初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

小泉さん頑張って!

 いよいよ明日は小泉首相が北朝鮮へ行って、金正日総書記とさしで話をする。食料も経済状況も極端に疲弊し、挙句の果てにブッシュ大統領から‘悪の枢軸,呼ばわりされて世界的に四面楚歌状態である。今までのことは何とか水に流して、日本の協力を得て国を建て直そうとしているのだろう。今まで同様、都合のいい話である。
 拉致問題を行方不明者などと置き換える手法は決してとるべきではないし、朝銀問題に国民の税金を注入してはならない。テポドンだかノドンだかの中距離弾道弾の、日本上空あるいは日本に向けての発射実験については速やかな謝罪を求めること。連合国と共に戦った日朝間に戦後処理は存在しないこと。あるとすれば敗戦処理における36年間にわたる植民地支配の終結による決算。日本が朝鮮から搾取した資産や日本が朝鮮半島に投資した資産など、互いの財産の収支は日本が残してきた資産のほうがはるかに大きいので、強者に支配された国民の精神的な屈辱を和らげ、謝罪の意味を含めて日韓間で経済協力という形で解決済みである。ちなみに大英帝国をはじめ、植民地が独立を果たす時、謝罪するとか、協力するなど聞いた事がない。アメリカ独立をはじめ盟主国と戦って独立を果たしている。
 いずれにしても今回の会談は、触手を伸ばしてきたのは北朝鮮である。イラクの次に狙われたのではたまったものではない。当分の間日本を盾にして置きたいという思惑もありそうだ。コメ問題と同じように食い逃げされないように細心の注意を払い、大胆に言い分を通していただきたい。交渉決裂でも堂々と胸を張って帰って来ていただきたい。
 
明治11年にフランス人宣教師が母国への報告書に,日本人を指して「辛抱強く,勇気があり,慎み深く,丁寧親切,名誉を重んじ,礼儀正しい」と評したそうだ。だから日露戦争が始まったときに、日本がきっと勝つだろうと予言した欧州諸国が多かった。400年も前にきたフランシスコ・ザビエルは日本国民を「これまで発見した国民の中で最良な国民であり,異教徒の中でこれほど優れた国民を見ることはできない」と言ったという。織田信長のあの下克上の時代にである。インドネシア外交官アリフィンベイは「戦時中の日本人はもっと温かい人間で,軍隊が統制していた時でも国民は道徳的だった。戦時下であっても思いやりのある人間を育てることができた。それが戦争に負けたからといって,その精神的美徳を根こそぎ捨ててよいものだろうか」と?魂を失った日本人?のなかで憂いている。たしかに哲学者オルテガの言う?精神的貴族?は日本には少なくなっている。これは、例えば男らしさとか女らしさ,父親らしさ母親らしさ,役人らしさ,企業人らしさ,社長らしさといった?らしさ?に回帰する所在があいまいであることが障害になっているからであろう。
 前回中国に対するODAの事を書いていたら、ニュースですでにご存知でしょうが,インドネシアへのODAについて地域の住民から日本が訴えられているという、世にも不思議なことが起こった。ほとんどの国の地域住民に感謝されているのがODAと思って間違いはないけれども,たまにこんな事もあり得る。その地域の住民の意思とは別に、業者や政治家や有力者のためにやるからだ。政府開発援助というのは後進国地域にしかないのだから、先進国の第一線で活躍できない外務省関係者は、腕の見せ所で,うまみのあるのがODAなのだ。だから国民が増税で下唇を噛んでいるときにでも、平気でODAの増額を予算化しようとしている。まったくどこの国の役人なのだ。
どこの国の役人の発言だかよく分からないのに,先の拉致問題がある。阿南元アジア局長は「拉致で騒ぐのは国益にならない」と言い、槇田邦彦元アジア局長も「たかが11人のことで日朝関係が悪化していいのか」と言ったらしい。拉致された家族の前で土下座しても余りあるのではないか。このような国際正義もなく温もりのない人間が政府高官なのだから、日本はなめられてもある面では納得がいく。
田中前外務大臣は外務省を伏魔殿と言った。伏魔殿とは化け物屋敷,または悪人どもが集まって悪だくみをする所である。何と言われようが彼らはへこたれない。日本の最高峰のエリートという自意識を持っているし、だから誰も手を出せないと思っている。革命でも起こらない限り安全だと思っている。革命が起きたって、自分が国民のためになってなかった自覚のあるやつは外国に亡命するから、口惜しいけれどいつまでたっても安全だ。しかしこうゆう人は国民の力で何とかしなければならないでしょう。

そろそろ茨城の土浦では新入園児の募集が始まります。初めてお子様を幼稚園に入れるご両親は,子どもよりもむしろ自分達のほうがドキドキしているのではないでしょうか。オムツがまだ取れないとか,トイレットトレーニングがうまくいかなかったとか,離れた後の子どもの様子を想像したりしながら、不安な自分にその後ろからまた不安が追いかけてきているような、半ば恐怖に近くなる時もあります。そんな時「私は今親をやっているんだ!」とこぶしを握り締め気合を入れなおしてください。立派な親です。何も心配もなく、早く手元からはなすことに喜びを感じているようでは,何のために生まれてきたのか子どもが余りにもかわいそうでしょう。無意識の虐待の始まりです。
最近虐待どころか、子を殺してしまう痛ましい事件が頻発しています。幼児期に両親に十分に愛情をかけられなかった未成熟な大人の犯行です。幼児期に育てられたことを記憶に子どもを育てると言われますが,その証明です。
今国を挙げて待機児童ゼロとか、働きながら安心して子育てができる保育所の体制など声高らかに叫ばれていますが、果たしてこれは真実でしょうか。真に子どもの大切なものを守ろうとしているわけではありません。為政者の小手先のパフォーマンスに過ぎません。なぜなら、青少年の犯罪やいじめの根底にあるものは、温もりの欲求から来るものだからです。0歳児から保育所に入れ、親の温もりと他人の温もりの違いが分からなくなってしまうような育て方をしては決してならないのです。該当者や保育所に気付かってだれも真実を言いません。それは現にそのシステムを必要としている人がいるからです。でも真実は母親が1年以上抱いて育てることが最善です。必ず反論がありますが,何と言われようと、生まれたばかりから他人に預けるようなことは避けてください。決してうまく育ちません。
母親自身の利便性のために、ある託児所へ入れ虐待を受け、子どもを殺してしまった事件がありました。生きていて幸せになるか不幸になるか定かではありませんが,幼児期に長時間母親とはなれた暮らしを強制されるのは、それ自体が不幸であります。親の言い分が解らないわけではありませんが,幼稚園の園長として親の言い分に沿うか,子ども側に重心を移すかと言えば、当然言を待ちません。子どもを守る側に立ちます。
長時間子どもを預かれば補助金がいくら出るだのの話はもううんざりだ。一方では親子を引き離す役割を担っているのだから整合性がない。たまに預かりがあるけれども、子どもは最初のうちは「きょうはあずかりー!」とか言って喜んでいる姿もあるけれども,時間がたつにつれて徐々に元気がなくなっていき,母親が迎えに来ると飛んでいって叩いたりけったりして手に負えない行動に出るのです。このような行動に出ることを?聞き分けがない?と言って大人は片付けてしまいますが,このような行動の出る子は正常で恵まれているといって良いでしょう。よく考えてみてください。このような母親のいない状況に慣れてしまって,何にも感じない子では可哀想ではありませんか。
幼児期はしっかりさせるために訓練をしてはなりませんし,また物を豊富に与えたり、ビデオなどによって子育てを任せてしまってもなりません。子どもの心に沿い、何を教え何を感じさせるかを明確にしなければなりません。こんなことを書いていると難しく考えてしまう人もいるかと思いますが,何も難しいことはありません。母親の感じる力を信じて,この子が今何を感じているのかを探ることです。子どもの心に沿うことは,子ども側に立って、今の子どもの心のありようを理解しようと努力することです。疑問をもち共に学んでいきましょう。

腹に据えかねて

 国家の基本となるのは、第一に教育であります。第二に教育であります。そして第三に教育であります。こんなことは「米百表」の話を聞かなくても国民の多くが承知している。ゆとり教育といって学校5日制にし、教科書の内容も難しいところは省いたようだ。円周率も3.14から3になり、日本の近代文学の礎となった森鴎外も夏目漱石も教科書から消えた。それでなくとも学力の低下を懸念されていたものだから国中の学者や保護者から批判を浴びると、子供だましのように少しばかり教科書をいじったようだ。教育日数が減りそのフォロウはどうするのかというような率直な疑問に、塾にも頑張ってもらうというようなことを言っていた文部科学省の役人もいた。当時文部省自らの教育の放棄だと騒然となったが、すぐに言を撤回したので事なきを得たが、日本の教育行政の骨のなさには開いた口がふさがらない。もっとも学校5日制は日本の教育形態を日本独自に研究して、そのほうが子ども達のためにベストなのだという結果ではなく、働く側(教師)の労働時間の問題から出てきたものだから、後になって教育的考察を入れたってすぐに見破られてしまう。他の公務員と同じにするなら何故特別職なのか、かすかな疑問を感じる。
 宮沢賢治が花巻の片田舎の学校で初めて教壇に立ったとき、彼は子ども達に三つの約束をした。一つ目は「私は一生懸命教えますから,皆さんも一生懸命やってください」。二つ目は「教科書は開けないで下さい。それから私のしゃべる言葉はノートにとらないで下さい。なぜならばしゃべっている言葉は消えてしまいます。あなたがノートにとっている次の言葉を、どうやってあなたの体の中に入れるのですか。だからノートはとらないで下さい。必要ならばあとで私が書きます。だから全身全霊で私の授業を聞いてください。それと同時に私も皆さんの発言を全身で聞きます」。三つ目は「あなた方が分かるまで私は教えます。だからわからなかったらわかるまで質問してください。わかるまで努力してください。皆さん方がわからなければ、前に進みません。皆さんがわかってから進みます。これが私からあなた方へ対する三つ目の約束です」といって授業を始められたそうだ(教育評論家 阿部進)。何ともウットリする話ではないか。
 「今日は何ページから始めます」とか「よく聞いてよくメモしてください」というのとは違う。何よりもこの時代は「三歩下がって師の影を踏まず」と言ってたくらい教師の社会的地位は高かったし、親も子どもも教えていただくというありがたさを教師に対して持っていた。そんな時代であったにもかかわらず、教える側も教えられる側も平等で,人間と人間との胸を突き合わせる真剣勝負であることと、宮沢賢治の博愛的な温かい人間性を強くを感じる。
 私は何度か教師批判をしているが、何も公立の小中学校の教師全員を批判しているわけではない。宮沢賢治のように子ども達に忠実で、一生懸命教えている教師の存在も承知している。そういう教師を目立たせない学校の体質に問題があることを指摘したいのである。円満退職したいという小心者の校長は、問題を起こさない保身の術に長け、子ども達の発達の犠牲の上に成り立っていることに気付かない。そのような校長を教頭が後押しし教務主任が支える。そのような学校に通う子ども達は悲惨で虚しい。
 最近の犯罪白書では青少年の犯罪が目立ちその年齢も低年齢化している。社会にも家庭にも地域にも、子ども達を健全に育成する力がないのならば、学校がやらなければならないのは当たり前のことである。家庭の教育力とは主に躾や道徳に関すること。最終的には我が子の責任は親が負うことだが、親が高学歴とは無縁でその力は非常に乏しいことは私も少なからず理解している。だからといって大声でそう叫んでも余り意味はない。今は心有る教師が団結して行動するしか子どもを救う道はないのだ。
 保護者は何でもかんでも教師に責任をなすりつけてはならない。勿論教師側に責任の多くがあるかもしれないが,家庭における教育の非力さは否定しようがない。何でも自分の責任を回避して、他人の責任にして自分を納得させるような低次元な生き方はやめよう。子どもの内面的な発達にマイナスである。
 明治の初期に遠い未来を見つめ、世界に先駆けて公立の学校制をひいた先駆者達は、今日の現実を見て何を思うだろうか。今こそ大胆な改革が必要なのだ。文部科学省にその力がないのなら、あらゆる規制を撤廃し小学校を私学に創りやすいように便宜を図り、熱心な義務教育を実現させることに力を貸してほしいと切に願っている。
 もうひとつ言わなければならないことがある。教科書問題は自国の問題である。中国や韓国が盛んに干渉してくるけれど、他国から執拗に自国の教科書について干渉され、優柔不断な態度でいる国があるだろうか。きっぱりとした態度が必要なのではないだろうか。
 日本の第二次世界大戦についての記述や、韓国併合の記述についてが問題になっている。新羅が百済を滅ぼした時はどうなのか。ジンギスハーンの手先となって漢民族がが博多を攻め入った元寇はどうなのか。村人が一人残らず皆殺しになった島もあった。それはまぎれもなく日本人が殺されたのである。その後秀吉の朝鮮出兵など不幸な関係もあった。韓国人は誇り高い民族であるから、日本に併合されたことがどうしても許せないのだろう。しかし地球上の列強は次々と植民地を拡大し、弱い国は植民地化されたり属国となったのだ。それは世界史にあるようにまぎれもない事実である。戦後処理については、国際法上まったく問題がないのに、何故日本だけが、戦後57年も経て言われ続けなければならないのか。日本の戦後の目覚しい急速な復興に多少の嫉妬があるのかもしれない。
 韓国や中国の社会科の教科書はまだ見たことがないが、見てみたいとも思わないけれども、日本人を鬼畜生のように記述してあると友人から聞いたことがある。私は戦後生まれであるが、戦後57年も経って根深い恨みもいい加減にして欲しいものだ。そうでなければ本当の友人になれないではないか。
 中国の外務大臣をやっている銭キシンとかゆう横柄なおっさんに問うてみたい。アヘン戦争と日中戦争のどこが違うというのだ。あの当時は圧政清朝時代だから英国が中国人民を開放してくれた正しい戦とでも言うのだろうか。戦争という狂気の時代を平和な現在の倫理に照らすと,何もかもが犯罪である。戦争は勝者も敗者もなく、愛するものを失いただ悲しいだけだ。少し暗い本だが、五木寛之の「運命の足音」を読んでほしい。
 中国は謝罪とか戦後補償とか言っているけれども,6兆円を超える補償を引き出し、その上たくみに多額のODAを引き出している。日本からのODAの25パーセントあたる金額を中国は他国に援助している。軍事費はうなぎ昇りである。後進大国中国は巨大な市場を持っているだけで、国際社会では頂き放しで大したことはしていない。精一杯大国風に背伸びしているだけだ。中国の外交は相も変わらず、背広の下に鎧をまとっている恫喝外交で品性に欠ける。中国に国民の税金であるODAは必要ない。馬鹿にされすぎである。日本政府もいいかげんに土下座外交は止めて、勇気をもって真実と正義を貫いてほしいものだ。後ろには国民がついているではないか。
 北朝鮮の日本人拉致問題は犯罪なのだから,これにリンクされる政治的交渉はないことを毅然とすべきである。戦後補償が優先されるべきだなどといっているようだが、犯罪国家が戦後補償だのはチャンチャラおかしい。戦後補償は韓国の間で解決済みである。政府もマスコミも何故そのような解説をしないのか不思議だ。なんでもかんでも穏便に相手の顔色ばかりうかがっていると,日本国民は自虐的になり正義も誇りも失っていく。
 地位も名誉も何もいらない、命がけで国民を守ろうとする政治家や官僚がもう少しいたら、この不景気だって何とかなるはずだ。それよりも何よりも日本人としての誇りを持っていたいのだ。多少食えなくなったって、勇気と誇りだけは失いたくはないと願っているのが日本国民の本心である。
 中国の瀋陽で起きた北朝鮮亡命者の日本領事館突入事件は、生涯忘れることのできない事件である。あの事件も日本人の誇りを粉砕するのに余りある。命がけで亡命を果たそうとしている親子。門の敷戸に手をかけて絶対にこの手を放すものかと歯を食いしばり、中国警察の力任せの暴挙に、結局は力尽き連行されてしまうのだが、その一部始終を見ていた4歳の女の子は、泣きじゃくりながら何を思ったただろうか。人間の尊厳をかけた攻防がそこにあったのに、領事館勤務の日本人は、なすすべもなく中国警察の帽子を拾い上げ、帽子のごみを落としていた。まずは幼児の安全を確保するなどの措置をどうしてとらなかったのだろうか。テレビのある国にはあの映像はすべて流れたそうだ。命がけで人を守ろうとする勇気のない冷たい日本人として流れたのだ。屈辱的な出来事である。

 少し本業に戻った話をしてみたい。青少年の犯罪が増えているということを書いたけれども、幼児期に何らかの虐待を受けていた経験のあるものの犯罪が90パーセントを越していることが明らかになっている。
 虐待というと暴力というようにすぐに結び付けてしまうけれども、実はそんな単純なものではないのです。暴力のようにはっきりと外傷に表れるものと、内面に残る傷のように見えにくいものがあります。暴力による虐待はついには子供を死亡させてしまうこともしばしばで、悲しいことによくニュースで流れてきます。内面への虐待は、子供を非社会的な人間として増長させてしまい、寡黙で陰湿になります。これが非常に見えにくい。たとえば、母親が自分のことばかりに一生懸命で、あまり子供に関心を示さないいわゆるネグレクトも立派な虐待であり、それが子供を虚しくさせていく。幼児期の寂しさは単なる甘えによる寂しさではなく、大きな不安なのであるからそれに対応できなければ、子供の心の深層に入り込みそれがトラウマとなって大人を信頼しなくなり、優しい仲間を求め非行に走る。親子の中では、時にはぶん殴って子どもを諭すこともあるかもしれないが、親の都合でしかったり,ストレス解消のために叱ったりすると、すぐに子どもに見破られてしまい、それが子どもの内面に鬱積する。鬱積したものは必ず暴発する。しかし真に子どもの将来を思い鞭を振るうならば,かえって子どもの内面に善の力として内在するだろう。いずれにしても親がわが子が犯罪を犯すようになったら、末代の恥ぐらいの認識がなければならないのは言うまでもない。
 長時間子供を預かる(預かり保育)と補助金が出るだの、子育て支援といって働いている母親が、安心して仕事ができるような事業を展開すると補助金が出るというような施策を国がやっている。母親が安心して子育てを他人に任せられるというくだりがなんともやるせない。本末転倒な話である。子供にとっては母親の代役などどんな美名のもとにも不要である。0歳から保育所に預けられ、毎日毎時間違う温もりの人に抱かれ、どの温もりが母親だったのか、ついには分からなくなってしまうのだ。これを虐待と言わずに何と言えばよいのだろうか。
 行政は常に子供側から施策を講じたことはないのだから、国の施策が子供にとってベストであるということはない。待機児童ゼロ政策がよい例で、そこに入れずにはみだした子供は幸せである。
 かつてテレビで専業主婦と仕事を持っている母親とのデイペードがあってしばらく見ていたけれどバカバカしくなってチャンネルを変えた。子供にとっては、母親が家にいることが最高の幸福であることは動かしがたい事実であることは疑いがない。にも拘らず自分を肯定するために強弁を弄して、否定されたくない一心の業の深さを感じて、吐き気がしてきたのだ。仕舞いには、その母親の子供にインタビューがあってこういうのだ「私を育てるためにお母さんは働いてくれたのです。とても感謝しています」母親はウルルとなって目にハンカチを当てている光景が映し出されている。安物の茶番である。大好きな母親で私を育ててくれた人にどうして反旗を翻すことができようか。願わくば、もう少しでもいいから私を見ていて欲しかったというのが健全な親子関係である。そして母親は「ごめんね」と子どもに謝ることが大切だ。
 現実にこの社会で保育所を必要としている人がいる限り、保育所は福祉事業として国の責任において継続されるべきものである。しかしなるべくならせめて生後1年ぐらいは自分の手元で育てないと母親にはなれないでしょう。
 最近では政府も公益法人も、その辺にたくさんある団体が男女共同参画社会という言葉を使い出した。もとよりこの繁栄は男女の協力関係にあることを認識しているし賛成である。子育ても女性だけの仕事ではなく、男性ももっと協力すべきである。これにも賛成である。しかしながら私は男女の性差による仕事の分担が公平であり平等であると信じている。父親が懸命になって赤子におっぱいを飲ませようとしたって無理だし、所詮母親の温もりには父親は太刀打ちできない。母親というのは自分の体から子供が生まれてくるので、ごく普通であればその絆は計り知れないようだ。子育てには心配も多いだろうけれども、世界中にあなたしかいない母親を、十分に楽しみながら子育ての素晴らしさに是非気付いて欲しいと思います。子供はやっただけのことは必ず返してくれますからやりがいがあります。我が子の素晴らしさをたくさん発見してください。

何となくブルー

 小泉総理が田中外相を更迭したことによって、その支持率は下り坂を何の抵抗もなく転げ落ちるボールの如し。2月20日のNGOに関する参考人質疑では、田中前外相は外務省改革が思うように進まないのは、前に出ようとしてもスカートのすそを踏まれていて前に出られない、踏んでいるのは官邸にいるといい、自分を更迭したのは首相の間違いであると言い切った。全面的に現内閣に反旗を翻したわけだ。そしてマスコミも手のひらを返したように一斉に抵抗勢力に転換した。

民間のニュースキャスターやマスコミ一般の身軽さにはまったくもってハエみたいなもの。小泉首相が誕生した時には、90%近い支持率に寄り添って暗に抵抗勢力といわれている政治家を批判し、大衆に媚を売ってきた。世論の支持率の低い内閣は必ず長持ちしないという今までの経過を踏まえて、一斉に小泉批判に急傾斜した模様だ。バラエティ番組でも、朝昼晩とひっきりなしに小泉首相の批判が目に余る。政治評論家でもない、ちょっとテレビで顔が売れているぐらいのおばさんまでも言っている始末だ。諸葛孔明も断腸の思いで泣いて馬蜀(蜀は当て字)を断ったではないか。

よくよく分析してみると、田中前外相の言っていることは政治家としての、あるいは日本国の外相としての理念に基付いた発言ではなく、私事の怨念を吐き出したということで個人的鬱憤をメディアをつかって日本国中にばら撒いただけの話である。小泉首相にしたって誕生してまだ10ヶ月ではないか。誰が首相になれば、この国の現状を大きく希望のある国へと誘導できるというのだ。見守るという度量の大きさが求められているときなのだ。誰かが「世論に浮かれていると本当に衆愚国家になってしまうぞ!」と警鐘を鳴らさなければならないのだ。

郵政三事業の民営化、道路公団の民営化、効率の悪い特殊、特別法人は全て民営化し、税金を払ってもらうというわけだ。このようなことを大胆に実施することによって、官僚の天下りによる納税者の不公平感を無くし、政治家にあっては族議員の排除というねらいがある。このような大それたことを誰にできるというのだろうか。またペイオフの実施は、今まで銀行法により銀行はつぶれないという神話によって、天下り官僚が銀行の頭取におさまり経営責任を問われることもなく大盤振る舞いをして、今日の不況を招いてきたことを諌めるものである。銀行も左団扇で仕事ができなくなるということである。このような構造的な改革をしようといっているのだ。それにしても、日本の金融機関と旧大蔵省と日本銀行の責任者たちが予測を誤り現在の不況を招いたはずなのに、その原因の調査や誰が携わっていたのかなど一切不問というのはおかしい。

 福田官房長官と田中前外相のいざこざは、角福戦争を二世代にわたってやっているようで見ている方でも何だか怨念がましくてあまり気持ちのいいものではない。ご両人もその辺のところは意識しているようで、なるべくそのような雰囲気に持っていかないように努力しているようだが、当時を知っているものには下手に勘ぐられる。鈴木宗男議員のことは、中川一郎先生の秘書官時代から知っている。秘書官時代から現在まで“秘書の鏡”と云われている。中川一郎率いる青嵐会の金庫番であり、秘書でありながらその権勢は衆議院議員の当選1回や2回の議員では太刀打ちできなかった。私のように距離のあるものに対しては、面倒見がよく、早口でにこやかに“何をしてもらいたいのか”要求するぐらいの人だった。しかし当時鈴木宗男秘書官にお会いするのに、直接お会いできる人はそうは多くはなかった。必ずその下の秘書官がいたものである。その行動についてミニ角栄と言われているが、どちらかと言うと雰囲気は浜幸さんに似ている。
 その後中川一郎先生が自殺し、中川先生のご子息中川昭一さんと共に北海道5区から出馬し、見事お二人とも当選した。今回のODA疑惑で自民党内から離党勧告が出されそうであるが、口火を切ったとされる議員が、かつて中川一郎先生と政治信条を一つにした青嵐会のメンバーであることが因果を思わせる。

 さて構造改革であるが、医療改革は医者の収入を減らし、サラリーマン30%負担が明記され15年度から開始と聞いた。15年度といったら来年である。急いでどこが悪いのか今年中に治しておこうなどと思っても、こればかりは都合がつかない。診療報酬をカットされる医者もそれなりの社会的な地位があるのだから、それなりの経済的待遇を受けてもいいはずである。しかし一家に3台のベンツは要るまいと云われているようだ。豊かな生活はこっそりやればいいのにと思う。
今度削られるのは、間違いなく福祉関係であろう。特に措置費でまかなっている保育所の形態が変わろうとしている。すべて“受益者負担”ということになる。保育所を経営しているものにとっては大変な打撃である。当然入所者にとっても大変な負担になることは間違いない。幼稚園との違いは保育時間の差と所管が違うだけになるだろう。保育園や保育所のことはあまりよく知らないが、入所者が経営側と直接契約などとなったらかなり混乱するだろうなと思うし、0~2歳児などは到底措置されないと預かれないことになる。

 自分のことは自己責任においてまかないなさいと言うことだから、幼稚園側も対岸の火事としてみているわけには行かない。現在補助金の交付を止められたら、全国で1割の幼稚園しか残ることができないだろう。全額カットされることはないにしても、かなりの減額になる時代がそう遠くない時期にきっと来ることは間違いない。そのような状況が予想される中、保育所や幼稚園の公設民営化が進んでいる。地方の自治体で幼稚園を経営すると、私立の幼稚園と比べると3倍も費用がかかるというのも珍しくないからだ。だから自治体で私立に補助金を出して経営してもらったほうが安上がりなのだ。その上私立の場合は競争があるから、何とか良い保育をしてわが園に子供たちを呼ぼうとするので、質の低下ということもなくむしろ前向きで活気がある。

 何事にも大変な時代がやってきたようだ。幼稚園が保護者に試験される時代はもう始まっている。しっかりと信念を持たないと社会的なリストラにあってしまうのだ。心して前進しよう。

ユダヤ人青年のこと

 9月11日のニューヨーク貿易センタービルへの無差別同時テロという、その規模から言って前代未聞のショッキングな出来事があって、それ以前に起こった様々な出来事の影が薄くなってしまった。
 前代未聞の高支持率を引っさげて誕生した小泉内閣は、国内におけるNO1のニュースに違いなかろうが、それすらも吹き飛ばされてしまった感がする。前代未聞といえば、戦後のこの不景気も仲間にはいれる。何と言っても1929年の世界恐慌と同じような不景気だといっている人がいるくらいだから大変な不況のようだ。とはいえ、そのときの状況を現実の話として語れる人がいないのが信憑性に欠ける。
 テロ以後に皇太子ご夫妻に内親王殿下がご誕生なされたことは、唯一といっても差し支えないくらいのハッピーな出来事ではないだろうか。きっと来年はそのハッピーを引きずって行って良い年になるだろう。そのように考えよう。

 あおば台には実践保育については幼年教育研究所所長の久保田浩先生、理論武装の後ろ盾になっていただいている先生には、現在は東京成徳大学教授の杉原一昭先生がいる。その杉原先生が今年の3月に筑波大学を退官なさって、退官記念?と言っていいのか定かではないけれど2月13日に最終講義があった。私も妻とともに聴講のお許しを得て講堂に参座させていただいた。講堂は超満員で少し遅れてしまった私と妻はどうして良いものかと、しばらくは人と人との隙間から教授の顔を覗いていた。たしかに覗き見をしているような感じだった。前の人が少し動くたびに上下左右に私も体を動かさなければならなかった。こんな思いをするならもっと早く来ていれば良かったと悔やんでいたところに、杉原先生が主管されている幼児心理学研究会の研究生が、目ざとく発見してくれて、隅のほうの席に誘導してくれた。大助かりであった。
 杉原先生との出会い云々は紙面が足りないので後に譲るとして、私は先生の授業が受けたくてニセ学をさせてもらった経験がある。授業が受けたいと思ったのは生涯この一回だけである。しかしこの途方もない図々しさよりも、さすがに私の羞恥心が勝り一日と持たず退散してしまった。やはり大学は合格して行きたいものだ。
 その先生の最終講義のテーマは「生きることと死ぬこと」だった。ある老教授の生き方が題材として取り上げられそれが講義の柱であった。「得ることよりも与えることに人生の価値があるのだ」「老化することを素直に受け入れる。老化は単なる衰弱ではない、一つの成長であると楽しんでいる」何とも含蓄のある言葉である。
 あるユダヤの青年がナチスの憲兵に捕まり、明日にもアウシュビッツに送られガス室に放り込まれてしまうのではないかというその晩に、青年は収容されている場所をこっそりと抜け出し、町の図書館に盗みに入った。そして自分が一番読みたい本を選んで持って帰った。
「生きることと死ぬこと」・・・・しばし唸ってしまった。「あ~あ 何ということだ!」とも叫んでいた。年の瀬になって年初めの頃の話で恐縮していますが、今年一番の、否過去に覚えがないほどの魂を揺さぶられた出来事であった。自分の心臓を握り締め、悔しがっているのか、無性に涙が止まらなかった。人はそれぞれに考え方も感じ方も違うが、私の半生においてこれほど強烈なことはなかった。
 私はただただこのユダヤの青年のことと、杉原教授に感謝がしたくて駄文を労してしまった。何か大きなものを失っていたことに気付いて、大きなものを与えられた気がしてならない。この歳になって・・・・ありがたいことだ。
毎年12月23日には先生の教え子達が集まる「杉の子会」がある。今年はもうすぐである。先生に会えること、皆に会えることをとても楽しみにしている。

もっと言わせて

ニュ-ヨ-クの世界貿易センタ-ビルへ、旅客機をハイジャックしたテロリストが突っ込んだ。現実は小説よりも奇なりと言う諺があるが、映画のシ-ンでも見られないような光景であった。事件のあった当日何も知らなかった私は、翌朝のテレビのニュ-スを見て気づいたのたが、最初はまだ自分が寝ぼけているのではないかと何度も我が目と我が耳を疑った。他のチャンネルを回してもどこでも同じニュ-スを流していることに、ようやく事の重大さに気づいたという、何とも情けない次第であった。
 ちょうど朝の仕事始めか出勤時間に重なって、その被害は計り知れない。いち早くブッシュ大統領は「アメリカへの戦争行為である」「われわれはテロ組織の殲滅を確実に行う」ことを全世界にアナウンスした。日本の野党議員の中には「ざまあみろ!と思っている人もいる」と自分のホ-ムペ-ジに書いた若い女性議員もいた。大衆の批判によって慌てて謝罪したらしいが、そういった価値観しか持ち得ない人物が国会議員にいるというだけで、日本の、日本人の社会性とモラルが疑われる。
 このような重大な事件が起こると、その人の価値観や人生観がはっきりと表れてくる。日本でも今回は湾岸戦争のときよりも意識が高く87%の国民が後方支援に賛成している(読売)。日本人を含め世界80ヶ国の人々が犠牲になったのだからその怒りは当然のことである。無差別大量破壊と大量殺人に世界が愕然としているにもかかわらず、まだ「アメリカの問題」「武力反対」だの「罪のないアフガンの市民はどうなるのか」などと倒錯した論理をかざしている日本人もいる。
 わたしは思う。国の始まりが一つの家庭だとするならば家庭の主人に問うてみればよい。あなたの妻子が何らかの人的な事故に巻き込まれた時、暴漢に襲われて命の危険にさらされた時や、そして命を奪われた時、あなたはどのような行動をとるのか。普通の人間なら、そして家庭に愛情が深ければ深いほど、悲しみも深く憎しみも深くなるはずである。フェミニスト然として遠くのほうで「武力行使反対」を唱えてもいいが、毅然と論拠を示し命がけで主張すべきである。忘れてならないのは犠牲になった家庭の人々の前でもしっかりと主張しなければならない。

 さてこのところ当然といえば当然のことだが、アメリカのアフガン進攻がいつになるのかということが大体のニュ-スの行き着く場所になってしまっているが、問題があるのはアフガンばかりではない。
尖閣列島に中国の調査船が入って地質調査の名目で掘削作業までしていたという報道があった。国際法上他国の領土での掘削活動はしてはならないということになっているらしいが、外務省は「やめてください」と先方に伝えただけで「そんなことをするなら出て行ってくれ」とは言わなかった。中国は覇権を唱えないと対外的に紳士の風情を見せながら、フィリピンとベトナムが領土を主張している南沙諸島の問題では、話し合いよりもまず軍隊を出して既成事実を作ってしまった。それほど遠くない将来、いずれ尖閣列島も武力をちらつけながら領有権を主張してくるだろう。そのとき日本はどうするのか―――。戦うくらいなら領土を放棄してしまえという類も出てくるかもしれない。靖国問題でも教科書問題でも国内の問題にもかかわらず韓国や中国に干渉されている。どこの国にこのようなことを許している国民がいるのか。
 わたしは戦後生まれだから、戦争によって日本軍がどれほど悪いことをしたのか分からない。父は軍人だった。多分両親から聞いてはいないが、身内の中で何人かは軍人で人殺しをしただろう。わたしはそれを恥じだとは決して思ってはいない。世界史を紐解いても、中性のヨ-ロッパは植民地政策一色で隣国同士で覇権を唱えて争ってばかりいた。日本といえば1853年にペリ-が黒船を連れて浦賀にやってきた時初めて安眠から目がさめた程度で世界で何が起こっているやら知る由もなかった。アフリカを欧州列強が植民地化しほぼ制定した頃、今度はその矛先はアジアに向けられた。アメリカは1776年に独立したので植民地政策を採るのがかなり遅れて、殆どが欧州に取られた後であった。浦賀に来たアメリカ人は、日本人のちょんまげを見て「皆頭にピストルを乗せている」といって恐れをなしたというエピソ-ドが残っている。アメリカのあとにはフランス、イギリスなどが続々と日本に開国を迫り虎視眈々と日本を餌食にすることを狙っていた。そして明治維新を迎えた。
西郷隆盛は大政奉還後職を失った浪人対策に征韓論を唱え、日本もまた欧州列強の餌食にならないように、植民地政策をとることになる。1894年日清戦争、1904年日露戦争、1914年第1次世界大戦と10年おきに戦争をしている。この戦争の全てに勝利したが1941年に真珠湾攻撃やシンガポ-ル上陸作戦に始まった第2次世界大戦で1945年遂に日本は敗戦国となった。無条件降伏だから何とも言いようがないが、あの東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁いた裁判で、同じ敗戦国であるドイツはニュ-ルンベルグ裁判でナチスが裁かれている。
戦勝国が敗戦国を裁くこと自体すでに平等性を失っている。また戦争という狂気に満ちた状況を平時の法に照らすこと自体ばかげていると言い放った日本側弁護人のアメリカ人がいた。そして彼はなおも続けて「もしどんな手段でも戦争において人が人を殺したことを罰するなら、わたしは一瞬にして何十万もの非戦闘員を殺した爆弾を投下することを命令した人の名を知っている」と言った。A級戦犯などとは戦勝国の終戦処理に使った言葉で日本人が使う言葉ではない。
歴史教科書はどこの国でもわが国からでしか見ない。朝鮮半島がヂンギスハ-ンに攻め滅ぼされその配下になったときでも戦争に負けたとは書かない。事実を知らないから何とも言えないが、戦争を好まないわが国民は仕方なく云々―――と書く。アヘン戦争もイギリスの世界史とは大分違う書き方をするのであろうし、同じ中国でも台湾との歴史観は天と地ほどの差があるだろう。
国と国との駆け引きには何とかカ-ドというカ-ドをちらつけながら折衝をする時がままある。靖国や教科書問題を他国の駆け引きの道具(カ-ド)にされないように、内政干渉させないという独立国家として背筋の通った外交を願いたいものである。また国内がトップの為政者に不利な世論が横行している時、国民の目を国外に転化させるのは途上国の為政者の常套手段である事もつけ加えておきたい。

わたしの友人から、東京都知事のように乳幼児期から早めに親から手を離す政策が善政とみなされることに少なからぬ危惧を抱いているというメッセ-ジが届いた。わたしも同感である。親の利便性の追求が痛ましい事故につながっていることはすでに承知であるが、この種の事故が絶えることがない。
テロへの報復で自衛隊派遣もいいが、子どもたちの賑やかな声が街角に響かなくなった国は衰退するのみ。子どもたちのゆとりある生活を求めて、来年度から学校5日制になるが、誰がゆとりある生活なのか。労働者である教師の生活のゆとりである。教師も労働者であるといって授業放棄してストに参加した教師もいた。その名残がまだ脈々として存在している。教師は特別だから公務員特別法によって一般公務員とは違う給与体系になっている。教師は特別だからという意味は聖職だからなのに、何を持って特別法が必要なのか疑問である。自分達の要求ばかりして子どものことなど何一つ考えない労働者もいる。この労働者とは労働者階級のことを言うのであって、わたし達は別名彼らを労働貴族と呼び、一般労働者から搾取している詭弁論者を指すことが多い。マルクス、レ-ニン主義の労働者革命から由来しているが、旧ソ連にしても中国共産党にしても、医者と教師は労働者という階級から外してあった。
藪から棒だが緊急提言したい。公立の教師採用にあたっては1年以上の民間会社での採用を条件として、その職務成績によって採否を決定する。なぜなら教師は知識の切り売りだけではなく全人格的な要素が子どもに影響するからである。ドイツではすでに行われている。2番目に乳児0歳から1歳までは各自家庭において親が養育する。それに関わる費用は国や地方自治体が負担する。でき得るその根拠として0歳から1歳までの乳児を預かる保育所などの経費から算出すれば容易にできる。また夫婦に不安を生じさせないよう子育て相談員は地域の幼稚園や保育所が行う。
「米百表」の話もすらっと出てくるほど教育に造詣の深い小泉総理のことであるから「国づくり百年の計」は「平成の教育改革」からを是非とも機会あるごとに提言していきたい。