初等学部の理事長で、幼稚園の園長でもある港先生の熱い想い

理事長・園長のちょっと言わせて

子どもたちと共に暮らせる日々

1・2年生と話をしていると、年長さんとあまり変わりがない。1年生は年長さんよりちょっと口が達者で、2年生はそれよりももっと口が達者である。3年生になるとそれ以上に達者だけれども、精神的にずっと落ち着きが見られる。3年生はものを考えるときに少し立ち止まって考えるようになるが、2年生は考えたことはすぐに口に来るようだ。頭と口がくっついているようだが、3年生になるとそれが少し離れてきて、4年生になると口に出るまでの時間がかなり間がある。だから1・2年生は年長さんの様な可愛さがある。

最近の年少さんは園や保育者に慣れるのが早く、かつてのように泣き声の大合唱で、別世界のような気配は感じられない。まるで猿の子育てのように、保育者の首にしがみついて離れない子や、おんぶしてもらったら絶対に離れないと言う子や、涙を流しながら保育者の手を力一杯握っている子の様子が見られなくなった。それでもまだ母親から離れるのを嫌がる子など、少しは見られるけれども、そちらの方が実は健全である。

少子化になって、子どもを十分に観てあげることができると、幼稚園が初めてのデヴュウとなると、大勢の子ども達の圧力に屈するのは当たり前で、母親から離れられないのが当然である。泣いていることでそれが意気地ないとか考えることなど全く必要ない。むしろ当然の発達であって、しっかりとしたぬくもりの中で育っているのだと考えるべきである。不安でいっぱいなはずの最初の幼稚園だと思うけれども、当人たちは意外と慣れるのが早い。公園デヴューなど、入園前に大変な気を使っていたのだろうと推察している。

あちこちの筋肉がまだ未発達なので、歩き方もなんとなくおぼつかない、駆け足などすると頭が重いせいかまっすぐ走れないでよろよろしている。それが年中になると足腰もしっかりしてきて、話し方もしっかりして語彙も豊富になる。年長になると、考え方も話し方も人間に近くなって面白くなるが、人によっては悪知恵も発達してくる。そうして小学生になるのだが、こんな状況を毎年繰り返し見られるわけだから、こんな人生楽しくて仕方がない。

4年生になると自己内対話がはっきりとできて、他や自己評価を適切にできるようになるから、この時に人生の負の遺産を背負わないように気をつけなければならない。負の遺産とは、「自分にはできないのではないか」と決めつけてしまう、後ろ向きの弱さである。この年齢をうまく通過できれば5年生以降の学校生活は能動的になる。5年生は自分をしっかりと温める時だ。6年生以降は決めた目標に妥協せず進むという意志力を養う時期だ。難しいことではない。側の大人が絶えず『できる』ということを暗示すれば良い。心理学ではこれをピグマリオン効果と言う。是非やってほしいと願っている。

焼津へ市場見学

5年生が焼津へ市場見学へ行っている。昨日筑波登山終了後から、学校に残って夕食を取り、朝2時に学校を出発した。もうそろそろ帰ってくる時間だけれども、まだ帰ってこない。幼稚園で帰る連絡があったけれども、気になって学校へ来てみた。

大人が勢いよく仕事をしている現場を見ることは、畏怖を感じるものがあるだろう。仕事の流れを学んでくるなどの、社会科の勉強も大切なことだろうが、もっと大切なのは心に焼きつくようなことを感じ取ることだろう。それがあれば、旅行気分で早朝よりはしゃいで出かけても大きな意味があるだろう。

社会科の授業はDVDで勉強すると言うのもあるけれども、なるべくならできる事なら現場を見せてあげたいものだ。バスを借り切って運転手を付けていくとなると、大名旅行に成ってしまうから、最小の負担で最大の効果を狙っている。だから教員の負担も大変なことになるけれども、たまたま大型の運転免許を持っている教員がいるのでお願いしている。学校のバスを使うとなると休みの時しか使えないし、しかも土日でない日だから、茨城県民の日はちょうどいい。良かったと思うのはこんなときぐらいだ。

今帰ってきたようだ。お疲れ様でした。だいぶ寒くなってきたので私も帰ることにする。

筑波山に登る

今日は今年一番の冷え込みだと言われている。どのような因果かこの日に筑波登山を決めていた。幼稚園の登山の日は、学校説明会と重なってっしまって、筑波山へは行けなかったが、今日は私の役割もあったので行くことになった。私の役割は、車の運転手と、けがなどの理由で登れない子をケーブルカーで引率することである。ケーブルカーで登るとすぐに着いてしまうので、しばらく時間を遅らせて、乗り場のお土産屋さんの椅子に座って時間を過ごした。子ども達は、黙って私の言うことに従っていたが少々退屈そうであった。

登山に皆が出発してから30分遅れでケーブルカーに乗り込んだが、その間心配そうにちらちらとこちらを向いて私の顔をうかがっていたけれども、何も言わずに従順に私に従うと言う態度だ。子を持つ親の心境に成って、この子たちを守るという気にさせるものだ。売店がいっぱい並んでいる頂上付近に到着すると、風が強く冷たかった。するとリュックを下ろし、中から予備の衣服を取り出し、重ね着をしている。低学年の子だけれども、衣服の調節など主体的にやれる様子を見てすっかり感心してしまった。

じっとしていると寒いので体を動かしていたけれど、にわかにやり始めてもすぐには温かくならない。『あったかい甘酒でも飲みたいな』というと『甘酒ってお酒なの』と聞くから『お酒ではないよ。子どもも飲めるものだよ』と答えると、ずらっと並んでいるお店を一軒一軒見て回って、『先生!ここに甘酒って書いてあるよ!』と教えてくれる。しかし一向に私がお店に入る気配を示さないものだから、そのうちお店のお土産品を手にとって見ながら、長椅子に座りこんでしまった。土産品に興味を示しながら『ほしい!』などと言わないのもいい。

そうこうしているうちに全員が登り終えて、男体山に登るものと、ここで景色を見るものとに分かれたが、男体山に登ると答えたのは3分の1ぐらいで後はゆっくりしたいという意見であった。そこで私が『どうして筑波山ができたのか、詳しく書いてある自然館があるよ』とそちらの方へ水を向けたが、4・5人の子が駆け出してそちらへ飛んで行ったが、残りの子は無関心のようである。せめて4年生以上の子は関心を向けてほしかったが、もう喉までいっぱいで強制されて学習はしたくないと言った抵抗にも思えたので何も言わなかった。

強制されやらされていると感じている学習では、この先続かないだろうと思うが、いかがだろうか。学習しなければならない期間は、この先の方がはるかに長い。もしも私が感じたことが当たっているならば、心を解きほぐしてあげて、自らのエンジンに点火して自走してほしいと強く思う。危惧だけで終わればそれでいい。そんなことを想いながら子どもたちの中に入って弁当を広げ昼食となった。

同じように山登りに来たどこかの幼稚園の子どもたちが、土産屋で買ったおもちゃのピストルを出して、食事をしている初等学部の男の子のところへ『バンバン』とやってきた。するとそこにいた男の子全員が箸を持ったまま両手をあげた。幼稚園の子は満足してそこを去って行った。私の弁当は野菜サラダとおにぎり一つである。1年生の子が『先生僕のあげようか』と言ってくれる。鳥の唐揚げと厚巻き卵である。何故こんなに優しいのか。

帰りのケーブルカーはこども7名になった。登りだけでも何とか頑張ろうとして登った子たちである。昨日医者に言って『無理しないように』と言われたけれども、何としても登ると根性のあるところを披露してくれた。登りの途中でねん挫してしまったという子がいたけれども、私には言ってこないので教師が伝えに来てくれた。ケーブルカー組は発着所からつつじヶ丘まで車で移動したが、車内では『家を建てると結構かかるから大変だよ』という男の子の話があって苦笑せずには居られなかった。楽しい一日をありがとう。

勉強は何のためにするのか?

筑波大心理学教授だった故杉原一昭先生が、退官時に『生きることと死ぬことと』という議題でさよなら講演を行った。私はその話の中で、あるユダヤの青年がアウシュビッツに送られていく汽車の中で『どうしても読みたい本がある』と言って、途中の駅で一泊した時に、汽車を抜け出し友人とともにその街の中で図書館を探し、読みたい本を漁り、汽車に戻ったという話を聞きました。今死にに行く汽車の中で、なおも『読みたい』という本を読もうとする行動に彼を動かしているものは、一体何なのか。

私はその話を聞いて講堂を出た時に、どうしても涙があふれてきて仕方がなかった。はっきりとは言葉に表せない感動が、全身を稲妻が走ったように通り過ぎて行って、体が震えていた。私はものを識ると言うことにあまりにも無頓着であった。知識に対して甘く見ていたのだ。自分が生きていくのに不自由のない知識で十分であるという狭い領域でしかものを捉えていなかった。何とあまりにも低俗な生き方ではないか。自分の情けなさに涙したのだ。

それ以来専門分野は勿論のこと、それ以外についても学ばなければならない事に気がついた。色々なことを学ぼうとすればするほど、自分の底の浅い知識を自覚する。そうなるとますます貪欲にはなるけれども、あまりにも知らないことが多すぎて、自分自身にあきれ返ってしまうこともしばしばであった。杉原先生の最後の講義で教えて頂いたことは、様々な生き方があるけれども、人生は知的に生きることの素晴らしさである。

私が目指している『精神的貴族』像は、まずそれなりの知識を得なければならないではないか。しかもその知識は個人所有のものではなく、多くの人々に分け与えていくことでなければならない。その結果として自分も飯の食える人間にならなければならないのだ。勉強はそのような人間になるためにやるのだ。勉強はやりたくないとか、ずっと遊んでいたいなどの話は聞いていられない。皆で困っている人を救っていかなければならない、ということを自覚しなければならない。

医者に成りたいと言っている子が結構な数いる。ままごと遊びではないから、願望だけでは夢物語である。何故なりたいのか、正しい意識がしっかりしていれば必ずなれる。それがお父さんやお母さんのためでは絶対にうまくいかない。なぜなら途中下車しても親なら甘いから、それに責任を感じないだろう。内発的動機が社会のためなら責任はいつも自分にあるという意識をもつものだ。しっかりと子ども達に伝えなければならない。

ハンドボール・低学年優勝!

昨日の試合終了後にK先生から第一報が入った。思えば3年前に初めての試合に出場した時には、殆どの子が低学年の部であったけれども、高学年のメンバーが足りずに低学年から出場した経験がある。まったく試合にならず、試合中に審判から注意を受けることは再三あって、審判も意を決したのか、試合中にルールを教えながらの試合で、それが相手チームも寛容に見守っていたことがあって楽しい雰囲気であった。そんな試合であったのに、相手チームから何のブーイングもなかったのが温かい雰囲気を作ってくれた。

そんな状況であってもめげない子ども達だから、優勝できたのだろうと思う。ハンドボールのルールを知らなくてハンドボールの試合に出るなどということは、大人の感覚ではとても恥ずかしくて出場そのものにまずつまづいて、拒否反応が出てくるのが当たり前だろう。竹刀を持ったことのない人が大勢の前で剣道の試合に出るようなものだ。だから当然打ちのめされて、見る影もないほどにやられてくる。最初から何が何だか分からないのだから、打ちのめされようがどうされようが本人たちの知ったことではない。それでも立ち上がれるという力があったということは称賛されるべきことだろうと思う。

それが今回の結果なのだ。スポーツの面白いところは、必ず結果として近い将来に表れることと言えるだろう。優勝したということで、4年生以下の出場した子どもたちが大挙して賞状とともに私のところへ報告に来た。皆の目が光っていて、顔が輝いていて眩しかった。得意そうな面持ちが、次のステップへの意欲となってみなぎっているように感じた。大きな自信となっただろう。

昼食後にミュージックフェスタの会議をしていて、予定より長引いたので全学年を見ることになった。とはいえ1・2年生は外で思い切り全力で遊ぶこと。3年生はボルタリングをすること。4年生から上は全員が5年生の部屋に集まることというように振り分けた。4年生から上の子には特に私から話さなければならないことがあった。それは自分自身の事についてである。この話は3年生以下には難しいので、4年生以上になったわけだけれども、なぜ勉強をするのかということと、なぜ成績に差がついてしまうのかということ。

担任にも話はできるだろうが、私が話した方が与える刺激が違うので効果はある。毎日家で勉強していると答えたのは半分にも満たなかった。家ではなく塾へ行って勉強しているので、家に帰ってからはしないと言う子もいる。学習の仕方が学校と塾に任せ放しである。いつもいつも塾任せにはできない。家庭学習は自分のテーマを探究したりするには絶好の場である。どこどこの学校へ入学させたいと言う願望が先走っていて、どのように生きたいのか考えるゆとりがないではないか。これで子どもはいいのかな。

幸せの追求

『幸せの価値観』は子ども達にもある。大人のように色々と理屈を述べたりはしないけれども、体で感じているものがある。それは何かというと、『楽しさ』『嬉しさ』である。だから幼児期はご両親と一緒にいるときが幸せなのだ。そうして『幸せの原点』ともいうべき生活を続けていくうちに、幸せを感じられるようになる。そういったことによって、主体的で豊かで、意欲的な生活ができるようになるのだ。だから『嬉しい』『楽しい』幼稚園や学校生活を送らなければならない。それ以外は取るに足らない小さな事柄だ。

何故そう言えるのか。そんな質問が飛びこんできそうだ。良く考えてみるが良い。『嬉しがる』『楽しがる』状態にするにはどうしたら良いのか。そこにはおのずと約束事や、秩序というものが存在するはずだ。そういったことを主体的に議論し、自分たちの生活を作っていく。やらせられてその日を過ごすのではなく、能動的に自分を生きることだ。それは、幼稚園生活でも小学校生活でも、そのように生きられることは可能である。本来子ども達は知識欲に飢えているから、意欲的な生活が保障されれば学習意欲も増大する。

お金の量が幸せを決定すると思ったら、それは空しい。経済的豊かさは幸せを測る物差しではない。ただ手段にはなりうるけれども、使い方を間違えれば奈落の底に突き落とされることになる。まったく幸せとは真逆の境涯となることは周知の事実だ。幸せの価値だのと、幸せをふんだんに使って書いているけれど、実際問題として幸せを追求して毎日を過ごしている人はいないだろう。幸せは求めるものではないのであって、真実を生きる者についてくるものだ。鉛筆一本で喜び、幸せに浸る子どももいるのだ。

私の頭の中で幸せとは何だとイメージしてみると、自分の力で決めた目標を持ち、その目標に自分が着実に進んでいるという実感を持ち、希望に満ちて次のステップに踏み出そうとしている状況などは、まさに幸せだろう。与えられる物によって幸せを感じるのは、ほんの一瞬である。そんなもので子どもの心を釣り上げては、程度の低い子どもに育っていく。そのような子どもは、いじめの格好の的にもなる。

久遠返せばⅢ

人生には節目節目があって、青春時代と同じようにその時はその状況がわからない。いつでも振り返って、通り過ぎ去ってから思うものである。まだまだ人生が終わりに近づいているとは思わないけれど、振り返ってみれば、あの時にこうすれば良かったとか、馬鹿なことをしたものだと言うことが次々と思い返す。その反対に、これはうまくいったとかいう成功事例というものが思い出せない。失敗例は山ほどあるから、思い起こせば赤面のしっぱなしになる。しかし、人生なんてこんなものだなどと、解ったようなことは言いたくない。

長らく書いてきたけれど、結局何が言いたかったのかというと、有形無形に私を支えてくれた人たちに何かで感謝したいという気持ちの表れである。感謝はしているけれど、それに報いるお返しができないと言うのがはがいいものだ。多分生涯お返しができないというものが多々ある。

経済的に苦しくなったときに、死んだ方がよっぽど楽だと瞬間頭の中をよぎったことがあった。それではあまりにも無責任だと思い、まずは高額な生命保険に入ることにしたけれども、それでもまだ足りない。そこまで来たら当って砕けろ!っだ。そしてある先輩のところへ当ってみた。ところが当たっても砕けずに事が運んでしまった。命拾いをした。それはまだ第二幼稚園設立の前の話だ。そんなところへ第二幼稚園設立の許可が出たものだから、大変なことになってしまった。

第二幼稚園の設立申請を、3年間連続して提出したけれども許可が下りないので、半ばあきらめて、設立資金を流用し、あおば台幼稚園を鉄筋で新築してしまった。それで、手持ち資金が全く底をついてしまっていた。学校法人立幼稚園を新設する時には、銀行借り入れはできない。勿論小学校も学校法人の名のある学校は、借金では建てられないようになっている。個人の資産を寄付しなければ設立できないようになっているので、財産のない私には不可能である。苦しみもがいていた時代だ。

何かをやろうと決心した時が節目である。初等学部の子は中学受験をしようと決心した時が節目である。人生の節目と発達の節目は違う。発達で言えば、3歳・4歳・5歳という発達の差は毎年訪れてそれぞれが節目である。そして小学校では3年生と4年生という発達の節目がある。人生の節目を今子どもたちが越えようとしているのだから、私が支えられてきたように私は全力で子ども達を支えていく。何かを越えようとしているのだ時から、泣き言は一切漏らしてはならない。泣きごとに手を貸してもならない。

始まった!

初等学部の新学期が始まった。それぞれの顔を早く見たかったが、思った通りはちきれんばかりのエネルギーを蓄えた顔が勢ぞろいした。クラス担任の紹介をし、新しくなるファミリアの仲間を決めて、新しい1年生をどのように迎えるかをみんなで考えているようだった。私たち年寄りと違って、この時代の1年と言うのは歓びに比例して大きなものである。許されることも増えてくるけれど、果さなければならない義務や使命もあるはずだ。自分を振り返りながら着実に前に進んでいこう。

それにしても、何ときれいな顔をした子どもたちだろうか。男の子は見るように見ればりりしくもあるし、坊ちゃんとしているようにも見える。知的で聡明な雰囲気は男女ともにある。このような雰囲気を壊さないで、自由に大きく羽ばたいていってほしい。それにはまず、何よりも冒険を沢山しなければならない。冒険は何も未知の探検ばかりではない。例えば、創造的なものを創作したり、多くのものに挑戦し、失敗を重ねることが必要だろう。

とにかく今日は、元気な笑顔が見れてそれだけで満足。

新学期

いよいよ新学期が始まる。明日からは初等学部で、次の日からは幼稚園が始まる。初等学部も幼稚園も万全の用意をして子ども達を待っている。皆それぞれに進級して、一年大きくなって新しい自分の立場に挑戦していくことになる。喜びと不安と期待に満ちた初日になるだろう。そんな心の中を大切にして、私たちが彼らの重要かつ素晴らしいサポーターであることを自覚して、ともに楽しい生活を作っていってあげたい。春休みの間、先生たちはずいぶん忙しく動いていたようだったけれど、私には長かった。

この期間を利用して、グアムのセントジョンスクールに行き、昨年の6年生がお世話になったお礼をしてきた。それに来年度のお願いを含めてきたのだが、快く承知をして頂いた。このように書いていると、なかなか外国語も達者に聞こえるけれども、実は、私の言いたいことを単語を連ねて話して、後は聞いているだけのこと。聞いているけれども相手が何を話しているのかは全く理解できない。時々分かる単語が出てくると、ニコニコして頷く。これだけのことだけれども、交渉は100パーセントうまくいっている。

終始ニコニコしていたのが良かったのかもしれないが、ああいう場合はそうするしか他に手段がなかった。一緒に食事もしましたが、例のごとくビーフ定食見たいのを頼んだけれども、ケリー先生のと私のとが違う。同じものを頼んだつもりだったのに、指を指したところが一段違っていたようだ。少し残念だったけれどもそれでもニコニコして、何だかわからない話にも時々頷く。そんな光景を、私のことを分かっていて誰かがビデオにでもとっていたら、全くの笑い話だ。来年泊まるホテルはここがいいと、そこへ案内してくれたがなかなか立派なところで、そこは少し無理かなと思う。

斎藤隆氏が現代語訳に直した「学問のすすめ」を全部読み終わった。福沢諭吉には興味があったので、抵抗もなくすらすらと読むことができた。さすがに一万円の肖像になるだけのことはあると、つくづく思う。あの当時には国家を憂うものが山ほどいたろうに、私心なく大局的に見通す眼力のある人間はそれほどいなかった。諭吉は、なるほど聖徳太子と肩を並べるだけの凄い人物である。慶應義塾も大変な苦労をなさって立ち上げたけれども、経営に行き詰まり、ときには呆然としたこともあったらしい。私なんぞはまだまだヒヨコだ。

初等学部の終業日

幼稚園と同じように昨日終業日だった。2年生の男女一人ずつ私の処へ挨拶に来た。2年生の代表と言うのではなく、全くの個人的だと思うが、「1年間ありがとうございました」「また4月からお願いします」と礼儀正しく礼をして帰って行った。終業日なので、全校生徒の前で「礼儀と言うのはその人の人格を示すものだ」と言う話をしたのだが、そのせいではなく、いつもきちんとした挨拶のできる子である。

担任に話を聞くと、どの子も帰りの時にかばんをしょいながら「先生ありがとうございました」と言って行ったらしい。素晴らしい子どもたちだ。同じ子どもたちだが、一方では台車を使って遊んでいて、思い切り壁にぶつけてしまい壁に穴をあけてしまった。神妙な顔をして職員室まで謝りにきた。なかなか潔い。「ごめんなさい」「本当にごめんなさい」「もうやりません」と謝りながら泣き出してしまった。「これは直せない」と言ったことで事の重大さに気がついたようだ。

それで何度も泣きながら謝っていたのだ。しかしふと思ったことだが、子ども達の謝り方は今も昔も変わらないようだ。私自身を思い出して「よく言ってきた」と頭をなでて返してあげた。そこでまた思い出したのだが、謝ったってまたすぐに忘れてしまうんだと。しかしこんな子がやるようになったんだと思うと、学校の子どもたちの社会は全く伸びやかなんだなと思う。

幼稚園では大掃除が始まった。それが終わると指導要録の清書がある。そして3学期総括の研修資料の印刷と、なかなか今学期が終わりそうもない。新学期の用意は4月に入ってからになるだろう。毎年この繰り返しだけど、気を抜かずに頑張ってほしい。初等学部は3月いっぱいはスプリングスクールがあって、新年度の用意はまさに新年度になってから、頑張ってやる。みんな気合が入っていて楽しい。

卒園式・卒業式そして終業日

初めて初等学部で卒業生を送り出した。たった6人の卒業生であったけれど、初
等学部も卒業生6人の家族のおかげで、一つの歴史を刻むことができた。地球の誕生の黎明期は、9次元の世界があったとされている。どのような世界なのか調べようとも考えようともしないけれど、想像ができないようなものであったと言われている。ましてやたかだか初等学部の黎明期は、何があってもおかしくはない。地球の誕生との脈絡はないけれども、何かが生まれようとしているときには必ず予想もしないようなことが起こるものだ。

あおば台幼稚園では、卒園式の後に「ありがとうの会」を開いてくれた。保護者が記録として撮ってあったDVDの中や言葉の中に、「ありがとう」や「大好き」という言葉がふんだんに盛り込まれてあって、素晴らしい甘美な感激に浸ってしまった。こちらこそ「ありがとう」と言う感謝の気持ちでいっぱいである。最後のお父さんの一本締めで終了したけれども、あのお父さんは何かと先頭に立ってやってくれた人だ。最後の子どもが卒園し、自分自身での一本締めでもあったろう。淋しくなるよ。

あおば台でもそうだったように、第二でも泣かされた。私は初等学部もみているので、子ども達と本気で関わりあうときは「立派な年長」の時ぐらいしかなく、卒園式になると本当に申し訳ないという気持ちになるけれども、保護者はそんなことは気にしていない様子で、またまた申し訳なく思う。ハイレヴェルな職業にあるおやじたちの、ローレヴェルなAOB83の踊りを見せてもらったが、本当にここまでやってくれるかという、笑わせられたり泣かされたりと、感動に次ぐ感動であった。

あおば台でも第二でも多くの保護者に感謝されて卒園式を終えたけれども、実は私たち保育者こそ、素晴らしい保護者に出会えたことに感謝しなければならないだろう。あの二つの幼稚園は保護者の思い入れが強くあって、その力で運営されているようなもので、私たちが本当のサポーターであるという理想的な幼稚園である。私は初等学部の子ども達に「矜持なる心を持て」と教えているが、私の誇りとするところは、保護者と言う人間の温かみである。私は生涯これを抱いて生きていくことができる、幸せな男である。

ちなみにAOB83や、ピカチュウグループにはオファーをかけておきました。またあの人たちに会えると思うと、私ばかりではなく第二の保育者も感動である。

原発事故

原発事故が起きた時に、当初はこれほど大きな事故であることを想定できなかった。と言うのもNHKが中心となって全国に流したニュースは、毎日著名な学者を招いて安全保安院とともに大した事故でないことを装っていた。NHKの真面目なアナウンサーも、まことにこれを信じ切って学者のいいなりであった。核納容器の図面を取り出し、「メルトダウンはない」と言うことを言っていたわけだが、だが実際にはメルトダウンはあった。しかも初動作業によっては、これまでに至らなく未然に防ぐこともできた。

放射能の拡散も、外国メディアの方が日本よりも早く出す始末である。真実を隠蔽し続けた結果が、ちょっとしたほころびで重大な局面を作り上げてしまった。不安が不安を呼び風評被害が拡大して行ってしまった。茨城の西の方でも、葉ものの農家の人たちが泣いていた。トラックにホウレンソウを山ほど積んで、東京へ出てきたが、茨城の看板を見るなり客はみんなそっぽを向いた。現場で生のまま食べてみせるが全く反応がなかった。

福島県はこの風評のおかげで、農産物は出荷できないのではないかと言われている。食べ物のみならず、先日も書いたけれども人間まで拒否されてしまった。福島県民は、それでもなお我慢を強いられている。またそれに耐える忍耐強い県民だ。その忍耐に我々は甘えてはいけないのではないか。とはいえ一体私たちに何ができるのだろうか。福島の温泉につかったり、スキーに行ったり、福島特産物を買ったりと考えては見るものの、なかなか実行には移せないでいる。

幼稚園は最後の保護者会の運営委員会も終了し、いよいよ幼稚園の卒園式を迎えるばかりとなりました。あおば台は200人弱の保護者を取りまとめ、第二幼稚園は220人強の保護者をそれぞれに取りまとめて頂いて、大変ご苦労なさったこともあったことだろうと思いますが、無事に次年度へ引き継ぎをなされたことと思います。ご苦労に対して、心から感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。

東日本大震災

1年前の昨日、午後2時46分に大地震と大津波が東日本を襲った。私はたまたま、初等学部の6年生の海外語学研修の打ち合わせに、グアムを訪れていた。ホテルの部屋に帰りテレビを付けたところ、日本の大船渡だか釜石だかに、海からの海水が街を飲み込んで走っている様子が映し出されていた。まさかこれがライヴだとは信じられなかったので、だからと言って何をどんな目的でこの映像が流されているのかも、全く知る由もなかった。

そのうちグアムにも津波が来るというニュースが流れ、初めてこれが真実なんだと言うことが分かった。携帯から、いくら日本に連絡を取ろうとしても全くつながらなかった。夜になって初等学部の女教諭から第一報が入って、子どもたちはみな無事だという安心した雰囲気が伝わってきた。そのあとで女房から連絡が入り、幼稚園の子ども達は、みんなで園庭に出て肩を組んでうずくまっていたという話であった。話を聞いているだけでも、すごい地震だったというのがひしひしと伝わってきた。

それにしてもテレビに映し出されている津波の速さが、どうしても信じられなかった。何度も同じ映像を流しているので、そのままベットに腰かけたまま見ていたが、はっと我に返り明日の帰りの飛行機はどうなるのかということに気がついた。フロントデスクに電話をかけるが、ここもいっぱいでいつもお話中である。フロントまで下りて行き、確認を取ってもらったが、成田行きの全便が欠航でこれからの出発は未定とのことである。徐々にことの重大さが身に迫ってきた。

あくる朝になると、16日にジャンボを飛ばして残った客を拾い上げるということだったが、それまで待たなければならないという歯がゆさは言葉に表せない。まったく一方的にと言っても、こちらは何ともすることができない。居ても立っても居られないので飛行場まで行って、航空券を見せて何とか早くできないかを折衝した。何もできるわけではないけれども、日本がどうなっているのか心配でならなかった。そこで何とか14日の飛行機で帰れることになった。

飛行場に着くと、津波と原発の話で、テレビでも人々の会話でも持ちきりであった。グアムのホテルにいた時も日本に帰って来て家でテレビを見ていても、ただオロオロしているばかりだ。一旦家に戻ってきたにもかかわらず、会社が心配だと言って出て行ったまま帰ってこなかったと、全身力が抜けたように話している奥さんの表情がまだ自分の脳裏には残っている。役場の仕事で、他人のお世話をしながらわが子と女房を探していた夫のやり切れない表情もまだ残っている。あの人は見つかったのだろうか・・・・・。

そして昨年の一文字は「絆」であった。絆を感じると言った人が多かったからで、今はそうではないかもしれない。瓦礫の処理にしても断る自治体が多い。それは放射能汚染の問題をからんでいるからというけれど、原発から遠く離れているにも拘らず何故そんなことを言うのだろうか。きちんと測定されているのに。

山梨かどこかで、福島から来た子の保育園入園を断ったというニュースがあった。無知もはなはだしいではないか。無知と我欲が交錯していて、いつか人間は恥を忘れてしまう。「もったいない」と言うのが素晴らしい言葉として世界に広まったが、是非とも「みっともない」をまずは国内に広めようではないか。

騒ぐな!私はここにいる

何か変わったことがあると騒ぎ立てる者がいる。必ず震源地があるわけだが、震源地が当事者で、それに近いところにいるものがその仲間である。学校は何ら揺らぐことはない。いたって平穏で波一つない、カーム状態である。波を立て波を作るそばにいると、やがてその波と一緒に揺れ動くことになる。何があっても不動心であることが一番である。ここには子どもたちがいる。分別のない大人の濁った心で、その手で近寄ることを禁ず。

ここは学校だ。学校には子どもたちの心を育む神聖なものがある。それを育てていく義務が私たちや保護者にある。そのことを無視したりその邪魔をする者は、ここから出ていかなくてはならない。当たり前のことだ。どうも勉強さえできれば社会での優位性を保てるという風潮が根強くある気がする。そんな失敗は当の親たちが経験していることではないか。そうでなくとも社会を見渡してみればわかる。

人間にとって、何よりも大切なことは恥を知ることだ!。矜持の心がない者に優位性などバカな話はない。金があっても使い方が分からない者、金がなくて金持ちに媚びる者、いずれも根底にあるのは意地汚さである。何がなくても現状で満足し、周りに感謝ができる人間の心が一番澄み切っている。私たちはどのような仕事をしていても、人間が評価されるのではなく職業が評価されているので、偉くもなんともない。職業も人間性も同じように評価されればそれに越したことはない。

そういった意味では人間は平等だ。しかし福沢諭吉が言ったように、学問をいくら積んだからと言っても「心の持ち方で卑しくも貴くもなる」。私はこの学校を立てるとき、あのスペインの哲学者オルテガの言う「精神的貴族」を目指していこうと決意した。これは経済的に貧困である私にも、立派に生きられると感じたからほかにない。保護者も自らの姿勢を正すべき。子どもには勉強だけさせといて、自分は何もやってもいいということにはならない。子どもは慎重に親を見ている。そして教師も。

良くも悪くもその結果は必ず現れる。善因善果で悪因悪果である。何度でも言うけれども子どもは親を見ていて見抜いているところもある。小学校の高学年になれば、言ってもいいことや言わない方がいいことなどをきちんと分けている。子どもの顔にも、笑いの中にふと陰りがあるときもある。そんな悲しい思いをさせてはならない。

親の言い分を聞く

親の言い分を聞くと言っても、私の耳は今手術中で良く聞こえない。このまま聞こえなくても何ら問題はなさそうである。私の古い友人や先輩方は、「どうせ人の意見は聞かないのだから、今のままでもいいんじゃないの」と言っている。しかしこれは間違いだ。聞こえていても頭の中で即座に取捨選択できる技術を、自然な形で取得してしまっているのだ。だから聞いていないのではなくそれに答えないだけのことだ。

しかしそうは言っても、保護者が聞きたいという事柄については、正確に丁寧に説明する必要があるだろう。まず絶対に変えないのは、当たり前のことだが理念である。その他には絶対にと言うものはない。子どもの様子を見て、カリキュラムを変えたりもするし、急きょ時間割を変更したりもする。通学バスの路線は、4月に決定したものを1年を通して運行する。途中での変更はしない。給食については現行を維持する。幼稚園給食とあるのは、幼稚園で作っているからで量的なものは小学生に合わせている。

また幼稚園給食は、管理栄養士のもとで非常に食材に凝ったものを使用しており、幼稚園では保護者に喜ばれている。初等学部では全給制度をとっており、どうしても不満だと言う方は弁当に変えても結構ですが、途中で変更はできません。それに人事の件での批判はご法度です。また事前に人事を探ろうとすることもご法度です。もう一つ絶対的なご法度があります。それは教師と保護者との癒着です。

何人かの質問を受けております。保護者の方もわが子の将来のことですから真剣にならざるをえません。忙しいのはお互い様ですが、私は原則としてお会いしてお話をすることにしています。質問は責任者である私が受けてお返しいたします。結果として決裂してけんか別れになるか、それとも方向性を理解し共有できるか真剣にやりたいものです。話をする際にも基本的なことは子ども達の幸せへの道程です。価値観が違えばかみ合いませんので、主題からかけ離れた会話しないようにしましょう。

あおば台幼稚園では、保育について異議あるものは異議は言わなくてもよいから退園するように言い渡してあるので、問題が全く起きません。私立だから自分に合った幼稚園を探せばよいことです。これはなにも私が威張っている訳ではありません。保護者はそれぞれに意見を持っていて、しかし全員の意見を集約はできないだろうと言うことを理解しているからです。それでいておやじたちもみんな仲がいいのです。

青葉台初等学部は児童が少なくて経営が大変だなどと、まったく余計なお世話である。私を信頼して下さる保護者がいて、私を慕っている子どもたちがいる。これ以上のものはいらない。そのような人が一人でも二人でもいれば、私は命がけで信頼に応えるだけだ。経済的なものは後から必ず付いてくるものだ。そう信じているから、全く心配はしていない。

両幼稚園の年長が小学校見学に来た。最初は緊張している様子だったが打ちとけるのが早い。初等学部の児童もみんな幼稚園生とは違うんだという意識が高く、よく面倒を見てくれる。特に6年生は職場見学で幼稚園へ行っているので「○○ちゃん覚えていてくれているかな」と言って、子ども達を探している様子もあった。6年生もよく子どもたちの名前を覚えているものだと感心した。今日は寒かったので熱く蒸した肉まんがとてもおいしかった。

立派な年長違反第1号

立派な年長ではない行動をとった子が、教師に賞状預かりとなった。第一号である。毎年ある現象だから、そうなったからと言っても心配はいらない。むしろそのような子によってクラスが一丸となったり、仲間関係がより一層深まったりもする。その原因は何かと言えば、まったくどうでもいいことなのだが、この時期はそういった細かい心の動きをどうでもいいと捨てきれないところに、幼児期教育の深みがある。

まずどうなって賞状が預かりになってしまったのかを、保育者も一緒に子どもたちと話し合って共通理解をする。それでは賞状はいらないのかそれとも必要なのかを子どもたちに議論させるのだが、全員が絶対に必要だという。そのころになると一号君は声を出して泣き出してしまうが、周りの子は一号君の肩にそっと手をかけて慰めようとするが、涙は止まらない。大体まだまだ自己中心的なところが強く残っている年齢だから、何をどうしようか、どうすればよいかの結論を出すのには時間がかかる。

一日置いて園長との話し合いになった。私の前に現れたのは一号君と彼を応援した男女4名の仲間たちである。園長室で、賞状をもらうときと同じように、私の前に並んで「賞状を返してもらいにきた一号です!」という。それに続いて「応援に来た○○です!」と全員が言う。「それで賞状は返してもらえるの」と聞くと、一同がうなだれて沈黙に変わる。皆は園長先生に「一号君は立派な年長だから賞状をあげてください!」と言ったけれども、本当は違っていたのかと言うと、「仲間だから返してほしいんだ!」と言う。

じっと子ども達を見ていると、一人ずつ涙をためながら懸命に訴えている。花粉症のために近くにおいてあったティッシュボックスを差し出すと、めいめいにそれをとって涙をふき出した。一号君もこれには耐えられず声を出して泣きだした。そして私は賞状を一号君に返すのではなく、応援に来た4人の仲間に返すことにした。それで全員が納得したようだった。子どもたちの心は本当にきれいだから、濁っている大人が悪戯にもてあそぶようなことにならないように心した。

初等学部も3年を過ぎようとしている。何をするのでも3年や4年は無我夢中で気が付いたら月日が流れていたということが多い。新しいところは特に雑音が多いのも、世間の習わしだ。世間は無責任だから、言い放題で粗さがしの名人でもある。弾が飛んできたり、矢が飛んできたり、槍が飛んできたりもする。これはよけてばかりいるとやがて当ってしまうものだ。時には跳ね返したり、飛んでこないところで一休みもしなければならない。

何を言われても何をされても動じない心境が大切だ。いわゆる不動心だ。私は自分で作った初等学部には夢がある。その夢は入学説明会のときに何度も説明をしてきたし、保護者とともに共有できると確信を持っている。だからこれから先も決してぶれないし、めげないし、負けない覚悟が十分にできている。私がフラフラしていたら、子ども達に何が残せるというのだろうか。子どもを守り、健やかに幸せの方向へ向けてやるのが私の仕事であると、強く認識している。

兵隊

『内憂外患交々来る』というのがある。まさに言いえて妙である。世の中はいいことばかりではないけれど、そう解っている上にまたまた内憂外患交々来てしまう訳だ。その繰り返しが人生なのかもしれない。毎日ニコニコと笑顔で暮らすことは至上の歓びだろうが、そうはいかない方が人生の長い間には、多分多い。それでも書物などには「わが人生悔いはなし!」などと精一杯の強がりを言ってご臨終というのが多いのは何故か。精一杯の人生への皮肉なのか。

水木しげるさんは、初年兵としてラバウルへ行ったが、彼らを最後に新しい兵隊は誰もラバウルには行かなかった。だから水木さんはずっと初年兵のままでラバウルで終戦を迎えたことになる。定かではないが2年ぐらいはいたらしい。毎日ロッキードの爆撃にさらされ、うまいこと弾に当たらずにいたけれど、小隊で移動の最中に現地の組織に襲われ、仲間とは生き別れ、三日間もジャングルの中をさまよっていた。椰子をとりその中の水でのどの渇きを凌いだ。

地上戦で交戦する前は、毎日陣営作りと小銃の手入れに飯盒洗い。たまに上等兵のふんどし洗いもしたらしい。そして気に入らなければビンタが飛んでくるという毎日の生活だ。しかも自分より新しい兵隊が入ってこないのだから、やられっ放しだ。そんな毎日を暮らしていて、自分のいた小隊が全滅になって三日もジャングルをさまよい歩きやっと日本軍の兵舎にたどり着いたら、「小隊が全滅したのに何故生きて帰ってきたのか!」と怒鳴られたそうだ。人間不信になったとある。

戦争とはとんでもないことである。兵隊のそのような生活は何も日本ばかりではない。他国の兵隊もとんでもない生活を強いられたことは、外国の戦記にも色々掲載されている。ただ日本は武士道というのがあって、精神論が前面に強く出されるので困る場合もある。竹やりではどうやっても戦闘機には勝てないだろう。その精神を鍛えるのにビンタがある。これは兵隊にだけあったのではない。戦後の学校はどこもかしこもビンタばかりだった。ビンタは手っ取り早い統制である。

ビンタでもしなければ統制のとれない男どもは今でもいるが、こんなことで言うことを利かせても空しくなるだけだ。あれは統制ではなく、統率者の欲求不満のはけ口ではなかったのかと思う。水木しげるさん生きて帰ってきて本当に良かったと思う。結構要領が悪くて、誰よりも多くのビンタを頂いたらしいけれど、生きて帰ってきてくれてありがとう。これからももっともっと生きて、素晴らしい作品を残してほしい。

汐見俊幸先生とその御一行様が青葉台初等学部を見学に来た。早速できたばかりの桜の木の上のバンブーハウスにのぼり、子ども達と記念写真を撮っていた。川を作った時の土山の上に上がっては、ニコニコしながら下を向いて楽しんでいる。川を見て「夏には必ず来るぞ!」とニヤニヤ。私よりも年寄りなのに子どものような感性をお持ちでいらっしゃる。あの中央教育審議委員の先生が・・・・とても親しみやすいお人柄であった。松永先生は第二幼稚園の子どもたちの前で腹話術をして遊んでくれた。いつもいつもありがとうございます。

もう一つついでに

中等教育学校(中高一貫校)にしても、小中一貫校にしても、大体3つぐらいの形態がある。ひとつ目には同一敷地内に同一校舎の中で生徒が授業を受けるという形と、同一敷地内に小中高の生徒の校舎が併設されてあるというものと、学校が同一敷地ではない提携という形をとるものがある。だから土浦にできた真鍋小と第二中学校の関係や、つくば市の幼少一貫にしてもどのような目的と配慮があるのかをよく調べることが必要だろう。

今日は初等学部の6年生があおば台幼稚園で職場体験学習をしている。年少から年長まで各2名づつの配置で行われている。事前に各クラスの現在の子どもの様子や、各学年の狙いと活動などがプリントされている用紙を渡してある。幼稚園の保育者が、6年生のために一生懸命作成したもので要点がしっかりと書かれてある。そのプリントを今日見せてもらったが、プリントそのものを全部暗記したとしても理解するのは困難だろう。むしろ面喰ってしまっているのではないか。

まず活動の中に6年生は入れないだろう。小学生が来てもあおば台の子ども達はべたべたとまつわりつかない。自分たちでやることがあるから、6年生を気にかけていられないのだ。だからほとんど無視されているだろう。自ら入っていこうとしないとだめだと言っても、高校生でもなかなかできることではないので、6年生にしてはよく頑張っている。

そうこうしているうちに6年生が帰ってきた。開口一番「あ~あ疲れた」「幼稚園の先生は大変だ…あ~あ先生にはなれない」と溜息交じりに言っていた。「みんなのお父さんお母さんは毎日働いているよ」「仕事をするということは大変なことだ」というと無口だった。それでも中には楽しく遊ぶことができたと感じている子もいるはずだ。いずれにしても初めての体験だろうし、有意義であったことは間違いない。

小中一貫教育Ⅱ

私がやろうとした小中一貫教育をさらに高等学校も併設して、幼稚園から高等学校まで考えていることと、市町村が考えている教育課程の編成と理念についてはまったく異なっているもの
である。はっきり言えばこのたび建設されたつくば市の小中一貫教育の理念が見えてこないので何とも言えないが、保護者のみなさんは中等学校〈中高一貫教育〉と混同して理解しているのではないかと思う。小中一貫教育は人間形成の、主に内的な成長を重点的に行う学校であり、中等学校は、それに大学受験を加えたものである。

公立における中等学校は市立中学校と県立高等学校の併立で、原則中学校登校範囲によるもので、学力的な選抜試験は行わないのが通例である。また高校入試のための学力試験もなく、まさに中高一貫教育である。私は、小中一貫教育と中高一貫教育の違いを解りやすく書いたが、これは理念であって私がそう思っていることなので、それがそのように定義づけられたものではない。また公立における中等学校の入試の形態を書いたけれども、選抜制の私学では入試が必ずある。

私言いたいの、はつくば市にできた小中一貫教育に関して、周囲の保護者は色めき立っている節があるけれど、今までの小学校や中学校となんら変わるところがないと思うので、ゆっくりとその推移を見守ることの方が賢明であることを伝えたいのだ。表札が代わっても、中の住人が変わらないのだから、何も変わらないのと同じことではないか。私が小中一貫校を建てた時に「なるほど」と思われるような学校を作る。

青葉台が何故今中学校を作ることができないのか。県の総務課の役人が、私に「教育基本法の学校種に記載されていないからできない」といったことは明らかに間違っている。小中一貫校は現実にあるし、その辺のところは県も理解している。設置基準の中学校の生徒数にしても480人以上というのは、これまた現状から全く遊離した基準であるということが県が理解されていない。しかも県知事の認可であるから、頭の良い知事が現状を認知してくれれば解決することである。

一番の難題は、学校運営が初等学部だけで展開できない現状である。借入金はともかくも月々の固定費が生徒納付金で賄えるようになれば、すぐにでも県に申請を出すつもりでいる。お金がないからできないということではない。経済的に裕福になるのを待っていたら、あの世にいってしまう。生涯無理な話だ。この学校が数字の上だけでも回転してくれれば小中一貫教育はできる。私は「できる」ということしか考えていない。いつできるのかは言えないが、期待して頂いて結構である。

このように前を向いているときには闘志がわいてくる。ちょっと振り返って幼稚園に目をやれば、ある年中さんの言葉に『私はもう赤ちゃんじゃないの…子どもになったの』と言ったことを保護者から聞いた。こんな子ども達に囲まれている保育者は幸せだろうし、私も幸せだ。もっと幸せ感の充足しているのはご両親だろう。幸せになってほしいと心から願っている。

昨日初等学部の餅つきのためにかまどにくべる薪を作ってくれた。若いお父さんの振り上げた小野が、丸太を真っ二つにする『カーン』と言う気持ちの良い音が鳴り響く。さすがに若いお父さんは躍動的である。その周りに6~7人のお母さんが、それと同じようにやろうとしているのを見かけて、そのパワーは認めるけれどやめてほしいとお願いした。彼女たちは割れた薪を手際よくまとめ、その周りをすっきりとしてくれた。幼稚園も初等学部もよく動いてくれるお母さんたちだ。一緒にいる仲間たちという実感がある。心から感謝している。

小中一貫教育

小中一貫教育は学習指導要領等によらない特例制度を活用したものの取り組みとして、構造改革特別区域として全国で17件、研究開発学校制度として全国で22件ある。いずれも平成18年4月現在なので5年前の資料である。最近近隣市で小中一貫教育をうりものにして設立された学校があるが、市町村独自でそう決めたからと言って小中一貫校として国としては認めてはいない。しかも何の理念のないところで、そのような学校ができたからと言って何の意味があるだろうか。

新たな教育課程の編成や、カリキュラムのあり方が何を柱になされているのかを確認する必要がある。小学校と中学校を併設したからと言って、にわかに子ども達の質が変わる訳ではない。公立にあっては初めての取り組みだとしたら、まず教師がその理念を徹底して頭に叩き込まなければならない。一人一人が機関車のけん引のように、自ら率先してその理念を広げるくらいの情熱がなければ、絵に描いた餅になってしまう。

このようなものは、私が小学校を作るときに小中一貫校を目指していた時に学んだものである。県の担当官は、小中一貫校は作れないと何度も私に繰り返し言っていた。その理由として、教育基本法に則った学校種の中に小中一環と言う学校が記載されていないからと言う理由であったが、「それは違う!」と言い切れないものが私の中にあった。そのような議論をして、初等学部建設に支障があってはならないという懸念があったからである。

いくつもの障壁に出会って、そのたびにそれを超えるたびに何度もへりくだった姿勢でいた自分が、今思うと情けないと思う。小中学校9年間の子ども達との生活は魅力である。誰が言い出したのか2・3・4年という教育課程の編成などが一般的であるけれど、子ども達の発達理解や、発達心理から行くとこれはどうも違う気がする。私は1・2年生は全く別の世界があると思っている。4年生の発達は人としての自律のときで、混沌とした自我からはっきりと独立する時であるように思っている。

それでは3年生はどうするのかと言うと、4年生に近づいていると言うより、2年生に近い一番のヘッドであるので、1・2・3年生は一つにくくってもいい。4年生から中学1年まで、はっきりと自我が独立した4年生から思春期までを人間として修練を積む。本来は中学2年生から高校1年生までをくくりたいのだが、中学校までであると中学2年生と3年生をくくる。学問と異性について両立させなければならない大変難しい時だ。いずれにしても、選抜のある私学でないと小中一貫は難しいだろう。

現在の青葉台初等学部では、私の考えている小中一貫校の教育課程の編成のようにはいかないけれど、幼児教育から学んだ発達理解を基礎に、子どもたちの心の育ちを十分に理解して、6年生までの間の育ちをどこにも負けないという自負心を持って、共に生活していきたいと願っているしそう努力していきたい。中学校を建てるという信念はいささかも後退していない。むしろ毎日少しずつだが燃え広がっている。それまでは死なないし、心配ない。