初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

ひたち海浜公園遠足

学校の子どもたち全員で楽しもうということで近くの海浜公園に行くことにした。大型バス1台で教員を含めて全員で行くことができる。片道1時間ぐらいだからちょうどよいところにある。普段から子どもたちが一生懸命生活をしているので、今日はみんなにご褒美と言う形で行くことにした。1100円分の乗り物チケットを配られたので、子どもたちと一緒に乗り物を楽しむことにしたのだが、子どもたちは『わーわーキャーキャー』と奇声を上げて楽しんでいるようだが、何が楽しくてあのような奇声が飛び出すのか、じっくり考えてみた。何のことはない危険を楽しんでいるのだ。危険ほど楽しいことはない。

危険と言うことだけで片付けてはならないが、、彼らにとってはこの乗り物に乗って見ようと決断するときには、少なからず楽しいと言うことだけでは決断はしない。未知への冒険的要素があるはずだ。『親の意見となすびの花は千に一つの無駄もない』と言う諺があるけれども、子どもたちの遊びにもそれが言えるような気がする。幼稚園の子どもたちの砂遊びや泥遊びにしても一心不乱に集中して遊んでいるけれど、言葉に出してまとめ上げることはできないけれども、かなり多くの気付きがあったりしているのだろうなと思う。

それと同じように子どもたちが夢中になるものには、それなりに得るものが沢山あるのではないか。抽象的な感じ方かもしれないけれども、やがてそれらが具現化されて論文発表なんてことになる礎になっているのが子どもの遊びなんだろうと確信を持って言える。だいたい偉大な発見や発明などと言うのは、ひょんなことから、普段の人では通り過ぎて行ってしまうような事柄から奇跡的なことが生まれている。だから遊びを深める子ども(集中する)は洞察力が鋭いので将来有望である。

子どもと一緒に遊ぶのはとても疲れる。ついその気になってしまって、足腰にすぐ張りがきてしまう。若くはないのは分かっているけれども、今日の遊びの種類の中に65歳以上の方は乗れませんと言うのが何台かあって、もっとも65歳以下であっても乗る気になれないものであったけれども、少しずつ一般社会から特別扱いされるような年齢になってしまった。覚悟はしていたけれど、もう戻れない。子どもたちと一緒にいられる毎日の生活があるというのが、私の誇れる唯一のものだ。

園長設置者研修会

昨日は朝早くから現役の青年会議所のメンバーが幼稚園まで迎えに来てくれて、赤坂御所にある故三笠宮寛仁親王殿下の宮邸に行って来た。寛仁親王がお元気であったころ、土浦青年会議所と親交があり、殿下を交えてウエルフェアーゴルフをを開催させて戴いた。ウエルフェアーも殿下の提案で、障害を持った人たちの施設へウエルフェアー基金を寄付すると言う活動が来年で30年になる。継続はまさに力となるので、来年の30周年のウエルフェアー大会には、殿下のお嬢様である女王様がお出まし下さるそうだ。

午後1時ごろには幼稚園に帰ってきて、そのあとから水戸三の丸ホテルで茨城県私立幼稚園協会の主催する園長設置者研修会へ向かった。殿下のところへ行くことも研修もどちらも大切なことなので、かぶってしまったけれどもどちらにも顔を出すことができてよかった。研修の内容は社会労務士による雇用における注意事項などと、保育者の確保とか、幼稚園教育要領の改定とか、小中学校の教育内容の見直しなどの話があった。小中学校の話は殆どなく、もっぱら幼稚園のことだけだったのだけれど、文科省の役人が出した資料の中にあったのでそれを読んでいた。

泊まりがけの研修なので、さすがに今日はくたびれた。泊まりがけだと、きちんとご飯を食べるので太ってしまうのではないかと心配である。

ザリガニ釣り

ザリガニというのは戦前の日本には小さなものしかいなかったそうだ。戦後日本の食糧事情が悪くて、アメリカの兵隊さんが日本に持って来たそうだ。日本に持ち込んだエビガニをアメリカザリガニと言うらしい。そのアメリカザリガニをあおば台の保護者が2年前だったか定かではないけれど、バケツいっぱい持ってきて『子どもたちにあげてくれ』という。子どもたちにあげるのには少ないし、どうしたものか考えあぐねていたところへ私に相談があった。私は即座に『ゆでて食べよう』と提案した。しかしそのような経験のある教師がだれ一人いなかったので、賛成する者はいなかった。少しばかり孤独になったがさっさとゆでる用意をした。

そのアメリカザリガニを1・2年生を連れて釣りに行ったのだ。半世紀ぶりに釣りなどをした。しかもザリガニ釣りは、小学校低学年の時に近くの用水路やため池で、カエルを掴まえて、ちょっと残酷だが、胴体と足を引きぬいて足を餌にして釣りをしたという経験だ。糸はタコ糸で、おもりは魚釣りと同じように鉛を使った。私は魚釣りやザリガニ釣りは良くしたものだ。また霞ヶ浦では淡貝をよく取りに行った。

淡貝というのは淡水に棲む大きな黒い貝のことで、大きいのになると30cmぐらいのもある。これを佃煮にして食べるととてもおいしい。私はそういった遊びのようなものを、まったくの遊びとして捉えたことがない。ザリガニでも魚でも淡貝にしても、少しでも家族のためになるというような気持ちでいるから、何も捕れなかった時には悲嘆にくれる。

そのザリガニを子どもたちと一緒に釣りに言ったのだが、初めてだと言う子もいて子どもたちも私も興味津々である。甲高い声で気勢を上げるものだからザリガニも逃げ足が早い、それでも全員が釣り上げた。少し要領を覚えると立て続けに何匹も釣り上げる子もいる。ザリガニを触れなかった子も、背中の方から掴むことを覚えて、他人の分まで取ってあげたりしていた。最初の計画では1匹づつ持って帰るとなっていたけれども、無制限にして小さいものだけ戻して、あとは持って帰ってきた。どうするかって?。ゆでて食べようと思っている。子どもたちは絶句して言葉を失っている。生まれて初めて食べるザリガニの味はいかがかな。

お泊り会

金曜日に幼稚園に来て一泊して土曜日に帰るというお泊まり会である。何日か前からお泊まり会の導入をして今日に至ったわけだけれども、変わったイベントなので子どもたちは喜びと不安を会い半ば持っていて、顔だけはにこにこしている。不安がないと言ったら嘘になる。親から離れて泊まったことがあると言う子は別として,初めてのお泊まりであれば小さな心を突き抜けるような不安があるはずだ。それでも健気に楽しいとか面白いとか言っている。みんなでお泊まり会を盛り上げようなどと言ってはいるけど、どこかうつろである。

お泊まり会の係があるから、これだけはみんなで協力しないと先へは進まないから、飯盒のご飯を炊いたり、レストラン係があったり、デザート係があったりと、必ず何かの係を誰もが負担することになっている。夕食を食べて、お楽しみ会をやったりしているうちは楽しいけれど、肝試しになるとその様子が一変する。いつも元気でいる男の子がどうにも手がつけられないほど泣きじゃくったりして、興奮のるつぼにはまったりしてしまう。第二ではそれほどのことはなかったらしいが。もっともかつては第二幼稚園ではあまりにも面白がって子どもたちを脅かすものだから、反省会で、もっと楽しいものにしようとなったいきさつがある。

幼稚園の行事というのは、一つ超える度に子どもたちの成長が見えるので、教師たちも楽しみにしている。一晩経って、たかだか一晩だけれども、朝の子どもたちの顔は一様に輝いている。自分自信が超えたと言う自信が体中にみなぎっているようだ。そうではあるけれども、お帰りの時間になって、ご両親が迎えに来ると、りりしく見えた顔もふにゃとなってもとの甘えん坊の顔に戻ってしまう。全くそれでいいのだけれども、だからと言って今日の『自信』がなくなってしまうのかというとそうではない。体験したものが積み重なって経験となり、それは自分の血肉となって自分自身のものとなっていくものだ。

甘くはない

早速EU委員会や英国抜きの27のEU参加国の首脳会議があったが、英国に対しては冷たい意見が相次いだ。それは離脱ドミノを防ぐためでもあろうが、次の英国首相が決まるまでは離脱のための事前交渉は一切しないなどの申し合わせがあったり、離脱後の展望が英国にはまったくないとは一体どういうことだ、というような厳しい意見があった。英国の大使が『今まで通りのお付き合い』と日本に言っているけれど、英国がそう思っていても、EUは英国抜きで結束を固め英国からのものを締め出しにかかっている。日本の商社は英国を基点としてEUに商品を送り込んでいるから、そういったものにすべて関税がかかってくることになるので英国にいてもメリットが無くなってしまうことになる。

ピューリタン革命から逃れて、アメリカ東海岸に到着したメリーフラワー号に乗っていた英国の人が米国本土に根を下ろしたころには、米国原住民は9000万人ほどいたとされているが、それから2.3百年のうちに原住民は350万に激減してしまったといわれている。それはヨーロッパから移住してきた人たちの奴隷になったりして過酷な労働を強いられて、体力の消耗や病気が蔓延したりして減っていったらしい。それで足らなくてアフリカへ行って人間狩りをしたのだ。今さら移民問題を出すだけの資格は英国にはないだろう。

英国には連邦国家というのが53カ国ぐらいあるといわれている。かつて英国が植民地としていた国だ。コモンウエルズと言うらしいが、そのコモンウエルズがあるからEUと協定を組んで彼らに従う必要はないと言うことを真剣に言っている人がいた。大英帝国の懐古趣味である。とにかく英国がどうなってしまうのかしばらくは目が離せないだろう。EUのニュースが毎日報じられるが、あちらの人の名前は面白い。EUにはユンケル委員長という人がいる。殆ど風邪は引かないだろう。

朝から第二幼稚園で役員会があるというので顔を出した。議題はバザーについてだそうで、役員のほかにお手伝いさんもお願をして、毎年盛大に行っている。子どものためだと言え、頭の下がる思いだ。そのついでにというとおかしな話になってしまうが、明日からお泊まり会が始まるのでお家の人も心配しているだろうから、お家の人には「プーピータンシン!」と言えばよいと言ってきた。北京語で『心配いらない』という意味。昨年から私が楽しんでやっている。勿論ドントウオーリと英語でも教えた。みんな喜んで暗誦していた。七夕が各クラスに飾ってあって、「ドラえもんに会いたい」「空を飛んでみたい」など可愛いのが目に付いた。

英国離脱で何が変わるのか

日本の教育が変わるわけではないけれど、経済行為については激震に違いはないだろう。英国の議会制民主主義を倣ったのは日本の議会だけれども、国民投票というのは議会で結論を得ることが出来ないから、もう一度国民に問いかけようと言うもので、議会人の怠慢でもある。国民投票に訴えるのら、議会人が要をたさないのだから、議会の定数削減と言うことも視野に入れなければならない。もっともキャメロン首相はまさかEU離脱派が勝とは夢夢思っていなかった節があり、また離脱派の演説には被害妄想的な誇大主張があって、英国国民との約束を反故にするようなこともちらほらと出てきたらしい。

離脱しても今まで通りの恩恵を受けられるように英国代表はEUの会議で交渉をすると言っているけれども、早くもEUの代表格のドイツやフランス、イタリアと言ったところが、『いいとこ取りは出来ない!』と手厳しい発言が相次いでいる。EU委員長に至っては『もともと円満な結婚でもなく、愛し合っていたなかでもない』と露骨に嫌悪感を示している。元の鞘に収まるという気配は今のところない。英国に進出している日本の商社は1000社を超えるという。それはEUへの足掛かりとして英語圏で仕事ができるということであったものだけれども、これからはEU圏内のどこかにハブになるところを探さなければならないだろう。

もともとヨーロッパと言うところは非常にまとまりの悪いところで、第二次世界大戦前などはしょっちゅう戦争ばかりしていたところだ。フランスとイギリスなどはずっといがみ合い、大戦前などは植民地を取ったり取られたりしていた。100年戦争などと歴史にあったのは、フランスとイギリスでなかったか。最初はスペインが太陽の沈む時がないと言われたほど地球上のどこかに植民地を持っていたが、無敵艦隊を誇ったスペインがドーバー海峡で英国艦隊に敗れて大英帝国の始まりとなった。ずっとそれ以前などはオーストリアなどが力を持っていてベネチアの統治権を持っていたり、ロシアなどもちょくちょくと顔を出していた。ドイツはまだドイツ国家として統一されていなくてプロイセンと言われていた時代だ。

プロイセンと言えばビスマルクだ。プロイセンが中心となってドイツ共和国を作ったのは、ビスマルクの功績が大である。ドイツの教育の根幹にあったのがビスマルクの国家主義の思想の教育である。フォルクスシュウレ--はその名残で、これを倣ったのが日本の明治の教育である。

中世には戦争ばかりやってきた歴史の西洋史である。そのような国家の集まりだから欧州統一と言うのは、経済行為だけではなく戦争回避のためにもEUを作るというのは欧州人の夢であったのかもしれない。しかしまたここにきて互いの国をののしるような、中世の国家集合体に逆戻りしそうな気配である。英国EU離脱についてどのように君は思うか。というのが大学の入試論文に出そうな気がする。

保育参観日

あおば台は年少の保育参観日である。何処の幼稚園でも年齢が小さいほど可愛いものだ。保育所での0・1(0歳から1歳)というのは良く分からないけれど、あおば台幼稚園には2歳児もいる。2歳児がうろちょろしている様は実に可愛いものだ。ここまで育てるのには大変なご苦労があっただろうけれど、幼稚園に来てくれて感謝したい。私の心も身体もすべてを癒してくれる。こんなありがたいことはない。2歳児を見ていると、幼児期の発達がよく見えるような気がする。

今日はあいにくの雨でホールで行ったが、天候は関係なく親と一緒に遊ぶことができたのは、子どもにとってこんなに嬉しいことはない。この時期は何かを覚えるなんて言うことよりも、五感に感じさせることがたち説だ。何でも早めにやればよいなんて言うことはない。むしろ学校での教科を学習することによって、考える力を弱めてしまう。考える力と言うのは、感じる力の連続性の先にあるものだから、早めの学習によってその力を失ってしまうという、最悪の場合もありうるから、大切なことはよく遊ばせることである。

あの3歳児が食事の時間になると行儀よく手を膝の上にのせて、『いただきます』を待っているなんて想像できますか。よく幼稚園に行くときはその光景をこのんでみる様にしているが、何とも愛くるしいものがある。子育ては焦らないで、ゆっくりと、他人の子がちょっとばかり先に行こうが気にしないことだ。誰かの子が急いで先に行っていても、その間にわが子は無量のものを感じているはずだ。そのことの方が人間の生きていく力に必ずなるものだ。

初等中等学部では、雨なので1頭残ったポックンが馬小屋の中で外を見ている。私の方を見て入口の戸を足でけっていたので、外へ出してやった。小屋から出るとすぐに隣にいたアオバオーの部屋を覗いてから、中を確認してから振り返って外の広い場所に出て行った。ポックンはこのところよく鳴いているそうだ。教師がそう言っていた。

アオバオーが亡くなった

この学校が建設された年からずっと見守っていてくれたのがアオバオーだ。この名前の名付け親は第1回卒業生の男子である。
   
亡くなったという一報が入ったのは朝6時で、運転手さんが発見してくれた。
     
近所のおばあちゃんからも花が届いたり、在園児の保護者やお坊さんもお経をあげてくれた。
     
横になっているアオバオー。目のところはタオルで覆っている。子どもたちから多くのメッセージがある。急きょ竹を切って作った花挿しも心なしかうつむき加減である。
     
西門のところの塀の工事をしているのは齊藤建設で、偶然だけれどもその社長さんは私の後輩でアオバオーを寄付して下さった方だ。その会社の人たちがとても親切にアオバオーを小屋から出してくれて、お墓をほってくれて埋設までして戴いた。アオバオーは幸せだったろう。
     
ポックンも最後の見送りに参加してくれて、仲間がいなくなったことを感じているようだった。
     
最後のお別れに小さな手を一杯に開いて土を握ってお墓に入れていた。子どもたちはアオバオーがいてくれて楽しかった。天国へ行っても忘れないでねとか、今度は人間に生まれてきて一緒に遊ぼうとか言っていた。今日はこの後卒業生がたくさん来るようだ。勉強ばかりしていたような子のように思っていたけれど、優しさが前面に出てきたので嬉しい。
             

続きの続き

0・1・2歳児までは養育費として各家庭に支給して、母親が子供を育てるというようにすれば子どもは幸せだ。支給額は現在の貨幣価値で18万円。その基準となるのは0歳児保育に対して各市町村が支払っている金額の平均値みたいなものである。これが根拠となる。これは何も強制はされない、母親が仕事に出るかそれとも家庭で子育てをするか選ぶことができる。そのことによって日本の経済が打撃を受けるかどうかは分からないが、経済効果ばかりを追求する国家の在り方には限界があるのではないか。ブータンみたいに幸せの指標を明確にして、そちらに進む道もある。お金があるからと言って幸せだとは限らないではないか。

私が言っていることは少数意見よりも小数点以下の意見で、10年ぐらい前に全日に出向していたときに、この問題をみんなで語ったことがあるけれど、この話が全日の中から出て来ないところをみると、この問題は立ち消えになっているのかもしれない。全日は補助金をより多く取らねばならないということも使命のうちだが、子どもの問題を政府に提言することも大きな重要な使命であるはずだ。もっとも私の考え方が全く世間の考え方と大きくずれているようなら、立ち消えになっても仕方のないことだと思う。

子どもたちには選挙権がないからとか、幼児期の母親の年齢層はとか、それらが票に結びつかないからやっても無駄だと言うような考え方をしてはならない。これが正しいことで、国家百年の計として必要なものだと言う信念があれば生涯にわたって言い続けるべきであろう。私が生きている時は無理であろうが、将来は必ずそのようなことになると思っている。幼稚園経営者は、経営も大切なことであることは十分承知しているけれど、子どもの本当の幸せは何かということを議論しなくてはならないのではないか。

人間は『足るを知る』ことが最も大切だ。『無欲の大欲』と言うのもある。まだ私はその境地になったことはないけれど、欲によって苦しむことは確かなようであるから、あまり欲をかかずにみんなと楽しく生きていくことを考えた方がよい。

昨日の続き

幼稚園を建てた人は幼児教育をやりたいのであって、間違っても子どもを預かる保育と言うものはやらないと言ったことが、幼稚園連合会で研修を積んで来たものにはそう言った不文律があった。ところが園児数が減り文科省も幼稚園を救うために乗り出さざるを得なくなって、究極の選択肢が認定子ども園ということになった。だから認定子ども園というのは、保育所へ預けたいけれども空きがないと言った保護者のために新しい制度ができたのではなく、園児減で経営不振になった幼稚園を救うためにできた救済措置なのである。

それはそれでその制度は功を奏したと私は思っているけれども、同時に保育所の保育者のシステムについても幼稚園教諭の知るところとなって、同じくして私も初めて知ったことだが保育に関する保育料の決め方がこと細かくできていて、それをまとめ上げるのにA-4の上で1年間で10センチぐらいの量になる。この事務手続きだけでうんざりしてしまって認定子ども園を返上する幼稚園もちらほらと出てきた。もっとも認定子ども園の保育料などは、まだどうなるのか見切り発車してしまったということも否めないが、県の宣伝効果が最も表れた格好となった。

都市部で保育所が足らないと言っても今から土地を探して新設するとなるとそう簡単には行かない。かすみがうら市や、筑波山のふもと辺りには結構な土地があるけれど、そのへんは坪いくらというところではなく1反歩いくらというところで、したがって人家もない。それよりも子どもの未来や国の将来を考えるなら、子どもにとっては母親に育ててもらいたいと思うのが当たり前のことだろう。何故子供と母親を引き離したりする政策がまかり通るのか。どうして母親は声を上げないのか、私には不思議である。

ずっと子どもと一緒に家にいて四六時中顔を見合わせていたら、それこそ大変だろうと主けれども、そんな時にこそ母親が息抜きに保育施設にきてリフレッシュすればよいのではないか。大人の一生はまだまだ長い。幼児期の時間はそれほど長くはない。そう思えば、母親が1・2年家にいて子育てしても良いのではないか。子どもにとってはそれが最高に幸せである。昨日も描いたけれども母親が家にいて、子育てに専念することに後ろめたさを感じているのだろうか。そうであるならばそのような社会的な価値観をひっくり返さないと、いつになっても子どもの幸せはやってこないのではないか。