初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

給食の時間

ファミリアの責任感の強い5年生から直訴があった。毎日給食の食べ終わるのが遅くて、休み時間がなくなってしまうので、週のうちに何回か学年別に給食を食べさせてください。というものであった。代案を持ってくるなどはしっかりしたインテリジェンスが働いている。早速給食の時間の食事の前に、全員が集まったところで話をした。『5年生から校長に食事の時間のことで直訴があった』『ファミリアの中で食事が遅くて遊び時間がなくなってしまうということだ』

この話は以前にも聞いたことがあった。毎年のことであるけれども、いつも食事の遅い子がいると、面倒見の良い子が残ってその子のそばにいて、まるで母親のように接しているということを見たことがある。面倒見の良い子だけ残して遊びに行ってしまうのは要領がよすぎる。直訴してきた子はあくまでもファミリアの責任ということを考えていたようだ。しかし食べるのが遅いという子の責任だけではあるまい。『いただきます!』をする時間の、集まる時間が不徹底であることも問題であるだろう。

自分たちに直結した話なので、全員がしっかりと話を聞いていた。それで今日はどうなったのかというと、十分に遊び時間がとれるほど食事の時間の流れがよかった。ということは、毎日ゆっくり食べている人は何だったのか。それでも残飯を出さないと言うのは見事という以外にない。残飯が出る時には必ずと言って私が作るときだ。量が計算できないというのと、足らなかったら可哀そうだという意識が働く。なんてったって戦後間もなく育ったのだから。

それからもう一つ。ファミリアオリンピックとオアシス開きについて6年生のある女の子からの直訴があった。ファミリアオリンピックの練習期間にオアシス開きがあるので、ファミリアの練習に支障をきたすから、オアシス開きを少しずらしてファミリアオリンピックが終わってからオアシス開きをしようというものである。これは6年生の提案なので、全員が納得して校長のところへ話を持ってきてください。学校として変更してもかまわないということを伝えた。最近子供からの直訴ばやりである。とても良いことだと感心している。

泣けてきた

17日は大変忙しい日だった。学校では今年第1回目の学校説明会があり、加えて第二幼稚園のプレイディがあり、親父主催の懇親会があり、そのあとで私の仲間の会議があった。この日は朝早くから出勤し、職員室の自分の席に座っていると、第二幼稚園の保育者たちが忙しそうにプレイディの準備をしているのが見える。さすがにてきぱきと動いている。

スクールバスが到着して、にわかに子どもたちの活気のある声が校舎中に響き渡り、今日の一日が始まる。相変わらず私は自席から校庭に目をやって、第二幼稚園の先生たちの動きを追っている。すると職員室から外に出る出入り口のところで、女の子と男の子が私と同じように幼稚園の先生を目で追っている。誰なのかなと思って出入り口の戸を開けて外に出てみると、第二幼稚園を年中のときに退園して外国へ行ってしまった子で、今年日本に帰ってきて3年生に転入してきた子だ。

1年生の妹が兄に寄り添うようにじっとしている。そして手には、年中で退園するときに担任が書いてくれた色紙をしっかりと持っている。それを無言で私に渡す。その色紙には担任の写真が写っていたので、すぐさま当時の担任を大声で呼んで、私たちがいるところまで来てもらった。息を切らせながらそばに来た担任が、その瞬間『○○君だよね!』と声をかけた。担任はそばにいる妹の名前まで覚えていて、彼女の名前も呼んだ。

男の子は3年間の空間を埋め尽くすかのように担任の顔を静止したままじっと見ている。幼稚園であったことを担任を通して思い出しているのだろうか。どんな気持ちで色紙を持ってきたのだろうか。担任の顔を視線を外さずに、じっと見つめていたのは、どんな思いで何を考えていたのだろうか。担任に会えて思いは通じたのだろうか。小さな胸の中で、何を感じ何を思ったのだろうか、そう考えていると無邪気な愛らしさに泣けてきた。

子どもたち

マララを読んだ後の感想で、6年生はマララが『女の子にも教育を!』と放送局へ行った年齢とそれほど違わない頃の話だから、『自分たちはできない』という声が聞かれた。しかしそんなことはないということを話してあげた。パキスタンという社会背景を話し、きっとみんなもそこで生まれ育ったら立ち上がったかもしれないと。勇気がないということではない。必要であれば立ち上がれる勇気はあるはずだ。もっと知識が沢山あれば、何とかしなくてはならないと思うはずだ。

5年生は『驚いた!』『すごいな!』ということを異口同音に言っていた。何か感じればいいし、このような積み重ねが自分自身の人間としての思いを作っていくものだ。みんな読み終わった後に一瞬静まり返っていたけれど、勉強をしたくてもできない人がいるということが信じられない様子だった。そこでマララのように勉強をするな!と言われたほうがいいのか、それとも自由に勉強はさせてもらったほうがいいのかを聞いたところ、全員が勉強したいということだった。それはそうだろう、ご両親が何のために初等学部に入れてくれたのか意味がなくなってしまうと言ったら、神妙にしていた。

        
とても面白い写真である。 左の写真は年中からこの前年長になったばかりの頼もしくなった顔の写真である。右側は無心に土木工学の基礎を学んでいる年少の姿であるが、だれが生徒か先生かというめだかの学校である。
         
 初等学部の児童たち。初等学部の人たちにはどちらが1年生で2年生だかすぐにわかるでしょうが、全く関係のない人にはわからないと思う。全員が私服になったら幼稚園の年長さんと変わりがない。   
      
左側は新入園児。3歳児である。右側は初等学部の新入園児(幼稚園の子どもたちと同じ)の姿である。共に共通なのは『かわいい』というところか。幼稚園では何をしていても学校で言うところの授業中であるから、年少はくたびれるはずだ。こんな面白い恰好をする子どもたちだが、6年生にもなると大人に近くなってくる。ゆっくりと育てたいものだ。

タリバンに撃たれた少女

教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女『わたしはマララ』という本を読んだ。彼女はパキスタンの北部にあるスワート渓谷で生まれ育った。父は教師だが母親はほとんど教育を受けていないという。男尊女卑が根強く残っていて、今でも女性は家事の仕事と子育てだけでよい。教育を受けるなんてもってのほかであるという風潮がある。スワートという地域はタリバンの支配地域にあり、イスラム原理主義による宗教支配が強いところでもある。

マララは父親に『女の子が勉強してはいけないと、コーランのどこに書いてあるの?』と何度か聞くたびに父親は、『コーランのどこにも書いてないよ』『勉強したい子はいくらでもしてもいいんだよ』と優しく答えていた。しかしタリバンの放送では、相変わらず女の子は学校へ行ってはいけない、学校へ行くようなことがあればその学校を爆破するという脅迫が続いている。身の危険を感じた周囲の人たちが、父親にマララを学校へ行かないように忠告するが、それどころかマララは地域の放送局へ行って『女の子にも教育を!』と訴え続ける。

そんなことをするものだからタリバンにも挑戦的であるように映り、名指しで脅迫を受けるようになる。スワートの住民は、マララが狙われるというより父親が狙われているとだれもが思っていた。ところがある日いつものように帰りのスクールバスに乗り込む。白のトヨタのダイナでワンボックスカーであるが、これに20人も乗るからこれ以上は乗れないというくらいすし詰めだ。後ろにはドアがないというから危険極まりない車だ。そのドアのない後ろからある男が乗り込んできた。その男は『マララは誰だ!』と言って手に持った拳銃から3発撃った。

マララ15歳であった。そのことによってマララは瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に助かった。そして回復した後に彼女は国連で演説をした。その演説の内容が最後の何ページかに収められているので、それを4年生以上の各クラスへいって読んであげた。4年生以上でないと理解できないだろうとの思いからである。彼女が地域の放送局の電波を使って『女の子にも学校へ行かせてください!』と訴えたのは13歳ぐらいのときだから、それほどみんなと歳は変わらない。

私がこの本を読んであげた時の感想は、各クラス様々であるけれど、『女の子なのに偉い』というのがあった。何故女の子なのにという言葉が出てくるのか。勿論男児のことばであるけれども、無意識のうちに女の子と男の子は違うというのがある。意外と家庭教育の中にはびこっているのかもしれないが、このようにジェンダ意識というのは根が深いものがある。世界の国には私たちが通常考えられないことが平然と行われている。私たちは現状の幸せを認識して、たくさん学び不幸な人たちに少しでも手を差し伸べることができたらいいね。ということを伝えたかった。

ジェンダフリー

ジェンダフリーと英語で言われているけれども、そもそもどこからこのような概念が生まれてきたのだろうか。ある日本の大学ではこの研究会があって、卒論にも採用されているということを聞いたことがある。男女雇用均等法ができたのはこの流れからである。また男女共同参画社会などと銘打って様々な企画がなされるのも、ジェンダフリーを表看板にしたからである。男女という性差をなくして、人間として平等に扱っていこうじゃないかというものだ。

ジェンダフリーなどとことさらに言わなくても、法治国家は法の下に男女は平等であるし、何故この言葉が嵐のように吹き荒れたのかを、私なりにそのもととなることを調べたり考えたりしたことがある。半ば遊び半分で調べたりしたものだから、それほど深くはないということを断ったうえでそのさわりを話してみる。

もとはロシア革命において、男女に別はなく互いに労働者である。という意識からロシア革命は労働者の苦役をなくすための労働者革命とも言われているが、何といっても女性の台所の仕事は、女性に負担を負わせるものであるので男女に差をつけるべきではない、という労働者階級闘争の頂点にいるレーニンが、男女解放をうたったのがどうもジェンダフリーの大本らしい。共産党革命とも言われているけれども、1987年(定かではない)にソ連崩壊とともに消滅した。

男女解放をうたった後の社会は、その結果どうなったのか。男女間のモラルが非常に低くなった。何かどうはき違えたのか、旧共産圏では私生児が多く、その子どもたちは大統領の養子となり将来には大統領の警護につくといわれていた。しかしいったん崩れてしまった社会は元には戻しにくい。共産主義革命と同じように、ソ連の崩壊とという東側の国々に起こったパラダイムシフトによって価値観が変わったかもしれない。

ジェンダフリーはあってもいいけれどもことさらに構える必要はないだろう。強いものが弱者を守ろうとするのは、当たり前の行動だから、そこには男女共同参画社会などといっても入る余地はない。性差がないと強く主張するのには違和感を感じる。人として同じ権利を持つのだからその権利を互いに認め合うことが大切だろう。また同じジェンダの問題だけれども、幼少期の女性の発達の速さをどう説明するのか、その研究はされていない。