初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

保育と教育どう違う?

保育するは幼児期で、教育するはそれ以後の話。文科省が区切っているのは就学前を幼児期、それ以前を乳児期といい、小学生は児童、中学生と高校生は生徒となる。大学にいって初めて学生となる。出世魚のような呼称だが、明治以来この呼び名である。

 

保育は子ども達をいたわることが前提となる。教育だって子ども達をいたわることが前提とならなければならない。子ども達を怒鳴り、机の前に坐って、ある教科書を丸暗記してpaper testで100点取ったからといってそれが何になる。教室で教師の人としての温もりを知り、絆みたいなものを紡いでいく作業こそが人間教育だと思う。

 

教育は「生きる力」を育むというのが文科省。私はもっと能動的でないといけないと思っている。生きる力は、内臓がしっかりとしていれば生きていることはできる。人間として生きるには、「生きていく力」でないとならない。

 

生きていく力は、困難に出会ったときに発揮できる力を言うのだ。保護者が恐いといって、冒険ができなくて、何の教育だと首を傾げたくなる。「はっ!」とするような冒険。例えばターザンのようにロープを握り、木から木に乗り移ったり、そのまま水の中にドボーンと入ってみたりする。あのロープを放すタイミングをはかり、離す時の決断はなんともいえない自己充実感があるものだ。そのような体験が経験となり、ものを判断したり決断したりする要因となることは容易に理解できることだ。

 

幼稚園では年長だけの活動にサバイバルというのがあって、130メートルの直線を往復10回やる。歩いても駆け足でも良いが休んではならない。2.6キロをずっと掛けているのもいる。子ども達が活動に入っている間、私が熱いうどんをつくったり、ご飯を炊いたりしてみんなを待っている。息を切らして一番で入ってくる子もいれば、ゆっくりと歩いている子もいる。しかしだれもおしゃべりなどしていない。自分のペースで自分のようにやっている。しばらくしていると、終わった子の集団が、遅い子のところへいって「がんばれ!頑張れ!」と応援に行く。最後には、私が言わせるのではなく、「みんなができてよかったね」と子ども達が言う。子ども達のやさしさに時々泣かされる。

 

口先だけで「個性を大切に」「皆それぞれに違う」といっても、その実、公立では金太郎飴の如くどこから切っても同じ顔の子ばかり作ろうとしているのが現実だろう。保護者も個性だどうのといっても、周りの子と自分の子を見比べている。自分の子の持っている素晴らしいものを見ようともせず、他の子の素晴らしさと天秤に掛け、足らないことばかりを子どもに押し付ける。これでは子どもの居場所がない。閉じこもってみたり、反社会的になったりもしてみる。それしか道がないじゃないか。

 

サバイバルに戻ろう。かつては私の家の隣ががさやぶであって、そのがさ藪を通り抜けると広い道に出るという場所で行っていた。自分の背丈以上の枯れ草が繁っているところへ、グループごとに手をつなぎ、どこまでもまっすぐ歩き、何かを発見してくるということをしていた。どんな発見をしてくるのか楽しみに待っている。「草が多くて歩きにくかった」「違った草を見つけた」「たまごがあった」などと、光もささないひんやりとしたがさ藪の中で、様々な驚きや発見をしてきた。

 

このように幼稚園では子ども達と共に身近にある冒険をしてきた。今度は初等学部の番だ。しかし先ほど書いたターザンの真似事は、多くの保護者から賛同を得られまいと思う。私の幼稚園の保護者からは、苦々しく思っても私に直接不満を言ってくることはないだろう。来年度の初等学部は、保護者はどう思うか分からないが、冒険大好き初等学部にする。どうぞご理解を賜りたい。

物言えば唇寒し・・・

もう冬で日増しに寒くなる季節。表題は秋の季語がついているので現状に似つかわしくないが、社会のあり様をちょっとひねってみただけのこととご理解願いたい。この表題で以前にも書いたような気がする。が、ボキャが少なくて気にしないで書くことにする。


4年生の保護者と、1年生の保護者と相次いで話し合いをした時、特に4年生の保護者は中学校ができるのかどうかということが中心的な話であったように記憶している。目先すぐの話だから無理もありません。

 

あおば台所属学園は伝統のある大きな学園ではなく、小さな個人商店みたいなものだから、何をやるのでもまず私が最初に旗を振り、膨大な文書を用意し、役所との交渉に入らなければならない。合議制などというものはない。私が判断し、私が決断する。そして私が責任を取るというのがあおば台である。

 

既に私は、中学校建設に前向きどころか決断している。絶対にやるという決断です。小学校は気合と共に何とかやらせていただいたが、大きな壁が立ちはだかっていることは事実。それはどのようなことかというと、設置基準に合致しているかどうかということで、尚具体的なことを言えば、それだけの資産があるかどうかということである。それだけを追求されれば、ない。今までは、それがどうしたという気持ちでやってきたが、通る場合と通らない場合とがある。

 

児童数が少ないのが建設に大きな影響を及ぼすのは確かなこと。何とか少しでも建設に足がかりを付けたいと、あおば台と第二幼稚園保護者に「入学のお願い」を書いたことが、園長は「ぶれた」と取られた保護者もいるという。悲しいかな私は他人の目を気にして生きてはいない。何を今更この歳で「ぶれる」必要があるのか。初等学部児童1人になっても、その子のために命がけでやるというのが私の信条だ。そうでなければ初等学部を創った意味も、私が生きながらえている意味もない。

 

私が神様に願っていることは、中学校ができるまで、高校ができるまで生かせて欲しいということ。寄宿舎を建て、子ども達を家族から離しそこから通わせる。親の愛情は離れてみて、親の偉大さは、死別でしか理解不能であるというのが私の考え方。祖父母に畏敬の念を、両親に感謝。どちらも無言のうちに伝える方法である。

 

 幼稚園は今個人面談花盛り。色々と保育者から情報を頂きますが、保護者の方の子どもに対する愛情の深さにありがたさを感じます。子どもが常に「愛されている」という気持ちを持ち続けることは、やがて子ども自身が判断したり決断したりしなくてはならない時に、必ず背中を押してくれる。勇気を与え、強い支えになることは間違いのないこと。

 

ここで間違ってはならないことがあります。「愛している」というメッセージは常に出しておく必要がありますが、押し売りはいけません。押し売りは見返りを求めるものだから、すぐに見破られてしまいます。「私はあなたをこんなに愛しているから、だからお願いこうして欲しい」では、子どもはやがて口を閉ざしてしまいます。

 

「今ある子どもの心に沿うこと」は保育者の必須条件ですが、一番身近にいる保護者の皆さんこそ、この極意が身についたら鬼に金棒です。一緒に努力していきましょう。

お久しぶりです。

 昨日は有事法制が衆議院を通過した。たぶん間違いなく参議院でも可決されるだろうから戦後の歴史的な重大な出来事となることは間違いない。折りしも5月15日というところに歴史的ないたずらが隠されているように思える。
1932年、およそ70年前になる話であるが、海軍将校と陸軍士官候補生が決起し犬養首相を殺害した5・15事件である。その後、軍靴の響きとともに大正デモクラシーの余韻も覚めやらずに一気に軍国主義に突き進んで行ったと言われている。
 首謀者たちは、不公平な軍縮に同意してしまった政府のふがいない姿勢を糾弾したものであったらしい。しかしながら当時のマスコミは彼らに同情的で、「政党財閥、特権階級は出処進退ことごとく私利私欲である」「天に代わって誅伐するにどこが悪い(天誅)」と、現在ではおよそ信じられないような激しく勇ましい報道であった。それはまさしく世論の代弁でもあったろうと思うが、現代の新聞には「彼らのテロを容認してしまった」と悔恨の意味を含んで反省文として掲載されているものもある。しかし彼らは無差別殺戮はしなかった。
 しかし反論を恐れずに言わせていただくなら、彼らには少なくとも私利私欲のない純粋な愛国心の基で決断したことであろうし、結果として軍国主義を加速させてしまったことは歴史が証明していることではあるけれども、それが第二次世界大戦を引き起こしたことではない。不公平な軍縮会議で、日本は欧米列強の属国になってしまうことを恐れた結果の行動であったのだ。国民はそのような心意気を感じ取っていたからこそ、当事者たちを擁護したのだと思う。
現在の道路交通法では、戦車は一般道路を走れないので走れるようにしたり、ミサイルを一発貰ってからしか軍事力の出動できない法を、未然に防ぐことができる法に返るのが今回の有事立法の制定である。有事の際に、個人の権利を最大限尊重するなどの付帯事項があるようですが、空から爆弾が落ちてきているときに個人の利益も何もあったものではないと私は思う。国民が一致団結しなければならないときに、どこまで個人の利益を守れるかは今後議論の的になるでしょう。敗戦国戦後日本のまとまらない国家を作る進駐軍の意図したとおりである。

 暴飲暴食の上に、ストレスがたまると誰でもかかるという成人病に、例に漏れず一般的人間の仲間入りをし、一ヶ月ばかり入院を余儀なくされた。今は仮に退院している状況であるけれども、また何回か検査をして7月には大腸にあるポリープを切除する手術をするらしい。良性だというので心配するようなものではない。
 糖尿病、肥満、高血圧、高脂血症は「死の四重奏」などと言われているそうだ。自覚症状がないものだから、ある日突然倒れて体の一部が機能停止したり、目が見えなくなったりする。「あなたはそうならないと自分の健康に感謝できないのでしょう」と優しい言葉で戦慄に落とし込まれてしまった。疲れやすかったり、集中力散漫だったり、フラフラしたり、少し歩いたぐらいで動悸が激しかったりと、いや今思えば自覚症状はあった。皆さんも知らずして自分の体が何者かによって蝕まれているかも知れない。精密検査をして十二分に医者の言う事をよく聞いて健康維持に努めましょう。

 麻生太郎自民党政調会長の講演を聞いた。経済問題、教育問題、防衛問題と多岐にわたって分かりやすく解説してくれた。テレビに出てくる変な学者よりよほど国民向けでよかった。さすが政治家だと思った。生まれながらの素質に加え、九州の麻生財閥の長男であり吉田茂の孫に当たる人でもある。日本青年会議所の会頭を、地方の理事長もせずに旧来の話し合いから選挙に出て見事当選した。当時は話題の人でもあった。総裁選挙で手を上げたのはこのときの「手を上げなければ何も起こらない」ということをすでに学習していたのである。
 血統書付きの政界のプリンスであることは間違いない。しばしば下半身の話題を持ち出すので云々。とある週刊誌に書かれていたが、生まれのよさの照れ隠しであり、そこに生まれてみないと分からない育ちの良さのジョ-クである。
 その本人のすごさは誰も認めざる得ないが、その周りを取り囲んでいる青年会議所に意義がある。日本青年会議所で何らかの役職を欲しがる会員は麻生事務所詣でをしなければならない。麻生さんがいくら万年青年といえども(確かにそう見える)60を超えた先輩にお伺いを立てなければ人事が動かない現実に、なんら不思議も悔しさも感じない軟弱な青年にこれからの日本を託すわけには行かないだろう。周りにいてその権益に預かっている人たちも、麻生さんはこれから日本の総理大臣になる人なのだから、若い青年の心情をもてあそび、意地汚く姑息なことで足を引っ張ってはならない。それこそ私利私欲ではなく麻生さんの立場も考え日本を考えていただきたい。
 そうこうして一日遅れの新聞に目をやると、「予定利率下げ」「生保経営責任を明記」契約者に負担を迫るだけに責任の明確化が必要と判断した――云々。あのメガバンクは何兆円もの公的資金の投入という国民の負担を強いているのに誰も責任を取ろうとしない。公的資金が投入されれば国民的感情としても経営責任を免れられないと感じるのが正常な考え方である。挙句に竹中金融担当大臣を失政と批判する始末である。あの頭取たちが、まだ自分たちが必要とされていると錯覚しているところに日本国民の悲劇がある。あの人たちが辞表を提出するだけで、期待感にあふれ株は上がる。銀行株が上がれば市場の牽引にはなる。

 拉致問題が沸騰しているさなか、外務省の外郭団体が北朝鮮に人道的な問題として米を送ったという話を聞いた。自民党の大物政治家もそこに含まれているらしい。貧しい人たちに必ず手渡しされているという保証も当然確信もない。たぶん軍隊に優先的に配られるか少数の高官に届けられるのだろう。何か弱みでも握られているのだろうか、かんぐられても仕方がない。不思議な出来事だ。--きっと悪代官がいるのだ。
 時代が違うからあまり過激なことは言えないけれど、古い書物の紐を解いてみると昔は「義人」と言われる人がたくさんいて、正義を盾に世直しをしたというのがある。殆ど私利私欲に凝り固まったやつを成敗してくれて痛快そのものである。
 純粋な愛国者は一人一殺をもって国を変えようとした。右翼という定義は別として、たとえば彼らを右翼と呼ぶとすれば、現在では本物の右翼は出てこれない。チンピラや暴力団が何の思想もなしに右翼の名をほしいままにしているから、崇高な信念を持った愛国者が隅のほうへ追いやられてしまっているのだ。しかしこれだけ安定した社会だから義人も活躍の場所がない。政府要人を一人や二人拉致したところで何も変わらないだろう。国会開会中に戦車で議事堂を攻撃するか霞ヶ関もろともふっ飛ばさないと日本は変わらない。作家三島由紀夫のように東部方面隊に行ってお願いしてこなくてはならないだろう――。やはり少し過激かな。でもこのくらいは書かないと病気は治らない。

 しばらく幼稚園を離れていると子どもたちが無性に恋しくなる。卒園した年長はどんな気持ちで小学校に通っているのだろうか。いじめにあったら「おまえは強いんだからぐっと腹に力を入れて笑ってみな」「何があっても大丈夫だよ。俺がついてるよ」と励ましてあげたい。
ちょっと用事があって病院から外泊許可をいただいて幼稚園に行ったら、デレスケチョンボ(造語-聞き分けがなく失敗ばかりして、しかもニヤニヤしているさま)をしていた年中さんが年長の当番バッジを胸にえらそうにしている。少しほっとした。めちゃくちゃな年少さんだった年中さんも立派にしっかりとした日本語をしゃべっていてほほ笑ましい。保育者は何年もの経験があっても、毎年違う子どもたちと出会うわけだからいつも初心に返り、自らの足らざるを知り、子どもたちに寄り添い、先輩の話しをよく聴いて、明るく元気に仲良くしっかりとあおば台の保育をして欲しいと願っています。平成15年5月16日

もう!疲れる!

 北朝鮮の拉致問題で、横田めぐみさんの15歳になる娘さんがインタビューに答えていた。一見して利発そうな純朴無垢な少女である。インタビュアーの質問の意図がよくわからないので、堪え難くなってあちこちとチャンネルを回していたら、平沢拉致問題議員連盟事務局長に「平沢さんのやっていることは間違っているよ」と言っているのを耳にして、そこでチャンネルを止めた。テリー伊藤と言う色眼鏡をかけたいつも変な帽子をかぶって登場するタレントである。
 「5人の被害者を北朝鮮に返すべきだよ。残された子ども達はどうするの」とテリー。平沢さんは「拉致した加害者に渡すわけには行かない。現状を回復させることが第一である」「その上で子ども達を日本に呼ぶ」。「北朝鮮を怖がりすぎだよ。とりあえず北朝鮮へ返して子ども達に合わせて日本に一緒に帰ってくるのが望ましい」とまたもテリー。この発言は、あたかもテリーは子ども側に立って子ども側の味方のように受け取られる危険性があるが,売名的で木を見て森を見ていない。24年間も娘や息子の安否を気遣い,生きていることだけを信じて暮らしてきた家族の前で発言できるような事ではない。一緒に討論に参加していた司会者も、高速道路公団問題で忙しい猪瀬さんも、やんわりと焦点を外していたけれど、あのような社会的無知な発言は、多少なりとも顔が売れてきたタレントは厳に慎むべきであると私は思う。石原都知事と親しそうに話をしている番組を見たことがあるけれど,石原慎太郎の薫陶は受けていないようだ。

 チェチェン武装組織がモスクワの劇場を乗っ取って、ロシアにロシア軍をチェチェンから引き上げるように要求したが聞き入れられず,今日未明ロシア軍特殊部隊が突入し首謀者を殺害700名の人質を解放した。こんな芸当は日本にはできないだろうな。誰か死んだらどうする,人名は地球より重いとか言って犯行組織に言いなりになって,おまけに大金をくれてやる。海外へ行っても日本人がよく狙われるのもうなづける話だ。今問題になっている‘よど号事件‘もそうだった。人命に関わることでは常に及び腰で、その後になって事態をもっと深刻にしてしまう。何が正義なのか毅然とした決断が求められる顕著な例であろう。
 今回の拉致問題でも、政府がもっと大きな声でアナウンスしていたら、これほどまでの問題にならなかったろう。戦争になることが怖い、テポドンが怖いと言う卑屈な為政者による不作為が生んだものである。日本国民を守れない政府など無用であるとしみじみ思う。他国の国民を拉致することは犯罪行為はおろか戦争行為である。もっと以前に判っていたはずなのに返す返す残念でしかたがない。
 多分日朝正常化交渉の中で,拉致問題と核開発の断念がすぐ前にあるハードルであり,その後に相互に請求権の破棄を確認し経済協力問題に入っていくのだろうが,拉致された家族の賠償請求権は留保すべきだ。
しかし不思議なことがある。日本では不景気で職に困り,各家庭では切り詰めた生活をしているにもかかわらず、他国に何兆円と言う援助ができるのだ。国も地方も税収不足といいながら何故そんなお金があるのだろうか。そのマジックを教えていただきたい。何故介護保険料が値上げされ,雇用保険や社会保険が値上げされ固定資産税が下がらないのか。何故日本に敵対しているところに日本国民の税金が投入されるのか。日本国民をないがしろにして外国へ良い顔をしているのではないか。政府の説明が必要だ。

不満は言っても言っても切りがない。私の周りを見渡すと,勝者はいつも慈悲深く謙虚にして寛容である。その反対の敗者に最も近い位置にある者は,いつも悪言多く他を許さず卑屈である。不満ばかりを連ねると本当に口が曲がってしまいそうだ。しかしもう少し許してもらおう。
保育所がぐっと幼稚園よりになりそうな気配がする。これは保育内容ではない。保育内容と言うか運営内容はぐっと幼稚園が保育所に近づいてきている。それは保育内容は時間延長とかを保育所に近づけ補助金は幼稚園に近づけるものである。幼保一元化は台所事情から加速されそうだ。
この調子でいくと、楽をして子育てをしようとしている親と対立していたのでは、そう遠くない将来において、我が幼稚園の経営が成り立たなくなるだろう。園バスは家の前まで、預かり保育は親の望む時間まで,小学校の先取り教育,あれやこれやの早期知的教育,子どもへ絶えず監視の目と,指示語と怒声,しっかりして、親の手を煩わせない子どもを望む。オーヤダヤダ!子どもはみんな窒息死してしまうぞ。
やはり小学校をやらなければならないだろうな。そう言えば私の友人が、具体的に小学校を立ち上げる設置認可を県に提出した。後で提出書類を見せてもらおう。ガンバレ大久保博之!私にもやらせてくれっ!

頑張り切れなかった小泉さん

 日朝トップ会談が戦後初めて開かれた。専用機から降りてすぐに会談場所へと向かい、そこでは金正日が待機しているかと思いきや,わが国の首相が数分待たされたらしい。本来招待する側は、玄関先で待つというのが儀礼であろう。しかしわが国の首相は毅然とした姿勢で、ニヤニヤせず距離をおいてしっかりと握手を交わした。忍耐と寛容と度量の試される瞬間でもあった。成果はともかくこの姿勢は大変良かった。
拉致問題はすでに死亡している人が8人もいたという衝撃的なことから始まったが,日本国中誰もが信じていない。金正日は「私の知らないところで行われていた」と拉致問題と不審船について謝罪したと報道されている。絶対的専制国家の北朝鮮において、金正日が知らないところであのような事件が起こるはずがない。もし言っている事が事実なら、金正日の絶対的権力に陰りが見えてきたと言うことになる。となると権力抗争によって内戦勃発か、韓国へ侵攻するといった軍事行動が考えられる。
 外務省を?伏魔殿?とはつくずくうまいことを言ったなと感心している。日本外務省は日本国内にある小さな国で,日本国から外務を下請けしている独立国家なのだ。日本の将来や国民の利益などは余り考えないで,みんなで手をつないで外務省を向いているのだ。聞くところによると、拉致された家族が、我が子の生存を北朝鮮に照会してくれと頼んだら「身に危険が及ぶから余り騒がないほうがいい」と云ったという。旅券(パスポート)の最後に外務大臣が旅先で支障がないように、安全に旅行できるように各国駐在官に要請している文面があるけれど,あれは一体何なのだ。外務省に国家を代表する資格はない。
これから政治経済の中で、益々国境がなくなっていく社会になりつつあるから、体外的な役割は今にもまして重要になってくることは明らかである。口惜しいことだが、まずやらなければならないのは、国民の国民による国民のための外務省を新たに作ることではないだろうか。と思うと、あの田中真紀子と言う人物は、じゃじゃ馬だが並みの男では近付けない度胸を持っている。色々な経験をしただろうから、捲土重来を期して国民の前に出てくることを素直に願っている。
 よく分からないのは、日朝国交正常化交渉を急ぐ理由である。世界平和は誰もが願っていることであるけれども,北朝鮮がミサイルを開発したり、核爆弾を持とうとしたりするのは日本には脅威であるけれども何も日本の責任ではない。もともとスターリンの傀儡政権である金日成が、朝鮮半島を共産国にするために仕掛けた朝鮮動乱(戦争)の産物である。日本がかつて植民地支配していたからではなく、資本主義(米国)と社会主義(ソ連)との代表選手の喧嘩に巻き込まれただけのことである。中国とロシアの手に負えなくなってきたから,日本に押し付けてきているだけで,日本はかつて対峙していた中国・ロシアの手にまんまと乗せられてしまっているのだ。その証拠にアメリカの反応を見ればよく分かる。
正常化交渉を急ぐ理由が,北からの侵攻に怯えているとしたら、またそのときに起こるであろう難民に対処しなければならない政策は理由にならない。日本の国民を拉致し,覚せい剤やヘロインを闇市場で処理している犯罪国家であることを忘れてはならない。日本の政治家はよく平和を口にするけれども、実効性のある平和主義は、それなりの報復する手段を留保できる寛容な政治力である。それ以外は全てまがい物であるか,威を借る狐のレトリックに過ぎない。
百歩譲っても,拉致された日本人は海外で20人,国内で40人,今回のを合わせると約70人ぐらいいると聞いているが,その人たちの現状復帰と国際社会への謝罪を求めなければならない。北朝鮮を孤立させないなどと総理もあっちこっちで言っているが,孤立したから自ら打開しようと動いたのだということを忘れている。人道上食糧支援を行う用意があるなどといっているが,拉致と言う人道上の問題をないがしろにして良いものか。日本からの食糧支援は赤十字を通しても間違いなく軍隊に送られる。なぜなら権力者は軍の掌握は必須の条件だからである。国民が何人死んでも,軍隊の暴動は押さえなければならないのだ。そうなると北朝鮮の状況はかなり逼迫している事が解る。
 金正日は韓国との約束をずっと破ってきたので、恥ずかしくて金大中には今更助けてくれとは頼めない。だから何度もロシアに工場見学だといって食糧援助を求め,中国の江沢民にも懇願した。しかし、プーチンには日本に対し拉致問題を潔く謝罪することを進められ,江沢民には亡命者を何とかせんかいと言われ、金正日の茶色い眼鏡から汗がたらたらと流れた結果が今回の日朝会談である。しかもアメリカの?悪の枢軸?発言が強力な後押しとなっている。小泉総理はコペンハーゲンで行われているアジア欧州会議で、金大中大統領と会い?太陽政策?を支持すると改めて伝えたそうだが,本気でそう思っているとしたら大きな錯誤である。
 いっぱい書くことがあって、何から手をつけていいのやら戸惑ってしまう。ただの幼稚園の園長が何を言っても始まることではないが,幼稚園の園長ではなかったら,それこそただの路傍のおっちゃんである。にわか評論家というのではなく、一国民としての意見である。日本人としての積極的な意見であると理解していただきたい。
 国交30周年とやらで政治家も経済人も大挙して中国へ渡った。何と祝宴では6000人が参加し、記念植樹では12000人が参加したそうだ。特に政治家では橋本派が多くそのパイプの太さを誇示したと読売に書いてあった。政治家は100人ぐらいと書いてあったから、そのうちの60人ぐらい行ったのかなと思う。
式典の規模の大きさに圧倒されるが,正直言ってここまでやるかなと思う。北朝鮮の問題も江沢民に頼まれ,日本の政治家が功を競い、江沢民の茶坊主にならなければいいなと密かに心配している。猫も杓子も中国・中国。少しばかり恥を知れ!と言いたい。これから外交委員会で誰がどのような発言をするのかよく見ていかなければならない。声の大きいのと理攻めで言ってくる政治家に注意をしよう。
 中国は日本国総理が靖国神社を参拝する時に「やめなさい!」とはっきり言いましたと言った外務大臣がいて,日本から大分抗議された。いつでも中国は戦後処理のカードと靖国参拝のカードを握って日本と交渉してくる。そして声を荒げてまくし立て、実に騒々しくて決して頭を下げない。日本の政治家の中国ロビーストは中国における膨大な利権を求めるのではなく、また相手を過度に賛美するのではなく、日本国民のために折衝すべきである。それは物の豊かさではなく、卑屈な妥協は決してしないと言う誇りである。これがなければ、どんな立場にある人でも軽蔑の対象になる。
 
 (ここから少しトーンを変えて)
私は何度か保育所のことを書いているけれど,運営や経営の実態はまったくわかりません。国の所轄が違い,保育所に注ぎ込まれる補助金の額が、幼稚園に注がれる額とはけた違いであることはよく認識しています。例えば,預かり保育に関する補助金は文部科学省では16億円の予算で厚生労働省では270億円というように桁外れです。同じ年代の子どもを預かっているにもかかわらず,このように差があるのはひとえに政治力の差であるなどと、まことしやかに言っている人がいます。実は私もそう思っています。公平な徴税と国民への公平な分配より,政治家の力による分配なのだなどと今更のように言うのも白々しいけれど・・・。保育所をやったらどうですかと,そのノウハウを伝授してくれる優しい仲間もいますが、真面目に聞く気になれない。
 保育所ができたのは、昭和22年戦後の混乱期に、親のいない子や両親が共に働いていて、居場所を無くした幼児を児童福祉法によって、保育を必要とする子を措置すると言うことになったわけです。今はその趣旨とは若干異なるけれども、まだそのような状況にあるとは、政治家の不作為であると思います。
 本来保育所の必要性がまったくなくなるというのが、経済大国であり福祉大国であろうと前から思っています。生まれた時から保育所という施設で国が預かってくれ,幼児を早めに母親から引き離すことが福祉であると間違っている向きがあります。それは本末転倒な話で,本当は生まれた子を母親の下で安心して育てられる国家の体制こそが福祉なのだと思います。待機児童ゼロなどのくだりは,福祉のまやかし,教育の荒廃に国が手を貸しているようなものであると真に思います。
 とはいえ、「幼稚園に来れる子は幸せだ」などの声も聞かれるので,保育所を必要としている方も随分多いんだなとも思います。なるべく1・2歳児は母親の元で育てたほうがいいから,多少無理がきくならそうしてやって欲しいです。後で問題が生じることになったら,1年や2年で解決できなくなる怖れがあります。
幼児期で一番大切なことは安定した温もりと人間として生まれてきて、大人や仲間を信頼できるということを体感することです。0歳から施設に預けることは、この信頼を母親から最初に裏切られると言うことです。どんな言い訳をしてもこの事実は変わりません。少し厳しいようですが、子どもを救うためには多少の辛口は必要だと私は思っています。・・・子ども達が大人を信じられる社会になれますように・・・。