初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

2017年6月の記事一覧

近代史のゴミ

かつて日露戦争の結末で、ロシアが満州に拠点を持っていた遼東半島を日本が占領し(第一次大戦の時のドイツの領土だったかどちらか忘れた)、そのまま日本の領土としたのか無断借用したのかよく知らないけれど、その時三国干渉と言うのがあって日本はそこを即時手放した経緯がある。中国は清と言う国であったが、清国からは何の干渉がなかったのはそこは清国ではなかったことは確かだ。その地はロシアが管理していたり日本が管理していたりで混沌としていてどこの国のものかもはっきりしていなかった。そこを支配していたのは張作霖と言う馬賊と言われているがしっかりとした統治はしていない。張作霖を追い出し、そこに満州国を作ってしまったのは日本の軍部である。

日本はロシアにかったけれども、国は疲弊していて国民も疲れ切っていた。日清日ロと立て続けに戦争をしたものだから、国も兵隊も疲れ切っていた。日ロに勝ったとは言えどもこれ以上戦争を続けられないと言うところまで追い詰められていて、和平交渉を何とかアメリカにお願いした。日露戦争のときに英国に義理があって第一次世界大戦に参加してしまった。その戦利品である格納庫が右籾の補給所にある。ヨーロッパから戦争は始まっているけれど、そのヨーロッパやアメリカが一番恐れていたのが、その当時世界一の陸軍力と恐れられていたロシアであった。

そのロシアに勝ってしまった日本を欧州の列強国やフィリピンに手を出したアメリカなどが日本を放っておくはずがなく、何とか日本の軍事力を縮小させ弱体化させるということを秘密のうちに暗黙の了解事項となってしまった。露骨に手を出してきたのは軍事力の削減である。しかしこれに日本は従ったのである。日本は世界の策略にまんまと引っ掛かって戦争への道を選んでしまった。日本には世界戦略もなければ、情報の蓄積もないから負けるべくして負けてしまった。今は戦争もなければ平和な国になった。

しかし今こそ情報戦には予算をふんだんに使い、二度と戦争はしないという覚悟を新たにするべきだ。国連のどこかの部署から日本のテロ防止法についていちゃもんが入って、政府がそれに反論を加えているらしい。これは中国や韓国のロビーが動いていると見るべきだろう。これも露骨な内政干渉だろうが、思わぬ味方ができたとこ踊りしている野党はもう一度冷静に考えて戴きたい。どこの国の国会議員をしているのかと。この法律ができて困る国はどこの国なのか。日本ではあるまい。

幼稚園教諭や保育士のこと

あおば台幼稚園は認定子ども園になっているから保育所的な役割をも持っている。だから幼稚園教師の免許状と保育士の免許状保持者が混在している。両方の免許を持っている教師が多いのである。第二幼稚園は認定子ども園と言う保育所機能を持った幼稚園ではなく、あくまでも幼稚園であるが、幼児施設の在り方が少しずつ変化している。あおば台で幼稚園が認定子ども園を取得して一体何が変わったのだろうか。第一に保育所機能が追加されたので、保育料の換算が大きく変わってとても複雑になった。第二に保護者の立場が一律ではなくなった。

共働きの夫婦にとっては、奥さんの働き方にもよるけれどもほとんどの方が2号認定と言う認定を受けられることになる。そうすると保育所と全く同じ扱いになって、預かり保育なども無料になったりする。でも保育所よりも保育寮が幼稚園のほうが安いと言う現象も現れてきて、制度としてはよくなったのではないかと思っている。ただ2号認定の保護者は10人しか預かっていないけれども、これで十分だと思っている。その理由は、原形が幼稚園なのだから幼児教育をあおば台のメソッド通りに追求していくには、保育所の形態ではやりにくいということがある。

幼稚園に認定子ども園が誕生したからと言って保育士の数が足りなくなったわけではなく、政府の方針である働き方改革や、経済界全体が人手不足になったことが大きな原因である。建設業界やIT産業界でも人が足りないと言っている。そのうちAI産業が盛んになってくると人余りが現象が起きて、働けるものとそうではない者との格差が大きくクローズアップされる世の中になるだろう。幼児教育はロボットの入る余地はないので、何が何でも人力に頼らなくてはならない。それまで待つことができれば、この業界は将来性のある仕事である。あと10年でそのような社会になるだろう。

どうする幼児教育

保育者の数が足りないという。保育園数の4園に一つの園は保育者不足であるらしい。そうなれば幼稚園教諭の数も減って行くのではないか。今保育所を建てているけれども、保育士が来るかどうかも分からない。多分こないだろうしいないのだろう。養成大学を卒業してもその50パーセントは乳幼児教育に就職しないといわれている。その大きな要因は給料が少ないからだと言われているが、一般の会社の女子社員の給与と比べると30代全般で10万円ぐらいの差があるといわれている。

一般のと言われているけれども、その一般の女子社員はどもの会社を言うのだろうか。一部上場会社のOLの話ではないのか。そんなことを言うなら他の職業でも同じことが言えるだろう。確かに保育界はよく分からないけれども、幼稚園教諭は確かに安い給与であった。国にも県にも現在幼稚園として存続できるのは教師たちの安い給与の犠牲の上にあるということを訴え続けてきた。それでも幼稚園教諭と言うのは保育者になりたいという人であふれていた。採用に困るというのは殆どなかった。

ところが待機児童の問題が膨らみ保育所の数が足りないとなると、当然のことながら保育士需要が増え、派遣業界がそこへ触手を伸ばし、卒業する学生の就職先を迷わす結果になっている。派遣業界の人たちが卒業する学生に登録させてその学生を各幼稚園あるいは保育所に売り込むわけだ。派遣業界はそうして売り込んだ教師あるいは保育士の年収の10から20%の報酬を得ることになる。しかも学生は登録しておくだけで1万円ぐらいの報酬を戴けるらしい。こんなことで幼児教育に磨きがかかるわけがない。

保育者や幼児教育者が『子どもが好きだ』という一念だけで就職してくる時代は遠くに後ずさりしてしまう。教育に拝金主義を計らずも導入してしまうのは、行政の対症療法の結果で先見性が全くない。お金を多くもらいたいというのは否定するものではないけれども、それではいくら欲しいのか。金色夜叉ではないけれど、人間の美徳が薄れてくると、後から来るものは愛憎劇と言う醜い人間の不徳の羞恥に見舞われることになる。そんな世の中つまらないと思いませんか。

田んぼ

毎日のように通る学校への通学路に借りた田んぼがある。田植え時期になると田んぼにある井戸から水をポンプアップして田植えの準備をする。トラックターは畑を耕すのに自前の物として購入した。そうでなければこんなに広い畑を維持することは困難だ。小中ともに人数が満杯であれば人海戦術でもって開拓者のように開墾して畑を整備することができるだろうけれど、仮にそんなことをしていたのでは、社会主義の国の国民のようになってしまう。学校ではなくて収容所のようで気持ちが悪い。

田植えは近所で田植え時期になると活躍するおじさんがいて、田植え機でもって600坪の田んぼに田植えをしてもらう。勿論有料である。しかしトラックターがあるので田植え以前に田んぼの代かきができるので楽である。自分たちの決めた時間にやることができて、田植え前には田んぼの中で運動会みたいなことをして泥んこになって遊ぶ。まるで幼稚園みたいだなどと言う人がいたが、幼児期から義務教育時代の子どもたちにとっては、泥んこは精神的な靄を除去するのにはとても優れた教材である。むしろ都会の子どもたちは、このような自然を得ることができないので不憫である。

田んぼの脇を通るたびに隣の田んぼと違って私の頭髪に似て隙間が目立つ。普通の田植えの時期よりも3週間ぐらい遅いので仕方がないと思いながらも、どうも気になって仕方がない。親が子の成長を願うのと同じことかなと思ったりする。しかしながら稲刈りが近づいたりするとほとんど同じ成長を遂げ、天日で乾かすうちのコメの方がおいしいだろうと思っている。稲刈りの時期になるとまたコンバインを借りなければなるまい。何かと大変だが、衣食住の『食』についての今年のテーマが『米』だから性根を据えてやらなければならない。

リヤカー祭り

あおば台では年長の保育参観で『リヤカー祭り』を行った。年長がリヤカーの免許を取ったので、そのお祝いみたいなものだ。以前はバスから降りてくる年中さんや年少さんをクラスの前までリヤカーで送っていくということをしていたけれど、現在では一つの活動を長々とひきづらないで、活動にメリハリをつけて行こうと言うので、一つのお祭りにして打ち上げとしている。だからと言って、まったくやめてしまうわけではなく、子ども達の中で『やりたい』という声が上がれば、リヤカーは保育者が必ず付いていることを条件に自在に利用できるようにしてある。

子ども達の成長に感極まってしまう母親の姿は見ている者の気持ちも高揚させてしまう。思い入れが一心同体であるという証拠であろうが、いつかわが子を客観的に見なくてはならない時が来る。その時こそ母親は子離れし、子どもが独立宣言をするときなのだろう。そうして一つ上の教育機関に預けるわけだけれども、大切なことは子どもたちの主体を損なわないことだ。どんなに学校の成績が良くても、人が個として独立していなければ、人間として意味がない。自分を生きなければならないのだ。

何も難しいことではない。物事に対して逃げることなく考える力さえつけば、後は主体的に生きられる。私たちが客観的に評価するのではなく、子どもたちがそれで満足しているのかどうかを探ることだ。他人には何も面白くもないのにと映ることも、本人にとっては至上の喜びだったりすることがままあるではないか。リヤカーの免許は自分を獲得するためのほんの一歩に過ぎないけれど、これがやがて大きな強いステイタスを得ることになるだろう。