初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

立派な年長違反第1号

立派な年長ではない行動をとった子が、教師に賞状預かりとなった。第一号である。毎年ある現象だから、そうなったからと言っても心配はいらない。むしろそのような子によってクラスが一丸となったり、仲間関係がより一層深まったりもする。その原因は何かと言えば、まったくどうでもいいことなのだが、この時期はそういった細かい心の動きをどうでもいいと捨てきれないところに、幼児期教育の深みがある。

まずどうなって賞状が預かりになってしまったのかを、保育者も一緒に子どもたちと話し合って共通理解をする。それでは賞状はいらないのかそれとも必要なのかを子どもたちに議論させるのだが、全員が絶対に必要だという。そのころになると一号君は声を出して泣き出してしまうが、周りの子は一号君の肩にそっと手をかけて慰めようとするが、涙は止まらない。大体まだまだ自己中心的なところが強く残っている年齢だから、何をどうしようか、どうすればよいかの結論を出すのには時間がかかる。

一日置いて園長との話し合いになった。私の前に現れたのは一号君と彼を応援した男女4名の仲間たちである。園長室で、賞状をもらうときと同じように、私の前に並んで「賞状を返してもらいにきた一号です!」という。それに続いて「応援に来た○○です!」と全員が言う。「それで賞状は返してもらえるの」と聞くと、一同がうなだれて沈黙に変わる。皆は園長先生に「一号君は立派な年長だから賞状をあげてください!」と言ったけれども、本当は違っていたのかと言うと、「仲間だから返してほしいんだ!」と言う。

じっと子ども達を見ていると、一人ずつ涙をためながら懸命に訴えている。花粉症のために近くにおいてあったティッシュボックスを差し出すと、めいめいにそれをとって涙をふき出した。一号君もこれには耐えられず声を出して泣きだした。そして私は賞状を一号君に返すのではなく、応援に来た4人の仲間に返すことにした。それで全員が納得したようだった。子どもたちの心は本当にきれいだから、濁っている大人が悪戯にもてあそぶようなことにならないように心した。

初等学部も3年を過ぎようとしている。何をするのでも3年や4年は無我夢中で気が付いたら月日が流れていたということが多い。新しいところは特に雑音が多いのも、世間の習わしだ。世間は無責任だから、言い放題で粗さがしの名人でもある。弾が飛んできたり、矢が飛んできたり、槍が飛んできたりもする。これはよけてばかりいるとやがて当ってしまうものだ。時には跳ね返したり、飛んでこないところで一休みもしなければならない。

何を言われても何をされても動じない心境が大切だ。いわゆる不動心だ。私は自分で作った初等学部には夢がある。その夢は入学説明会のときに何度も説明をしてきたし、保護者とともに共有できると確信を持っている。だからこれから先も決してぶれないし、めげないし、負けない覚悟が十分にできている。私がフラフラしていたら、子ども達に何が残せるというのだろうか。子どもを守り、健やかに幸せの方向へ向けてやるのが私の仕事であると、強く認識している。

兵隊

『内憂外患交々来る』というのがある。まさに言いえて妙である。世の中はいいことばかりではないけれど、そう解っている上にまたまた内憂外患交々来てしまう訳だ。その繰り返しが人生なのかもしれない。毎日ニコニコと笑顔で暮らすことは至上の歓びだろうが、そうはいかない方が人生の長い間には、多分多い。それでも書物などには「わが人生悔いはなし!」などと精一杯の強がりを言ってご臨終というのが多いのは何故か。精一杯の人生への皮肉なのか。

水木しげるさんは、初年兵としてラバウルへ行ったが、彼らを最後に新しい兵隊は誰もラバウルには行かなかった。だから水木さんはずっと初年兵のままでラバウルで終戦を迎えたことになる。定かではないが2年ぐらいはいたらしい。毎日ロッキードの爆撃にさらされ、うまいこと弾に当たらずにいたけれど、小隊で移動の最中に現地の組織に襲われ、仲間とは生き別れ、三日間もジャングルの中をさまよっていた。椰子をとりその中の水でのどの渇きを凌いだ。

地上戦で交戦する前は、毎日陣営作りと小銃の手入れに飯盒洗い。たまに上等兵のふんどし洗いもしたらしい。そして気に入らなければビンタが飛んでくるという毎日の生活だ。しかも自分より新しい兵隊が入ってこないのだから、やられっ放しだ。そんな毎日を暮らしていて、自分のいた小隊が全滅になって三日もジャングルをさまよい歩きやっと日本軍の兵舎にたどり着いたら、「小隊が全滅したのに何故生きて帰ってきたのか!」と怒鳴られたそうだ。人間不信になったとある。

戦争とはとんでもないことである。兵隊のそのような生活は何も日本ばかりではない。他国の兵隊もとんでもない生活を強いられたことは、外国の戦記にも色々掲載されている。ただ日本は武士道というのがあって、精神論が前面に強く出されるので困る場合もある。竹やりではどうやっても戦闘機には勝てないだろう。その精神を鍛えるのにビンタがある。これは兵隊にだけあったのではない。戦後の学校はどこもかしこもビンタばかりだった。ビンタは手っ取り早い統制である。

ビンタでもしなければ統制のとれない男どもは今でもいるが、こんなことで言うことを利かせても空しくなるだけだ。あれは統制ではなく、統率者の欲求不満のはけ口ではなかったのかと思う。水木しげるさん生きて帰ってきて本当に良かったと思う。結構要領が悪くて、誰よりも多くのビンタを頂いたらしいけれど、生きて帰ってきてくれてありがとう。これからももっともっと生きて、素晴らしい作品を残してほしい。

汐見俊幸先生とその御一行様が青葉台初等学部を見学に来た。早速できたばかりの桜の木の上のバンブーハウスにのぼり、子ども達と記念写真を撮っていた。川を作った時の土山の上に上がっては、ニコニコしながら下を向いて楽しんでいる。川を見て「夏には必ず来るぞ!」とニヤニヤ。私よりも年寄りなのに子どものような感性をお持ちでいらっしゃる。あの中央教育審議委員の先生が・・・・とても親しみやすいお人柄であった。松永先生は第二幼稚園の子どもたちの前で腹話術をして遊んでくれた。いつもいつもありがとうございます。

もう一つついでに

中等教育学校(中高一貫校)にしても、小中一貫校にしても、大体3つぐらいの形態がある。ひとつ目には同一敷地内に同一校舎の中で生徒が授業を受けるという形と、同一敷地内に小中高の生徒の校舎が併設されてあるというものと、学校が同一敷地ではない提携という形をとるものがある。だから土浦にできた真鍋小と第二中学校の関係や、つくば市の幼少一貫にしてもどのような目的と配慮があるのかをよく調べることが必要だろう。

今日は初等学部の6年生があおば台幼稚園で職場体験学習をしている。年少から年長まで各2名づつの配置で行われている。事前に各クラスの現在の子どもの様子や、各学年の狙いと活動などがプリントされている用紙を渡してある。幼稚園の保育者が、6年生のために一生懸命作成したもので要点がしっかりと書かれてある。そのプリントを今日見せてもらったが、プリントそのものを全部暗記したとしても理解するのは困難だろう。むしろ面喰ってしまっているのではないか。

まず活動の中に6年生は入れないだろう。小学生が来てもあおば台の子ども達はべたべたとまつわりつかない。自分たちでやることがあるから、6年生を気にかけていられないのだ。だからほとんど無視されているだろう。自ら入っていこうとしないとだめだと言っても、高校生でもなかなかできることではないので、6年生にしてはよく頑張っている。

そうこうしているうちに6年生が帰ってきた。開口一番「あ~あ疲れた」「幼稚園の先生は大変だ…あ~あ先生にはなれない」と溜息交じりに言っていた。「みんなのお父さんお母さんは毎日働いているよ」「仕事をするということは大変なことだ」というと無口だった。それでも中には楽しく遊ぶことができたと感じている子もいるはずだ。いずれにしても初めての体験だろうし、有意義であったことは間違いない。

小中一貫教育Ⅱ

私がやろうとした小中一貫教育をさらに高等学校も併設して、幼稚園から高等学校まで考えていることと、市町村が考えている教育課程の編成と理念についてはまったく異なっているもの
である。はっきり言えばこのたび建設されたつくば市の小中一貫教育の理念が見えてこないので何とも言えないが、保護者のみなさんは中等学校〈中高一貫教育〉と混同して理解しているのではないかと思う。小中一貫教育は人間形成の、主に内的な成長を重点的に行う学校であり、中等学校は、それに大学受験を加えたものである。

公立における中等学校は市立中学校と県立高等学校の併立で、原則中学校登校範囲によるもので、学力的な選抜試験は行わないのが通例である。また高校入試のための学力試験もなく、まさに中高一貫教育である。私は、小中一貫教育と中高一貫教育の違いを解りやすく書いたが、これは理念であって私がそう思っていることなので、それがそのように定義づけられたものではない。また公立における中等学校の入試の形態を書いたけれども、選抜制の私学では入試が必ずある。

私言いたいの、はつくば市にできた小中一貫教育に関して、周囲の保護者は色めき立っている節があるけれど、今までの小学校や中学校となんら変わるところがないと思うので、ゆっくりとその推移を見守ることの方が賢明であることを伝えたいのだ。表札が代わっても、中の住人が変わらないのだから、何も変わらないのと同じことではないか。私が小中一貫校を建てた時に「なるほど」と思われるような学校を作る。

青葉台が何故今中学校を作ることができないのか。県の総務課の役人が、私に「教育基本法の学校種に記載されていないからできない」といったことは明らかに間違っている。小中一貫校は現実にあるし、その辺のところは県も理解している。設置基準の中学校の生徒数にしても480人以上というのは、これまた現状から全く遊離した基準であるということが県が理解されていない。しかも県知事の認可であるから、頭の良い知事が現状を認知してくれれば解決することである。

一番の難題は、学校運営が初等学部だけで展開できない現状である。借入金はともかくも月々の固定費が生徒納付金で賄えるようになれば、すぐにでも県に申請を出すつもりでいる。お金がないからできないということではない。経済的に裕福になるのを待っていたら、あの世にいってしまう。生涯無理な話だ。この学校が数字の上だけでも回転してくれれば小中一貫教育はできる。私は「できる」ということしか考えていない。いつできるのかは言えないが、期待して頂いて結構である。

このように前を向いているときには闘志がわいてくる。ちょっと振り返って幼稚園に目をやれば、ある年中さんの言葉に『私はもう赤ちゃんじゃないの…子どもになったの』と言ったことを保護者から聞いた。こんな子ども達に囲まれている保育者は幸せだろうし、私も幸せだ。もっと幸せ感の充足しているのはご両親だろう。幸せになってほしいと心から願っている。

昨日初等学部の餅つきのためにかまどにくべる薪を作ってくれた。若いお父さんの振り上げた小野が、丸太を真っ二つにする『カーン』と言う気持ちの良い音が鳴り響く。さすがに若いお父さんは躍動的である。その周りに6~7人のお母さんが、それと同じようにやろうとしているのを見かけて、そのパワーは認めるけれどやめてほしいとお願いした。彼女たちは割れた薪を手際よくまとめ、その周りをすっきりとしてくれた。幼稚園も初等学部もよく動いてくれるお母さんたちだ。一緒にいる仲間たちという実感がある。心から感謝している。

小中一貫教育

小中一貫教育は学習指導要領等によらない特例制度を活用したものの取り組みとして、構造改革特別区域として全国で17件、研究開発学校制度として全国で22件ある。いずれも平成18年4月現在なので5年前の資料である。最近近隣市で小中一貫教育をうりものにして設立された学校があるが、市町村独自でそう決めたからと言って小中一貫校として国としては認めてはいない。しかも何の理念のないところで、そのような学校ができたからと言って何の意味があるだろうか。

新たな教育課程の編成や、カリキュラムのあり方が何を柱になされているのかを確認する必要がある。小学校と中学校を併設したからと言って、にわかに子ども達の質が変わる訳ではない。公立にあっては初めての取り組みだとしたら、まず教師がその理念を徹底して頭に叩き込まなければならない。一人一人が機関車のけん引のように、自ら率先してその理念を広げるくらいの情熱がなければ、絵に描いた餅になってしまう。

このようなものは、私が小学校を作るときに小中一貫校を目指していた時に学んだものである。県の担当官は、小中一貫校は作れないと何度も私に繰り返し言っていた。その理由として、教育基本法に則った学校種の中に小中一環と言う学校が記載されていないからと言う理由であったが、「それは違う!」と言い切れないものが私の中にあった。そのような議論をして、初等学部建設に支障があってはならないという懸念があったからである。

いくつもの障壁に出会って、そのたびにそれを超えるたびに何度もへりくだった姿勢でいた自分が、今思うと情けないと思う。小中学校9年間の子ども達との生活は魅力である。誰が言い出したのか2・3・4年という教育課程の編成などが一般的であるけれど、子ども達の発達理解や、発達心理から行くとこれはどうも違う気がする。私は1・2年生は全く別の世界があると思っている。4年生の発達は人としての自律のときで、混沌とした自我からはっきりと独立する時であるように思っている。

それでは3年生はどうするのかと言うと、4年生に近づいていると言うより、2年生に近い一番のヘッドであるので、1・2・3年生は一つにくくってもいい。4年生から中学1年まで、はっきりと自我が独立した4年生から思春期までを人間として修練を積む。本来は中学2年生から高校1年生までをくくりたいのだが、中学校までであると中学2年生と3年生をくくる。学問と異性について両立させなければならない大変難しい時だ。いずれにしても、選抜のある私学でないと小中一貫は難しいだろう。

現在の青葉台初等学部では、私の考えている小中一貫校の教育課程の編成のようにはいかないけれど、幼児教育から学んだ発達理解を基礎に、子どもたちの心の育ちを十分に理解して、6年生までの間の育ちをどこにも負けないという自負心を持って、共に生活していきたいと願っているしそう努力していきたい。中学校を建てるという信念はいささかも後退していない。むしろ毎日少しずつだが燃え広がっている。それまでは死なないし、心配ない。