初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

1年生からの招待状

『やきいも大かい』『11がつ9にち(もく)』『じかん 3じかんめのこうはんごろ』『大そうこのまえ』と外国人が日本語を初めて習ったようなたどたどしい平仮名で書いてある。『りじちょうせんせいへ やきいも大かいをたのしみにしていてください プライマリーより』と添え書きもしっかりとある。何かあるたび にこのような招待状をもらう。たどたどしくも一生懸命書いている姿が浮かんできて、ありがたく頂いている。彼らにとって何かの思い出になればいいなと。

こ の10年間で不登校や何らかの理由で学校へ行かない子どもの数が増えているという。そのせいかオルタナティブスクールという学校に人気が集まっているとい う。オルタナティブというのはもう一方のとかもう一つのという意味の学校である。文科省の義務教育では満足できないというか、うまくなじめない人たちが自分の居場所を探してたどりつく学校である。サドベリーバレーの教育もこの種に入るが、日本の社会構造にうまく溶け込めるのだろうか。しかし私はこの教育的考え方には賛成だ。

なぜなら画一的な義務教育に、私の生き方はぴったりとくるなんて人はほんの一握りに過ぎない。そこにじっとしていなけ ればならないほうが拷問のようではないか。そこに反発できる子どもの方がむしろ自分を生きる要素を色濃く持っているのではないか。とはいえ日本は学歴社会 で、幸せイコール高学歴ではないということを理解していながら、あとは親の体裁で何とか人前に出ても恥ずかしくない学歴をと思っている。このような凝り固 まった感覚が幅を利かせている間は、オルタナティブは試練を強いられる。

またオルタナティブでは運営資金に事欠く。きのくにこどものむら学園の堀真一郎先生も、それが大きな問題であった。どのような形にしても教育をするのには資金が必要だからである。その結果学校法人の資格を取った。私は最初から法人格を持っていたから、法人以外の学校を作ろうとは思わなかったが、結構強い縛りがあって、自分の思うようになんてことはできない。勿論オルタナティブのようなことは絶対にできない。でも堀先生はうまいことやっている。

秋深まる

寒い日ではなく、冷たい風が吹き低い気温になると秋は一瞬に深まる。太陽の傾く西の方から木々の葉も色づいてくる。そんな想いを持って空を見上げてみると、 鰯雲だか飛行機雲だかが東から西の方に流れている。一抹の冷たい風がヒューッと頬をなでていくと、秋は短い、もう冬がそこまで来ていると感じる。しばらくすると、年の瀬となりそこでまた感慨深くなるだろう。そしてその次には、年齢の重みに深いため息をすることになる。年をとることに抵抗はないが、加齢による何とかという言葉が大嫌いだ。

いつだったか保育園保育士と幼稚園教諭の仕事の違いを書くと言っていたのでこの紙面を借りて少し書いてみ ようと思う。まず誰もが知っている様に保育士は厚生労働省の行政担当であって、幼稚園教諭は文科省の管轄である。幼稚園は教育法によってその地位が確保されている。保育所は社会福祉法によるものだ。幼稚園にはクラスの担任がいるけれど、保育所にはクラスがあっても担任とは言わない。担当である。

幼稚園の教育時間は4時間であって、保育所は8時間以上が義務づけられている。保育所の場合親が8時間勤務だからなのだろうか、それは定かではない。そんなわけで幼稚園は担任はできるが保育所は担当制で交替でそのクラスをみる。だからと言って幼稚園が楽な訳ではない。幼稚園は指導要録があって、卒園したらそ の指導要録を進学する小学校へ提出しなければならないが、保育所にはそれがない。

私は企業内保育所という無認可の保育所を内閣府の補助金で設立した。面倒な書類が必要ないので簡単に出来るのでやってはみたけれど、そこで驚いたのが、保育所というのは子どもが中心ではなく、働く親のためにあると言うことが堂々と書かれていることである。建物が出来るころに一夜漬けで勉強したものだから、全ては後の祭りである。今まで子ども中心の勉強をしてきたものだから、唖然としてしまった。もっともこの施設は、あおば台の幼稚園あるいは小中学校の教員のお子さんを預かるのが主たる目的だから、今までの発達理解や教育理念に沿ってやっていけばよいことだが。

トランプ大統領来日

他のことを書くつもりでも、日本にとってはトランプ大統領の来日がトップニュースにならなければならないだろうと思って、表題はそれにした。北朝鮮問題を早く解決して、拉致被害者を一刻も早く救済して戴きたいものだ。中にはトランプ大統領来日反対なんて叫んでいる者もいるようだけれども、その理由を言って欲しい。誰が日本の周辺について安全を保障できるのか。日本独自で自国を守るというのはできればそうしたいけれども、今の状況では集団安保にすがるしかない だろう。

9人も殺した殺人鬼のその後の自供で、9人の中で誰も自殺願望者はいなかったと言っている。この殺人鬼は自分で働きもせず、お腹がすけば知り合いのところへたかりに行くような生活をしていたようだ。社会に対して無気力で、仲間関係もうまく構築できないようだ。普通に育った人間なら このような人と関わり合いたくないだろうし、このような人間の生い立ちについて、追跡調査をしなくても何となくその背景が分かりそうな気がする。全容解明 までまだ時間がかかりそうだが、この件に関してはもう何も知らなくてもよい。

金土と慶事が2件あった。一つは仕事場の結婚式で、素晴らし いお嬢さんを戴いた。私の職場は女性が多いので出しっぱなしで少々不満であったけれども、今回は何んとなく余裕を持って式を迎えることができた。あの讃美歌も少しずつ覚えてきたようだし、温かい披露宴であった。みんなにこにこして帰った。もう一つは地元で100周年を迎える歯医者さんの記念式典に出席し た。『100年てすごいな!』と言ったら私の隣に座っている柴沼醤油は400年だって。

とんでもない者

オーム真理教もとんでもない者だったけれども、9人も人を殺した殺人気がまだこの世の中にいた。想像を超える神経の持ち主なのは確かだが、どのように育ってきたのか榊原セイトと同じく心理学者にとっては興味のあるところだろう。何故そうも簡単に人を殺 せるのだろうかという、人と狂気の分岐点は何なのかということが知りたいのだ。幼児期の発達心理から犯罪心理学まで幅広い分野で犯罪者の生い立ちを追っていくだろう。人を殺すという決断はどのようにして芽生えるのか、知りたくもある。

人を殺すという行為にいたるまでの心理も大切だが、死にたくなるという自殺願望の心理にも困ったものだ。せっかく生まれてきて、親に育てられて、簡単に死なれたら親としてはやるせないどころか、気が狂ってしまうような苦しみを味わうことになる。犯罪心理はさておいて、この世の中を希望を持って楽しく生きられるようにしなくてはなるまい。手放しでもしっかりと育つ子はいる。そういった子に限って明るく楽しい生活を送っている。そのキーとなることは『認められている』ということに尽きるだろう。

それは親が思っているだけではだめで、口に出して子どもがそれを理解している状況を作らなければいくら認めていると言っても、子どもには通じない。認めていないことと同じだ。まず子どもが自分を大切に思われていると感じること。いつも自分が必要であると思われていることを感じていること。良く感謝されたりしていることが大切だろうと思う。大切なお子さんだから、大切なように育てなければならない。

幼児教育のこと

幼児教育、とりわけ幼稚園教育については、理念や実践において日本の幼児教育は世界に向けて冠たるものだと思っている。幼児教育はフレーベルから始まっているから、そのものまねのような幼稚園があったというのは事実であるけれども、最近の幼児教育は日本の文化に根差した日本独自の幼児教育だと自負している。 もっとも保育形態だけを論じてみると、自由保育や設定保育、一斉保育、選択保育などがあげられるが、これらの原点は何かというと横文字の海外の学者が提案したものが少なくない。

しかしそこから日本人特有のアレンジメントによって、発達心理や発達理解に則した保育形態を創造してきた。中には シュタイナーシューレーによる保育形態もあるし、青空保育と言った家なき保育などもある。これらはメジャーではないが依然としてこれらに固執した保育も息づいている。もともとと言えばルソーの『エミール』か発した子育て論が現代の教育学の原点になっているように私は思っている。社会思想家でもあるルソー は、『子は神の手から出た時は善であり、人間の手に委ねられると悪になる』などの言葉を残してる。

そしてまたルソーは『成長の論理に則して手助けをすることが教育である』と意味深な発言もしている。例えば発達にそぐわない行為は教育ではなく、むしろ子どもたちを壊していってしまうのだということ。このような理論は全日の幼稚園連合会でも十分に理解をし、研究機構から常に発信していることである。しかし依然として小学校の下請けみたいなことをしている幼稚園がある。これはそれを疑いもなく、早めにやることは良いことだと思いたがっている保護者が多いことに由来する。

しかしそう言ったことが、子どもたちの精神をむしばみ、欲求不満をあおり、内向的になるか、運動暴発のように反社会的な行為に及ぶこともある。発達に即しない行為は抑圧と同じであると私は定義している。また、抑圧された人生に良い結果は生まれないと信じている。幼稚園の素晴らしいところと、保育所との違いをこの次に書こう。