初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

賀詞交歓会・病院・昨日の続き

賀詞交歓会に少し早目に行ったつもりでいたけれども、受付にはかなりの人出で混雑していた。一時間にわたるセレモニーの後にようやく乾杯があって、セレモニーの間にもううんざりして、何度もあくびをしている者もいた。私の座っている目の前にはレンコンの天ぷらが並べられていて、学校で食べたレンコンを思い出しながら挨拶を聞いていた。乾杯の後に早速レンコンに手を伸ばしたけれども、学校で食べたレンコンの方が素材が良かったのか数倍おいしかった。賀詞交歓会の感想はこんなもの。

久し振りに検査のために病院へ行ってきた。急患の出入り口から入り一般受付までの通りの両脇に、長椅子が置いてある。そこに腰を曲げて座っている人たちは、平均年齢がかなり高い人ばかりだ。血色も良くないし、会話もなくシーンと静まり返っているが、大勢の人が座っている。何とも不気味な通りだ。病院だから活気にあふれているというわけにはいかないけれども、会話だけなら活きの良い会話ぐらいできそうなものだが。

一番活気がある?のは採血室だ。看護婦さんの患者の名前を呼ぶ声に力がある。しかし何故そのようになってしまうのかというと、名前を呼ばれても返事をしない人が殆どだからである。何度も呼ばれているのに、明後日の方を向いていて、挙句の果てに動きはスローモーションだ。看護婦さんの声も徐々に高まってしまうのは当然である。ああ~私もいつかは誰かにそのように見られてしまうときが来るのだろうなと、少ししょんぼり。

これからは昨日の続き。ゆとり教育の発想は決して間違ってはいないということを昨日書いた。現場の理解がなかったということと、現場の力量不足ということも書いた。また「ゆとり」というネーミングも、日本人には緩いとか遊びとかいう風に短絡的に理解されてしまうのではないか。生活化の導入も、最初は教師の裁量で授業を組み立ててもよいということだったが、情けないことに教科書がないと授業ができないということになった。

『ゆとり教育』は押し付ける授業から、能動的に自分たちが考える授業を目指していたものなのだ。ところがあてがわれて授業を受けてきた者たちが教師になって、どうしてよいものか現場は混乱してしまったのだ。このようなアメリカ型の自由で主体的な授業というのは日本には馴染まないけれども、その授業こそがノーベル賞受賞者を沢山輩出する授業なのだ。

日本の授業では、たとえば自由研究などの選択授業を提案したら、子ども達は困惑してしまう。なぜなら自分たちで考えるという授業に慣れていないし、誰かの規格に合ったものでしか学習できないように訓練されてしまっているからだ。初等学部で2年生まで宿題を出さないのは、もっと人と絡み合って対人関係でも、自然現象からも『自分で考える』というプロセスを大切に考えているからなのです。

教育改革が始まる

安倍総理が誕生して総理自身がやり遂げたかった教育改革がある。道徳教育の導入・ゆとり教育の廃止・英語教育の小学校導入などである。今年初めの通常国会に法案が提出されることになる。この三つはすべてが初等教育のものだ。その中で特にゆとり教育の廃止については、かなりの誤解があるのではないかと思っている。

文科省の役人がこの教育方針を打ち出したことについて、何ら間違ったことではない。ゆとり教育の廃止の原因となったのは、OECDの学力調査で、算数も文章の読解能力も年々下降している事が原因である。前にも書いた事があるけれど、30か国中日本は大体10位以内にいたがそれが面白くないらしい。しかし世界でノーベル賞受賞者1位のアメリカなどはいつも15位のところをうろうろしている。なのに教育改革などの話は出てこない。

アメリカの教育改革で有名なのは、スプートニクだかボストーク2号だか定かではないけれどもガガーリン少佐が『地球は青かった』とか言って、ソビエト連邦に宇宙科学で先を越された時に『ヘッドスタート』という教育方針を打ち出したことだ。その後も何かがあったかもしれないが、それほどセンセーショナルなもの見当たらない。学力第一主義になって、机上の空論に時間を費やしてしまっても、日本国民の人間形成にはあまり意味を持たないのではないか。

ゆとり教育の理念と方向性は理解できるし、決して間違っているものではない。ただ文科省官僚と現場の教師や社会に対しての広報活動など理解不足であった。それに導入の時に現場の教師の力量を推し量ることもできなかった。

時間が来てしまった。今日は賀詞交歓会があるのでこれから出かける。この後の事は明日書くことにする。

筑波大幼心研終わる

あおば台幼稚園が名実ともにお世話になった筑波大幼心研が幕を閉じることになった。思えば27年前に杉原一昭先生のところへ飛び込んで行った時から幼心研が始まった。その当時研究生だった桜井茂男先生は、奈良教育大学へ赴任したものの、すぐに筑波大に戻ってきて教授となって現在も活躍中だ。その間大勢の研究生が各地に赴き大学の先生となっている。そんな素晴らしい先生たちに、ご教授いただいたことにただ感謝あるのみである。

徹底的に発達心理を学ばせてもらったと同時に、かわるがわる発表する院生や、研究生たちの内容は、私たちが多分必要だろうと思われる事柄を、興味深く説明してくれた。頭の良い人たちだから、問題点を整理して分かりやすく話しかけるようにして私たちに話をしてくれた。単純な安易な質問でも、懇切丁寧にあきらめずに話をしてくれるので、あおば台の教師たちはその人柄にうっとりとしてしまったものだ。

一昨日行われた幼心研では、私が今までの幼心研に対する感謝の意を50分かけて話をした。院生や研究生に交じって、大学生もいたが、その大学生はあおば台幼稚園の卒園児で、大学の掲示板に私の名前が出ていたのでゼミに出席したと話していた。こんなところで卒園児に会えるなんてとても嬉しかった。帰りには教授と研究生と卒園児と8人で食事をして散会となったが、心に残るゼミであった。名残惜しいけれども、創始者の故杉原先生や桜井先生に重ねて感謝したいと思う。

1年生わくわくランド

昨日から1年生のわくわくランドが始まっているけれども、昨日は幼稚園にいて1年生の部屋を覗くことができなかった。今日は何としても観てみたかったので、5時間目までに間に合うように仕事を片付けてきた。1年生の部屋を覗くと、4年生から上の子たちが交流していて、その様子をじっと見ていたら、皆1年生に気を使いながら、言葉も丁寧に対応していて、ふんわりとした温かい雰囲気を感じた。1年生は何とも得意気である。

上級生の下級生特に1・2年生に対する対応の仕方はとても素晴らしい。優しさというだけでは何とも表現できないものがある。いたわると言うか、仏のように慈愛に満ちた関わり方をする。このような様子を親に見せたらどんな気持ちになるだろうかと想像すると、わが子のところへ飛んで言って抱きしめたくなるだろうと思う。素晴らしい子ども達だ。彼らの目線は上から見るようなことはけしてしない、いつも並行だ。その感覚が素晴らしいではないか。

幼稚園でやっているお店やさんごっこみたいなものだが、中にはゲームコーナーや制作などがあったりして『楽しむ』ということを演出している。幼稚園の年長さんとまったく一緒で満面に笑みを浮かべて楽しんでいる。効果を最大限にかもし出しているのが上級生の存在だろう。彼らの存在がこの学校の特色を充分に出してくれている。

はなしは変わるけれども、小学校の教諭がテストの結果を改ざんして、評価を上げたという話があった。当事者曰く『一生懸命やっている子どもたちの情にほだされた』と。情にほだされてそんなことはしないだろう。一生懸命やっているけれども点数が低ければ自分の教え方に問題があると考えるのが普通だ。申し訳ないと思えば結果を改ざんなどするわけがない。子ども達に『申し訳ない』と謝罪し、子ども達と共に取り組めばよい。

冷凍しておいた餅を焼いた。全員の数だけないので、早く集まった順から3人に1個という風に渡した。3で割るのが難しいけれど、それなりに奮闘して分けて食べていた。不思議なことに分けられた餅の大小にこだわる子が皆無であった。こちらで見ていて『それはちょっと小さいのではないか』と思うものでも、3人でニコニコして食べている。幸か不幸か食に貪欲でない。きっと良いことなのだろう。

文章が長い?

文章は短く簡潔にというのは昔からよく言われている。『娘泣かすな馬肥やせ』とか『おやじ元気で金送れ』的な短文にして明快な文章は、このブログにはそぐわないだろう。幼稚園の子ども達は皆ニコニコ今日も元気、合わせて初等学部もニコニコ元気、全く平和な日であった。では読む人も嫌になってしまうだろう。

私は思ったことや書きたいことを読み手を意識して書くのではなく、自分の気持ちを素直に吐露している。だからたまに身内の者から検閲が入る。時には削除するなど強行にされる場合もあるけれども、私があくまでも拒否すればそのまま掲載されてしまう。ブログは私にとっては滋養強壮剤みたいなもので、楽しみな時もあれば憂鬱な時もある。

私がこの世から去って行ったときに、この学校やら、幼稚園の子ども達にどのような気持で接していたのか。またはどのような思いを持っていたのかなどが参考になる。だからこのブログが、私の後に続く者たちへの道標になれば意を得たりである。保護者は毎年変わるけれども、幼稚園や学校を運営していく者にとっては、ぶれない変わらない信念がないとならないから、たまにこのブログを読まないとならない。

最近動画や漫画に押されて、小説を読むと言う子どもたちが少なくなった。小説だけではなく活字を読み込むと言うことが苦手だと言う子が多い。文章に表れた人の心情とか情景などが、読みながらにして浮かんでくるようでないと、国語の長文の理解は不可能だ。4年生以上になるとこれが結構つまづきになる。算数の問題も『何を言っているのか分からない』ということになるから、読み聞かせは本当に大切だ。