初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

学習意欲は興味・関心から

表題はデューイの言葉であるが、人間が裸で生活していたころから、学習することは始まっていた。きっと不思議なこととか、興味を引くような発見が沢山あった のだろう。知らず知らずに実験を繰り返しその蓄積されたものが文化や文明となった。まず『不思議だ!』と言う発見はどのようにして生まれて来るのか。私は思うに、モノがありふれている現代では『不思議』を探すのに一苦労である。自分で考えなくても答えがすぐに出てしまうから、子どもたちが立ち止まって「探求する」緩やかな時間がない。

それに多くの保護者は教科書に書いてあることをまず暗記して、学校のテストを優秀な成績でクリアして欲しいと願っている。その証拠に子どもたちの時間を大切にしない。何だかんだと理由をつけて塾へ向かわせる。暗記することや教科書に書いてあることを覚えさせることに熱心で、子どもに自由に考えさせる時間を与えない。押し付けばかりで、自由な発想を圧殺してしまう。そんな幼少期を過ごした子が、やがて社会に出て、何か大きなことをするかと言うとそうにはならないだろう。

何だかんだと言っても試験勉強を今からやらせておいた方が勝ちだと、実際にそう思っているなら世の中をとんだ誤解をしている。一流企業に就職できるとか、医者や弁護士になれるとか、そんなことだけの狭い領域で子どもたちを育てたら、結果的にそうなったとしても幸せにはなれない。それは何故か。多くの選択肢から自分を選んでいないからで、人間にはもっと多様な生き方を考えてもいい人生と言うものがある。どんな形でも、他のために生きてみようとする価値観を持った人間の方が、世の中では重宝がられる。

立ち止まって考える動作と言うのは、よく幼稚園で見られる。けしてベルトコンベアーには乗らない、自分の考えたものをやろうとする。ときには保育者の言うことも拒否して、自分の思う通りのことをする。それなのにいつ頃なのか、自分で考えることを辞め、誰かの従属的な考えに染まって、いつしかそれが自分だと自分に言い聞かせ、自分に他人の仮面をかぶせてしまう。そんな人生は幸せではないだろう。私は子どもたちに『自分を生きろ!』と言う。

お粗末な代議士たち

小池都知事の踏み絵にかなわなかった『希望の党』公認希望者は、立憲民主党に鞍替えして公認をもらうらしい。全く持ってこのような理念のしっかりしていない政治家は落選させるべきだろう。国民のための政治家ではないとはっきりと証明してしまっているではないか。サラリーマン政治家がこんなにいるなら政治家の数を減らした方がよい。自民党もまたそのような政治家を批判しているけれど、実は自民党ほど理想政治の幅の広い党も珍しい。自民党は一枚看板のように見えても、理想とするところは右から左と大変な隔たりがある。

だから国民政党だと言っているのかもしれない。国民は多様な考え方を持っているし、それがしょっちゅう変わってしまう。だからと言って総理は、政策に自信があるなら、最後まで政策論争に終始し、野党連合にすり寄るような方針に変えてはならない。そして野党に対してはえげつない批判をしてはならない。

小池新党も、立憲民主党もそう長くは続かない。小池新党は旧民進党の 地盤を引き継いでいるから、ある程度の人たちを当選させられるけれども、立憲民主党は厳しいだろう。結局また空中分解して、新しい野党の枠組みを模索することになる。そうして国民を深い溜息のるつぼに誘ってしまう。政治の混乱は、混乱するだけで、国民を疲れさせる。もっともその国の政治を正しく理解するなら、その国の国民を見ればよいというような言葉があるから、天に唾を吐きだしていることになるけれど。

運動会ごっこ

子どもたちだけの運動会ごっこをやった。子どもたちにとっては本番のようなものだが、年長の毎年の種目にリレーがあるけれど、このリレーは勝ったチームにトロフィーが送られる。手作りで段ボールで作ったものに金紙を張ったものだが、これをもらったチームは心地よいステータスとなって子どもたちの目を輝かせる。だから1点も取れないいつもびりのチームは悲惨な結果になる。最後にリレーがあるので競技の締めくくりみたいなものだ。だからなおさら印象に残るよう なことになる。

全部びりのチームがあった。競技が終わって私の話があるのだが、あまりそのことに重きを置いて話をすると、より以上に傷口がひどくなりそうな気がして、あっさりと『負けても今度は必ず勝てると言う気持ちを持っていれば必ず勝つ時がある。その方法もある。と話したら、後片付け をしているときに、女の子5人ほど私のところへ来て『勝ち方を教えて下さい』と言ってきた。そして『運転手のKさんにも話をした』と言うことを言っていた。今日以前にもすでに勝ち方を教えてもらっていて、練習していたのだ。

このような気持ちのつくり方を学ぶ能力を『非認知能力』と言う。 目に見えない、数値で測れない能力を非認知能力と言い、数学や国語などの試験のように、目に見えて数値化できるものを認知能力と言う。さらに認知していることをどれだけ理解できているのかということをメタ認知と言うらしい。幼児教育でも小中学校でも、人間にとって生きていく基本となるのは非認知能力ではないかと私は思っている。『生きる力』などと言ってもこれは数値化できない。

そして私は、彼女たちの押し寄せてくるような意気込みにのまれ、『バトンタッチとか、そのようなやり方もあるけれど、何よりもあなたたちの今ある気持ちが、リレーで勝つよりも心で勝っている』『これはすごいことだ』と念を押して話したところ、納得したのかどうか分からないけれど『ありがとうございました』とお辞儀をして、くるりと向きを変えて自分のクラスへ駆け足で戻って言った。幼稚園での出来事は、大人たちの手本になる。

30年度園児募集が開始された

両園ともに兄弟のいる子や卒園児の兄弟、または幼稚園と何らかのつながりを持っている保護者は優先枠として9月の最終日に受付を開始する。何らかのつながりというのは、お子様があおば台のクラブに入って保育を受けているという意味で、私とつながりがあってもどうにもならない。もうすでに受付は終了したが、幼稚園探しをしている保護者は大変だ。最初に子どもたちが通う学校は幼稚園だから、私立幼稚園の精神を理解して入園させるのは骨が折れる。

幼稚園には、あおば台のように子どもを中心とした保育形態もあれば、一斉保育のような教師を中心とした保育形態もある。また、保護者が喜びそうな小学校先取り教育みたいな保育形態もある。子ども中心というのは、子どもの主体的な動機を大切にして、保育者が子どもを必要以上に引っ張らない保育とでも言った方がわかりやすいだろうか。この保育は保育者であってもすぐに理解するのは大変そうで、ここで何回か公開保育をしたことがあるけれど、保育者の質問が矢継ぎ早にあった。私たちも保育改革をしたころには大変な思いをした経験がある。

説明会に1日来たぐらいで幼稚園のすべては理解できないのが当たり前だが、入園してから考えると言うのでは、後戻りがうまくいかないのが幼稚園の入園のシステムだ。これは地域の幼稚園との和合や親睦を考えて、あえて決まりを作って逸脱しないように互いを牽制したことから始まる。そのことが保護者にも良いことだと色々考えて全員が合意の上で決められたものだ。その頃は園児数が少なかったのか園児の奪い合いがひどかったような気がする。絶対数は現在の方が少ないはずだけれど。

ワクワクの会とか言うところに 所属している人たちも優先枠としてカウントされた。昨年はやめようと言うことだったが、今年はまた復活したようだ。通常のワクに入れない人たちが困るので はないかとか、閉め切りましたと言ってしまうのはあまりにも無情でないか。断られて親子でとぼとぼと帰る後姿を、平気な顔をして見送ることができるか。いつもこの時期になると受付の保育者を責めてしまう。自分でもどうしようもなくているのに。後ろ姿に手を合わせて謝っています。

小池氏一色!

既存の野党の政党では自民党に立ち向かえない。そもそも政治家と言うのは、権力志向が強く自信家でないと務まらない。その点官僚機構と似ている。政治家は選挙によってふるい分けられるが、官僚は出世のレールに乗れるかどうかで生涯の自分の位置が決まる。人生は何もそれだけのことではあるまいが、その通りであるが、その道に足を踏み入れた瞬間から抜け出すのは入っていくときの労力の数倍も力が必要だ。経験はないけれども、まるでやくざな商売だ。

ところで『大義なき解散総選挙』などとどこかの野党が言いはなったら、それが独り歩きして、あたかも安倍総理を独裁者のように叫んでいるマスコミと一部野党 がいるが、解散は総理の専権事項で、どこの党が政権をとっても同じことが起こる。マスコミの印象操作とか言われるけれどなるほどと思う。先に言ったように政治家は権力思考の集団で、野党でもそれは変わりない。国会の質問など聞いていると、これが国のためなのかと疑いたくなるような与党への中傷質問ばかりが目立つではないか。それは与党をこき下ろし代わって政権を取りたいと言う願望がそうさせるのかもしれない。

大義のない解散総選挙などあるわけがない。野党にとっては政権をとる最大のチャンスであるし、飛躍を期待できる機会はこの時しかない。野党にとってはワクワクして選挙に臨むべきだろ う。小池さんも大義がないなどと言っていたけれど、内心こ踊りして選挙を迎えるのだろう。解散がなければ政界再編成もなかったろうし、希望の党も生まれなかった。自民党も大変な人を敵に回してしまったと思っているだろう。

私は新聞に出ていた希望の党の綱領だか、選挙公約だかを読ませてもらったが、みんな中途半端で確実に実行できるものか、または実行しようとしているのか疑わしい。いわゆる大衆迎合型の最たるものである。大体政治家でパフォーマンスの上手な人と言うのはポピュリストが多いものだ。もしも希望の党が政権を取ったら、民主党の二の舞で国を混乱させるだけだ。なにしろ日本の文化である『しがらみ』のない政治などと言っているけれど、選挙そのものがしがらみではないか。

ちょっとやり過ぎ?

年中さんの運動会の出し物で、何をテーマにしてやろうかというときに、土浦のかっぱ祭りでカリビアンの姿で踊ったのを思い出して、とっさに『カビリアン』がいいんじゃないという発言をしてしまったので、今日がその導入の日である。『海賊』という名詞は知っているけれど、『カビリアン』を知っていたのは20名弱であった。子どもたちから『海賊って何するのー?』という質問に、『海の上で悪いことをする人を海賊と言って、山で悪いことをする人を山賊と言うんだ』 というと『ふーん』と分かったような分からないような反応。

『その海賊が今大洗の海岸にいて先生の友達が海賊に会いに行っている』。『幼稚園を教えてくれと言われたら、あおば台を教えてもいいかな』と言ったら全員が『駄目ー!』と言う。『そうだよね。みんな可愛いからさらわれてしまうかもしれないから』これがいけなかった。怯えてしまう子が何人もいて、泣き出してしまう子もいる。『何故警察に言わないのか』と抗議のような態度で言ってくる子もいる。海賊たちの冒険や、体を鍛えている話をするつもりでいたが、意外な方向へ進んでしまった。

この時期は優美期と言って、かっこのいいものにものすごく憧れたりするが、同時に悪に対しては、恐れと戦うと言う正義感が強く芽生える時だ。顔を伏せて泣いている子もいるので、その処置にほとほと困ってしまったが、保育者にバトンタッチをして私は引きさがることにした。その後年少さんの部屋を巡回して、帰りに年中さんの集まっている部屋を覗き『がんばろうぜ!』と大声を出したら、子どもたちは『おー!』と右手のこぶしを突き出して答える。こんなもんだ。

今度の衆議院の総選挙 で、民進党は解党するか消滅してしまう。小池都知事の『希望の党』が立ち上がって、その人気にあやかって民進党が合流すると言う。何と節操のないと誰しも 思うが、代議士は当選しなければただの人だから、なりふり構わずに選挙に突入して行くしかない。分からないのは小池都知事が総理を狙うならばこの選挙に出馬しなければならないだろうに、本人は都知事のままでいると言う煮え切らない態度だ。自民党にとってはいつになく厳しい選挙になりそうだが、国政を任せら れるのは自民党しかいないだろう。

授業の形態

教師の板書を忠実に書き写す授業。これは私たちが受けてきた授業の形態で、最近ではこのような一方向だけの授業というのは少なくなってきているだろう。暗記をするということに主眼が置かれていて、よく言われてきた詰め込み式授業である。activeーlearningが声高に叫ばれてきてからは、双方向的な 授業が行われるようになったと聞いている。けれども現場の教師からは、子どもたちの能力の差が著しいので、全体で双方向にクラスの授業を進めるのには難があると言った声が聞かれる。

そもそもクラスというのは、授業中になれば教師と子どもたちとしかいない。双方向にやり取りするというのが全く自然ではないのか。だがそうは思っても教師像と言うの古くからあって、そう簡単に古い体質の教師像を打ち壊していくのにはかなりの労力が必要だそうだ。 善意に前向きに色々苦心されて、今までの殻を打ち破ろうとしている教師もかなりの数いそうな気がする。前の体質が悪いというのではなくて、脳科学的に考えても授業参加型の方法が、学習の動機付けには適しているのは周知の事実である。

activeーlearningを取り入れた授業が、最近になってよく言われているけれども、もちろんその授業における学習は研修会としてやってはいるけれど、この学校では創立以来そうした授業形態で進めている。それに体験学習を第一に考えていて、脳を働かせるけれども、同時に手足でも考えさせる。今日は日曜日に機械で刈り取った稲の残りをみんなで刈り取っ て、オダカケに収めた。こうした体験が、やがて血となり肉となって、生活の知恵となっていく。時間はかかるかもしれないけれど着実に進んでいく。

稲刈り・幼稚園はバザー

9時から稲刈りをするというので朝から小中学校へ行ってきた。近くの農家の人にお願いをして、子ども達が刈るところだけを残してコンバインで刈ってもらった。農家の人は朝が早いから、少し早めに学校へ着いたが、すでにファームファミリアの先生が来ていて、田んぼで待機していた。日曜日だというのになんか申訳ない気がした。コンバインで刈るととても速い。機械の近くで刈るところを見るのは初めてで、機械そのものが流れ作業になっていて、籾だけを収穫していく素晴らしさに感動した。

しばらく見せてもらって、今日は第二幼稚園でバザーがあるとので、幼稚園へ急いだ。とは言っても、幼稚園へ行っても何もやることもなく買い物をするだけのことだが、これがまた食べモノばかり見て回って、焼きそば2個、団子、寿司パック、おにぎりパックと、これではダイエットは無理。おいしいものだからパクパクと食べてしまう。それにコーヒーもおいしかった。たくさんのブースがあって全くありがたい。

中国と北朝鮮の貿易が増えていると言う。その詳細については知る由もないが、確かに抜け道がある。ロシアは全く無視しているようで、自国のことだけを考えている。こんな所とうまく外交をしなければならないなんて、政治家は大変だ。それともう一つ。ロシアの建設を請け負っている日本の建設会社では、北朝鮮労働者を使っているそうで、決済はすべて日本円らしい。これは一体どうする。

麻生財務相が不穏なことを言ったと、左翼の結構な餌になっている。なるほどなと思うのは、話のある部分だけをもぎり取って拡大解釈や、誇大表現すれば大変な問題になる。北朝鮮が韓国に攻めてきたらたくさんの避難民が 日本にやってくる。彼らは武装しているかもしれない。その時にどうするのか。警察に任せるのか、自衛隊が出動するのか、だれが食い止めるのか『射殺』ですか。といったところだ。麻生さんの一流のレトリックで、大変な問題だから真剣に考えなければならないという示唆を与えるときに良くこのような極端な表現をする。そのほうが聞いている人たちは『はっ!』とするではないか。マスコミ相手ではこのようなことは言わない。麻生さんは陰険ではなく、腹に溜めない正直な人なんだ。

政治とマスコミ

衆議院の解散が決まったらしい。10月22日に新しい議員が選ばれて、晴れて議事堂に登壇する。与野党の攻防などともっともらしいことを並べて、各党の主張 なども織り交ぜて記事には出ているが、国会議員の先生の最も恐れているのはマスコミのすっぱ抜きだろう。いわゆるスクープと言うものだが、こんなことで国の根幹が揺れているのでは、恥ずかしいのではないか。またこのようなことを鬼の首を取ったようにはしゃいでいるマスコミの程度の低さには、まったく閉口せ ざるを得ない。

既成政党の中で、北朝鮮の祝賀会に出席した売国奴の党籍について、マスコミを通して謝罪もしくはその顛末を報告する義務があろう。何もない時期ならいざ知らず、日本の国が危機にあるときだから、きちんとするべきであろう。しかしマスコミは左傾が多いせいか、日本の左傾政党の批判は殆ど書かないのが現状のようだ。こんなことで電波を使った国民に本意を知らせる報道ができるのだろうか。

自民党にいた若狭という衆議院議員が、東京都知事に脅威的な強さで当選した小池知事を頭に、新党を結成し、民進党を離党した議員を取り込んで新しい政党を模索しているらしい。一時しのぎのポピュリズムに陶酔して、何か出来そうな期待感は持たないほうが良い。国を憂うる志士としては、その時の人気にあやかって政党を組むなどはもっての外。そのようなコバンザメの生き方ではすぐに消滅してしまう。小池さんに頼むのではなくて、小池さんが来るような政党にしなければ、魅力はない。

人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ

人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ。ロバート・フルガムの有名な本の一節である。彼は職業を聞かれると『哲学者』と答えていたというけれど、なるほど読めば読むほど含蓄の深い意味が並んでいる。もうあれこれ27年も前に出た本であるが、その当時私は全くこの本に気付かなかった。数年前に全日本幼稚園連合会であった友人に紹介されたものだ。改めてこの本を手にしてみると。哲学者でありエッセイストでもある。さわりの部分だけでもここに紹介しよう。

何でもみんなで分け合うこと。
ずるをしないこと。
人をぶたないこと。
使ったものは必ずもとのところに戻すこと。
ちらかしたら自分で後片付けをすること。
人のものに手を出さないこと。
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、ということ。
食事の前には手を洗うこと。
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと。
焼き立てのクッキーと冷たいミルクは体にいい。
釣り合いのとれた生活をすることーー毎日、少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、そして働くこと。毎日必ず昼寝をすること。
おもてに出るときには車に気をつけ、手をつないで、はなればなれにならないようにすること。
不思議だな、と思う気持ちを大切にすること。発泡スチロールのカップに巻いた小さな種のことを忘れないように。種から芽がでて、根が伸びて、草花が育つ。どうしてそんなことが起きるのか、本当のところは誰も知らない。でも、人間だっておんなじだ。
金魚も、ハムスターも、二十日鼠も、発泡スチロールのカップにまいた小さな種さえも、いつかは死ぬ。人間も死から逃れることはできない。
何よりも大切な意味を持つ言葉。『見てごらん』

あえてコメントする必要はないだろう。今日の学校説明会で、この話をした。幼稚園でも、小学校でも、人生の出発点ということでは同じことだ。