でもたたけば埃が立つけれども、自らの身をさらすことによって、国民に納得してもらうか、静かにその場を立ち去るかを選択すべきだ。自民党には人材が豊富にいるではないか。

テロ防止法について、内心を処罰してはならないと言うことを盾に反対している野党は一体何処の国の議員なのかと疑いたくなる。政府も一般の人が対象になることはないなどの苦しい言い訳は不要ではないか。これではテロを未然に防ぐことは出来ないではないか。テロが起こって見なければ一般人なのか或いは内心が顕在化された時点でしか処罰ができないのでは、防止策はとれない。これだけあちこちでテロが頻繁に起こっている現状を考えれば、一般人も内心も一応疑ってみなければなるまい。それをさせない勢力は国民の味方ではあるまい。いかがか。

久し振り

今日は月曜日で半日保育であったが、幼稚園に行ったら保育者が背の高い植木屋の職人が使うような脚立に乗って植木の刈り込みをしている。見ていて申し訳ないなと思いながら、「皆よくやるね」と言ったら『もう何でもやらなくては』と言って、全員が植木の手入れをしているという。明日に子ども達とお楽しみがあると言って園庭整備をしているらしい。一人一人の保育者が、先輩保育者の意気込みに感化されて、汗をかきながら頑張っている。素晴らしい保育者に、そして素晴らしい人間性を持った大人として成長するだろう。幸せになってほしいと願わずにいられない。

小中学校へ行ったら、たまたま帰りの時間に出くわしたのだけれども、上級生3人の女子が私に相談があるという。何事かと耳を澄ませて聞いてみると、夏になってスカートの黒では熱を吸収して暑いという。色を変えたらどうでしょうかと言ってきた。『好きなようにやってみたら』と言ったら多分興味を失ってしまうと思い、色を考えて絵を描いてきてほしい。ついでにデザインもできることなら考えてみたらどうだろうと言っておいた。興味のあることをすぐに声に出して実行するというところがとても良い。楽しみが一つ増えた。

リヤカー運転免許証の魅力

今日は朝から重苦しい雲が垂れこめていて曇天である。9時から登園する子どもたちから順に試験を行うことに決めてあったが、どうも空模様が怪しくて空の雲とにらめっこが続く。大した雨ではなくて、多少濡れても構わないと言うことなら一気にやってしまいたいし、子どもたちもそれを望んでいる。雨もまた仲間で雨の中でやりたいとも思っている。『風邪を引いたら大変』だなどと思っているのは保護者で、今日は保護者が数人幼稚園に来ているので、雨の中でリヤカー試験やっていたとなると大騒ぎになる。それで仕方なく空模様を眺めていた。

雨が降ろうがやりが降ろうが雷が落ちても、今日免許証が貰えるとなると何としても試験をやりたいというのが子どもたちの気持ちであろう。そして帽子につけて年長だけのステイタスを満喫したい。デッキに腰掛けて恨めしそうに空を見上げている様子は何んともかわいい姿である。

すぐに雨がやんで、しばらくリヤカー試験をすることができたが、20人ぐらい終わったところでまた雨が降ってきた。いったん試験をやめて、子どもたちを中に入れたが、待っている子どもたちは、すでに終わって帽子に免許証を付けている仲間の様子を恨めしそうに見ている。そんな時『さあやろう!』と保育者の声がした途端、勢いよく飛び出す姿に子どもたちの何とも言えぬ期待感があふれている。私が『ゴーカク!』と言うたびに、保育者の執拗と思える拍手喝采に、子どもたちのにんまりとした笑顔が拍手喝采に余韻が残る。

小中学校の子どもたちも私にとっては同じだ。高学年の女子の頭をなでると言うことはしないが、時折ふと手が行ってしまう時がある。男の子は5年生にもなるのに頭をなでてやると、隣の子が頭を出してくる。男の子は単純にして明快だから分かりやすい。何と言っても青葉台の自主的委員会である『お替わり委員会』の存在がとてもユニークで、それを認めた高学年の子どもたちの寛容さが素晴らしいと、学校で食事をするたびに思っている。子どもたちの育ちの良さであろうなきっと。

世界に一つしかないリヤカーの免許

リヤカーの免許取得は年長さんのステイタスだ。リヤカーと言えども運転者とリヤカーの後輪の距離があるので内輪差が生じる。これがどうも子どもたちには難しいようで、何故歩いているようにリヤカーが歩いてくれないのか不思議なようだ。現実にリヤカーを見て後ろのタイヤが中に入って来るのを目撃しても、次やるときには同じことを繰り返してしまう。そんなことを繰り返しながら、出発点まで帰ってくると最後に待っているのは車庫入れだ。コースはS型やクランクがあって歩道では一時停止をしなければならない。ないのはサイド発進ぐらいなものだ。

車庫入れが終了すると、試験官の私のところへ来て、私が大声を出して名前を呼び『ゴーカク!』とやる。そして本人の前で印鑑を押す。そして隣の教師のところへ行ってラミネートしてもらうと、周りにいるみんなが『おめでとう』と言い、帽子のところへつける。これでめでたく免許証が自分のものになるのだけれど、まったく子供だましのようなことだけど、子どもたちも私も真剣にやる。だから見ている年長さんも真剣に応援してくれる。これで一つ年長さんのステイタスが上がった。

マンチェスターの大きなホールで若い歌手のコンサートに来ていた子どもたちがテロにあった。そして22名の尊い命が失われた。このようにテロと言うのは予見できない突然やってくるのだから、それを未然に防ぐのには多くの網を張らなくてはならない。

憲法に保障されている『表現の自由』に抵触するから駄目だと言っている人がいる。自分の身内が犠牲になったらそうは言うまい。日本の法律は何故にこんなにも犯罪者をかばうようにできているのか不思議であるが、それこそ自由と言っても周りを思い諮り自分を抑制しなければなるまい。このように権利ばかりを主張する輩は、自分勝手で幼稚な人が多い。どれだけの知識を持っていようがである。

断じて容認できない

断じて容認できないと言う言葉は、北のカリアゲ君がミサイル実験をする度に政府高官が発する言葉である。そんなことはもう何度も聞いているので、カリアゲ君は何事もなかったように何度もミサイル実験をしている。そしてまた『断じて容認できない』と言う。総理の発言もうつろに響く。日本には力がないと言うことを何度も確認させられた。だからどうするのかと言うアクションがないし、国民も同じように政府を突き上げるようなことはしない。

誰が何を言おうが危機管理システムの構築を急がなければならない。それどころか共謀罪の成立に反対をして、テロを未然に防ぐ法律を通そうとしない。一般人をも巻き込むからだというのが理由である。何も起こらないときには誰が一般人で、怪しいのはだれかなど分からないではないか。その一般人の区別はどのようにして決めるのだろうか。そのようなリスクがあろうがテロは未然に防ぐべきであろう。理想主義者や北朝鮮に抗議のできないものに耳を貸してはならない。彼らは日本を落し込めようとする仲間であるから。

危機的な日本と言うのを毎日見せられていながら、その防御についてのアナウンスがないのも不思議であるが、多分それはいたずらに国民を不安にさせてもならないという配慮であろう。いざと言う時のためにある程度の国民の負担は当たり前のことだ。トランプ大統領は、カリアゲ君と同じで予測不可能な人であるので、いつトマホークを打ち上げるか分からない。北朝鮮のミサイルを日本の技術で途中で撃ち落としてくれることを望んでいるけれど、それも難しくなったと言っている。もしもの場合にどうするのだ日本は?