初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

シンガポール

シンガポールにきている。ANAに久しぶりに乗ったけれども、沖縄を越えるところからずいぶんっと揺れていたのに、客室乗務員は何事もないようなそぶりで客 に相対していた。日本は地震が多いから案外気にならないのかもしれない。外国の航空会社では、すぐにアナウンスが入って乗務員も同じく座席に腰掛けて揺れ が収まるのを待つといった状況だ。偉いなと感心すると同時に大変な仕事だと思う。

かつて初等学部で英語を教えていた先生に会 いにきた。実はその先生の息子はあおば台幼稚園の卒園児だ。もう21歳になると言うのでどのような青年になっているのか、非常に楽しみであった。現在は徴兵に出ているけれども、なんとプロのサッカーチームに所属していると言う。驚いたけれども、驚いたのはそれだけではない。サッカーはいつまでもできないから、しっかりと国立の大学へ行って仕事に付かなければならないと思っていると言う。しっかりとした考え方を持っているしそれを実行している。

21歳にしては日本の青年と比べたらしっかりしている。日本の青年が大人になりきれない雰囲気を漂わせているのは、多分親の介入ではないかと思っている。子離れできない親が軟弱な青年にしてしまうのではないか。そればかりとは言えないが、大きな違いは徴兵制がある事だろう。 若い時から命をかけると言う経験をしたものはそれなりに心の基本的なものに筋金が入るものだ。

年少さんの保育参観

両園ともに年少さんの保育参観が終わった。初めて幼稚園に来て、友達という仲間ができてどんな子どもの世界を演出しているのだろうか、興味津々と言ったところであろう。仲間がいると言っても、意思の疎通はなく場の共有はあっても同じ意識は持てないから、同じ遊びの中でもすぐに衝突が起こる。3歳児の心の発達の出発点みたいなものだから、かえって動作や仕草や言葉のやり取りなどに興味がある。混沌とした心の葛藤があって、人として成長していくのだろうなと思う。

幼稚園に来るまでの子どもたちの育ちをすぐそばで見守っていたお母様はよく頑張って来たなと思う。部屋の中で子どもと二人きりで、子どもはまだ言葉を理解しない状態である時など、煮詰まってしまってときには発狂したくなる時もあったろうと思う。それは重々理解できるが、だからこそ子どもの成長を楽しみに待てるのではないかと思う。楽しく前を向いて子育てしてくれるようにお長いしたい。必ず子どもは親の期待に沿って行ってくれると信じてほしい。そして何よりもお母さんが幸せになること。

チバニアン

77万年から12万5千年前の地層が見つかった。国際学会での名称が『チバニアン』と命名された。ただチバニアンという名前を聞いても、千葉にもインディアン 部落があったのかぐらいで聞き流してしまう。ましてやその筋の研究者しか知らない用語で解説されても分からない。地軸が反転したなどと聞いても、地球が180度回転したのかとか、その時の地上にある物はどんな現象を起こすのだろうかと考えると、地球が180度回転するのには少し無理があるから、S極とN極が瞬間移動したのだろうなと思うが、それは何故?。

そもそも極が反転したなどどうして分かったのだろうか。いやいや説明はいい、聞いても理解できないから。多分大型恐竜が地球上を闊歩していた時代でもあるだろう。まだまだ人間は登場してこない。ちょっと待って、大型恐竜の時代は6500 万年前に終わっているのだから、その後の地層だ。小型の哺乳類などが生まれてきたころではないか。こんな研究をしている人はロマンがあって生きがいがあるだろうな。学習の初発はやはり興味や関心からだ。そして探究心を深める。

小学生の少年に戻って、今ぐらいの知識を持っていたら地球物理学者になりたかったな。地球の果ては大きな滝があって、そこへ行くともう戻って来られないなどと真剣に考えていて、地球というところはとても恐ろしいところだと思っていたので、コペルニクスや、ガリレオガリレオよりも前の古い知識しか持っていなかった私には地球物理学は無理だ。誰が私にそんなことを教えたのだろうか。

それでオルタナティブは?

自由な学校としてのオルタナティブスクールには大賛成だが、それで教育者としての責任は果たせるのだろうか?という疑問が残る。多様な価値観があるので個人の教育的価値観を押し付けるわけにはいかないけれど、義務教育というのは文科省の教育的価値観を押し付けているといっても、全く的外れな意見だとは思わない。そこで教育というのは国家に帰属するものなのかそれとも個人に帰属するものなのかという議論が沸き起こってきてもよさそうだと思うけれども、国家に財 政的な援助をお願いしている立場上、国家に帰属するのではないと強くは言いにくい。

それは私が勝手にそう思っているだけのもので、国家が国家に帰属するものだということは教育基本法にも書いていない。けれども学校法人を取得するのには、国家が介入してくる。だれにでもできないようにしてあってそのハードルは高い。そのことは『私たちの言うことを聞かないと学校は作らせませんよ』と言っているようなものだ。だから日本国中に散らばっているオルタナティブの考え方では法人は作れない。彼らが法人にしたいとは言ってないが、それで運営するのはどうやって?感心する。

も う一つの疑問!。教育者としてある程度の知識を子どもたちに与えなければならないと私は思っているけれども、そのへんのところはどうだろう。青葉台では発達に応じて縦割りの学級を作っていてそこで基礎学習を学ぶ。その他には選択授業として、子どもたちが興味を示す学習に取り組むようになっている。それは堀先生のところで取り入れたものが多いけれど。子どもの学習への発露を重視している。だから全くやる気になるまで待つといっても待つばかりではない。静かに背中を押しているのだ。

焼き芋パーティ

プライマリークラス主催の焼き芋パーティである。ミドルやハイクラスの先輩を招いての楽しいパーティの始まりです。今日はあおば台でも焼き芋パーティだ。

 

先輩から教えて戴いたセレモニーはしっかりと。

 

一番年齢の低い子がリーダーシップをとっていても、茶化す者もなく先輩たちは神妙にして聞いている。
この学校のいいところだ。

 

1.2年生号令のもと、みんなで『いただきまーす』。とてもおいしかった。

 

1年生からの招待状

『やきいも大かい』『11がつ9にち(もく)』『じかん 3じかんめのこうはんごろ』『大そうこのまえ』と外国人が日本語を初めて習ったようなたどたどしい平仮名で書いてある。『りじちょうせんせいへ やきいも大かいをたのしみにしていてください プライマリーより』と添え書きもしっかりとある。何かあるたび にこのような招待状をもらう。たどたどしくも一生懸命書いている姿が浮かんできて、ありがたく頂いている。彼らにとって何かの思い出になればいいなと。

こ の10年間で不登校や何らかの理由で学校へ行かない子どもの数が増えているという。そのせいかオルタナティブスクールという学校に人気が集まっているとい う。オルタナティブというのはもう一方のとかもう一つのという意味の学校である。文科省の義務教育では満足できないというか、うまくなじめない人たちが自分の居場所を探してたどりつく学校である。サドベリーバレーの教育もこの種に入るが、日本の社会構造にうまく溶け込めるのだろうか。しかし私はこの教育的考え方には賛成だ。

なぜなら画一的な義務教育に、私の生き方はぴったりとくるなんて人はほんの一握りに過ぎない。そこにじっとしていなけ ればならないほうが拷問のようではないか。そこに反発できる子どもの方がむしろ自分を生きる要素を色濃く持っているのではないか。とはいえ日本は学歴社会 で、幸せイコール高学歴ではないということを理解していながら、あとは親の体裁で何とか人前に出ても恥ずかしくない学歴をと思っている。このような凝り固 まった感覚が幅を利かせている間は、オルタナティブは試練を強いられる。

またオルタナティブでは運営資金に事欠く。きのくにこどものむら学園の堀真一郎先生も、それが大きな問題であった。どのような形にしても教育をするのには資金が必要だからである。その結果学校法人の資格を取った。私は最初から法人格を持っていたから、法人以外の学校を作ろうとは思わなかったが、結構強い縛りがあって、自分の思うようになんてことはできない。勿論オルタナティブのようなことは絶対にできない。でも堀先生はうまいことやっている。

秋深まる

寒い日ではなく、冷たい風が吹き低い気温になると秋は一瞬に深まる。太陽の傾く西の方から木々の葉も色づいてくる。そんな想いを持って空を見上げてみると、 鰯雲だか飛行機雲だかが東から西の方に流れている。一抹の冷たい風がヒューッと頬をなでていくと、秋は短い、もう冬がそこまで来ていると感じる。しばらくすると、年の瀬となりそこでまた感慨深くなるだろう。そしてその次には、年齢の重みに深いため息をすることになる。年をとることに抵抗はないが、加齢による何とかという言葉が大嫌いだ。

いつだったか保育園保育士と幼稚園教諭の仕事の違いを書くと言っていたのでこの紙面を借りて少し書いてみ ようと思う。まず誰もが知っている様に保育士は厚生労働省の行政担当であって、幼稚園教諭は文科省の管轄である。幼稚園は教育法によってその地位が確保されている。保育所は社会福祉法によるものだ。幼稚園にはクラスの担任がいるけれど、保育所にはクラスがあっても担任とは言わない。担当である。

幼稚園の教育時間は4時間であって、保育所は8時間以上が義務づけられている。保育所の場合親が8時間勤務だからなのだろうか、それは定かではない。そんなわけで幼稚園は担任はできるが保育所は担当制で交替でそのクラスをみる。だからと言って幼稚園が楽な訳ではない。幼稚園は指導要録があって、卒園したらそ の指導要録を進学する小学校へ提出しなければならないが、保育所にはそれがない。

私は企業内保育所という無認可の保育所を内閣府の補助金で設立した。面倒な書類が必要ないので簡単に出来るのでやってはみたけれど、そこで驚いたのが、保育所というのは子どもが中心ではなく、働く親のためにあると言うことが堂々と書かれていることである。建物が出来るころに一夜漬けで勉強したものだから、全ては後の祭りである。今まで子ども中心の勉強をしてきたものだから、唖然としてしまった。もっともこの施設は、あおば台の幼稚園あるいは小中学校の教員のお子さんを預かるのが主たる目的だから、今までの発達理解や教育理念に沿ってやっていけばよいことだが。

トランプ大統領来日

他のことを書くつもりでも、日本にとってはトランプ大統領の来日がトップニュースにならなければならないだろうと思って、表題はそれにした。北朝鮮問題を早く解決して、拉致被害者を一刻も早く救済して戴きたいものだ。中にはトランプ大統領来日反対なんて叫んでいる者もいるようだけれども、その理由を言って欲しい。誰が日本の周辺について安全を保障できるのか。日本独自で自国を守るというのはできればそうしたいけれども、今の状況では集団安保にすがるしかない だろう。

9人も殺した殺人鬼のその後の自供で、9人の中で誰も自殺願望者はいなかったと言っている。この殺人鬼は自分で働きもせず、お腹がすけば知り合いのところへたかりに行くような生活をしていたようだ。社会に対して無気力で、仲間関係もうまく構築できないようだ。普通に育った人間なら このような人と関わり合いたくないだろうし、このような人間の生い立ちについて、追跡調査をしなくても何となくその背景が分かりそうな気がする。全容解明 までまだ時間がかかりそうだが、この件に関してはもう何も知らなくてもよい。

金土と慶事が2件あった。一つは仕事場の結婚式で、素晴らし いお嬢さんを戴いた。私の職場は女性が多いので出しっぱなしで少々不満であったけれども、今回は何んとなく余裕を持って式を迎えることができた。あの讃美歌も少しずつ覚えてきたようだし、温かい披露宴であった。みんなにこにこして帰った。もう一つは地元で100周年を迎える歯医者さんの記念式典に出席し た。『100年てすごいな!』と言ったら私の隣に座っている柴沼醤油は400年だって。

とんでもない者

オーム真理教もとんでもない者だったけれども、9人も人を殺した殺人気がまだこの世の中にいた。想像を超える神経の持ち主なのは確かだが、どのように育ってきたのか榊原セイトと同じく心理学者にとっては興味のあるところだろう。何故そうも簡単に人を殺 せるのだろうかという、人と狂気の分岐点は何なのかということが知りたいのだ。幼児期の発達心理から犯罪心理学まで幅広い分野で犯罪者の生い立ちを追っていくだろう。人を殺すという決断はどのようにして芽生えるのか、知りたくもある。

人を殺すという行為にいたるまでの心理も大切だが、死にたくなるという自殺願望の心理にも困ったものだ。せっかく生まれてきて、親に育てられて、簡単に死なれたら親としてはやるせないどころか、気が狂ってしまうような苦しみを味わうことになる。犯罪心理はさておいて、この世の中を希望を持って楽しく生きられるようにしなくてはなるまい。手放しでもしっかりと育つ子はいる。そういった子に限って明るく楽しい生活を送っている。そのキーとなることは『認められている』ということに尽きるだろう。

それは親が思っているだけではだめで、口に出して子どもがそれを理解している状況を作らなければいくら認めていると言っても、子どもには通じない。認めていないことと同じだ。まず子どもが自分を大切に思われていると感じること。いつも自分が必要であると思われていることを感じていること。良く感謝されたりしていることが大切だろうと思う。大切なお子さんだから、大切なように育てなければならない。

幼児教育のこと

幼児教育、とりわけ幼稚園教育については、理念や実践において日本の幼児教育は世界に向けて冠たるものだと思っている。幼児教育はフレーベルから始まっているから、そのものまねのような幼稚園があったというのは事実であるけれども、最近の幼児教育は日本の文化に根差した日本独自の幼児教育だと自負している。 もっとも保育形態だけを論じてみると、自由保育や設定保育、一斉保育、選択保育などがあげられるが、これらの原点は何かというと横文字の海外の学者が提案したものが少なくない。

しかしそこから日本人特有のアレンジメントによって、発達心理や発達理解に則した保育形態を創造してきた。中には シュタイナーシューレーによる保育形態もあるし、青空保育と言った家なき保育などもある。これらはメジャーではないが依然としてこれらに固執した保育も息づいている。もともとと言えばルソーの『エミール』か発した子育て論が現代の教育学の原点になっているように私は思っている。社会思想家でもあるルソー は、『子は神の手から出た時は善であり、人間の手に委ねられると悪になる』などの言葉を残してる。

そしてまたルソーは『成長の論理に則して手助けをすることが教育である』と意味深な発言もしている。例えば発達にそぐわない行為は教育ではなく、むしろ子どもたちを壊していってしまうのだということ。このような理論は全日の幼稚園連合会でも十分に理解をし、研究機構から常に発信していることである。しかし依然として小学校の下請けみたいなことをしている幼稚園がある。これはそれを疑いもなく、早めにやることは良いことだと思いたがっている保護者が多いことに由来する。

しかしそう言ったことが、子どもたちの精神をむしばみ、欲求不満をあおり、内向的になるか、運動暴発のように反社会的な行為に及ぶこともある。発達に即しない行為は抑圧と同じであると私は定義している。また、抑圧された人生に良い結果は生まれないと信じている。幼稚園の素晴らしいところと、保育所との違いをこの次に書こう。

運動会は全部終わった

27日に初等中等学部のファミリアオリンピックが終わって、学園の運動会がすべて終了した。幼稚園の運動会はずいぶん待たされて、子どもたちの意識が高まったまま持つのかどうかということがとても気がかりであったけれど、保育者の努力や、ご家庭のご協力もあって子ども達の意識も切れることなく、のびやかに楽 しい運動会となった。今回は緊急的措置として平日に行われたが、幼稚園の運動会は何としても土曜日や日曜日にやりたいと思っている。それでも医者等職業に よっては休めない人がいるけれど、子どもとの思い出に残るのは親子とも運動会や、発表会などの劇遊びだろうと思っている。

平日にもかかわらず、お手伝いをしていただいた保護者の皆様には頭の下がる思いです。ありがとうございました。どこのご家庭の人も、どんなことでも子ども達の運動会を何とかしたいという思いは同じだと思います。親の気持ちに心を動かされます。感謝に堪えません。それにしても、10月ってあんなに長い雨になるんだっけ か?。

ファミリアオリンピックは面白い。まず人数が少ないものだから『お手伝いの保護者の皆さま、こちらに集まってください!』と係の保護者がアナウンスすると、観客席からぞろぞろと保護者が移動して、観客席に残っているのは、おじいさんやおばあさんだけになる。子どもたちはと言えば、 競技に出っぱなしで休憩時間なることがほとんどない。子ども達のことをそんな風に言っていたら、保護者から『保護者もそうです』と言われたが、それがとても和気あいあいとしていて、保護者のみなさんの温かさを感じる。一体感を感じる素晴らしいファミリアオリンピックだった。

運動会二つ

あおば台の年少の運動会と、第二の運動会二つ修了した。長雨に祟(たた)られてしばらく外にも出られなかったのだから、運動会が延期になるのも仕方がない。 それはあおば台だけではなく、その日に予定していたところも沢山あったろうから、私たちと一緒だ。保護者が沢山来ていて、親が近くにいるというだけで、子どもたちの心は躍るものだ。しかも自分の晴れ姿を見に来ているのだから、有頂天になってしまうのも無理からぬことだ。親子で平和な家庭の中ですくすくと育ってほしいと願っている。

ホリエモンが保育士の給料が安いのは、だれにもできる仕事だからだ。とか言ってツイッターか何かが炎上したと いう話を聞いた。それほど保育者の仕事について深く理解をしているとは思えないので、議論をしたいとは思わないが、マルクスのように労働イコール賃金とい うような考えばかりの人とは限るまい。

私は幼稚園が専門なので、幼稚園について言えば30年も前から日本の幼稚園行政は幼稚園教諭の安月給の上に成り立っているということを知事や文科省に訴えてきた。確かにあの当時から給料は安かったと私は思う。それは経営者の知恵が足らなかったのと、幼稚園教師というのはいいところの娘さんで、行儀見習いに奉公に来ているようなものだというような風潮があって、まるで武家屋敷のお嬢さんが幼稚園に働きに来ているというような時代錯誤があった。

それでも幼稚園教諭に憧れる学生が多く、募集の時期には溢れんばかりの応募があった。幼稚園教師になりたいと言う動機はと聞くと決まって『子どもが好きだから』『子どもの中で暮らしたい』とか『幼稚園の時の先生が憧れだった』が定番としてあった。給料がいくらだとか言うことが先に来るような低次元の話ではなく、自分がどう生きたいかということだった。大体この職業に就くときには今でもそういった気高さを持っている保育者が多い。ホリエモンは少し失礼だな。

今日は雨

雨が降りそうな気配が濃厚だったので、今日は運動会を入れなかった。また明日から二日間運動会が続く。雨が降らないことをお祈りしている。中国大陸からの帯状の白い雲が秋雨前線だがこれが途中で切れているので、しばらく晴れが続くだろうが、またしてもフィリピンの東海上で台風22号が発生したという。これが西に向き北上してくると弱弱しい秋雨前線が刺激を受け、またしても活気づく。そうなるとまた雨の日が続いて、弱い地盤などが崩れ落ちるというような被害が発生する。大雨が降ると小高い山のふもとでも危険だから、十分に注意してほしい。

希望の党が惨敗だと言っても、50議席あるのだから惨敗でもないだろう。小池さんの手法『排除する』といった言葉がかなりの不評で負けにつながったと言われている。しかしこれもマスコミの印象操作によるものだ ろう。このようなことをしょっちゅう言われたり書かれたりすれば、もっと誇大解釈して思わぬ方向へ流れることもあるだろう。なぜならば党派を組むには、同志的なものが必要だからそれにそぐわぬ者は排除されてしかるべきである。全く主義思想の違う者が当選だけを狙って党派入りする方が恥ずべき行為だ。

小池さんの知事選での活躍ぶりを見たら、それにあやかろうとする者が寄ってたかって小池氏を取り巻く。そういったことに多少の自惚れがあったのかもしれな い。そのようなことが見え隠れしていたのは確かだろう。それに嫉妬を感じたマスコミは今度は小池たたきをする。確かに希望の党で公認を出すときの顔は非常にこざかしく見えた。これからどうするのかが興味がある。

運動会

第二の年少の運動会ができた。第二の年少の場合は、全く延期もなしで全部外でできた。このところの天候では奇跡に近いことだ。考えて見れば幼稚園児の運動会 だから、それほど毎日のように運動会だけの練習などやる必要はない。オリンピックに出るとか、何かの大会に出るとなれば別の話だけれど、幼稚園の中の身内のお楽しみ会だから、演ずる側も見る側も楽しく時間を過ごすことができればよいと思う。ゆったりと、ゆっくりと慌てずに育てていくことが肝要だろう。

午前中で運動会は終わったが、そのときには日差しがあったけれど、今は空一杯雲で覆われていて今にも雨が降ってもおかしくはない。これからずっと晴天が続くと言っていたのに、気象庁も当てにならない。昔習ったものに観天望気というのがあって、空模様や、昆虫の動きや、空を舞う小鳥の動きで天気予報が出来たということがある。専門学的な話で、例えば風を背に受けて左手を前方斜めに差し出した方角に低気圧があるというバイスバロットの法則などがそうだ。鳥が低く飛んで虫をとっていると、やがて雨が降るというようなこと。

非常に原始的なものだが、昔の人はそうして確実に空模様の予報を出していた。 農家の人なら誰でも知っていたと言う。生きるために覚える学問というものは全く素晴らしいものがある。驚くことは他にもたくさんある。三角定規もないころから、大工さんは直角を出す方法を知っていた。曲線的な屋根などはどうして出来たのだろうか。今でも私たちは不思議の中にいるはずなのに、子どもたちときたら全く不思議がらないのが不思議。家族の会話の中で親が不思議がることをお勧めする。

台風一過

台風が過ぎた後は概して青空が広がるものだ。気持ちのよい秋晴れになったが、昨夜からの雨で園庭や校庭は、でこぼこしているところに水たまりが出来ている。 今週中に幼稚園も小中学校も運動会は終了する。幼稚園の子どもたちは、あまりにも待たされ過ぎたので運動会があると言っても気合が入るのだろうか。秋雨前線や台風などは天災で誰の責任でもないが、日程を組んだ私に責任があるように思えてならない。何とか子供たちに理解してもらいたいものだ。

今日は幼稚園も小中学校も自由登校や自由登園にしたけれど、今日の朝の風の強さを考えたらスクールバスを出すような気には誰もがなれないだろう。早めに決定したけれども、ご家庭の準備もあるだろうから、このような場合は早めの方がよいと思っている。だいたい大雪や台風のときには同じような処置になると思う が、ミサイルのときには休園、休校となる。しかしこの辺の地域は、災害の少ないところだとしみじみ思う。

台風が来てる

あおば台の運動会は非常に残念だけれど延期になった。昨日のうちに延期になることを知らせておいたので、今日は朝から雨が降ってくれないと困るという思いで 外を見た。小雨がぱらつく程度だったけれど、昨日からの雨で園庭は使えるような状態ではなかった。延期の知らせ通りになったのでよかった。これで後の運動会は土日ではなく普段の日に行うことになる。運動会で張り切って登場しようと思っていた保護者には心から『ごめんなさい』を言いたい。この後の日程については順次お伝えいたします。

台風が来てるからこれからは大雨になるのだろう。この際だから何日分でも降ったってかまわない。こんなこと熊本の人たちには叱られるかもしれないけれど、よくもまあ降る雨だ。明日は衆議院の投票日だ。大雨になりそうだから期日前投票を済ませた方がよいとのアナウンスが入ったけれど、私の家の隣が投票所だ。とはいっても投票箱まで行くのには歩いても10分ぐらいかかりそうだけど。

立憲民主党と言うのが出来たけど、現在の社民党とどのように違うのか。日本の国には交戦権がないから、仮に他国が攻めてきたらどうするのか。黙って白旗を上げてしまうのか。そうなった場合に国民はどんな処遇を強いられるのか。絶対にこんなことにはならないだろうと正常性バイアスを掛けてしまうから、危機意識が乏しい。真にリーダーシップを取れる人というのは、危機に直面する前に、話し合いで何とかするなどという無責任なことは言わない。しっかりと準備のできる人だ。

明日はどうなる?

あちら立てればこちら立たずでこの後の日程が決まらない。小中学校の方は、はじめから幼稚園の日程とかぶらないように、日程を苦心して28日にファミリアオリンピックを開催することにしている。このような10月の長雨というのは記録をとり始めてから初めてのことではないだろうか。もとより10月というのは雨が少なくてオリンピック開催も10月に決めたという経緯がある。10月10日の体育の日は半世紀前のオリンピックの開会式だ。雨の日が長くおまけに台風もやってきている。

明日のあおば台の運動会は今のところ決行するつもりでいるけれど、空模様次第では延期もありうる。こんなことでは保護者も困るだろうし、子どもたちに何と伝えればよいのか、はっきりしたことが言えない戸惑いがある。子どもたちの意識を高めて行事を迎えるというのがあおば台の保育の仕方であるけれど、意識を高めていく緊張感が切れてしまうのではないかと心配している。とはいえ、このようにどうにもならないことがあることを、 噛み砕いて子どもたちに伝えることも大事な保育の在り方だ。

明日はまた学校説明会の最終日である。こちらも何としても出なければならな い、というより出たい。第二の運動会は台風の影響があるといのですでに延期は決めてあるものの、明日のあおば台の運動会の空模様が気になる。子どもたちは楽しみにしているのだから、霧雨ぐらいの降雨であればやりたい。

今日はいい天気だが

何日かぶりの晴れになった。しかし正午過ぎにはまた空一面に雲が出てきて太陽を覆いかぶせてしまった。こんな日ばかり続くと子どもたちはストレスをためてしまう。早くすっきりとした天気が続かないかなと真剣になって神様にお願いする。困った時の神頼みというけれど、この際神様でも仏様でもアラーの神でも、ヒンズー教でも何でもいい。私は40年間園長をしているけれど、2週続けて運動会が流れるというのは初めてだ。もっともまだあおば台の方は21日なので雨の 確立は50%になっている。雨さえ降らなければいいのだけれど。

小中学校でも運動会に向けての活動をしていた。幼稚園から、小中の方へ来ると、さすがに子どもたちの動きはダイナミックで、幼稚園の子供たちのあこがれになるだろうなと思う。この子たちが社会に出て、何を楽しみに生きていくのかを確認したい。何のために働いているのかを、どのように考えているのかを聞いてみたい。

今日芋掘りをしたようで、かなりの豊作だったらしい。これから寒くなって、ストーブの上で焼き芋をしたりふかし芋にしたり、餅を焼いたりするのが楽しみだ。子どもたちの人数が少ないからできることで、 幼稚園のように多かったらしょっちゅうはできない。幼稚園の子どもたちは、何か食べ物を上げたりすると『園長先生ダーイ好き』と言ってくれるが、小中は 『ありがとうございます』と礼儀が先に来る。無味乾燥を感じるが、これが発達というものだろう。

雨ばかりよく降る

両園ともに運動会が延期となりました。幼稚園ではこれからの日程を組むのに一苦労であります。延期日まで決めてあったのに、その日もまた雨になりそうです。 秋雨前線が中国大陸から、本州に向けて長く伸びています。おまけにフイリピンの東海上には台風が発生していて、これがまた秋雨前線を刺激して当分の間雨はやみそうにありません。台風が秋雨前線を刺激して、日本に上陸しそうな日は最短で21日ごろだと言われていますので、その周辺の日は雨と言うことになるでしょう。そうなると延期日に用意しておいた運動会がまたも再延期となりますが、どうします?。

どちらの幼稚園でも、子どもたちだけで私に見せてくれる運動会は終了していて、後は保護者の皆様に見て戴きたいと言うことだけです。子どもたちにとってはご両親に見せたいという気持ちが膨らんでいるところだと思います。何としてでも運動会はやるので、この際普段の日になるということも考えられますので、事前に休みを取らなければならない保護者にとっては辛い選択になると思いますが、その時にはご容赦を戴きたいと思います。当然筑波登山は延期もしくは中止と言う風になりますが、お楽しみ遠足と言うことで、ロープウエイかケーブルカーで頂上に行くということも考えられます。

普段の日が運動会になる場合には、バスを出しますので年少さ んは往復とも送迎バスを使い、年中長は行きだけバスに乗り、帰りは親子で降園と言うことになります。そうなりますと、6年生の競技と小学生の競技はすべて なくなり、普段の保育時間内で終了するように進行いたしますので、ご理解とご協力をお願いいたします。

すでに今度の土日は雨で運動会は駄目だろうと思っております。次の月曜日も駄目で、24日は第二の年少の運動会、25日に第二の運動会をし、26日にあおば台の年少の運動会。27日にあおば台の運動会ということで一応の予定とします。28日には初等中等学部のファミリアオリンピックがあります。出席可能な幼稚園の保護者も大歓迎ですので是非ご来校ください。

色々教えることがある

観念的なことを私が思っていたって仕方がない。機会あるごとに子どもたちに伝えていかなければならないことが山ほどある。幼児教育の方法を多くの先生から学ばせていただいたことが今も役に立つ。幼児教育と言うのは、伝える側も伝えられる側もそれが原点であることがよく解ってきた。幼児教育と言うのは、子どもの心を膨らませて上げる教育だから、教科書なんて言うものは必要がない。いわば非認知的な事柄を、心にいっぱい詰め込んで、それが開花するのは多分青年期を過ぎてからだ。

だから小学校でも3年生までは、非認知的な心を膨らませる教育を中心として行っている。それを青葉台ではプライマリーステージと呼んでいる。まさに人生の基礎的な事柄を、仲間ともみ合いながら身につけていく。やがて青春の蹉跌の時代が訪れた時、ため込んだ非認知的な要素がものを言う。それは素晴らしい輝いた感性である。この感性こそが個性と呼ばれるものであり、その人間を表すものである。しかしこの非認知的なものに磨きをかける塾と言うものはない。今ある子どもの感性でもって磨きをかけるのだが、それに気づいている大人がいなければ、ただの石ころにすぎない。

人間には認知的な学習と、非認知的な心の訓練をバランスよく育って行かなければならない。非認知的な心の磨きは良くも悪くも8歳か9歳までに大方の訓練は終了してしまう。自己批判や他者批判ができるような心の発達が育ってくるころには、非認知的な心の育ちの勢いは影を落としてしまう。だからこそ幼少期の教育は重要なので、小学校の認知的学習はタブーであると言われている。先は長い、何も焦ることはない。ゆっくりと大切に育てていこうではないか。